元気で〜す

2023年6月8日

元情報調査部副部長、前坂俊之さんの『阿部定手記』(中公文庫)が、NHKアナザーストーリーで再注目される

 NHKテレビで5月26日(午後10時-10時45分)に『アナザーストーリー“妖婦”といわれた女「阿部定事件」と昭和』が再放送された。この中で、私のコメントを見たという毎日の先輩、友人からたくさんの電話やメールをいただいてうれしくなった。このテレビのせいか、私が20年前に書いた「阿部定手記」(中公文庫,1998年刊、絶版)が再び注目されているというので、「阿部定と昭和の軍国主義」について紹介したい。

 私が静岡県立大学で教員をしていた1998年当時のこと。私の研究室に「阿部定は何をやった人なんですか?」と女子学生がよく私に聞きにきた。

 「・……・・」

 私は思わず説明に窮して、言葉に詰まってしまう。

 私の研究室には歴史やマスコミ関係の書籍が天井までぎっしり詰まっているが、その一角に犯罪コーナーがあり、阿部定に関する本が十冊ほど並んでいる。

 丸山友岐子著『はじめての愛-あべ定さんの真実を迫って』(かのう書房、1987年刊)などの本をこのところ次々に女子学生が借り出していき、今や研究室の貸出しベストセラーとなった。

 阿部定事件が起きたのは1916(昭和11)年5月18日である。東京荒川区の待合「満左喜」(まさき)で、愛人石田吉蔵(よしぞう)を絞殺、そのシンボルを切り取って逃亡、3日後に阿部定は捕まったが、一大猟奇事件として日本中に異常な興奮と話題の渦を巻きおこした。

 この年はちょうど3ヵ月前に二・二六事件が起きており、昭和史の分岐点となった年である。二・二六事件は陸軍の青年将校が決起して「昭和維新」を叫んでクーデタを起こし、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、国会、首相官邸、陸軍省など一帯を占拠した。戒厳令が敷かれた。

 反乱軍は鎖圧されたが、以後、軍ファシズムが堰を切って流れ時代を転回させ、大軍拡、日中戦争へと急角度に進展していった。

 そのターニングポイントとなった二・二六事件の直後だけに、社会は重苦しく、暗く陰鬱な空気に包まれ、人々は近づく軍靴の響きと戦争の足音に怯えていた。

 阿部定の出現はこうした暗い、押しつぶされそうな雰囲気を変え、まるで暗雲に閉ざされていた空が一瞬晴れわたり、太陽が顔をのぞかせたかのように人々は興奮して、阿部定を「世直し大明神」と称して笑いころげた。

 国会でも、委員会での審議中、「お定逮捕!」の号外が配られるや、議員は審議をそっちのけにして、我さきにと号外の奪い合いとなり、「捕まったか」「いい女だな」とそれまでと一転し、明るく大笑いしながらのお定談義に花が咲き、審議は中断されてしまった。

 事件は、愛する男性のシンボルを切り取るというセンセーショナルなものだが、そこには非常時、戒厳令の中で男女の極限的な「エロスの世界」が展開されている。その愛の極致での行為は、その異常性を超えて、今も人々の心を打ち、恋愛の究極の形としての鮮烈な衝撃性と普遍性を内含している事件と思う。

 すでに事件から90年が経過したが、阿部定ほど時代を超えて常に人々のスキャンダラスな興味の対象になった女性はいない。時代の節日ごとに、お定が何度もよみがえるのはその極限のエロスと絶対愛のためであろう。

 1976(昭和51)年に大島渚が映画『愛のコリーダ』を作った。マスコミでは「いま阿部定は」の記事が折にふれて載り、そして渡辺淳一著『失楽園』のモデルとして、この4月からは大林宣彦監督の映画『SADA』(松竹系公開)で再び脚光を浴びている。

 なぜ阿部定事件は注目され続けるのか

 それは彼女の予審訊問調書にある。予審調書の中で、阿部定は生い立ちから、芸者になり、事件を起こすまでの経過、事実関係、犯行に至るまでの感情、心理を圧倒的に克明にリアルに語っている。それはまるで一片の叙事詩、性文学、女性の悲劇と愛に生きた告白文学といってよい見事な語り口である。

 阿部定は1905(明治38)年に東京神田の畳職人の末っ子として生まれた。少女のころから素行がおさまらず、不良行為に手を焼いた両親は17歳でお定を横浜の置屋芸者として売ってしまった。

 娼妓となって20歳で大阪飛田遊廓に、以後、前借金が5百円、千円と膨らんで行き、信州飯田、名古屋、大阪の松島遊廓、丹波篠山と転々しながら、ある時は女郎屋を決死的に脱出して全国を流転し、石田との運命的な出会い、そして熱烈な恋と事件のクライマックスに至る一連のドラマは「予審訊問調書」の中に見事に語られている。

 そこには性も自由もガンジガラメにされたあの戦争の冬の時代に、極限の状況の中で純愛を貫き、きびしく主体性をもって奔放で豊かで自由に性を生き抜いた阿部定の凄絶な生きざまと、それを完璧に語りきった鮮やかな告白がある。

