随筆集

2023年1月16日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その23 神田川・日本橋川—水都遊覧記(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 連載その4にも書いたが、神田川の旧名は平川という。太田道灌が江戸城を築いた室町時代のころは、河口は大手町1丁目のあたりにあり、日比谷入江と呼ばれた干潟の海に流れを注いでいた。平川の名は皇居平川門に残っていて、私が40年あまり勤めた毎日新聞社(パレスサイドビル)はその真向かいにある。

 江戸時代の1620(元和6)年、平川(神田川)は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。いっぽうの日本橋川もこの天下普請にともない開削された人工的な河川とみられるが、その具体的な形成過程は史料的に必ずしも明らかでないという。江戸時代には、日本橋川の三崎橋から俎橋付近までは埋め立てられて堀留になっていたが、1903(明治36)年に流路として約300年ぶりによみがえることになった。

日本橋川。現在の日本橋は1911年に架け替えられた。橋の総合的な意匠は妻木頼黄による。真上を首都高速都心環状線。南詰めに小型船舶発着場がある。2012.09.15

 1964(昭和35)年の東京オリンピックのときに首都高速道路ができたが、その少なからぬ部分が既存の河川の流路を利用して建設された。日本橋川はその典型であり、口惜しいことに、神田川との分岐点から河口までのほぼ全流域が、高速道路に蓋をされるような形で視界を遮られている。

 2012(平成24)年9月15日、神田川と日本橋川を船で廻る小さな旅をした。今回の連載エッセイに載せた写真20点はそのときに撮影したものである。

 会社勤めを辞めて間もなく、早稲田大学写真部の旧友たちと街歩きをはじめた。この水辺遊覧はその第17回目。参加したのは多久彰紀、宇野敏雄、福田和久、伊勢淳二、柏木久育と私の6人。現在の会員は9人。その後、菊池武範、笹井温迪、鈴木淑子が加わり、街歩きの会は2022年12月現在で109回を数える。

 10年前になるこの年、7月も8月も炎天下を歩いているのだが、天気予報では猛暑はまだしばらく続くという。たしか柏木君からの提案だったと思うが、小型水上バスで東京の川廻りをすることになった。私たちが乗ったカワセミという船名の水上バスは、東京都公園協会の水辺ラインに所属していた。災害時の緊急対策を目的に造られた船舶なのだが、平常時には遊覧船として運用されているのだという。

 水上バスの発着場は日本橋の南詰にあった。集合時間の30分前に着くと、すでに福田君と柏木君が待っていた。乗船はならんだ順番だということで、柏木君が一番札を手に入れていた。周りを見渡すと川廻りの遊覧客と思われる人だかりがあちこちにできている。団体の遊覧客を引率する旅行代理店の人や通りすがりの人にチラシを配る人もいる。この日は3連休の初日だったからかもしれないが、東京の水辺に遊ぶ観光が静かなブームになっているように思われた。

 水辺ラインの遊覧コースは、東京スカイツリーを廻るものなど、他にもいくつかあったが、私たちが選んだのは日本橋川と神田川を一回りするコース。日本橋川をさかのぼり、三崎橋で神田川へ、それより神田川をくだり柳橋から隅田川へ、さらに日本橋川の河口へ向い、これをさかのぼり出発点の日本橋へもどる、というものだった。所要時間は約80分。

 思い起こせば、長谷川堯の『都市回廊—あるいは建築の中世主義』を面白いからぜひ読んでください、と薦めてくれたのもたしか柏木君である。私の3年後輩になるが、早稲田の写真部には珍しい博学の怪人である。『昭和二十年東京地図』(『東京ラビリンス』)の取材を始める直前だった。『都市回廊』は、建築の知識に疎い私には、どこか馬の耳に念仏の感があった。しかし、分からないながらも、目を覚まされるような考察が随所に散りばめられていた。次に引用する文章もその一つである。

 妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通りぬける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定したのではないか、という点に思いあたるのだ。

 「妻木」は妻木頼黄で、辰野金吾とならぶ明治建築界の巨匠である。「この橋」は日本橋のこと。現在の日本橋の橋梁は1911(明治44)年に竣工した。その総合的なデザインを手がけたのが妻木頼黄であった。

