随筆集

2023年3月31日

福島清さんの活版工時代あれこれ ⑪活版からCTSへ

 「新聞労働運動の歴史」(新聞労連編・1980年刊)によると、新聞各社は1970年の大阪万博を契機に、増ページと新聞制作工程の技術革新を競うように推進しました。活版のCTS(コールド・タイプ・システム)化、印刷の鉛板から樹脂版→オフセット化、ファクシミリ紙面伝送による分散工場印刷などです。

 こうした動きの中で、活版も消えていく方向に踏み出さざるを得なくなりました。「毎日の3世紀」の「制作・技術小年表」で確かめてみると、毎日新聞各本社の活版からCTS移行への概要は以下の通りです。

1981.2.3中部本社サプトン方式移行で活字消える。
1982.10.2大阪CTS始動、1988.7.23全面移行。
1987.2.28東京CTS始動。
1989.1.31西部CTS全面移行。
1989.12.11付の、栃木・群馬版で活版制作終了。

 毎日新聞から活版が消えたのは、1989年=平成元年12月ですが、天皇が亡くなった1月7日までは昭和でしたので「昭和と共に消えた」と言ってもいいでしょう。

 なお、東京本社の印刷部門は1984.9.16に紙型鉛版からAPR刷版に移行したため、活版より一足早く紙型鉛版はなくなりました。

 一方、まだ活版制作が続いているのに、1984年9月には東京本社の機構から「活版部」の名称が消え、制作一部になりました。この時、活版職場ニュースに「活版を残せー制作一部なんて名称変更は反対だ」と書きました。

東京本社CTS移行の経過

 毎日新聞活版のCTS化は大阪本社が先行し、富士通と提携して「マルス」と名付けて1982年に始動しました。東京では1985年11月にCTS開発室を設置。室長は国保仁さん。室員は、新川清隆、太田忠男、大野裕朗、遠井信久、久米賢彦、清水敬之、原田繁、落合悟、石黒悦夫、近江真のみなさんと私。なぜ活版から私だったのか。当時、活版の幹部に「誰か出せ」と言ってきたら、直前まで職場ニュースに「活版を残せ」なんて書いている私ではなかったことは確かです。

 5階の一室に設けられた部屋に行ったものの何から手をつけたらいいのかサッパリわからず。何しろ活版ならタテ1.1mm、横1.4mmのルビ活字からタテヨコ24mmの10倍板活字まですべては目に見えるのですが、コンピュータは見せてくれません。

 「先行している大阪に行って、イロハから勉強してこい」と国保さんに言われ、11月20日から12月24日まで大阪本社へ研修に。活版で旧知の入口邦孝さんが中心になって特訓してくれました。大阪活版のみなさんが、簡単にLDPを操作している姿をみて、理屈はともかく画面上で組版ができることが実感でき、何とかなるだろうと感じた程度の「研修成果」でした。

 余談ですが、私が大阪に行くことを知った労働組合活動で一緒だった大阪のみなさんが、歓迎会を開いてくれました。議事規則改正問題などで意見が分かれたみなさんも気持ち良く迎えてくれたのは余得でした。

 1986年からは4階編集局へのLDP室工事、ホストコンピュータと端末機器の搬入が続き、並行して制作部員の研修を開始。まずは先行している大阪本社で紙面制作の研修を受けることにして、数チームを派遣しました。一方、CTS要員が抜けた活版の各部門には、OBのみなさんに特別嘱託として残っていただき、協力してもらいました。

 こうして、1987年2月28日、始動式となり、3月1日朝刊ラジオテレビ面からCTS制作に移行していきました。

 写真左は、始動式でテープカットする山内大介・毎日新聞社長(左)と、山本卓眞・富士通社長。右は始動式後の国保仁CTS室長らと大阪本社からの応援者を含む制作部員の記念写真。

 以後、制作部員の研修の進行と合わせて、CTSへの移行を進め、政治面、社会面などが移行する節目には関係者に呼びかけて活版制作さよならの集いを行いました。

 写真左は、政治面が移行した1988.12.28、右は社会面が移行した1989.5.31の3階活版場での記念写真。

(福島 清・つづく)