元気で〜す

2023年5月15日

元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 28 記者から不動産業へ?! 大阪本社ビル建設計画に取り組みながら、大阪の食文化を堪能 抜粋

 (インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
  全文は https://note.com/smenjo

 今回は、佐々木さんが47歳のときの1989(平成元)年に、経営中枢の経営企画室に配属になります。かつて2年ほど組合委員長を務めたことがあるので、2度目の記者以外の職です。大阪本社ビルなどの建設計画を担当、また「新聞革命」をめざした、題字変更、紙面デザインの改革を行うCI(コーポレートアイデンティティ)プロジェクトに取り組みました。

目次
◆大阪本社ビルの建設計画 過去、鹿島に入れた一札とは?
◆うまい! はじめて触れた大阪の食文化
◆不動産のプロ生命保険会社とタッグを組んで
◆名古屋の中部本社ビル、九州の西部本社ビルも
◆東京本社の立て直しも視野に お台場移転案も?!
◆地下6階まであるパレスサイドビル 「毎日温泉」も
◆皇居一望のパレスサイドビル屋上には「毎日神社」
◆ペルシャ語の領収書? 今だから言える話

◆大阪本社ビルの建設計画 過去、鹿島に入れた一札とは?

Q.経営企画室の人材として見込まれたのはどういう背景だと思われましたか?

 ぼくが目をつけられたのは、想像ですが甲府支局長時代に開催された国体、選抜高校野球、NHKの大河ドラマ「武田信玄」などの放映に合わせた、別刷り発行、販売拡張、広告社の売り上げ増につながることなどを一生懸命やったことで、「あいつは新聞記者より、経営の道を歩んだ方がいい」という事で目を付けられたんだと思いますね。その時は、筆一本で生きる道は断たれたと思っていました。

経営企画室長だった秋山哲さん

 ぼくは甲府支局のあと、証券業界担当の兜町記者倶楽部、経済部デスクに2年近くいて、1989(平成元)年の3月に経営企画室委員になりました。経営企画室長はジャカルタ特派員、大阪経済部部長・編集局長などを歴任した7才年長で常務の秋山哲さんでした。東京の経済部におられたこともあり、よく知っていました。

 秋山さんは面白い人で、毎日新聞退職後、奈良産業大学の教授になり2003年には今のSNS時代を予見した『本と新聞の情報革命―文字メディアの限界と未来』(ミネルバ書房刊)を出版されています。さらに現在90近い年齢で、自分一人でデジタル出版の作業をして、ルーツである京都の商家の物語、さらにジャカルタ特派員時代の記憶を生かした小説などを「檜 節郎」のペンネームで相次いで出版されています。人生百年時代を体現しているような人ですね。けっこう、面白い小説ですよ!

Q.経営企画室赴任後、担当されたのはどういうお仕事ですか?

 ぼくが秋山さんから命じられたのは、「不動産担当」という事でした。編集局にいては絶対経験のできない“実業の世界”でしたから、これはこれで面白かったです。

(大阪本社新ビル、『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年』下、2002年2月)

 当時・大阪駅に近いメインストリートの堂島にあった、70年前に建てられ手狭になっていた大阪本社ビル。この旧本社から歩いて10分程度離れたJR大阪駅西側の旧国鉄梅田貨物駅跡地再開発(現・オオサカガーデンシティ)によって発生する土地を取得し、ここに新本社をたてるというプロジェクトでした。当初、旧本社は商業ビルに建て直し、地上43階建ての超高層ビル・大規模ホールもある”大阪一のビル”にしようと、土地の半分を日本生命、第一生命に売却して、ビルのコンセプトを決めるために、この三社協議が月一度大阪で開かれました。大阪本社の担当者と東京本社の経営企画室の不動産担当者ということで、出席していたわけです。

 ただ事実上の倒産である新旧分離(1977(昭和52)年)を経て、9年後、新旧分離を解消、新生「毎日新聞社」が生まれたばかり。だけどぼくの行った頃は“イケイケどんどん”のバブル経済の真っ最中。それがあっという間にバブルは崩壊、不動産ブームは鎮静化、堂島ビル計画も地上23階のオフィスビル計画に代わりました。

Q.経営企画室って、社内的にはどういう位置づけのポジションなんですか?

 経営企画室というのは役員会直属の組織で、基本的には役員会で討議する四本社一支社(東京、大阪、中部、西部本社、北海道支社)の経営に関係するテーマに関する資料作り、経営企画室としてはこう考える―という意見を室内で議論して添付したケースもあったと思います。室員には各本社からのそれなりの人材が派遣され、東京本社からは編集、販売、広告、人事・総務関係の人が配置されていたと思います。ここに席をおくと全社の問題点、毎日新聞の弱み・強みが本当によくわかりました。

 いろいろ紆余曲折ありましたけど、経済記者として記憶に残っているのは、建設会社選定の問題です。毎日新聞社は、大きな建設は同じ大阪生まれのゼネコン「大林組」なんですね。しかし今回は「鹿島建設」が入っているんです。

Q.鹿島が取ったのは、何かいきさつがあるのですか?

 なるほどこういうのが建設業界なんだなあと思うことがありました。戦後、毎日の大阪本社裏の駐車場の工事を、たまたま鹿島に頼んだのです。当時の大阪代表が一札入れていたようですね。「本社ビルを建設するときには鹿島を入れます」と。今回、本社ビル建設の話を聞きつけた鹿島が。それは何十年前のも前のことなんだけど、ビル建築業者選定の時に、鹿島が金庫の奥から取り出したのが、この「証文」です。建設主体はやはり大林組でしたが、鹿島もジョイントベンチャーとして食い込むわけです。これはすごい世界だなあと思いましたよ。(以下略)