元気で〜す

2024年1月12日

元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 32 おみやげをもらう立場から持って行く立場への大転換(広告局の巻 第1回) 抜粋

 (インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
  全文は https://note.com/smenjo/n/nbe4df22287f8

 今回から3回にわたって広告局時代のお話を伺います。

目次
◆経済部と広告局の違いは上座か下座か、おみやげをもらうか持って行くか
◆小笠原に飛行場をつくるためのシンポジウム開催
◆日韓国際環境賞では韓国で“爆弾酒”を一気飲み
◆儲かった「複雑性シンポジウム」 電通がスポンサー集めに奔走
◆編集局としょっちゅうケンカ
◆高いぞとナベツネから電話、困ったときの東電、新日鉄
◆新興企業へのアプローチ不足
◆「電通がそんなに怖いのか」 代理店の力と新聞局の役割

◆経済部と広告局の違いは上座か下座か、おみやげをもらうか持って行くか

Q.1993(平成5)年4月に、経済部長から広告局企画開発本部長に就任されたのですね。まさに大きな売上をかせぐ部門に移られたことになりますね。

 普通は経済部長を終えると、“交番”の編集局次長などになるケースが多いんだけど、畑違いの広告局に行け―というのでビックリしましたね。広告局というのは編集局の裏と表みたいな感じです。編集局はお金は稼がない、それでいて社内では大きい顔しているわけ。だけどその金を稼いでいるのは広告局なんですよね。

Q.でも販売収入が大きいじゃないんですか。

 それはそうだけど、販売店の売り上げは(会社から見れば)販売戦線の競争に経費がつぎ込まれて戻っていく感じです。だから言ってみれば広告局って「紙面」を「お金」に変身させるマシーンなんですよね。まあ、コスパから言えば濡れ手に粟ですよね。紙面に載せれば1ページ全面広告が本社(東京、中部、大阪、西部)によって300万円とか600万円とか、全本社通しなら千万円単位のお金になる。それに人手も販売局に較べれば、広告代理店が間にはいってくれるからマージンは取られるけど、すごくコストパフォーマンスがいい商売なんですよ。

 この時、各社ともバブル崩壊による不況時代に入っている時期で、経済部長から広告局というのはコースになってたんですよ。経済部長時代の経済界への“顔(かお)”を利用しようという事なんでしょうね。余裕のあった朝日、日経はそうでもなかったけどね。読売もそうだし、産経なんかもそう、同時期の経済部長が広告局長になっていましたね。この時、もうすでに毎日新聞の部数が相当低落してた時期で、公称ではずっと450万部でしたが、それがだいたい400万部すれすれか400万部を切ってるだろうって言われてました。読売が700万部越え、朝日は600万部くらいじゃなかったかな。各社、販売戦線では事実上の倒産―新旧分離で、販売経費などがあまり使えない毎日新聞をターゲットにしていた感じですね。毎日の広告局は、朝日に○○社が全面広告を打つという情報を代理店から聞き込んで、○○社を招待して一席持つんです。その時、経済部と広告局が何が違うかっていうと、編集局のときは宴会に行くと、取材担当の経済部は常に上座なわけ。経済部長なんて当然そうです。ところが我々広告局は常に下座なんですよね。

Q.クライアント優先ということですね?

 まさにそうです。それで向こうがおみやげを持ってくるわけですよ。こっちもおみやげ持っていくわけ。それで宴会が終わるとその場で交換するんです。たとえば「せんべい」とか「おまんじゅう」だとか、果物だとかそういうもんです。それにすごくみんな頭ひねるんですね。それなりの有名店のものを出すんですよ。果物だったら「銀座千疋屋」か「新宿高野」という感じ。新橋・目黒にある小川軒のレーズンサンドとか。そういうのをそれぞれがみんな持ち寄って交換するわけです。だから経済部から行くと、その景色が異様に見えてね。経済部記者だったらいつもおみやげもらって帰るだけですよね(笑)。絶対おみやげなんて持っていかないですからね。その辺のところはホントびっくりしましたよ。文化が相当違うっていうことで。でも広告掲載という点では、あまり効果がなかったような気がします、残念ながら。

◆小笠原に飛行場をつくるためのシンポジウム開催(略)

◆日韓国際環境賞では韓国で“爆弾酒”を一気飲み

 それから、今も続いているのは、「日韓国際環境賞」です。日韓の環境問題を現場で実践、成果を上げている人たちを顕彰しようという賞を作ったんですよ。これは毎日新聞の提携紙である朝鮮日報と毎日新聞が、表彰式はソウル・東京で交互にやりましょう、ということでやったんです。こちらから朝鮮日報にも行ったし、彼らも向こうから社長が来てうちの社長と会ったりとか。いろいろ経緯はあるんだけども、そういうのを作ったんですよね。これのスポンサーを日本側としてどうするかとか。韓国側は韓国側で朝鮮日報が集めたり。向こうはそれこそ韓国を代表する大新聞ですからね。それでいろいろと動いて、お金は当時から環境問題を騒ぎ始めた頃だったから、けっこう集まりましたよね。

 シンポジウムを終えた後、見開き2㌻の紙面を作るんです。見開き紙面を作るには製紙会社に支払う紙代など原価で、やっぱり2000万(円)とか3000万ぐらいは必要です。全国通しでやるにはいくらという計算ができるから、そういう計算の上で各企業に当たってお金をもらうわけですよ。一口いくらみたいな形でね。

 この頃の時代っていうのは日韓関係が、朴正煕、全斗煥大統領の30年間の軍事政権が終止符を打ち、それこそ金泳三大統領(1992~97年)と、次が金大中の大統領(1998~2003年)民主化時代に代わった時代だから、今みたいにややこしい感じじゃなかったんですよ。どっちかというと日本が経済面で大幅にリードしていた時代で、韓国が必死になって追いつく時代でしたからね。

 だからそういう意味ではすごくいい感じで、ソウルにも行き「朝鮮日報」側と打ち合わせをして、それで夜なんか朝鮮日報幹部と、日本側のメンバーでご苦労さん会を兼ねて酒飲み会をやるんです。ほら向こうは爆弾酒ってあるじゃない?知ってますか?ジョッキにビールを半分ついで、半分ウイスキーを入れて作るんです。それを乾杯して一気に飲むんですよ。飲んだ後にコップを逆さかにして全部飲んだことを証明するんですよ。とにかく参っちゃうんだよね(笑)。僕が一応訪問団のトップでしたから、それを飲み干せないとダメだとか。(以下略)