2023年9月15日
平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき 27 横浜―釣鐘状入海の現在―
(抜粋) 奇数月の14日更新
文・写真 平嶋彰彦
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496882.html
JR総武線で東京から千葉方面に向かうと、小岩駅の次が市川駅である。途中、江戸川を渡る。川が県境になっていて、渡ると千葉県である。市川市には国府台の地名がある。古代における下総国府の所在地とされる。京成本線に市川真間駅があり、その北側一帯の地名を真間という。そこが『万葉集』で詠われる真間の手児奈(ままのてこな)の伝承地である。
江戸川(利根川)は、真間から南東方向に約4キロ下ったところで、江戸川本流と旧江戸川に分岐する。旧江戸川はそれよりさらに南西方向に蛇行しながら流れて、約10キロ先で東京湾に注いでいる。この旧江戸川の左岸に開かれたのが行徳である。

行徳については連載その16で書いている。ご覧になっていただきたい。行徳は昨年9月にも大学写真部時代の友人たちと訪れた。街歩きをした後の懇親会で、古代下総の文化的中心だったといわれる市川真間のあたりをいつか歩いてみようということになった。忘れかけた宿題をはたしたのは今年の6月27日。
この日はJR市川駅で集合したあと、駅西側にある40階建ビルの展望台から市街を俯瞰した。眼下に江戸川が滔々と流れるさまに思わずおおっと息を呑む。北東方向を眺めると、鉄橋が3本。JR総武線、国道14号そして京成本線である。対岸の円形の模様はアマチュア野球のグラウンドらしい。
江戸川を眺めているうちに、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』で、犬塚信乃と犬飼見八(現八)が決闘をするくだりを思い出した。場所は滸我(現在の茨木県古河市)の芳流閣。古河には足利成氏(古河公方)が拠点とした平山城があった。芳流閣は馬琴の虚構と思われるが、利根川(江戸川)河畔に築かれた3層構造の物見櫓である。
信乃と見八の犬士2人は組み合ったまま、屋根から利根川に繋がれた小舟に転落。小舟は2人を乗せたまま、川の流れに任せて下り、行徳に漂着したところを、地元で旅店(はたご)を営む文五兵衛なる町人に発見された。
古河から行徳まではおよそ70キロの距離である。信乃と見八の漂流のくだりは、室町時代に船便による水上交通が、行徳と古河の間に発達していたばかりでなく、行徳が利根川河口の要衝であった歴史を馬琴が承知していたことを物語る。ちなみに1373(応安6)年というから、『南総里見八犬伝』の時代より100年ほど前になるが、利根川の流路に沿って散在した香取神社(下総一宮)の川関の1つが、行徳の河畔にも設置されていたとのことである。
古河から行徳までの途中に五霞町(茨木県猿島郡)と野田市(千葉県野田市)がある。五霞町は古河から10キロほど下った利根川の右岸にある。街歩きのメンバーの1人伊勢淳二君はこの町の住人である。利根川は五霞町の東南で江戸川と分岐する。五霞町の隣が野田市である。市域は東西を利根川と江戸川に挟まれ、南北が裾拡がりに細長い。その南端に利根川と江戸川を繋ぐ運河がある。これは近代になってから開削された。
野田には多久彰紀君が住んでいる。かれもまた街歩きのメンバーである。2013年11月と翌年4月に彼の案内で、野田の街歩きをすることがあった。2度目のときは花見の季節だったので、幸手市の権現堂堤まで足を延ばした。権現堂川は利根川の支流である。堤防の桜並木は関東屈指の桜の名所として名高い。街歩きの後、伊勢君から五霞町の自宅に招かれ、ご馳走になった思い出もなつかしい。
野田の醤油生産は戦国時代に遡るとのことだが、地回りの醤油産地を意識した本格的な生産体制が確立するのは、安永(1772~81)の頃だとされる。享保年間(1716~36)というと、江戸に幕府が開かれて100年が過ぎているが、江戸市中で消費される醤油の4分の3は関西産のいわゆる下り醤油だったという。流通の観点からいえば、生産地は消費地に近い方が望ましい。そこで下り醤油に代わる地回りの醤油産地が求められた。
幸いなことに、野田は利根川にも江戸川にも面していた。寛永年間(1624~44)に利根川の河川改修工事があり、それを契機に、双方の川筋には水運の拠点が形成されていた。船で醤油を運ぶなら行徳まではいくらも時間がかからない。地回りの醤油生産地としては、利根川河口の銚子が野田に先行して発展していた。しかし、幕末のころになると、野田が生産高で銚子を凌ぐようになった。その理由は、江戸に近いのみならず、江戸川の水運を利用できたことにあったという。(以下略)。
2023年9月11日
橋場義之著『ジャーナリズムのココロとワザ』読後の雑観

橋場義之著『ジャーナリズムのココロとワザ』(創論社)を読んだ。毎友会HP新刊紹介で知って、近くの区立図書館にリクエスト、購入してくれた。
東京新聞の紙面審査報のコラム約150本を一冊にまとめたとある。2002年4月に55歳で上智大学新聞学科教授、その2年目の03年から22年12月まで、40日に1度、1200字を20年分である。
橋場さんは、毎日新聞で紙面審査委員をしていて、「同じ社内で働いている仲間の仕事が対象で、審査する上では礼儀は当然ながらやはり遠慮や配慮、忖度が多少なりともないわけでない」とその難しさを、あとがきで述べている。
◇
東京新聞といえば「こちら特報部」である。脚注に《1968年3月から毎日掲載している2㌻のワイド紙面。「ニュースの追跡・話題の発掘」をテーマに時の話題の深層や展望を取材する独自色の強い紙面。毎年4月1日「エイプリルフール」には架空のニュースも掲載》とある。
もう55年も続いているのだ。
2017年6月26日「闘う記者会見」では、「本紙社会部の女性記者が執拗果敢に食い下がった」。菅義偉官房長官(当時)の定例記者会見である。
「質問にまともに答えようとしない相手にひるまず、引き下がらなかった対応は、記者として当然の姿勢といえよう」と評価。「むしろ、その場にいた他社の多くが、応援の声もあげずにひたすらパソコンに向かってやりとりを記録していたのは情けない限りだ」。
◇
橋場さんが毎日新聞に入社した翌1972年、西山事件が起きた。
《「これは言論の自由、報道の自由の問題だ。わが社は断固として闘うから、心配・動揺しなくていい」。毎日新聞東京本社会議室で、編集幹部のこんな勇ましい言葉を、興奮を覚えながら聞いたのを鮮明に覚えている。…「外務省機密漏洩事件」。1週間も経たないうちに幹部の言葉に力がなくなってきた。起訴状にあの「情を通じ」という記載が盛り込まれていたからだ。「外務省機密漏洩事件」は、いつしか「西山事件」になったしまった》
毎日新聞関連でもうひとつ。「海外の新聞と比べると、どこも同じようで個性が感じられない」。訃報の扱いである。「ネット時代の新聞の存在感を高めるためにも、編集局の仕組みと紙面の工夫を望みたい」
整理部OB諸岡達一さん(87歳)は著書『死亡記事を読む』(新潮新書)で「全世界的、ボーダレスに、グローバル・スタンダードに、死去した人物のニュース価値を判断して、紙面に掲載するべきである」として、「死亡記事部」の設置を提唱している、と紹介している。
諸岡さんは「死亡記事のページをつくるべき」と「新聞研究」1988年8月号に書いている。
◇
あとがきの最後に「移住した宮崎の海と空を愛でながら」。Zoomの顔写真の背景は、穏やかな青い海と空である。羨ましい!
(堤 哲)
2023年9月5日
社会部OB茂木和行さんのネット通信に、校條諭さんのAI時代のメディア論
校條諭さんといえば、この毎友会HPに転載されている「佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み」のインタビュアーだが、社会部OB茂木和行さんが編集責任者の「教育改革通信301号」9月号に、「生成 AI が予感させる新しいメディアの世界」を寄稿している。興味深い内容です。ご参考までに。
生成 AI が予感させる新しいメディアの世界 校條諭

