随筆集

2023年8月7日

芥川龍之介と菊池寛が「大毎」社員となった、104年前のこと

 作家芥川龍之介と菊池寛が大阪毎日新聞に入社したときの社告が「大毎」1面に載っている。1919(大正8)年3月21日付、104年前である。

 門井慶喜著『文豪、社長になる』(文藝春秋刊)によると、当時大毎の学芸部長だった薄田淳介(泣菫)が芥川を誘い、芥川が菊池に「君も来ないか」と持ちかけた。菊池寛は「時事新報」の社会部記者をしていた。

 芥川龍之介28歳、菊池寛32歳。2人は4歳違いだが、菊池寛が一高入学までに回り道をして、芥川と同級生となった。

 1916(大正5)年2月「新思潮」を久米正雄ら5人で創刊。芥川の「鼻」が夏目漱石に激賞された。

1919(大正8)年3月21日付「大毎」1面社告
大毎入社の1919年、長崎で撮影の2人

 「大毎」入社といっても2人とも東京に住んでいて、出社の義務はない。芥川は24(大正13)年1月まで、菊池は同年8月まで在籍した。5年ほどである。

 社史『「毎日」の3世紀』によると、芥川は1917(大正8)年から大毎に連載小説を書いている。「地獄変」「邪宗門」などだ。

 菊池寛の大毎連載小説第1号は、入社した翌4月3日から夕刊に連載の「藤十郎の恋」。翌20(大正9)年9月から朝刊で始めた「真珠夫人」が大ヒットする。「歯切れのよい文章と筋の運びで一躍その人気を挙げた」(『毎日新聞七十年』)。連載中に単行本「真珠夫人」前半が刊行され、舞台でも上演された。

 堂島に新社屋が完成したのが22(大正11)年3月。その記念で「サンデー毎日」「英文大阪毎日」「点字毎日」が創刊される。「大毎」に勢いがあった。

 菊池寛は、23(大正12)年1月、雑誌「文藝春秋」を創刊する。芥川龍之介「侏儒の言葉」が巻頭を飾り、川端康成、横光利一、今東光らとともに直木三十五も寄稿している。筆名が直木三十二。32歳の時の筆名で、「三十一」「三十二」「三十三」から「三十四」を飛ばして「三十五」で落ち着いたという。

 35(昭和10)年に自殺した芥川龍之介(27年没35歳)と直木三十五(34年没43歳)の2人を記念して「芥川賞」「直木賞」を制定した。

 その前年の34(昭和9)年3月、菊池は、東京日日新聞学芸部長阿部真之助の招きで学芸部顧問となっている。

菊池寛

 戦時中は、内閣情報部の要請により漢口攻略戦へ派遣された「ペン部隊」に参加、42年には「日本文学報国会」を設立している。

 戦後、1947(昭和22)年戦時中の軍部への協力により公職を追放。翌48(昭和23)年狭心症により急死した。59歳だった。

 『文豪、社長になる』は、「文藝春秋」創刊100年を記念して、同社から執筆を要請された、と筆者の門井慶喜さんが話している。

 同書に、文芸評論家小林秀雄(1983年没80歳)が1938(昭和13)年3月「文藝春秋」特派員として中国に渡り、杭州で火野葦平に第6回芥川賞を渡すことが書かれているが、菊池寛と小林秀雄のことは、この毎友会HP随筆欄2021年9月7日に、森正蔵日記から息子の森桂さん(82歳)が、顔写真=右=付きで紹介している。

(堤  哲)