随筆集

2023年5月12日

「モーリシャスへの汐路」―元編集委員、鈴木志津子さんの「クルーズの旅」ブログ転載

 鈴木志津子さんのブログ。 https://cruise-to-mauritius.blogspot.com/

2002年9月のラプソディーの地中海クルーズで

☆1974年9月 ラファエロ カンヌ→ニューヨーク
9f9e3b66ab61e365a85bf992beb2304b.jpg (736×556) (pinimg.com)

 「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズを離脱した私は涙にくれましたが、この時もまた、私は泣きました。実は私は「ラファエロ」ではなく、「フランス」に乗るためにフランスにでかけたのです。

 ドゴール大統領が「船は動く文化大使だ」と威信をかけて建造した「フランス」は運航費もかさみ大赤字でした。ジスカール・デスタン大統領は、その年のシーズンかぎりで運航停止を決定しました(大西洋横断は9月でシーズン終了)。パリ特派員伝で知った私は、運航会社メッサジマルティニに「乗りたい」と手紙を書きました。同社から「お金を送金すれば船室を取れる」と電報が来たのはその便の1週間ほど前。私は「乗船する」と電報を打ち、小切手を送り、返事を待つ間もなくパリに飛びました。

 「貴女の切符はここにあります。ただ、乗れるかどうかはわかりません」。メッサジマルティニ事務所でこう言われました。この朝、ニューヨークから到着した船は、乗客を降ろすと、ルアーブルの港の中央に碇を下ろしたのです。こうすると大型の船は入港できなくなるのだそうで、港を封鎖して運航停止反対のストライキを始めたのです。会社はただちに予定していた残りの航海の中止を決めました。

 ルアーブルの港では小型船が「フランス」の周りを巡る商売を始めていて、さっそく乗りました。近づいて、甲板から見下ろす人の顔が見えるようになった時、心の中で「乗せて!私はそのためにやってきたのよ」と叫ぶと、どっと涙が出て、泣き伏してしまいました。

 その1週間後、カンヌから「ラファエロ」に乗りました。この船もストライキをしたとかで、乗船は真夜中になりました。はしけで沖停めの船に向かうとき、突然滝のような雨が降り、雷が鳴りました。遠雷のようですが、凄まじい轟音。稲光で瞬間真昼のようになりました。

 「降るがいい、最後の涙雨。私の旅は今始まる」心の中で叫びました。

 このクルーズ、テーブルメートが1組の中年カップルのほかは若い女性(私も若かった?)で楽しい食卓でした。アメリカ映画とイタリア映画を交互に上映しましたが、聞いたこともなかったイタリア語の映画のほうがわかりました。ハリウッド映画は会話が理解できないと分からないけど、イタリア映画はさりげない景色などの挿入が、登場人物の心象を表現してくれました。こうして私は、映画も音楽も、料理もファッションもイタリアびいきになりました。

☆1973年2月 アーカディア(先代)    香港→大阪
         P&O Cruises - ウィキペディア (wikipedia.org)  =英文
(クリックするとリダクトしますか?と聞いてきますが、そのままアドレスをクリックすると見られます)

 このクルーズが、私を船旅にいざなってくれました。海外旅行にお金を使うのなら船旅以外には使いたくないと思うようになりました。香港から大阪まで、この間、鹿児島に寄港し、私にとって初の九州旅行になりました。わずか4日間のクルーズだったのですが、それが素晴らしかったので、私は船旅にのめり込んでいきました。

 きっかけは茂川敏夫著「船旅への招待」という本を読んだからです。それですぐに乗れそうな船を探した結果です。当時私は新聞社の運動部に所属していました。夏はスポーツが多い時期で、交代で取る夏休みを冬にずらすのは喜ばれました。

 私の船室は一番安い4人相部屋。藤製の2段ベッドが2つ。料金は5万円でした。行きの飛行機も5万円でした。4日間3食、アフタヌーンティーまでついてなんとお得なんでしょう、と私は思いましたが、他人に話すと「え、クルーズ、何?船で旅するの?なんで?お金がないから?」といわれました。

 ルームメイトは名古屋在住の、私より少し年下の女性が1人。高校の保健の先生でした。その後、相撲担当だった私は名古屋場所の際は彼女と会い、彼女が東京に来た時は一緒に食事をしました。ダイヤモンドプリンセスが日本一周クルーズをしたときは一緒に行きました。