 橋は水路と陸路の交錯する所に架かる。橋は陸路の端と端を結ぶと同時に、水路を陸路に連結する。陸路が流通の主流になるのは明治以降である。それまでは海や川あるいは湖などに開かれた水路が交通の主流を占めた。日本橋に白亜のアーチ橋がかけ替えられたころは、江戸時代からの魚河岸がまだ健在だった。また、江戸橋から鎧橋・茅場橋にいたる川沿いには、諸国からのまたは諸国への物資を取り扱う多くの倉庫がならんでいた。諸国の範囲は日本六十六カ国ばかりではなく、西欧の先進国をはじめとする国際社会も含まれた。

 パリの凱旋門はシャン・ゼリゼの大通りの端に位置するエトワール広場にある。妻木頼黄はこの凱旋門に日本橋を見立てたのではないか、と長谷川堯はみている。日本橋は五街道の起点である。常識的に考えれば、中央通り(通り町筋)がパリのシャン・ゼリゼに相当する。しかし、妻木は陸路の中央通りではなく、日本橋川に水上のシャン・ゼリゼを幻視した。そして川面からの視座による橋梁の総合的な意匠を密かに構想した、というように長谷川堯は解析しているのである。

 私の家は父親も祖父も船乗りだった。中学のころは、私も船乗りになるつもりでいた。高校へ進学してもいいといわれたので、水産高校の機関科を受験することを考えたが、父親から止めたほうがいいと反対された。海の仕事は斜陽産業でこれから先は見通しが暗い。船乗りは留守が多いから嫁の来手も少ない。それが理由だった。父親は東京港でタグボートの船長をしていた。1960(昭和35)年ごろの話である。

 宮本常一が1960年代の山口県柳井市の街並みに言及した印象深い記述がある(註5 )。柳井は宮本の郷里である周防大島の本州側の対岸に位置する港町である。町内を柳井川が流れ、その河口に古くから美しい街並みが形成されていた。

 この川(柳井川)は満潮時になると海水がさしてくる。町屋は川の上に張り出してたてられたものもあり、ここでは家がまだ川を背にしていない。家が川に向いあっているところでは川はきれいである。そういうところでは川へゴミをすてない。ところが家々が川を背にすると、容赦なくゴミを川に捨てはじめる。ここ1年あまり私はこの町をおとずれていない。いまも川が美しいだろうかと思ってみる。町は表通りが厚化粧をしはじめると裏側はたいていよごれて来るものである。そして昔みたような清潔な感じがきえる。

 街並みの背景には、そこに住む人間の暮らしと生活がある。海や川が生き生きと機能していれば、必然的に建物もそれに向けて表情を整えるようになる。宮本常一は生涯を民俗学の旅に費やしたことで知られるが、旅の途中でこれはと感じるものがあれば、努めて写真に撮るようにしていた。10万カットに及ぶ写真の被写体は実に様々である。しかし、海であれ山であれ、水辺の景観となると尋常ではないこだわりを示した。柳井は東京と比べれば規模の小さな町であるが、宮本常一のこの指摘は消失した日本橋川に沿った街並みにも通じているように思われる。

 連載その5で『1960年代の東京』について書いている。著者の池田信は無名のアマチュア写真家である。本業は東京都の職員で、日比谷図書館の資料課長を務めていた。東京オリンピックを3年後に控えた1961(昭和36)年、休日になると決まったように東京の町中をひたすら歩いて写真に記録することを始めた。

 池田の没後、遺族から毎日新聞社に寄贈された撮影フィルムおよそ200本をそっくり見せてもらった。フィルムをたどると、池田が都心の川という川を隈なく歩き、橋という橋を漏らさず撮ろうとしていたことが分かった。日本橋川では首都高の建設工事が始まっているのだが、池田は河口の豊海橋から神田川の分岐点三崎橋までのほぼすべての橋と周りの景観を写真に収めていた。そればかりか、日本橋川の支流である箱崎川・亀島川・楓川・築地川・桜川(八丁堀)・京橋川・汐留川・浜町川などにも足を延ばしている。亀島川を除いた支流のすべてが埋め立てられてしまい現在は存在しない。

 この写真集は、写真選びから写真キャプションさらにページ構成まで、私一人で編集した。副題を「都電が走る水の都の記憶」にしているが、これは池田の写真から長谷川堯の『都市廻廊』を直ちに連想したからである。長谷川によれば、幕末に来日したA・アンベールは江戸の都市構造を水の都ベニスの憧憬と比較しながら論じている。近世における江戸の街並みは東洋のベニスとも称すべき水辺の都市空間に映ったのである。(以下略)