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2023年6月5日

元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 29  未完の「新聞革命」悔い無し ブルーの題字誕生秘話 抜粋

 (インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
  全文は https://note.com/smenjo/n/n6ec8db6eeb87

 今回は、前回の経営企画室での取り組みの続きです。いわゆるCIプロジェクトに関与しました。具体的には、「新聞革命」というスローガンを掲げ、題字変更や紙面デザインの改革を行いました。通常の記者の仕事では出会うことのなかった、たいへんおもしろく有益な経験だったと振り返っています。

目次
◆ブルーの題字のCI計画始動
◆社内の抵抗勢力の変わり身
◆毎日新聞の9大問題点をPAOSが指摘
◆「自分はジャーナリスト。経営には関心ない」と明言した記者
◆バブル到来、道半ばで革命ならず

◆ブルーの題字のCI計画始動

Q.経営企画室って日常はどんな仕事をやっているんですか?

 まあ役員会の裏方・よく言えば勧進元みたいな感じですね。経営企画室の役割としては、取締役会でやる議題を決めてその文書を印刷をして出します。各本社から上がってきた資料なんかをまとめます。その頃、パソコンじゃなくてワープロだったような気がします。印刷も自動的に各人用にセットできるわけではないから、人数分刷ったのを、会議室の広い机の上に並べて、順番に1枚ずつ紙を置いていくっていう人海戦術で。それで役員一人一人の分ができあがっていくっていう……。新聞社に入って初めて普通のサラリーマン生活を経験したともいえますね。

Q.題字を変えたCIの話を伺います。

 『毎日の3世紀―新聞が見つめた激流130年』と題する社史(2002年2月全3巻発刊)に次のように書かれています。

 「毎日は1989(平成元)年12月の取締役会で、創刊120周年(1992年)に向けた活動方針を決めた。「アクション92」と名付けられた方針の中で、その中核、総仕上げとされたプロジェクトがCIであった。」(社史『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年』)

 このCIプロジェクト(アクション91)パートナーとして選んだのが当時CIプランナーのトップを走っていたNTTや日本生命などのCIプロジェクトを手掛けた㈱PAOSでした。ぼくが経営企画室に行った時には、すでに担当会社はPAOSと決まっていたと思います。そのPAOSとのつながりっていうのは常務の秋山哲さんだったんじゃないかな。あのとき、電通がどうしてうちにやらせないんだとぶつぶつ言っていたのは聞きました。電通もCIやってましたからね。「電通PRセンター」という子会社を持っていました。大分たって広告局に行ってから、毎日担当の電通マンのふたりで酒飲んだりすると「電通がやってれば、部数の拡大もできたと思います」なんてこぼされたりして(笑)。CIは秋山さんが事実上取り仕切って、熱心に取り組みました。

◆社内の抵抗勢力の変わり身

Q.ハラキリ紙面にする時の抵抗はなかったんですか?それをどう乗り切ったんですか?

 ぼくが経営企画室に行ったのは、1989(平成元)年3月ですが、そのときはPAOSとやることに決まってました。紙面改革を主に担当したのは津原(正明)さんといって、整理本部の人でした。なかなか整理記者としてすぐれた人でした。なぜ整理記者が必要だったかというと、編集局の抵抗勢力っていうのは整理本部なんですよ。紙面改革ですからね。特にセンター折り(通称ハラキリ)紙面というのは、整理の人たちにとって自分たちの紙面製作の生命線を奪われるような面がありました。それこそ戦前戦後の毎日新聞の100年以上の歴史の中で墨守をしてきたものがなくなるのですから、説得しなければならないわけです。

 当時、日本の新聞の紙面は中央、地方紙ともほぼこのスタイル、全紙面15段で、半分にすると7.5段。ちょうど真ん中にある記事は、折りたたむと半分になるわけで、読者には読みにくいわけです。これを上下各6段にして、読者に読みやすい紙面にしたんですから。「新聞革命」というのもあながちおおげさではなかったと思いますよ。だから整理本部との打ち合わせがものすごく必要でした。それで津原さんが来たわけです。

1991(平成3)年11月5日からの
インテリジェントブルーの題字

 新しい題字になるのは1991(平成3)年11月5日の朝刊からです。気が付けば32年前なんですね!そのときぼくは経済部長になってました。

 「私はその日、編集局にいた。一月前の10月1日に、MAP事務局でもある経営企画室から経済部長への異動を命じられ、刷り上がった前日までの古色蒼然とした題字とは様変わりの、四角い鮮やかなインテリジェント・ブルーの題字をしげしげと見つめた記憶がある」

 編集局の中では整理本部が、ハラキリの紙面構成にすごく反対してました。シニカルな連中は、「紙面デザインで新聞が売れるわけないだろう。新聞はあくまでニュース、それも特ダネが勝負なんだ。ハラキリ紙面なんてジャーナリズムの本道から外れている」なんて、締め切り後の夜中、竹橋のビルの高速道路の下に出る屋台で論争をしたもんです。

 しかし、実施後1ヶ月も経つと、整理本部の記者が「おい、ハラキリのところに記事がはみ出してるぞ、直せ」なんて言って、ころっと変わってるんですよ(笑)。なるほど、組織っていうのはこういう風に変わるもんかと思いました。革新があっという間に保守になる(笑)。これはおもしろかった(笑)。
(以下略)