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2023年4月17日

新聞小説の挿絵で活躍した大阪の画家たち

 「大阪の日本画」展が東京駅丸の内北口にある東京ステーションギャラリーで開かれている(毎日新聞社共催、6月11日まで)。

 「出品作家は50名超え! 躍動する個性が集結」とうたい、「浪速の女性を表現した北野恒富(1880-1947)、女性画家活躍の道を拓いた島成園(1892-1970)、大阪の文化をユーモラスに描いた菅楯彦(1878-1963)、新しい南画を主導した矢野橋村(1890-1965)、女性像にモダンな感覚を取り入れた中村貞以(1900-1982)など。大阪の街で育まれた個性が、展示室を賑やかに彩ります」。

 大阪といえば「大毎」「大朝」だが、図録に「大阪の新聞連載小説の挿絵について」を学芸員の田中晴子さんが書いている。

 「明治から昭和初期にかけて…印刷部数を格段に伸ばした新聞の発展期に、大阪で活躍した日本画家たちも紙面で大衆と繋がっていたのである」

 「当時大阪には毎日と朝日との2新聞よりなかった…朝日の小説が当たると…毎日のほうも負けていないので競争となる」

 大毎には歌川国峰、稲野年恒、坂田耕雪、織田東禹、多田北嶺ら、大朝には武部芳峰、三谷貞広、稲野年恒、山内愚仙(僊)、赤松麟作らの専属画家がいた、とある。

 新聞に写真が掲載されるのは1904(明治37)年からで、大阪では「大毎」が12月5日、「大朝」は翌05(明治38)年2月11日からである。

 活字で埋まった紙面の息抜きは、連載小説の挿絵だった。「新聞小説の挿絵で、一つ抜きんでた画家が、北野恒富の師である稲野年恒だった」と田中さんは紹介している。

 稲野年恒(1858~1907)は「大毎」で活躍し、1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会に大毎から派遣されているが、1902(明治35)年に「大朝」に移籍した。

 この紙面は、濃尾地震の惨状を伝える「大毎」1891(明治24)年10月29日付1面。稲野年恒画である。毎日新聞百年史には、記者4人と共に稲野を派遣した、とある。

 稲野は明治23年2月入社。「本社の挿絵画家は歌川国峰と2人となり、陸海軍大演習と第3回内国勧業博覧会に特派、その模様を絵によって報道した」(百年史)。

 朝日新聞で夏目漱石の「虞美人草」の連載が始まったのは1907(明治40)年6月からだが、「東京の読者には受けたが関西では一向に受けなかった」「挿絵を入れたらどうか」となって第1回文展で2等賞を受けた野田九浦(1879~1971)が「大朝」に入社。翌年の1月1日から連載が始まった夏目漱石の「坑夫」から挿絵を描き始めた。

 第7代大毎社会部長斎藤徳太郎(悳太郎、渓舟、部長在任1920年6月~翌21年3月)は、『京阪作家の印象』(大毎美術社1931年刊)を出版しているが、今回展観されている画家のうち北野恒富、島成園、菅楯彦、矢野橋村ら7人を自宅に訪ね、その時の模様を記している。

 ゆうLUCKペン第45集の「社会部長列伝」には、斎藤を《1900(明治33)年1月発行の「新小説」に懸賞小説で永井荷風を抑えて1等になった「松前追分」が掲載された。神戸新聞から入社。渓舟名で『女官物語』(1912年刊)、悳太郎名で『関雪詩存』(39年刊)と『二十六大藩の藩学と士風』(44年刊)を出版している》と紹介したが、斎藤は『京阪作家の印象』に「大毎美術に10年」と書いているから、大毎社会部長を務めあげて、すぐ大毎美術社に移ったとみられる。没年を調べたが判明せず、唯一「不明」とした。

(堤  哲)