随筆集

2023年7月3日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑬活版部員の昭和史その1

 CTS制作への移行見通しが立った頃から、活版の記録をどういう形で残すべきかを考えました。そこで、制作部内にあった資料を整理したところ、「昔の東京日日新聞活版場を語る座談会」という冊子が出てきました。それを出発点に調べてみますと、活版部大先輩の古川恒さんの手によって、新聞協会発行の「新聞印刷・活版編」や「毎日新聞百年史・技術編」などに、活版の沿革から毎日新聞社内における発展の歴史が克明に記述されていました。これにはもうかなわないと頭が下がりました。そこで古川さんが取り組まなかったことをと考え、「お世話になりました」と社報に書いた活版部員の回想文と、亡くなった活版部員に対する「故人を偲んで」と題した追悼文に注目しました。

 退職挨拶は、1928(昭和3)年5月20日入社、1958(昭和33)年5月10日退社の藤本忠一さん(私が組版課配属になった時の課長さん)はじめ367人、追悼の言葉は、1943(昭和18)年12月8日死去の大武巌さんはじめ95人を集めることができました。この方々は昭和初期から1953(昭和28)年までに入社された方々ですので、昭和の激動期に生き、働いた方々です。召集された外地での苦労、戦後の混乱期に生活と仕事を両立させた体験など、貴重な「活版部員の昭和史」となりました。以下、抜粋して紹介します。

 戦争末期の昭和19年は、東京の空襲の激しい時で、会社の警防団の消防班に属していたので、帰宅後も空襲警報のサイレンが鳴ると深夜でも毎日の腕章をつけて勝鬨橋を渡り、火の手を気にしながら会社に駆け付けた。寝る時はゲートルを巻いたまま寝たことも思い出される。(髙橋不二雄さん、昭和2年入社)

 当時、大陸の戦局は激しく、職場の青年は毎朝、日比谷公園で軍事訓練を受けさせられ“ロートル組”も号令一下、皇居を拝してから作業を始めるというご時世でした。やがて大東亜戦争に突入し、敵機来襲に備え、かつて祝宴をした屋上には水を張り、材木を浮かべる始末でした。骨皮子の私にも赤紙が来て北支へ持っていかれ、終戦を張河口で迎えました。(大矢誠一さん、昭和14年入社)

 昭和24年に亡くなった主人(輪転課員)が入院する前夜「自分にもしものことがあったら鴫原部長にお願いして、何でもよいから会社で働かせてもらいなさい。下の子供二人は他に預けるか、あげるように」と言いました。5人の男の子は、長男が中学1年、末の子が1歳でした。鴫原部長のお骨折りと会社のご好意で間もなく活版部に配属されました。(多田俊子さん、昭和27年入社。活版OB多田俊雄さんの母)

 太平洋戦争に突入、本社でも比島のマニラ、セレベス島などで邦字新聞発行のため、私もその一員としてセレベス島のマカッサルへ出向。現地生活の3年間、爆撃の恐ろしさ、終戦後の“死の丘”での集団生活の苦しさなどを体験して無事に内地へ引き揚げてきましたが、この時くらい大樹というもののありがたさを身にしみて味わったことはありませんでした。(小河原道春さん、昭和3年入社)

 昭和19年6月応召、北千島に行ったのですが、寒風吹きすさぶ中での厳しさは言葉にいい表せないほどでした。20年9月復員しました。応召中は、入社間もない私にまで暖かい恩情を示していただいたほか、父の戦災死に際しても多大のお見舞金などを頂戴致しました。会社をはじめ諸先輩のご好意にはただ感謝あるばかりです。(井田晋さん、昭和18年入社)

 いまさら組合のカタを持つわけではないが、毎日の月給はたしかに高くはない。女房とも「これでもう少しお金があったら申し分なかったね」と笑ったものだが、半面、男の商売として仕事の面では十分すぎるほどの機会を与えられ、退屈する暇もなく過ごせたのは幸せだった。その意味では悔いはない。(柳町正義さん、昭和19年入社) 

