随筆集

2023年1月31日

『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑪ ——従軍カメラマン第1号は1914(大正3)年の二瓶将

 新聞写真の歴史を見てみたい。新聞に写真が掲載されるようになったのは、1904(明治37)年が最初である。

  報知新聞 1月2日
  読売新聞 4月1日
  東京日日 4月4日
  東京朝日 9月30日

 元毎日新聞情報調査部長・小林弘忠さん(2017年没80歳)が東京で発行されていた各紙マイクロフィルムにあたった。『新聞報道と顔写真』(中公新書1998年刊)にある。

 『毎日新聞百年史』に、〈東京〉明治37年4月4日〇1面に「閉塞決死隊29勇士」の網目写真を初めて掲載〈大阪〉12月5日〇記事面に写真版(築港大道の送迎門と電車)を使用、輪転機印刷では関西最初のもの、と書かれている。

 《このころ各社とも、まだ社内に製版設備はもちろん、暗室もない時代で、いちいち社外の製版所に依頼していた。しかも写真銅版を紙型にとる技術がすすんでいなかったため、輪転機の鉛版に直接写真銅版をとりつけた。この技術を開発した東京の製版所では特許をとっていたので、各社ともその店にたのまないわけにはいかず、また鉛版の数だけの銅版がひつようだったため、月々の支払いは相当な額にのぼった》と、『朝日新聞社史』明治編(1995刊)は、当時の新聞写真事情を説明している。

 さらに《大阪には、まだこのような製版所がなかった》《(大阪朝日新聞では)社内での製版設備をいそぎ、翌(明治)38年2月11日、「戦時の観兵式」と題する写真を、はじめて大きくのせた》と続けている。

 前記にならうと、大阪での新聞写真の最初は以下のようになる。

  大阪毎日 1904(明治37)年12月5日
  大阪朝日 1905(明治38)年2月11日

 当時、報知新聞(のち読売新聞に吸収合併)の写真製版技術がトップだった。大阪毎日新聞(大毎)は、報知新聞に技師を派遣して技術の習得を図ったが十分でなく、東京の製版会社にいた技術者・二瓶将(当時26歳)を1904(明治37)年12月21日付で採用した。

 「明治43(1910)年ドイツからアンゴー(写真機)を購入、初めて動的な写真が見られるようになった」(『毎日新聞七十年』)。

 本格的な写真取材が始まった。

 その二瓶は、日本で初の従軍カメラマンとなる。すでに写真部長にあたる「写真製版場長」に就いていたが、第一次世界大戦中の1914(大正3)年11月、青島攻略戦に派遣されたのだ。毎日新聞の写真記者第1号である。当時36歳。

 日露戦争(1904~05年)で従軍記者を経験した大毎社会部長・奥村信太郎(のち第6代社長)が、「大毎」から社会部の書き手・安藤繁治(古泉、1920年京都支局長で逝去47歳。後任の支局長が元NHK会長阿部真之助)、「東日」枠でカメラマンを選んだ。

 ライバル朝日新聞の従軍記者は、社会部美土路昌一(当時27歳、のち全日空初代社長、朝日新聞社長)は「従軍記者は1社1名に限られ、写真班を連れて行くわけにはいかなかったので、僕が写真を撮ることになった」と、「毎日カメラ」連載「新聞写真の軌跡」(81年3月号)で筆者の写真部OB佐藤振寿が紹介している。

 新聞は写真で勝負の時代を迎えていた。奥村社会部長は「ペンを2人出すより、戦場のリアルな写真が読者に受ける」と、ビジュアルな紙面づくりを目指したのだ。

 そして連日「二瓶従軍特派員撮影」の写真がフロントページを飾った。

青島入城式「大阪毎日」1914(大正3)年11月17日
「大阪毎日」1914(大正3)年11月24日

 よほど評判が良かったのだろう。1面に「青嶋攻略記念写真帖、月極読者に進呈」と社告を出して、12月5日朝刊大阪毎日新聞第1万1262号の付録として発刊した。四六判16㌻とあるから、ちょっとした小冊子である。

 表紙の左は、青島攻略を指揮した神尾光臣中将。ちょうど東京駅が完成、同じ1914(大正3)年12月18日の開通式で一番列車で東京駅に凱旋したのが神尾将軍だった。

(堤  哲)