 私たちがパーサーズオフィスに行くと、デュプティー・パーサーのバックレー氏が名前を聞き、それぞれにカードをくれました。「デュプティー・パーサーのバックレーは(空白スペースに私の名前)と歓談いたしたく(食事時間を聞き、食後の時間を書き入れる)に、彼のキャビンでお待ちいたします」と書かれていました。時間に行くとパーサーズ・オフィスの仲間1人と待っていて、歓談した。それから毎晩私たちはいっしょにお酒を飲みました。彼らはアメリカ人が大嫌いで、うんざりしていたようでした。いったい何を話していたのでしょう?私は英語が大嫌いで、英語は中学で勉強したきり。大学受験はドイツ語でしたというへそ曲がりです。まあ、他愛のない話に違いありません。

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 2022年5月、私はこのブログを立ち上げました。「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズをリポートするためです。ところが私はコロナ感染が判明して、早々に船から離脱してしまいました。 そのままになっていたこのブログを、タイトル「モーリシャスへの汐路」はそのままに、私のクルーズを回顧するものに転用することにしました。これまで新聞や雑誌などで書いたクルーズのレポートは、代々私のパソコンに引き継がれて保存されていますが、それは見ないで、ただクルーズ歴だけを見ながら、忘れ残った事を書いてみようと思います。はたしてどんなものになるか…?お時間がおありになら、時々のぞいてみてください。

志津

 自己紹介に代えて

 なぜそんなに船旅が好きなのか聞かれれば、たちまちまちに船旅のよさをいくつも挙げることができる。「いながらにしていろいろなところに行くことができる」「安全快適」「楽しい催し」「知らない人々との自然な交流」e t c 

 でもそれは船旅の説明であって、好きな理由とはちょっと違うような気がする。ハンサムだとか優しいとか、客観的に評価することと恋することが、イコールではないように。

 多分私は生来の風来坊なのだ。私の父は幼い私をささやかな旅に連れ出した後、家に帰り着くといつも「やれやれやっぱり家が一番いいな」と息をついた。私はその言葉を不思議な気持ちで聞いていた。両親と不仲とか、家の居心地が悪かったわけではない。

 やがて時刻表片手に一人旅をするようになったが、行き先は期待外れだったり、宿が酷かったり、高熱を発したこともあった。だからといって家に帰りたいと思った事はない。さりとて精力的に見て回ることもしない。見知らぬ街で、見知らぬ人たちの中で、自分は異邦人だと感じることこそ、最も自分らしく存在することのように思える。もし人並みの体力があったら、無謀な冒険を試みて、今頃もう死んでいたのではないかという気がする。

  「旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る」

 これが私の理想の境地だ。だが、人一倍足弱な私は、荷を背負って旅することはできない。だいいち、今の世は野ざらしとなって人知れず朽ち果てることなどできない。足弱で怠け者の出不精だけど旅したい。パッケージ旅行は嫌い。一人旅に必要な綿密なスケジュールを立てるのもいや。そんな私の要求に船旅はぴったりだった。船に乗るまでと降りて家に帰るまでのスケジュールさえちゃんとしておけば、船がどこかへ連れて行ってくれる。朝起きて窓から眺めると知らない街についている(もちろん本当は決まったスケジュールで運行しているのだが)。ふらりと降りて、出港の30分前までに戻る。このように船は私を疑似風来坊にしてくれるから、私は船に乗るのではないだろうか。

 この文は当時勤めていた毎日新聞の社内報に、趣味について書くよう言われて書いたものです。クルーズに対するこの思いは、今も変わっていないと思います。

志津

 大手海運会社の商船三井(MOL)は、傘下の商船三井客船(MOPAS)の「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズ催行を発表しました。このクルーズは、2020年7月に、MOLがチャーターした貨物船がモーリシャス近くの環礁に座礁して燃料流出事故を起こしたことに対するお詫びの一環として公約したものです。2023年12月15日横浜を出港して24年1月31日に同港に帰港する48日間の航海です。コロナ禍で実現が心配されましたが、なんとか22年の実施を果たせるようです。モーリシャスはアフリカの東岸、マダガスカル島の東800キロの洋上にある島国だそうで、私もこの事故が起きる前は知りませんでした。これを機にモーリシャスのことを勉強し、みなさんにお伝えし、また教えていただけたらと思います。