 思い返せば入社早々召集され、西も東もわからないままに大東亜戦争で満洲、中国大陸を転戦。南支において病に苦しみ、九死に一生を得て帰ってまいりましたが、私が属した部隊はニューギニアで全滅との悲報を知りました。幸か不幸かと考えたこともありましたが、現在皆様と苦楽をともに出来たことは、病気のためと感謝しております。(中村嘉一さん、昭和16年入社)

 日華事変と太平洋戦争で二度応召しています。私と一緒に応召した小林寅夫、中野三郎君は戦死。私も19年8月、北支済南の奥地で、八路軍のため貫通銃創をうけましたが、幸いにも命をとりとめることができました。(畑忠隆さん、昭和2年入社)

 入社2年目、試刷夜勤の日に2.26事件が勃発して軍国主義に突入し、勤務時間外に青年学校で軍事教練に汗を流したことも当然のことと思っていました。昭和21年6月、5年有余の外地ばかりの軍隊生活を終え、有楽町駅頭から社屋を見た時、思わず涙が流れました。(湯原房次さん、昭和10年入社)

 昭和18年に応召、バシー海で魚雷を受け、2700余人のうち931人の生存者の一人でした。次第に敗戦が濃くなり転進転進、山また山、山奥に入り、米はもちろん塩もなく、かえるもいない高山で、もっぱら木、草、へび、さわがに、かたつむりなどを食べ、どんどん死んでいく戦友をどうすることもできず、ただ傍観するだけでした。埋めてやる穴堀りの気力もなく、木の葉をかけ、冥福を祈ったものでした。(内藤良吉さん、昭和12年入社)

 この連載にあたって、「活版部員の昭和史」を再度読み直してみました。ここに掲載した方々のほとんどはお名前と顔が浮かんできます。寡黙だった方が思いのたけを記している一方、書きたくても書けなかったのだろうと推測できる方、一行の俳句にすべてを託した方など思いは様々です。一方、レッドパージで追われた6人をはじめ、故あって途中退社された方々もいます。そうした方々にも活版工としての思いがあったと思いますが、それはもう調べようがありません。

 ところで、「会社」という言葉は逆から読めば「社会」です。「活版部員の昭和史」からは、かつての毎日新聞社は、亡くなった社員の家族に配慮して妻を採用し、「寄らば大樹」を実感させる処遇をした「社会」的な存在であったことが伺えます。

 翻って今、多くの会社は、「非正規労働者」をボロ雑巾のように使って恥じません。労働者を人間扱いしていないのです。単純に「終身・年功序列雇用制度」にすべきだとは言えませんが、こんな「会社・社会」でいいわけがありません。

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「活版部員の昭和史」を読んで

 「活版部員の昭和史」は、1989年12月13日に開催された「活版さよならパーティー」で記念品として配布しました。さらに関係者には贈呈したところ、感想のご返信をいただきました。その中から、藤平寂信(信秀)さんの感想を紹介します。

◇藤平寂信さん

 年賀状の束といっしょに、貴兄の「活版部員の昭和史」が届きました。すごいお年玉です。こいつァ、春から……とうれしくなりました。

 貴兄らしい暖かい目線、的確な問題意識、職人なればこその緻密な編集作業と、それをやりおおせたエネルギーには、つくづく敬服します。数多くの先輩諸公も、この労作をどれほど多としていることでしょう。大兄抜きで、この労作が陽の目を見ることは、ついになかったと考えます。

 ただ、貴兄の「編集を終えて」にあるとおり、なんらかの形で、心ならずも社を去った方々の悩み、苦言も、ぜひ聞いてほしかった。

 いつの日か、またお逢いできる日があるかもしれません。いつまでもお元気で、ご精進ください。取り急ぎ、お礼の一筆啓上仕りました。合掌

 藤平さんのほか、小島成一弁護士、新井直之さん、桂敬一さん、藤田修二さんらからも感想をいただきました。平野勇夫さんからいただいた長文の感想は次号で紹介します。

(福島 清・つづく)