随筆集

2023年10月6日

元印刷局・労組執行委員の戸塚章介さん(86)が振り返る 「浅海・増田委員長時代の毎日新聞労組」(1960年10月~1962年5月)

 まず当時の時代背景を振り返ってみよう。日野晃執行部が総辞職し、浅海一男委員長が登場した1960年は、あの歴史的な安保反対闘争がたたかわれた年として私たちの記憶に刻まれている。この年の10月、産経新聞労組が会社と平和協定を結んで新聞労連を脱退する。総資本と総労働の対決と言われた三池争議があり、社会党・浅沼稲次郎委員長が公衆の面前で右翼の青年に刺殺されたのもこの年であった。

「長期安定計画」をめぐる攻防

 日野執行部が総辞職したのは60年10月24日未明。組合は秋闘で3000円の賃上げを要求したが、会社はゼロ回答に固執するばかりか、産経型の「長期安定計画」を逆提案してきた。本部執行委員会は、安定計画そのものは拒否したものの、①闘争委員会設置は保留し、②賃上げは棚上げする、との事実上会社側に屈する内容の本部案を臨時中央大会に提案した。これが賛成54、反対60で否決されるや即座に総辞職を打ち出し、大会は辞任を承認した。

 大会は中断され、代議員らは各支部に帰って新執行部選出の手続きに入った。組合を一気に叩き潰そうとする会社の介入を廃して、11月7日の再開大会で浅海一男執行部が誕生。浅海委員長を支える本部書記長には、東京・活版の加藤親至が就任した。

「二つの妖怪を退治する」

 浅海委員長は「安定計画とは断固たたかう」「賃上げ要求は堅持する」と宣言し、「二つの妖怪を退治する」と決意を述べた。二つの妖怪とは「経営不振」と「左右対立」のこと。就任あいさつで浅海委員長は「会社の借金が増えているというが、金融筋から見るとちゃんと利子も払っているし何ら心配はないという。心配なのは私腹を肥やし、ゴルフ三昧の経営者の方だ。左右対立というが、煽っているのは組合の中に分裂を持ち込もうする会社側の悪質な陰謀だ。今必要なのは六千組合員が団結することであり、団結すれば必ず事態は開ける」と力強く述べた。

 浅海執行部は冬季期末手当交渉で前期比1万円余増の8万5,800円を引き出し、年を越した秋闘でも1,300円の賃上げを獲得して妥結した。実質的な安定計画打破と言える大きな成果であった。

 61年5月の定期中央大会では浅海委員長、加藤書記長が続投することになり、本部執行委員に増田滋、鈴木利人、外立亮一、山野井孝有、奥田正が名を連ね、本部副書記長・東京支部書記長の小峰澄夫を加えて錚々たるメンバーとなった。

前列中央が戸塚章介、右へ一人おいて山野井孝有、後列左から外立亮一、小峰澄夫、鈴木利人、増田滋。右から二人目柳澤勇、戸塚の後ろ右は蓮沼俊紀、左は川崎正夫(敬称略。みんな若かった)=1961年5月、兵庫県城崎町公会堂での第15回定期大会後

「組織の断層」は会社の陰謀だ

 第2期浅海執行部は洋々たる船出だったが、スタート直後に思わぬアクシデントに見舞われる。5月19日から城崎温泉で開かれた定期大会の初日、浅海委員長が鼻孔内うっ血で倒れたのである。(私もこの大会には代議員で参加していたが、ほんとにショックだったのを覚えている)。とりあえず近藤隆之輔副委員長・大阪支部長が委員長代行を務めた。

 8月11日の地域別中央大会で浅海委員長は辞任し、後継者として増田滋が選出された。増田委員長は就任後の第一声で「みんな仲間だ」と題して、次のように所信を述べた。

 「私は組織の断層という言葉がきらいだ」「組織の断層はあるのだという声に、私は屈しない」「組織の断層どころか、経営者に対するみんなの不満と毎日労組の団結と統一をかためる条件が、厳然としてそこにあることをいいたいのである」「組合が強くなければ、職場の民主主義はふみにじられる。職場に自由な空気がなければ、新聞は悪くなる。そのことはみんなが知っている。知ってはいるが、みんな自分の腹のなかに押し込めてきた。浅海さんはねむっていた組合員の魂を鋭く揺さぶった」「私たちの唯一の武器は統一と団結である」。

 増田執行部は、秋闘で5,000円の賃上げ要求に対する1,800円の回答を不満として61年10月18日、臨時中央大会(太融寺大会)を開き闘争委設置を提案した。しかし賛成が62と反対の52を上回ったものの、議事規則の3分の2の壁を破れずに収拾やむなしとなった。

 この間増田執行部への攻撃が異常なほどに強まった。会社とその意を受けた連中から名指しのアカ攻撃が行われ、「執行部は会社を潰す」「組合は紙面の左傾化をねらっている」などのデマ宣伝が飛び交った。そして62年5月の東京支部定期大会で、増田委員長候補、加藤書記長候補、川村金久東京支部書記長候補、山野井本執候補らが相次いで落選し、委員長に菊池透、書記長に小林英一、東京支部書記長に鈴木英弘がそれぞれ当選、本執は全員会社派によって占められた。

仲間の連帯を取り戻す日

 この年を境に、林卓男、後藤秀俊(2期)と会社派委員長が続き、毎日労組の冬の時代が到来することになる。私たちは、書記局に入るのさえ制限される酷い扱いを受けたが長くは続かなかった。浅海・増田委員長時代に培った労働者としてのド根性が脈々と職場で生き続け、ついに仲間の連帯を取り戻す日が来る。途中、会社は職分制を導入して職場の分裂・分断を諮ったが、見事に失敗した。

 私たちが毎日労組を語る場合、忘れてはならないのが浅海・増田委員長時代のたたかいの歴史だと私は思う。=文中敬称略

(戸塚 章介)

 戸塚章介さんは1956年東京本社印刷局養成員として入社。輪転課勤務。毎日労組東京支部執行委員、新聞労連東京地連委員長など歴任。1977年東京都労委労働者委員に任命されたため在籍のまま労組専従。1993年定年退職。