◇プラットフォームの“毒饅頭”
1995 年はプロバイダーの登場によって、一般の人がインターネットを利用できるようになった年で、インターネット元年と呼ばれています。その年、日本の三大新聞は、いち早く記事の一部をネットで発信し始めました。朝日の「オープンドアーズ」と「アサヒコム」、 読売の「YOMIURI ONLINE」、毎日の「JamJam」(翌年 AULOS)です。
そして、翌 1996 年、Yahoo!ニュースが始まり、三大紙や地方紙は順次 Yahoo!向けに記事を配信するようになりました。当時の新聞社の判断について“毒饅頭”を食ったと言われることがあります。新聞社が Yahoo! の“下請け”になる道を開いたという意味です。まだ 紙の新聞 が激減するというような危機感がなかったこともあり、新しいメディアにコミットしておこうというくらいの軽い気持ちで記事を提供しはじめたと言われています。
ただ、多くの新聞社の動きを横目に、日本経済新聞だけは、いまだに Yahoo!に記事を配信していません。 日経電子版は有料デジタルの購読数約 87 万(2023年 7 月)でトップに立っています。(ただし、この数年伸び悩んでいますが、2 位の朝日新聞デジタルの有料購読数約 30 万を依然引き離しています。)
◇ニュースメディアに接近するプラットフォーム
昨今、特に海外で、ニュースのパブリッシャー(新 聞社、通信社、放送局、ネット専業ニュースメディア、 フリージャーナリストなど)とプラットフォームとの 間の緊張関係が高まっています。オーストラリアや EU、そして最近ではカナダが Google などプラットフォー ム企業に、ニュース記事を適正な価格で買うよう政府が圧力をかけています。それに対して、Google とメタ(旧 Facebook)はニュース配信を止めると表明するなど綱引きが続いています。
◇ChatGPT 登場、急普及
ところで、そうした折、2022 年 11 月に、オープン AI 社のAI サービス ChatGPT が公開されました。これは、「〇〇について教えて」と尋ねると、たちどころに わかりやすい文章で回答してくれるというので、またたく間に全世界で使われるようになりました。これまで Facebook やツイッターなどが登場したときと比べて桁違いに早いスピードで登録ユーザーが増加して います。
ChatGPT についての解説や使い方などの本・雑誌が 次々に発行され、ChatGPT 狂騒曲とでもいうような状 況が続いています。Google なども対抗製品を発表、AI の急速な発展、変化に、多くの国で期待と不安が高まっています。ChatGPT の GPT というのは、Generative Pre-trained Transformer の略で、生成的な、事前学習された、深層学習モデルというのが直接の意味です。 現在 GPT4 というバージョンまでできています。
これはチャット(対話)による問いかけに対して、 自然な文章で応答するサービスです。対話ができ、読 みやすい文章で回答できるのは、大規模言語モデル(LLM)という原理によっています。かつての第1次(1950~60 年代)、第2次(1980 年代)の AI ブームのときは、コンピューターに論理モデルを組み込もうとしたり、特定の分野の専門家の知識を覚えさせようと しました。そのタイプの AI も将棋の例を思い出すま でもなく、以前からいろんな場面で使われています。それに対して、GPT の場合は、論理でなく、気の遠 くなるような量の既成の文章を読み込ませて、たとえ ば「雨が」と来れば、次は「降る」になる、あるいは 「やむ」になるといった確率がどのくらいかという統 計をとって、大規模言語モデルとしてストックしているわけです。さらに、文章で質問をされたときに、ど う回答するかという学習を加えて ChatGPT ができあがりました。もともと組み込んである論理に当てはめて 答えるのでなく、問いに従って“もっともらしい”文 章の回答を「生成」する AI です。
ベースは大量のテキストの 深層学習 によっていますが、プロンプト(問いかけ、指示)の記述によって、画像を生成させたり、エクセルでは手に余るようなデータ処理やグラフ表示ができたりします。
◇プラットフォームが抱いた危機感
この ChatGPT の急速な発展、普及ぶりを見て、Google のような検索エンジンを提供しているプラットフォーム企業が危機感を覚えています。つまり、ChatGPT に知りたいことを尋ねれば、Google の検索ページを開か なくてもすんでしまう可能性があるからです。たとえ ば、「初めて京都に行くので、主な名所を3 日間で回る 計画を立てて」と頼めば、1 日目どこどこ、2 日目どこどこというように案を示してくれます。
ChatGPT は、つじつまの合う文章で答えますが、実 際には事実に合った正しい答えを するとは限りませ ん。伊藤譲一さん(元 MIT メディアラボ所長)は、ChatGPT は「ったかぶりの友人」と思えと発言しています。それに対して、マイクロソフトの検索エンジン Bing(ビング)は ChatGPTと連携して BingChat と いうサービスをを提供しはじめています。ChatGPT と 同じように文章で問いを投げかけると、Bing で検索結 果を示すというものです。対話型の AI と検索エンジンの強みを合体させる意図で作られていますが、筆者はまだ未成熟の印象を持ちました。
◇プラットフォームがメディアに接近
以上のような動向の中で、プラットフォーム企業が パブリッシャー(メディア)に接近しつつあります。ChatGPTを提供している OpenAI 社は、世界的通信社のAP通信と提携しました。AP の持つテキストベース の記事を、OpenAIが大規模言語モデルの学習のために使えるようライセンス供与するとのことです。AP は、引き換えに OpenAI の専門知識と技術を利用できるこ とになります。この動きの背景に、OpenAIや他の生成 AI 企業が、インターネット上の文章データを、作成者 の許諾無く勝手に利用していると 批判されていることがあります。実際、ニュースメディアの記事を勝手に学習させないよう規制する必要 があるとの声も高まっています。
また、Google はニューヨーク・タイムズなどの有力 報道機関に対して、AIを使ってニュース記事を作成する製品を売り込んでいます。しかし、その能力については、まだ疑問が残るとの声もメディア側から上がっています。これらの動きは、いずれも複数のメディア が 2023 年 7~8 月に報道したもので、今後まだ、思いもよらない事が起きるかしれません。なお、日本の Yahoo! は今のところ表だった動きを見せていません。
◇記事づくりの助っ人
『チャット GPT vs.人類』(文春新書)の著者平和博さん(元朝日新聞記者、桜美林大教授)は、ChatGPT は、いわばインターンだと思って活用したらよいと言っています。適切な使い方さえすれば、取材準備から記 事作成までのプロセスの各所において、優秀な“インターン”としておおいに役立つことでしょう。記者が 取材において収録した音声の文字起こしをすることは、専用ソフトの進歩により、かなりうまくできるようになりました。そのテキストファイルを、 ChatGPT に読み込ませると、話のまとまりごとに分割 するとか、そのそれぞれに見出しをつける、要約をつ くるといったことがすぐにできます。複数の取材情報 を 1 本のレポートに集約するようなこともさせられま す。その場合、取材が現場で対面で行われたのなら、 そこで得た実感ないしニュアンスをもとに、AI のアウ トプットに修正の手を入れることもできるでしょう。筆者が実際に ChatGPT を利用してみてわかったので すが、要約もさることながら、子ども向けにやさしく 書き直し てほしいという要求にかなりうまく答えてくれました。読者からのたくさんのコメントの整理 にも使えそうです。Yahoo!ニュースを見ると、ニュースによっては膨大なコメントがついていて、ほとんど見る気もし ないということがしばしばあります。まっとうなコメントも、多数のゴミのようなコメントの中に埋もれてしまっています。そんなこともあって、Yahoo!にニュ ースを配信している新聞社の自社サイトでは、通常、読者が記事にコメントできるようにはしていません。 しかし、AI を使えば、“まっとうな”コメントを自動 的に選び出して、趣旨別に分類したり、キーワードを 抽出したりすることができるでしょう。せっかくのデジタルな のに実はむずかしかった 双方向のニュース メディアが実現しやすくなります。ですから、たとえば前記の「みえない交差点」のところで、「コタツ記事」という言い方があります。 取材などせず、よそのサイトからの切り貼りで、人目 を引くテーマの記事(たとえば健康法など)を作ってアクセス数をかせぐ、広告収入ねらいの記事のことです。懸念されるのは、ChatGPT を使えば、そんなコタツ記事を膨大に作り出すことができるという点です。コタツ記事のライターではない、記者の「命」は、今後いくら技術が発展しようが、現場に出かけていって、取材対象に身体的に向き合うところにあるでしょう。この身体性や現場性というのが AI にはできない、 記者の最後の砦だと思います。
◇データジャーナリズム
昨今、調査報道の分野では、データジャーナリズム という取り組みが目立ちます。このほど調査報道大賞 (報道実務家フォーラムとスローニュースが主催)で 部門賞を取った朝日新聞の「みえない交差点」はまさ にその例です。警察庁が公開している交通事故に関するデータの通常使われてない部分をさぐって、新しい 事実を発見したものです。
また、軍部独裁の国における抗議運動の参加者の死が、軍の発砲によるものだという事実を、ベリングキ ャットという国際的なグループが、ニュースや SNS にアップされている映像の断片をつき合わせて解明しました。これも一種のデータジャーナリズムと言えま しょう。
この類いは、特に OSINT(オシント、Open Source Intelligent)と呼ばれています。これらのデータジャーナリズムにおいて、AI が役割 を発揮する余地はおおいにあると言えます。その際、 AI を活用したニセ映像なども今後増える一方と思われますが、そうした困難を乗り越える努力が続けられています。
◇ストックのフロー化
本誌 283 号で、私は、紙の新聞を平面とすると新聞のデジタル版は立体であると言い ました。立体であるがゆえに、量的、時間的、機能 的な制約から解き放たれすますすぐれた記者になり、深く考える読者はますますそういう読者になるということです。そんな記者と 読者が出会い、対話ができるメディアをつくっていきたいものです。
2023年9月1日
「やさしい日本語」を世界へー元論説副委員長、石原進さんが提案