 情痴の限りを尽くした待合での数日間についてのセックスやその時の心理描写は、微に入り細をうがち過ぎており、そこまでいうのか、というほど一種の露出狂的な部分も感じられるが、それだからこそ余計に迫力がある。

 1936年(昭和11)2月、すでに32歳となっていたお定は旅館「吉田屋」に女中奉公に出るが、そこの主人が事件の相手となった石田雷蔵(42歳)であった。ここで出会った二人は主人と女中という関係をこえて激しい恋に落ちる。わずか3ヵ月だが、激しく、切なく燃焼し尽くした。

 商売としてそれまで何百人、何千人の男を知っており、色事の砂漠のような世界に生きてきたお定だが、それ故にその胸には愛への強烈な渇きがあった。吉蔵とはじめて売春でも買春でもない対等な、自由な男女の恋愛関係、平等のエロスに出会った。

 二人で過ごした一週間は身も心も一体となった強烈なエロティシズムを、燃え尽きるほどのお互いの肉が蕩けるような時間を、生まれて初めて味わった。甘美な絶頂の完結としての死の予兆が芽生えてくる。

 吉蔵にはもともとマゾヒズムの気があり、行為の最中にひもで首を絞めてもらいながら、性感を高めていた。窒息寸前まで首を強く絞められるのを特に好んでいた。痴情の果てに、吉蔵の頼みもあって、定が腰ひもでギユーと強く絞めすぎて、殺してしまったのである。高橋鉄は「情死心理とサディズムとの及方を含んだもの。熱愛の極致で情死を遂げるのは古来、情死心理の教えるところであります」と弁論書で動機について述べている。

 そして、「愛するがゆえに」、その大事なものを包丁で切り取って、ハトロン紙で包み形見として帯の間に入れて逃げて行くが、このあたりはまさしく、近松門左衛門の心中ものの「道行き」そのものである。

 フランスの思想家で作家、ジョルジュ・バタイユは「エロティシズムとは死を賭するまでの生の賛歌である」と定義している。阿部定が血文字で書いた「定吉二人キリ」へと至る、性愛のユートピアを実行した物語である。

 予審調書でお定は「私のやったことは男にほれぬいた女ならば、世間によくあることです。ただ、しないだけです」ときっぱり述べているが、愛の極致での行為そのものであったのではないだろうか。

 裁判の結果、細谷裁判長は「二人は乱淫の習癖に陥って、軽度の精神障害によって衝動的になした犯行」として阿部定に殺人罪、死体損壊罪で懲役6年の実刑判決を下した。

 しかし、「この事件は殺人そのものよりも、死体損壊、被告のその後の行動の特異性が注目を浴びた」と裁判長も指摘したように、マスコミも、人々の関心ももっぱら男性のシンボルを切り取った行為のみに焦点が当てられた。

 阿部定は「惨酷な犯罪」「愛欲図絵」「異常性欲」「変態」「毒婦」「妖婦」「魔性の女」「昭和の高橋お伝」などのレッテルがはられた。しかし、お定が時代を超えて何度もよみがえってくるのは、愛についての普遍的なテーマが宿っているためだ。

 ところで1998年今、なぜ阿部定なのだろうか

 1997年の渡辺淳一著『失楽園』は上下合わせて266万部を突破する空前の大ベストセラーとなり、失楽園現象、不倫ブームを巻き起こした。同書では阿部定事件が重要なモチーフとなっている。

 個人の自由の尊重と男女の価値観の崩壊で、今や、不倫や離婚、性の自由へのハードルが大幅に下がっている。阿部定の時代とくらべて性への制約も障害もなく、全くの自由で好きに出来る時代である。豊かな社会から、飽食の時代を迎え、性の自由からさらにホモ、ゲイ、レズビアン、セックスレス夫婦、同性愛など、個性化と細分化が進んきた。単なる男女のセックスを回避して、それ以上の精神的な性愛を強く求める傾向もでている。

 一方では、若者は恋愛に関して臆病になって、恋によって傷つくことを恐れている。

 「個」の時代の恋愛、べたつかない植物的な恋愛からみると、阿部定の強烈な熱愛と行動は全く別世界の、驚異と映るであろう。あまりに古典的な純愛にもみえる。

 「一度も恋をしなくて死ぬ人だってたくさんいるでしょう」とはお定の言葉だが、今も同じような<恋愛の砂漠時代>なのかもしれない。人々は愛に飢え、恋愛を熱望したくても、出来ない時代なのに、阿部定の灼熱の恋はあまりにまぶしく、強烈すぎるのではないだろうか。「あなたは本当の恋をしましたか」と阿部定はわれわれに鋭く問いかけてくる。

(前坂 俊之)

 前坂 俊之(まえさか・としゆき)さんは1969年、毎日新聞入社、阪神支局、京都支局、東京情報調査部副部長を経て、静岡県立大学国際関係学部教授、同名誉教授。フリージャーナリスト、Silver Youtuberとして活動中。