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2023年6月9日

「おはなはん」の林謙一さん(社会部OB)が創刊した『写真週報』

 「写真報国」。写真でお国のために尽くす——。

 日本カメラ博物館JCIIフォトサロンで「日本の断面 1938-1944 ―内閣情報部の宣伝写真―」展(7月2日まで、入場無料)が開かれている。

 いきなりNHK連続テレビ小説「おはなはん」(1966年度)の作者林謙一さんが出てきた。内閣情報部が1938(昭和13)年2月16日に創刊した『写真週報』の編集会議の写真だ。

『写真週報』編集会議 中央が林謙一さん(図録から)
『写真週報』創刊号
1938年2月16日

 社会部の先輩である。《東京日日新聞の記者であったが、対外宣伝写真の重要性を認識して、1934年に木村伊兵衛・渡辺義雄らが創設した国際写真協会に参加。1937年の日中戦争勃発後に写真宣伝組織創設を内閣情報調査部の清水盛明陸軍中佐に進言し、1938年1月に内閣情報部事務嘱託となって国策グラフ誌『写真週報』創刊や写真協会設立に大きな役割を果たした》と、説明書きにある。

 林さんは東京府立五中(旧都立小石川高、現小石川中等教育学校)→慶應義塾文学部予科→早稲田大学理工学部卒。早慶に通い、文科から理科への代わりダネである。

 1931(昭和6)年「東京日日新聞」入社。社会部で国鉄を担当していた。「忠犬ハチ公の記事は、記者クラブで朝日新聞の渡辺紳一郎らと各社一斉に書いたのが初出」とエッセーに書いている。

 『犬の伊勢参り』『犬たちの明治維新—ポチの誕生』の著作のある元社会部記者仁科邦男さんが、生前の林さんに電話取材している。

  ——忠犬ハチ公の話、どこまで本当ですか。

  林「全部本当です。仮名になっていますが、すべて事実です」

 しかし、残念ながらその新聞記事は見つかっていない。

 林さんは、写真好きで、写真の力を「映画が宣伝の機関銃なら写真はその伝播力において宣伝の毒ガス」である、と書いている。

 余談だが、昨年107歳で亡くなった「女性報道写真家第1号」笹本恒子さんは、林さんに口説かれてカメラマンになった。「『LIFE』創刊号(1936年11月)の表紙は女性写真家マーガレット・バークホワイト(1904~71)が撮った。写真協会に入って報道写真家になりませか、と誘われました」と、生前自宅で私(堤)に話した。

 林自身もカメラの腕は相当だったようで、「情報官・林謙一が見た 昭和16年富士山観測所」の写真展が同じJCIIフォトサロンで開かれている(2015年6月)。

 森山真弓館長時代で、その娘の日本カメラ博物館(JCII)調査研究部長白山眞理さんは『〈戦争写真〉と戦争』(吉川弘文館2014年刊)、『戦争と平和〈報道写真〉が伝えたかった日本』(平凡社2015年刊)の著作がある。

 『写真週報』は1945年7月11日第374・375合併号で終刊した。白山さんは、写真における「戦争責任」について言及しているが、《(林謙一の著作に)「戦争責任」あるいは「戦争協力」について自責の念を述べる語句はない》。

 戦後、林は日本交通公社内に設けられた全日本観光連盟事業部長となり、1948年9月に内閣の観光事業審議会委員などしているが、日曜画家の「チャーチル会」(1949年発足)の世話役を長く務めた。1980年没73歳。

 社会部記者時代に写真の重要性をこう書いている。

 《事件・事故の取材でデスクは「写真も連れて行けよ」というのが常だが、これは間違いである。記事よりも写真、写真は従でなく主だ。筆舌に尽くせないものをレンズは捕らえてくる》

 最後にこの写真展の解説。

 ——日中戦争勃発後の1937年9月に情報収集や内外への啓発宣伝を行う「内閣情報部」が発足すると間もなく、写真による内外への国策宣伝が検討され、1938年2月16日に政府の広報グラフ誌『写真週報』が創刊されました。同年7月には対内外写真宣伝の官庁代行機関として「写真協会」が東京・銀座に設立され、内外配信写真の撮影とストックフォト構築が始まって、終戦まで継続されました。

 本展では、保存されている写真協会ストックフォトの原板(モノクロネガ)の中から、『写真週報』表紙に使用されたカットのほか、銃後の国民生活、学徒動員、工場での勤労奉仕、国防競技が主となるスポーツ大会のようすなどをご覧いただきます。また、国策広報のために屋外で開催された移動展覧会の状況や、総動員体制の中で組織化された日本報道写真協会発会式、戦中宣伝を担った人々の記録もあります。

 これらの写真は、背景にある国策を考える貴重な史料であると同時に、カメラによって目前を撮った時代の記録でもあります。ネガフィルムからのニュープリントによって、戦中日本の断面を鮮明な画像でご覧いただきます。

(堤  哲)