ご存知のように新聞各紙の購読者が右肩下がりで減少しています。日本新聞協会の2022年の集計によれば、協会加盟社の新聞の発行部数はトータルで3082万部です。20年前に比べると2300万部も減っています。
新聞のニュースは、インターネットを通じて日々、発信されています。紙の新聞は減っても新聞自体の媒体力はそれほど落ちていない。そんな見方があるかもしれません。とはいえ、紙の新聞の激減ぶりは目を覆いたくなるほどです。当然のことですが、毎日新聞をはじめ新聞社の経営環境は厳しさを増しています。
日本の新聞には政治、経済、社会の動きの他、スポーツ、文化、芸術、教育、生活、医療、科学など様々な分野の情報が盛り込まれています。新聞が日本の文化向上、日本人の教養を高めることに大きく貢献してきた、という評価もあります。それは一つの日本の文化であり、ソフトパワーであるということができるかもしれません。漫画やアニメが世界的に人気を集めていますが、質の高い「新聞文化」を日本の魅力の一つとして発信できないでしょうか。
問題は「言葉の壁」です。ネットで情報を発信しても、その内容が理解されなければ、意味がありません。当然の疑問でしょう。その問題を解決するには二つの方法があると思います。一つはAIによる多言語翻訳です。もう一つは「やさしい日本語」を海外で普及させること。シンプル・ジャパニーズを通じて「日本語人口」を増やすわけです。
まず、AIによる多言語翻訳です。グーグル翻訳ではまだ十分な対応がない中、総務省の情報通信研究機構(NICT)が研究を進めており、かなり精度の高い多言語翻訳の技術が開発されています。すでに民間会社が外国人観光客との自動通訳の装置「ポケトーク」を販売しています。2025年の大阪・関西万博の目玉事業の一つとしてAIによる国際会議の同時通訳が計画されています。AIによる翻訳技術がさらに進歩すれば、日本語の新聞の多言語化は決して夢ではありません。
一方、「やさしい日本語」は、1995年の阪神大震災を機に市民グループが活用を呼びかけで始まりました。在日外国人への情報伝達が遅れたことで被害が広がり、その反省から生まれたものです。「やさしい日本語」なら理解できる在日外国人が多いことが研究者の調査で分かっています。英語より「やさしい日本語」の方が外国人とのコミュニケーションがとりやすいのです。最近では消防庁が在日外国人向けの「防災のためのやさしい日本語」の必要性を訴えています。
私は2007年に55歳で毎日新聞社を退社しました。社会部や政治部記者として在日コリアンや日系ブラジル人の取材を意識的にしてきました。そこで毎日新聞を退社後は「移民情報機構」という会社をつくり、外国人に関する情報誌を発刊するなどしてきました。さらに政治記者の経験を生かして実践したのが政治家へのロビー活動です。詳しくは述べませんが、成功例を紹介すれば、2019年に成立した日本語教育推進法です。日本語教育に関する法整備がないことを与野党の政治家に伝え、超党派の日本語教育推進議員連盟を発足させました。議員連盟が議員立法で推進法を誕生させたわけです。
議員連盟の活動を後押しするため、仲間3人とインターネットサイト「にほんごぷらっと」を開設しました。サイトに日本語教育関連の記事を掲載する中で、「やさしい日本語」の「効能」に気づきました。「やさしい日本語」は、はっきり言う(は)、最後まで言う(さ)、短く言う(み)の「はさみの法則」が基本です。さらに「にほんごぷらっと」は、「やさしい日本語」のすそ野をひろげるため、やさしい日本語の「教師養成講座」も開いています。
海外に日本語の学習者はどれくらいいるのか。公益財団法人・国際交流基金によると、外国の教育機関で日本語教教育を受講しているのは385万人にのぼります。これは大学の日本語学科などに在籍している人数です。過去に日本語を勉強した経験を持つ人や、独学した人を含めるともっと多いはずです。
かつて電通などが漢字圏の台湾、韓国、香港で「日本語を勉強したことがある人」をウエブ調査したところ、国際交流基金の「日本語学習者数」の10倍の800万人もいました。あくまで個人的な推測ですが、「やさしい日本語」ならわかる「日本語人口」が世界に2000~3000万人、いやそれ以上いるかもしれません。
世界で最も普及している言語は英語です。英米など英語圏の国はその恩恵を様々な形で受けています。中国は「孔子学院」、韓国は「世宗(セジョン)学堂」という教育機関を海外に設置しています。これらの教育機関は日本にもあります。隣国政府が持っているグルーバルな問題意識を日本政府は持ち合わせていません。
政府云々はともかく、日本語の新聞情報を世界に発信できないかどうか。「やさしい日本語」に関しては、西日本新聞がサイトで「やさしい西日本新聞」を始めています。通常の記事をAIで「やさしい日本語」に翻訳していると聞きました。NHKの「NEWS WEB」のサイトはルビ付きの「やさしい日本語」の記事を掲載しています。
いずれも在日外国人の存在を念頭に置いた取り組みですが、ネット情報は海を越え、海外の「日本語人口」にも届くかもしれません。そうなれば日本の新聞が海外に「輸出」される日がくることも夢ではないかも知れません。
(元論説副委員長 石原 進)
「にほんごぷらっと」は https://www.nihongoplat.org/
石原進(いしはら・すすむ)さんは 1951年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学文学部卒。74年毎日新聞入社。大阪本社社会部、政治部、論説室など。政治記者、論説委員時代は主に安全保障を担当。人口減少時代の外国人受け入れに関心を持ち、2007年に毎日新聞を早期退社して株式会社移民情報機構を設立し、「多文化情報誌・イミグランツ」刊行。日本語学校向けの情報誌編集長を経て日本語教育情報プラットフォームを設立し、ネットメディア「にほんごぷらっと」編集長。和歌山放送顧問、在日ミャンマー人のNPO法人PEACE日本語教育運営委員、外国人留学生支援のNPO法人エルエスエイチアジア獎学会理事。3期9年防衛省防衛施設中央審議会委員を務める。
2023年8月18日
幣原内閣の「憲法草案スクープ」―ナベツネさんのNHK「独占告白」で思い出す特ダネ記者

