元気で〜す

2023年1月10日

元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み27 リクルート事件で週刊誌に追い回された“親分”…瞬間湯沸かし器と言われた激しさの背景に壮絶な秘話が 抜粋

 (インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
  全文は https://note.com/smenjo

 今回は、佐々木さんが親しく仕えた上司・歌川令三さんのことを軸にお聞きしました。

 目次
◆皇居の敷地でカルフォルニア州が買える?
◆リクルート事件発覚 未公開株がマスコミにも
◆飛ぶ鳥落とす勢いの歌川令三記者
◆逃亡者に明日はない
◆席順が「う」の歌川さんの隣に「え」の江副さん
◆バブルをあおった?………
◆渦中甲府にいてホッと………
◆秘話 歌川さんの壮絶なバックグラウンド
◆歌川さんへの感謝! 「自由企業研究会」で中国やシリコンバレーに
◆新聞記者は妬みの世界?!

◆皇居の敷地でカルフォルニア州が買える?(略)

◆リクルート事件発覚 未公開株がマスコミにも

Q.そういう中で歌川さんのリクルート事件への関与問題が起きるんですね。

 1988(昭和63)年6月、朝日新聞横浜支局のスクープで、バブル経済の中で人材紹介という新規事業で急成長した「リクルート」の子会社、不動産会社の「リクルート・コスモス」が上場を目論んでいたんです。川崎市の助役に同社も関与する川崎駅周辺の再開発事業に便宜を図ってもらうため、1億円の未上場株を供与した、というのです。

 1987(昭和62)年6月に上場したNTT株は売り出し価格が119万7千円、これがアッという間に318万円まで上がりました。文字通り濡れ手に粟の“バブル”。リクルート・コスモス株も成長株として上場すれば値上がり間違いなし、ということでリクルートの創業者社長の江副浩正が財界人としてのポジションを確保するという意図もあって、この未公開株を中曽根康弘、宮沢喜一元首相、NTTの真藤社長、文部・労働省の事務次官、森田康日本経済新聞社社長、丸山巌読売新聞副社長など、政官財界、マスコミにバラマキ、上場時70億円近い利益を受け手にもたらしました。これが原因で89 (平成元)年6月、時の竹下登首相は退陣しました。戦後最大の疑獄事件といわれており、自民党は同年の参院選挙で大敗、その後の連立政権、民主党政権への道を開きます。ホント、マスコミは連日、大騒ぎでしたね。

◆飛ぶ鳥落とす勢いの歌川令三記者

 歌川令三さんは、われわれの世代の経済部記者は、各社ほとんど知っている有名記者でした。経済部記者として大蔵省、日銀担当を長くやり、ワシントン特派員になります。ぼくより7歳上ですが、分析力に優れ、原稿もわかりやすかった。「むずかしいことを、むずかしく書くのはやさしい」だいけど、「むずかしいことを、わかりやすく書く」のは本当にむずかしいんですよね。歌川さんはそれが本当にできた人だと思います。

 ワシントン特派員の時、ぼくは商社担当だったんですが、当時の四大商社(三井物産、三菱商事、住友商事、日商岩井(現・双日))のある役員から「ワシントンからの記事で一番信頼しているのは歌川さんの原稿」といわれたことがあります。1971(昭和46)年8月15日のいわゆるニクソン・ショック(1㌦360円のそれまでの固定相場制が崩壊、変動相場制に移行)時の、第二次大戦以降の戦後経済の歴史的転換に現地で立ち会った記者でもあります。この時、僕は水戸支局から経済部に上がってきたばかりで、夏休みで長野に旅行中でしたが呼び戻されたことを憶えています。

 歌川さんはワシントンから1972年、帰国後、経営危機にあった毎日新聞社立て直しのため、経済部の先輩の佐治俊彦さんが室長だった経営企画室に行き、倒産の危機にあった会社を“新旧分離”という手法で救う立役者になります。その後、経済部長、編集局長、取締役とスピード出世します。しかしその猪突猛進の突破力に社内に敵も多かった。ただ新旧分離の推進力となっていた経済部出身で財界に顔の広い平岡敏夫社長・会長、その後継者の外信部出身の山内大介社長がバックにいた時は順風満帆、佐治・歌川ラインは次期社長は確実と見られていました。しかし平岡さんが86(昭和61)年、山内さんが現職社長で87(昭和62)年12月に相次いで亡くなり、急速に歌川さんへのバッシングが強くなります。

 特に故山内社長の後継の政治部出身の渡辺襄社長とは相性が悪く、88(昭和63)年1月、渡辺社長に「辞表をたたきつけた」(本人談)。その後、ワシントン特派員時代の仲間の読売新聞の渡辺恒雄社長の紹介で、中曽根康弘元首相が設立した「財団法人世界平和研究所」の主任研究員になります。(以下、一部略)

