随筆集

2023年8月1日

福島清さんの「活版工時代あれこれ」最終回⑭活版部員の昭和史その2

1970年6月28日、活版休憩室での全員集会。右端が福島さん

 「活版部員の昭和史」を読んで

 ◇平野勇夫さん(1990年1月20日)

 寒中お見舞い申し上げます。世界の激動をよそに、いたっておだやかな日本の正月でしたが、お元気で新しい年を迎えられたことをお喜び申し上げます。

 さて、先日はご労作の『活版部員の昭和史』をご恵贈くださり、まことにありかとうございました。小生ごとき者にまで気を配ってくださったことに、お礼を申し上げます。

 思いがけないものを頂戴して、はからずも自分自身の「毎日時代」を想い起こすことにもなりました。これだけの分量のものですから、とでも一気に読み通すというわけにはまいりませんが、あちこちとベージをめくって大勢の方々の回想の言葉に接し、「昭和の毎日新聞」を支えてきた――そして、ついにCTSへとバトンタッチして、その輝かしい歴史を開じた――活版職場の今昔に思いをめぐらすうち、それがいつの間にか、みずからの過ぎし日々の思い出とも重なり合って、つい感慨にふけってしまうという次第です。

 定年を迎えられた方々の回想文と先輩を偲ぶ追悼文を集大成するというのは、大変よいところに着眼されたと思います。なんといっても、人生の大半を捧げてきた職場を去るにあたっての一文には、それぞれの方々の、多年にわたる掛け替えのない体験に裏打ちされた感慨が込められているわけで、職場も歴史の流れのなかに身を置き、その歴史を創ってきた者だけに可能な、内側からの証言としての貴重な価値があると申すべきです。

 個人的な思い出になりますが、社会部のデスクをしでいた当時は(1962〜67年ごろ)、朝刊や夕刊の番に就いていて版ごとの降版時刻が近づくと(とくに、最終版のときはかならず)3階の大組場に降りていって、編集者と大組者のやりとりを傍から見守ったものでした。出稿部のデスクにそこまでする義務はなかったのですが、自分の責任で出稿した原稿がどういう紙面に組み上がっていくのか、大刷りになるまえに見届けたいという気持ちが強かったのと、それにもまして、後版が迫った大組場にあふれるあの活気と緊張感が好きでたまらなかったからです。

 取材記者育ちで整理部の経験のない小生が、大組場で最初に覚えなければならなかったのは、いちいち小刷りのゲラやヌレ紙を見なくても、チェースの中に収まっている活字の裏返しの文字を読めるようになることでした。そのうち、「あまい」とか「からい」とか「たたむ」などといつた言葉の意味もわかるようになって、たまたま編集者がまだ新米の整理部員だったりすると、「からいのだったら、そこじゃなくて、こっちの二行とここの一行を削ってほしいな」だとか。「ここに三つたたんじゃったほういい」などと口をはさんだりしたこともありました。

 そんな注文にも、大組者のベテランは嫌な顔ひとつせず、実にテキバキと見車な腕を振るってくれたこととか、ひと悶着あって組み上ったあとで、大組者から「あんたなかなかやるじゃないか。整理部をやりなよ」などと冷やかし半分にほめられたことなど、いまもなつかしく思い出します。

 その当時の社会面や都内版を担当してくださった大組者のみなさんも、いまはもう、すべて定年となられたに違いなく、この記録のどこかにその回想の一文があるはずだと思うものの。なにせ20年以上も昔のこと、お名前を知らずお顔もうろ覚えとあっては、捜しようもありません。

 ともあれ、これだけのものをまとめるのは、大変なご苦労があったことと思います。心から敬意を表します。

 ただ、無理な注文であることは十分に承知のうえ、さらに欲を言わせていただくなら、もし活版職場に荘籍された方々のナマの声を直接聞きだして取材することができるとすれば、もっとすばらしいことだろうという気がします。とりわけ、あの新社と旧社の分離当時に社を去られた方々のことを思います。それこそ、〝心ならずも〟の無念の思いだった方も少なくないことでしょう。あのときの社内の、またそれぞれの職場の〝せっば詰まった〟状況を、そして、そのなかで静かに社を去っていかれた多くの方々の姿を、いまも忘れることができません。

 当時の取締役会の末席に身をおいていた者として、みずからの非力に対する悔恨の念は、いつまでも消えることがないでしょう。あれからもう10余年が経ってしまったいま、あのときに職場を去られた方々の本音を伺う機会があればと、ひそかに思う今日このごろです。

 お手紙のなかにもありましたが、技術の進歩はたしかに素晴らしいことであるにせよ、その輝かしさに目を奪われて、元の職場で多年働いてきた人々の歴史と情熱を埋もれさせるようなことがあってはなりません。その意味でも、本当によい記録をまとめてくださいました。

 とりあえず、お礼まで。どうぞ、くれぐれもご自愛のうえ、新しくスタートした制作部のためにも、ますますこ活躍あらんことを期待しております。

(「活版工時代あれこれ」=終わり)

第29期志道執行部時代、1974年7月2日、霧ヶ峰で。
右から、大住広人組織部長、志道良太委員長。山野井孝有書記長、大島幸夫教宣機関誌部長、福島清本部CTS対策委員長