「NHK」BS1スペシャル「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 昭和編・平成編」の再放送を見た。この場面は、毎日新聞政治部の西山柳造、西谷市次両記者が、犬猿の仲といわれた日本民主党三木武吉、自由党大野伴睦の両総務会長を会わせたことが、保守合同→自民党結成、55年体制につながったことを、ナベツネさんが証言したところだ。
NHKは、このフィルムを何回も再放送している。
渡辺恒雄さんは、1926年生まれだから、ことし97歳になる。いまなお読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆である。
毎日新聞の西山柳造さんは、ナベツネさんより10歳年上で、特ダネ記者だった。42年入社。「1年で47本の特ダネを書いた」と社史で紹介されたほどだが、「新聞記者の本懐であり、生涯の誇りである」と本人が語るのが「憲法草案スクープ」(1946(昭和21)年2月1日1面トップ記事)である。
このスクープのことを政治部山田孝男記者(人気コラム「風知草」の筆者)が「追跡20世紀 特ダネで動いた戦後史」(2000年3月20日付)で書いている。以下はその引用――。
《「憲法草案スクープ」といっても、現行憲法の草案を特報したわけではない。幣原内閣の「憲法問題調査委員会」(松本烝治委員長)がまとめた案をスッパ抜いたのである。それが天皇の統治権にこだわった非常に保守的な内容だったために、連合国軍総司令部(GHQ)が本格的な干渉に乗り出した。
GHQはスクープ直後から10日間で「象徴天皇」と「戦争放棄」を骨格とするモデル草案を作成し、日本政府に受け入れさせた。現行憲法が「米国の押しつけ」といわれるゆえんだが、GHQと天皇や日本政府との交渉過程では、むしろ日本側が「国民主権」や「戦争放棄」に進んで共感を示したと解釈できる資料があり、それらが「押しつけ」否定派の論拠になっている》
草案の入手先については、《「首相官邸1階にあった松本委員会の事務局に協力者がおり、極秘に草案を借りだした」のであり、「当時、有楽町にあった毎日新聞東京本社に草案を持ち込み、デスク以下で手分けして書き写したうえ、2時間後に元に戻した」と証言した》
もうひとつ。「天皇会見のパイオニアは西山さんだった」と山田記者は書いている。
《46年2月18日、AP通信社長ら米国のジャーナリスト3人が天皇と会見した。当時、宮内記者会で唯一の政治部記者だった西山さんは「外国の記者は会えて日本の記者は会えないのか」と猛烈に運動し、記者クラブ員の「謁見(えっけん)」が初めて実現した。宮内省(当時)の門外に記者たちがズラリと並び、天皇が帽子をとって一人ひとりの紹介とあいさつを受けたという》
西山柳造さんは2005年没89歳。71年入社西山猛さん(政治部、北海道支社長)はその息子。
西谷市次さんは81年没67歳。敗戦前に2年ほどマニラ新聞に出向、戦後政治部記者となった。
(堤 哲)
※山田孝男さんの記事は、「21世紀への伝言 記者たちのメモワール」のタイトルで、先輩記者を現役記者が取材する手法で毎週1回、連載した企画記事の1回です。1年半にわたる連載は『20世紀事件史 歴史の現場』と改題して毎日新聞社から出版され、この記事はその48ページ以下に掲載されています。
2023年8月7日
芥川龍之介と菊池寛が「大毎」社員となった、104年前のこと
作家芥川龍之介と菊池寛が大阪毎日新聞に入社したときの社告が「大毎」1面に載っている。1919(大正8)年3月21日付、104年前である。
門井慶喜著『文豪、社長になる』(文藝春秋刊)によると、当時大毎の学芸部長だった薄田淳介(泣菫)が芥川を誘い、芥川が菊池に「君も来ないか」と持ちかけた。菊池寛は「時事新報」の社会部記者をしていた。
芥川龍之介28歳、菊池寛32歳。2人は4歳違いだが、菊池寛が一高入学までに回り道をして、芥川と同級生となった。
1916(大正5)年2月「新思潮」を久米正雄ら5人で創刊。芥川の「鼻」が夏目漱石に激賞された。