 2022年5月21日    志津

モーリシャスの国旗

 2022年12月15日にっぽん丸はモーリシャスに向かって横浜を出港しました。コロナの感染拡大で実施が危ぶまれていましたが、辛うじて2022年中の実施が実現しました。これまでと違って、五月雨式のお知らせや書類の提出が続き、10月になって「催行を決定しました」という知らせに「え、まだ決定していなかったの?」と驚きました。

 私も、直前の郵送によるPCR検査、横浜港での検査も陰性で乗船しました。2023年1月31日まで58日間のクルーズの始まりです。

スケジュール 
12月15日午後横浜出港
12月18、19日石垣島
12月24、25日シンガポール
12月30、31日マーレ(モルジブ)
1月5~8日ポートルイス(モーリシャス)
1月10~12日トゥアマシナ(マダガスカル)
1月22、23日シンガポール
1月31日横浜帰港

志津

 2023年は私にとり、初クルーズから50周年の年。数年前、持病を得(リウマチ)、医学の進歩のおかげで、なんとか日常生活は送れているけど、このクルーズをグランドフィナーレとし、一区切りつけようと思いました。これまで私の一番長いクルーズはリージェント・セブンシー・エクスプローラーのケープタウン周遊15日間なので、3倍以上の長期クルーズになります。

 一番大きなスーツケースと一回り小さいスーツケースに一張羅を詰め込んで、大勢の人々に見送られて出発しました。

志津

 コロナが流行し始めて以来、私は毎朝起きると検温していました。起床時の体温は36・1℃でした。ところが乗船2日目(16日)朝、36・3℃、次の朝には36・5℃になったのです。念のため医局に電話してPCR検査を受けると陽性でした。そのまま船室にこもり、那覇で降りて、無症状ながら陽性だったミュージシャンと地元の療養所に向かいました。

 療養所は市内の大きなホテルを転用したもの。本来は地元の人のための療養所で、私は居候でした。毎朝検温し血中の酸素濃度を測り報告する。アナウンスがあると、だれもいないエレベーターホールに置かれたお弁当を取りに行き食べるのが日課。テレビのニュースは「この冬は寒冷前線の異常な南下で最高気温が12~13℃」と伝えていました。エアコンはあるものの暖房はなく、私はダウンコートにくるまって震えていました。

 24日、クリスマスイブに解放されました。この間検査はしませんでした。もうウィルスは感染力を失っているからで、検査をすれば、ウィルスのカスが反応して陽性になる恐れもあるからだそうです。昼前に、ここへ来てから初めて1階へ降り、係にパルスオキシメーターを返し、出口(裏口)を示されて道に出た時、一瞬足がすくみました。まるで小屋で生まれ育った家畜が外の世界を恐れるように。

 船を降りて、車で送られて着いた療養所。自分がどこにいるのかさえ分からない状態でしたが、MOPASの方が東京に帰る航空券を届けてくださって帰京できました。

志津

 それから、再乗船を目指しましたが、何度PCR検査をしても陽性。この間、にっぽん丸はシンガポール、モルジブ、モーリシャス、マダガスカルを経て帰路につきました。

 私は愚かだったのです。子供のころ、風邪をひいたらお風呂に入ってはいけないといわれていました。コロナも風邪のようなものと思い、私はずっと入浴を控えていました。寒がりの私は汗もほとんどかかず、それほど不快感はなかったのです。私はついにあきらめ、どうにでもなれと入浴しました。その翌日の検査で「検出不可」(陰性ではないが、ごく微量)となり、その晩洗髪したら「陰性」になりました。ウィルスのカスはどうやら頭に多くついていたようです。それで、私は感染経路の見当がつきました。私には不可抗力だったとだけ申しておきます。

 1月23日にシンガポールから乗船しました。ホテルからバスで向かうとき、窓から見たにっぽん丸の細長い船体に驚きました。遮るものなく、船全体を真横から見られることはめったにないことです。この旅の贈り物に思えました。

 コロナ下のクルーズは、密を避け、食事も家族や同行者とのみ同席するなどのルールで、1人旅には寂しいものでしたが、やむを得ないことです。それでも、長い旅の間に、数人の小グループもできているようでした。

 コロナが治まったら、よきグランドフィナーレを求めたいと思っています。

志津