随筆集

2023年7月21日

校閲の奥深さ、「退職後も夢に見る」と元校閲記者の軽部能彦さん

 毎日新聞校閲センターが運営する『毎日ことばplus』に「ことばの達人」という寄稿欄があり、校閲OBの寄稿が掲載されているので、転載します(抜粋)。

 ―今回は毎日新聞で長く校閲記者を務め、用語幹事としても頼りにされた軽部能彦さんです。退社して2年余り。今は「なんにもしていない」という軽部さんはパソコンも携帯電話も持っていません。400字詰め原稿用紙に鉛筆書きの原稿が郵便で届きました―という前書きで、本文は以下の通りです。

「毎日ことばplus」
https://salon.mainichi-kotoba.jp/?memberpage=login
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喉に小骨が…

 「高性能のカメラを内臓する」。「内蔵」の間違いだろう。そのまま印刷物になっているのを目にすることもある。油断ならない。

 内部に含み保持する意味だから「内蔵」。スルが付いて動詞になる。「内臓」は動物の胸から腹のあたりにある器官。動詞を作らない。音は同じ、字面も似ている。どちらも、物の内側に関わるから取り違えるのだろう。

 この「ナイゾウする」で、長い間もやもやしていることがあった。月並みの言い方だが、喉に小骨が……というやつだ。自らの不勉強、管見を省みず、その小骨について書きしるすのをお許し願いたい。

  「馬
   軍港を内臓してゐる。」

 北川冬彦(1900~90年)の詩である。題名の「馬」と本文をひと続きに読み下せば、自由律俳句といって通るかもしれない。小骨というのは「内臓してゐる」の表記だ。初めて読んだとき、詩そのものにギョッとした。校閲をなりわいにするようになって、まさか誤植ではあるまいなと疑った。何冊かに当たってみた。みな「内臓」。誤植ではない、詩人が選んだ表記なのだと納得したはずだったが、喉のつかえは下りない。(一部略)

 「馬/軍港を内臓してゐる。」。たったこれだけ。だが、いや、だからこそインパクト十分の作品だといえる。

 大型の草食動物。その腹中には軍港がある。奇態な発想だ。

 湾口に立ち上る黒煙の柱。港。暗号に閉ざされた空。地を縫合する軌道の分岐。深く沈むドック。燃料・弾薬庫のきな臭いにおい。林立する起重機。蛇行する鋼の管、索条群。後背には幾筋もの尾根が弧を描いて迫る――。

 それらは、たくましい褐色の馬体の腹部から現れる。分厚い皮膚と肉を剝ぎ取られ、てらてらと脂ににじむ臓器が白日の下にさらされる。肺、肝臓、消化管。その上を枝を伸ばし迷走する血管。柔弱な器官に覆いかぶさるように湾曲する肋骨(ろっこつ)。

 (一部略)

1行でも誤植、見逃しは起こる

 「馬」は1927(昭和2)年2月発行の同人誌に、他の2編(「坂」「曙」)と併せて発表された。

 同人誌だからと軽んずるつもりはない。しかし大きな出版社の出す文芸誌とはおのずと異なる。引き受けた印刷所にしても、それほどもうけの出ない学生たちの雑誌に細心の意を払ったかどうか。時代は昭和の初めで、活版印刷が主流である。文選(原稿に合わせて活字を拾うこと)作業での誤りも少なくなかっただろう。それに、扱うのは文学、一般的な文章とは趣が異なる。学生ら自身の校正・校閲に費やす労力、態勢も限られていたと推しはかってみる。

 この上に立って、①作者は「内蔵」と表記したが、文選で「内臓」を拾われ、校正・校閲でも見逃された②作者は「内蔵」と書くところを「内臓」と誤記した。文選、校正・校閲とも原稿に従った――。入稿から校了、印刷・製本までの工程をもっと丁寧にたどるべきだろうが、大きく二つの場合を仮定してみた。

1970年ごろ(毎日新聞見学者向けの冊子より)

 「馬」は題名を除くとたった1行の作品。しかも「内臓してゐる」は普通の表記から離れている。どこかの工程で、何らかの気付きがあってしかるべきでは、との指摘は当然あるだろう。しかし、文の長短だけでは誤植、見逃しの多寡ははかれないというのが筆者の経験的感触である。校閲の仕事に就いた頃、新聞は活版印刷だった(ただし、活字の手拾いは補助的で、さん孔機を介しての活字鋳造が主だった)。数行の記事でも誤植はあった。校閲の見逃しもあった。それは2、3字の見出しでも起こった。たとえば、柔道が桑道に、天然ガスが天燃ガスに、欧州が殴州に化けたりした。

 文選作業では原稿の書き文字の読み違いもあるし、活字の拾い違いもある。校閲のほうは、熟語などでそうなのだが、1字ずつではなく、ひとくくりの語で読んでしまい予測が先走り、視覚をあざむく。その結果あらぬ見逃しをしてしまう。さらにナイゾウの表記のような場合、「内蔵」と「内臓」の同音異義熟語への親密度も関係してくるかもしれない。その差が大きいほど、親密度大の熟語のほうが小のそれより、心理的にも実際的にも選択されやすい。その語に対する緊張感も薄くなる。「内臓」のほうが日常使われ、接する度合いも高いと考えると、文選で「臓」の活字が拾われやすく、校閲でも錯覚が生じやすくなるのではないか。もちろん可能性の問題であり、誤植や見逃しは複合した要因で起こるから、逆の場合(「内臓」が「内蔵」になる)もあるのだが……。

特異な表記になぜ反応しない(略)

あっけない幕切れ でも…(略)

さかしらをするな(略)

(軽部 能彦)