「大毎」入社といっても2人とも東京に住んでいて、出社の義務はない。芥川は24(大正13)年1月まで、菊池は同年8月まで在籍した。5年ほどである。
社史『「毎日」の3世紀』によると、芥川は1917(大正8)年から大毎に連載小説を書いている。「地獄変」「邪宗門」などだ。
菊池寛の大毎連載小説第1号は、入社した翌4月3日から夕刊に連載の「藤十郎の恋」。翌20(大正9)年9月から朝刊で始めた「真珠夫人」が大ヒットする。「歯切れのよい文章と筋の運びで一躍その人気を挙げた」(『毎日新聞七十年』)。連載中に単行本「真珠夫人」前半が刊行され、舞台でも上演された。
堂島に新社屋が完成したのが22(大正11)年3月。その記念で「サンデー毎日」「英文大阪毎日」「点字毎日」が創刊される。「大毎」に勢いがあった。
菊池寛は、23(大正12)年1月、雑誌「文藝春秋」を創刊する。芥川龍之介「侏儒の言葉」が巻頭を飾り、川端康成、横光利一、今東光らとともに直木三十五も寄稿している。筆名が直木三十二。32歳の時の筆名で、「三十一」「三十二」「三十三」から「三十四」を飛ばして「三十五」で落ち着いたという。
35(昭和10)年に自殺した芥川龍之介(27年没35歳)と直木三十五(34年没43歳)の2人を記念して「芥川賞」「直木賞」を制定した。
その前年の34(昭和9)年3月、菊池は、東京日日新聞学芸部長阿部真之助の招きで学芸部顧問となっている。

戦時中は、内閣情報部の要請により漢口攻略戦へ派遣された「ペン部隊」に参加、42年には「日本文学報国会」を設立している。
戦後、1947(昭和22)年戦時中の軍部への協力により公職を追放。翌48(昭和23)年狭心症により急死した。59歳だった。
『文豪、社長になる』は、「文藝春秋」創刊100年を記念して、同社から執筆を要請された、と筆者の門井慶喜さんが話している。
同書に、文芸評論家小林秀雄(1983年没80歳)が1938(昭和13)年3月「文藝春秋」特派員として中国に渡り、杭州で火野葦平に第6回芥川賞を渡すことが書かれているが、菊池寛と小林秀雄のことは、この毎友会HP随筆欄2021年9月7日に、森正蔵日記から息子の森桂さん(82歳)が、顔写真=右=付きで紹介している。
(堤 哲)
2023年8月4日
『「ロマン」こそ我が人生―田場武勝 回想・追悼集』発行

昨年9月26日、81歳で亡くなった元印刷局次長・田場武勝さんの回想・追悼集が完成した。編集しながら感じたことを紹介しておきたい。
田場さんが亡くなってしばらく経ったとき、毎日整備産業の従業員だったみなさんから、PEC社長だった工藤茂雄さんに、「田場さんを偲ぶ会はいつ開催するのですか」と、何度も問い合わせがあったという。思いあまった工藤さんから相談を受けて、亀山久雄さん夫妻が経営している「余白」にお願いしたところ、12月17日が空いているというので、開催することができた。この偲ぶ会の模様は、2022年12月19日付「集まりました」で紹介した。
この席で、追悼集発行を呼びかけたところ、妻・登志子さんからは「夫との闘病生活7年間を振り返って」、長女・明子さん、長男・昌史さん。次女・朋子さんの3人からは「父との思い出」が寄せられた。この内容に感動した。家族からの思い出は、お礼をこめて巻末に掲載されることが多いが、文句なしにトップにした。
かつて田場さんから3人の子どもの名前の由来を聞いたことがある。「長女は日と月で明子、長男は日が二つで昌史、次女は月二つで朋子としたんだ」と。田場さんは「太陽と月」へのロマンを子どもたちに受け継がせたかったのかも知れない。
田場さんの妻・登志子さんにお贈りしたところ、「子どもたちの文章を読むと、私は気付かなかったけれど、夫は家庭でも扇子の要のような存在だったと思います」と、田場さんとの日々を回想した。
みなさんの回想・追悼文は、田場さんの人生のすべてを見事に浮き彫りにしていると思う。そして、回想・追悼というより、田場さんから学んだことへの感謝の言葉となっている。
(福島 清)
2023年8月1日
福島清さんの「活版工時代あれこれ」最終回⑭活版部員の昭和史その2