◆秘話 歌川さんの壮絶なバックグラウンド

Q.伺っていると歌川さんのキャラクターは、部員が次から次へと辞めていく、かなり独善的で激しい感じがしますが、どういう背景がある方なんですか。横浜国大出身の学生運動の闘士だったとも聞いているんですが。

 ウーン、僕もその辺、不思議に思ったこともあります。「彼の親父は戦前のアナーキストで逮捕され獄中死しているんだ」というウワサ話を聞いたことがありました。確かめるすべはありませんでした。

 実は、偶然知った事実があるんです。毎日新聞を定年で辞めてからしばらくして、ぼくが書いた終戦3日後の1945(昭和20)年8月18に横浜の保土ヶ谷教会で憲兵に射殺されたと言われている、戸田帯刀横浜教区長のことを書いた、ノンフィクション「封印された殉教」(2018年上下巻フリープレス社刊)の取材で知った事実のことです。

Q.何があったんですか?

 実はノンフィクションの取材で、終戦前後に豊多摩刑務所で、ここで獄中死した唯物論学者の三木清や、長野刑務所で亡くなった戸田帯刀教区長と開成中学で同期生の同じ唯物論学者の戸坂潤のことを調べていたんです。たまたま「獄中の昭和史 豊多摩刑務所」(1986(昭和61)年、青木書店刊)という本を、2015(平成27)年頃だと思いますがアマゾンで取り寄せたんです。

 この本には、豊多摩刑務所に収監されていた治安維持法などで逮捕された反戦活動家本人、関係者約70人の「獄中記」「体験記」「獄死者への追悼」「救援活動」などが掲載されていました。共産党の委員長・野坂参三など共産党関係者、河上肇などの唯物論学者、演出家・土方与志(ひじかたよし)など左翼系の著名人の文章もあります。この本は、日本国民救援会という、戦後も学生運動、労働争議、冤罪事件などについて、逮捕・拘禁された人たちへの弁護士の紹介、裁判のバックアップなど続けている団体がまとめた本なんです。

 それに目を通していて「アレッ!」と思ったんです。「獄死者への追悼」の項目に「『宇田川信一の獄死』三浦かつみ」という項目があったんです。「宇田川信一」の説明に「別名・歌川伸(のぼる)」とあるではありませんか。筆者の「三浦かつみ」さんというのは、歌川さんの母親で恐らく当時、出世コースをばく進していた歌川さんに影響の出ることを考えて通称名にしたんではないでしょうか。

 「歌川伸」さんは、東京外語大中国語科を卒業、中国語が堪能で中国共産党と壊滅状況下にあった日本の共産党・アナーキストとの関係を繋ぐため、秘密裏にしばしば訪中して、それが理由で1944(昭和19)年3月、神戸で治安維持法違反、徴兵忌避容疑などで逮捕されました。この本によると、面会に行った“三浦さん”は「宇田川さん」は「(特高の)拷問で顔など見分けがつかないほど歪み、皮膚は紫に膨れ上がっていた」と記されていました。

 同じ年に判決を受けて東京の豊多摩刑務所所に移管されていたようです。12月23日、同刑務所から通知があり駆け付けると、獄舎の中のコンクリートの床の上のゴザの上に寝かされ「やせ衰え、歯は一本もなく、『犬死だよ。もう駄目だ。子どもをたのむよ』というだけでした。(中略)翌朝はやく行くともう冷たくなっていました。宇田川はその時50歳、子供は10歳でした」と記されていました。

 この資料を見た時、ホント、ショックでしたね。この“10歳のこども”は歌川さんのことでしょう。「歌川令三編集局長」の壮絶なバックグランドを見た思いでした。軍国主義が頂点に達していた戦争末期に、父親が“反戦“を唱え、とらえられ獄死するというのは、どれほど残された家族にとって意味を持つのか。名誉の戦死を遂げた兵士の家族とは全く違う、戦中・戦後―想像を絶する辛い思いがあったのではないでしょうか。そのために戦後、母ひとり、息子ひとりの厳しい生活を送らざるを得なかった歌川さんが、時に激情を表し、一部の部下に忌避される行動をとったのは、胸に秘めた思いがほとばしり出たんだと、30年後の今になってようやく納得が行きました。

この本については歌川さんも知りませんでした。アマゾンでもう一冊取り寄せ、渡しました。その事実を伝えるページを一読して「知らんかった。ヒロトくんありがとう」目をうるませていました。ワシントンにいる息子さんにもこの本を送ったと聞いて、ホッとしました。歌川さんはこの本をみながら、子供の頃、母親から父の獄中死の話を聞いて「オレは親父の仇(かたき)を叩きのめす」といって母親をあわてさせたといっていました。「今でも豊多摩刑務所の名前を聞くだけでビクッとする」と語っています。ぼくなんかには想像のつかない、反権力の深い傷跡を残しているんだと思います。(以下略)