「活版部員の昭和史」を読んで
◇平野勇夫さん(1990年1月20日)
寒中お見舞い申し上げます。世界の激動をよそに、いたっておだやかな日本の正月でしたが、お元気で新しい年を迎えられたことをお喜び申し上げます。
さて、先日はご労作の『活版部員の昭和史』をご恵贈くださり、まことにありかとうございました。小生ごとき者にまで気を配ってくださったことに、お礼を申し上げます。
思いがけないものを頂戴して、はからずも自分自身の「毎日時代」を想い起こすことにもなりました。これだけの分量のものですから、とでも一気に読み通すというわけにはまいりませんが、あちこちとベージをめくって大勢の方々の回想の言葉に接し、「昭和の毎日新聞」を支えてきた――そして、ついにCTSへとバトンタッチして、その輝かしい歴史を開じた――活版職場の今昔に思いをめぐらすうち、それがいつの間にか、みずからの過ぎし日々の思い出とも重なり合って、つい感慨にふけってしまうという次第です。
定年を迎えられた方々の回想文と先輩を偲ぶ追悼文を集大成するというのは、大変よいところに着眼されたと思います。なんといっても、人生の大半を捧げてきた職場を去るにあたっての一文には、それぞれの方々の、多年にわたる掛け替えのない体験に裏打ちされた感慨が込められているわけで、職場も歴史の流れのなかに身を置き、その歴史を創ってきた者だけに可能な、内側からの証言としての貴重な価値があると申すべきです。
個人的な思い出になりますが、社会部のデスクをしでいた当時は(1962〜67年ごろ)、朝刊や夕刊の番に就いていて版ごとの降版時刻が近づくと(とくに、最終版のときはかならず)3階の大組場に降りていって、編集者と大組者のやりとりを傍から見守ったものでした。出稿部のデスクにそこまでする義務はなかったのですが、自分の責任で出稿した原稿がどういう紙面に組み上がっていくのか、大刷りになるまえに見届けたいという気持ちが強かったのと、それにもまして、後版が迫った大組場にあふれるあの活気と緊張感が好きでたまらなかったからです。
取材記者育ちで整理部の経験のない小生が、大組場で最初に覚えなければならなかったのは、いちいち小刷りのゲラやヌレ紙を見なくても、チェースの中に収まっている活字の裏返しの文字を読めるようになることでした。そのうち、「あまい」とか「からい」とか「たたむ」などといつた言葉の意味もわかるようになって、たまたま編集者がまだ新米の整理部員だったりすると、「からいのだったら、そこじゃなくて、こっちの二行とここの一行を削ってほしいな」だとか。「ここに三つたたんじゃったほういい」などと口をはさんだりしたこともありました。
そんな注文にも、大組者のベテランは嫌な顔ひとつせず、実にテキバキと見車な腕を振るってくれたこととか、ひと悶着あって組み上ったあとで、大組者から「あんたなかなかやるじゃないか。整理部をやりなよ」などと冷やかし半分にほめられたことなど、いまもなつかしく思い出します。
その当時の社会面や都内版を担当してくださった大組者のみなさんも、いまはもう、すべて定年となられたに違いなく、この記録のどこかにその回想の一文があるはずだと思うものの。なにせ20年以上も昔のこと、お名前を知らずお顔もうろ覚えとあっては、捜しようもありません。
ともあれ、これだけのものをまとめるのは、大変なご苦労があったことと思います。心から敬意を表します。
ただ、無理な注文であることは十分に承知のうえ、さらに欲を言わせていただくなら、もし活版職場に荘籍された方々のナマの声を直接聞きだして取材することができるとすれば、もっとすばらしいことだろうという気がします。とりわけ、あの新社と旧社の分離当時に社を去られた方々のことを思います。それこそ、〝心ならずも〟の無念の思いだった方も少なくないことでしょう。あのときの社内の、またそれぞれの職場の〝せっば詰まった〟状況を、そして、そのなかで静かに社を去っていかれた多くの方々の姿を、いまも忘れることができません。
当時の取締役会の末席に身をおいていた者として、みずからの非力に対する悔恨の念は、いつまでも消えることがないでしょう。あれからもう10余年が経ってしまったいま、あのときに職場を去られた方々の本音を伺う機会があればと、ひそかに思う今日このごろです。
お手紙のなかにもありましたが、技術の進歩はたしかに素晴らしいことであるにせよ、その輝かしさに目を奪われて、元の職場で多年働いてきた人々の歴史と情熱を埋もれさせるようなことがあってはなりません。その意味でも、本当によい記録をまとめてくださいました。
とりあえず、お礼まで。どうぞ、くれぐれもご自愛のうえ、新しくスタートした制作部のためにも、ますますこ活躍あらんことを期待しております。
(「活版工時代あれこれ」=終わり)

右から、大住広人組織部長、志道良太委員長。山野井孝有書記長、大島幸夫教宣機関誌部長、福島清本部CTS対策委員長
2023年7月31日
「古関裕而氏の野球殿堂入りは、野球文化學會のお蔭」と池井優さん

野球を「歓喜の学問」にする。
野球好きの毎日新聞OB諸岡達一(87歳)鳥井守幸(91歳)原田三朗(2017年没82歳)らが1999年秋に立ち上げた「野球文化學會」。会員は100人ほどだが、野球好きぞろいである。その論叢集『ベースボーロジー』は、ことし発行分で第16号を数える。
2023年度総会が7月30日、東京ドームホテルで開かれ、現会長、鈴村裕輔・名城大学外国語学部准教授(47歳)らの進行で議事を終えたあと、懇親会の乾杯に登場したのが会員の池井優・慶應義塾名誉教授(88歳)だった。
「古関裕而さんがことし野球殿堂入りしたのは、野球文化學會『ベースボーロジー』のお蔭なのです」と地元紙の号外を掲げて、その事情を話した。
池井さんが古関裕而さんのことを書いた『ベースボーロジー』は2018年6月発行の第12号。特集「野球と音楽」—応援歌の果たす役割―の巻頭に
古関裕而と応援歌
——「紺碧の空」「六甲おろし」「栄冠は君に輝く」を中心に
という見出しで12㌻にわたった。
「紺碧の空」は、1927(昭和2)年につくられた慶應義塾の応援歌「若き血」に対抗してつくられた。31(昭和6)年の春のリーグ戦から歌われ、早稲田が早慶戦に勝利した。
《「紺碧の空」は早稲田にとって7番目の応援歌であったが、勝利と相まっていつまでも歌い継がれ、今では第一応援歌となっている》
古関さんは、慶應の「我ぞ覇者」(その4番は「よくぞ来たれり好敵早稲田」)、早稲田の「光る青雲」(「慶應を倒し意気あげて、この喜びを歌おうよ」)と、早慶両校の応援歌をつくり《その極め付きは「早慶讃歌—花の早慶戦」(藤浦洸作詞)である。神宮球場の早慶戦の試合開始前に両校学生が一緒に歌う。ライバル校が共通で歌う応援歌は他に例がない》。
阪神タイガースの歌「六甲おろし」、夏の甲子園で歌われる「栄冠は君に輝く」についても詳しく解説した。
池井教授の呼びかけで、古関さんの地元福島市は「古関裕而氏の野球殿堂入りを実現する会」をつくり、活動を展開した。2020年、古関さんがモデルのNHK連続テレビ小説「エール」が放送され、後押しとなった。野球殿堂入り候補者にノミネートされて5度目の挑戦で、殿堂入りを果たした。
池井さんは、こう説明したあと、声高らかにカンパ~イ!
会場では、元大洋ホエールズ投手ヒゲの齊藤明雄さん(68歳、明夫)と報知新聞記者・ベースボールアナリストの蛭間豊章さんとの対談もあった。
毎日新聞OBでは、『ベースボーロジー』に「『ベースボール傑作選』を読む」を連載している松崎仁紀さん(76歳)が出席した。
(堤 哲)
2023年7月27日
平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その26 横浜―釣鐘状入海の現在―
(抜粋) 奇数月の14日更新
文・写真 平嶋彰彦
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496878.html
今年になって大学写真部の旧友たちと3回にわたって横浜を歩いた。この街歩きの仲間については、連載23と24でも触れている。ご覧になっていただきたい。
3月は、近代建築の数多く残る横浜港に沿ったいわゆる関内地区。4月には、伊勢佐木町→横浜橋通商店街→三吉橋商店街→真金町→黄金町→日ノ出町→宮川町→野毛町。5月は、寿町→石川町(地蔵坂下)山手町→大芝台(中華義荘・地蔵王廟)。4月と5月に歩いたのは、いずれも関外地区ということになる。

ふだんの行き先は東京の都心が中心である。といっても、ときどきは東京を離れる。神奈川県の小田原や箱根、あるいは千葉県の野田や行徳を訪れたこともあった。横浜には近代の文化遺産ともされる名建築が数多く残されている。しかし、聞いてみると誰も彼もていねいに歩いたことはないらしい。では一度横浜に行ってみないか、ということになった。
街歩きのコースと下見は、いつものように、福田和久・宇野敏雄・柏木久育の3君である。自分1人のときは別だが、この仲間たちと歩くとき私自身は下調べをしない。資料にあたるのはいつも撮影の後である。下見がしっかりしていることもあるが、むしろ、出たとこ勝負で写真を撮ることの方が新鮮で面白いからである。
写真は記録である。記憶の拠り所になる。写真は突きつめれば、ある時ある場所で自分の見た何かである。デジタルカメラだから、撮影時間は自動的に記録される。撮影場所も記録させられる。しかし、地名がそのまま記録されるわけではない。そこで、パソコンのモニターで画像と地図を見比べながら、歩いた道筋をもう一度たどってみる。すると、撮影時には気づかなかった何かが見えてくる。街歩きのもう一つの魅力といえる。
横浜市の伊勢佐木町のあたりがその昔は入海だったことも、そんなふうにして知った。すると、メンバーの鈴木淑子さんから次のようなメールが届いた。
「横浜は釣鐘型の入り江になっていた場所を、江戸時代初期に埋め立てたようです。横浜では、吉田新田として、小学校の社会の教科書にも出てきます。先日歩いた所は、昔は海だったということですね !!」
鈴木さんの書いているように、入り江は釣り鐘状の形になっていて、これを干拓して耕地化したのだという。釣鐘の頂点から胴体に相当するのは、現在の大岡川と中村川に挟まれた内側、また釣鐘の底に相当するのはJR根岸線の桜木町から石川町までの間である。この入海に注いでいたのが大岡川で、それまでの河口は現在の京急南太田駅付近にあった。新田開発するにあたり、それを大岡川と中村川に分流するばかりでなく、流路を延長して、人工河川を開削したのである。
開発にあたったのは摂津出身で江戸に出て木材や石材を取り扱っていた吉田勘兵衛という商人である。工事は1656(明暦2)年に着手したが、翌年の大雨による事故で失敗。2年後に再度着手して、1667(寛文7)年に完成した。新田は開発者に因んで吉田新田と呼ばれた。1656年といえば、明暦の大火の1年前で、江戸は開府以来の都市計画がようやく一段落し、外縁に向かってさらに拡大化を図る時期にあたっていた。
(以下略)
2023年7月26日
夢のある「日本写真絵本大賞」の写真展、四谷で
ブラリと入った四谷の写真展会場で、「写真絵本」展が開かれていた(26日最終日)。主催は大空出版。毎日新聞創刊150周年記念出版『目撃者たちの記憶1964-2021』(毎日新聞写真部OB会2022年刊)を刊行してくれた出版社だ。

これが第4回日本写真絵本大賞で金賞に輝いた「ビッキーのみる夢」。岩手県八幡平に棲息するモリアオガエルと、森を守るビッキー(妖精)たちの物語、と説明にある。三浦ガク・三浦綾子作。


夢のある写真展だ。「毎日グラフ」編集部員だったこともある大空出版加藤玄一社長の挨拶パネルがあった。
《写真と文章で物語をつづる「写真絵本」の世界。イラストや絵画でなく、写真というリアルな手法を主体とするだけに、物語をどこまで作りこむことができるのか未知なる可能性に期待をしてきました》
《作品の募集を始めて4年になります。すでにこれまで1000を超える物語が寄せられていますが、写真の素晴らしさはもちろん、作者の個性と創造力には驚くべきものがあります》
入賞作品は、同出版社から「写真絵本」として刊行されている。第5回日本写真絵本大賞の募集も始まっている。
この写真展は、8月3日〜31日パレスサイドビル1階の喫茶店「花」で規模を縮小して展示する。
(堤 哲)
2023年7月21日
校閲の奥深さ、「退職後も夢に見る」と元校閲記者の軽部能彦さん

毎日新聞校閲センターが運営する『毎日ことばplus』に「ことばの達人」という寄稿欄があり、校閲OBの寄稿が掲載されているので、転載します(抜粋)。
―今回は毎日新聞で長く校閲記者を務め、用語幹事としても頼りにされた軽部能彦さんです。退社して2年余り。今は「なんにもしていない」という軽部さんはパソコンも携帯電話も持っていません。400字詰め原稿用紙に鉛筆書きの原稿が郵便で届きました―という前書きで、本文は以下の通りです。
「毎日ことばplus」
https://salon.mainichi-kotoba.jp/?memberpage=login
(「ことばの達人」を閲覧するには会員登録が必要です。全文をお読みになりたい方は登録を。無料です)
喉に小骨が…
「高性能のカメラを内臓する」。「内蔵」の間違いだろう。そのまま印刷物になっているのを目にすることもある。油断ならない。
内部に含み保持する意味だから「内蔵」。スルが付いて動詞になる。「内臓」は動物の胸から腹のあたりにある器官。動詞を作らない。音は同じ、字面も似ている。どちらも、物の内側に関わるから取り違えるのだろう。
この「ナイゾウする」で、長い間もやもやしていることがあった。月並みの言い方だが、喉に小骨が……というやつだ。自らの不勉強、管見を省みず、その小骨について書きしるすのをお許し願いたい。

「馬
軍港を内臓してゐる。」
北川冬彦(1900~90年)の詩である。題名の「馬」と本文をひと続きに読み下せば、自由律俳句といって通るかもしれない。小骨というのは「内臓してゐる」の表記だ。初めて読んだとき、詩そのものにギョッとした。校閲をなりわいにするようになって、まさか誤植ではあるまいなと疑った。何冊かに当たってみた。みな「内臓」。誤植ではない、詩人が選んだ表記なのだと納得したはずだったが、喉のつかえは下りない。(一部略)
「馬/軍港を内臓してゐる。」。たったこれだけ。だが、いや、だからこそインパクト十分の作品だといえる。
大型の草食動物。その腹中には軍港がある。奇態な発想だ。
湾口に立ち上る黒煙の柱。港。暗号に閉ざされた空。地を縫合する軌道の分岐。深く沈むドック。燃料・弾薬庫のきな臭いにおい。林立する起重機。蛇行する鋼の管、索条群。後背には幾筋もの尾根が弧を描いて迫る――。
それらは、たくましい褐色の馬体の腹部から現れる。分厚い皮膚と肉を剝ぎ取られ、てらてらと脂ににじむ臓器が白日の下にさらされる。肺、肝臓、消化管。その上を枝を伸ばし迷走する血管。柔弱な器官に覆いかぶさるように湾曲する肋骨(ろっこつ)。
(一部略)
1行でも誤植、見逃しは起こる
「馬」は1927(昭和2)年2月発行の同人誌に、他の2編(「坂」「曙」)と併せて発表された。
同人誌だからと軽んずるつもりはない。しかし大きな出版社の出す文芸誌とはおのずと異なる。引き受けた印刷所にしても、それほどもうけの出ない学生たちの雑誌に細心の意を払ったかどうか。時代は昭和の初めで、活版印刷が主流である。文選(原稿に合わせて活字を拾うこと)作業での誤りも少なくなかっただろう。それに、扱うのは文学、一般的な文章とは趣が異なる。学生ら自身の校正・校閲に費やす労力、態勢も限られていたと推しはかってみる。
この上に立って、①作者は「内蔵」と表記したが、文選で「内臓」を拾われ、校正・校閲でも見逃された②作者は「内蔵」と書くところを「内臓」と誤記した。文選、校正・校閲とも原稿に従った――。入稿から校了、印刷・製本までの工程をもっと丁寧にたどるべきだろうが、大きく二つの場合を仮定してみた。

「馬」は題名を除くとたった1行の作品。しかも「内臓してゐる」は普通の表記から離れている。どこかの工程で、何らかの気付きがあってしかるべきでは、との指摘は当然あるだろう。しかし、文の長短だけでは誤植、見逃しの多寡ははかれないというのが筆者の経験的感触である。校閲の仕事に就いた頃、新聞は活版印刷だった(ただし、活字の手拾いは補助的で、さん孔機を介しての活字鋳造が主だった)。数行の記事でも誤植はあった。校閲の見逃しもあった。それは2、3字の見出しでも起こった。たとえば、柔道が桑道に、天然ガスが天燃ガスに、欧州が殴州に化けたりした。
文選作業では原稿の書き文字の読み違いもあるし、活字の拾い違いもある。校閲のほうは、熟語などでそうなのだが、1字ずつではなく、ひとくくりの語で読んでしまい予測が先走り、視覚をあざむく。その結果あらぬ見逃しをしてしまう。さらにナイゾウの表記のような場合、「内蔵」と「内臓」の同音異義熟語への親密度も関係してくるかもしれない。その差が大きいほど、親密度大の熟語のほうが小のそれより、心理的にも実際的にも選択されやすい。その語に対する緊張感も薄くなる。「内臓」のほうが日常使われ、接する度合いも高いと考えると、文選で「臓」の活字が拾われやすく、校閲でも錯覚が生じやすくなるのではないか。もちろん可能性の問題であり、誤植や見逃しは複合した要因で起こるから、逆の場合(「内臓」が「内蔵」になる)もあるのだが……。
特異な表記になぜ反応しない(略)
あっけない幕切れ でも…(略)
さかしらをするな(略)
(軽部 能彦)
2023年7月11日
信州人なら誰でも歌える長野県歌「信濃の国」
テレビを見ていたら長野県の県歌「信濃の国」の特集をやっていた。信州人でこの歌を歌えない人はいない。集まりがあると、最後は必ずこの歌の合唱だ。結婚式でも必ず歌う。
私たちの「長野会」も最後にこの歌を歌ってお開きになる。
〽信濃の国は十州に
境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く
流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺
四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに
万ず足らわぬ事ぞなき
歌詞を見ながらだが、最後の6番まで。4番は転調してゆるやかなメロディとなり、5番から元に戻る。
◇



この記事は、毎日新聞長野版のトップ記事である。1964(昭和39)年11月17日付。
筆者は62年入社、支局3年生の村田俊雄さん(のち中部報道部→政治部→水戸支局次長→地方部副部長→宇都宮支局長)。信州人である。元ロンドン支局長・黒岩徹と私(堤)は、長野支局の1年生だった。
連載のきっかけは、当時の長野支局長、武田武さん(のち千葉支局長→編集委員→大阪本社地方版編集長→内信部長)が「しなの週評」で「すぐれた“信濃国歌”」と書いたことだった。賛否両論が寄せられた、と前文にある。否定論者は「戦前の『信濃教育会』を思い出す。アナクロだ」という意見だった。
「信濃の国」は、1899(明治32)年に長野師範学校教師の浅井洌(きよし)が作詞した。同僚の音楽教師・依田弁之助が作曲したが、流行らなかった。
4年後の1903(明治36)年に、音楽教師・北村季晴(としはる)が作曲し直して運動会で発表され、一般に歌われるようになった、と記事にある。
日清戦争の後で日露戦争の前、西欧列強に肩を並べんと躍起だったころ。「郷土愛を通じて愛国心を引き出そうとしたものだった」と長野県史にある。
本文の書き出しは、1964(昭和39)年10月の東京五輪聖火リレー。「聖火を迎える長野市民のつどい」が長野市営球場で開かれ、そのアトラクションとして女子中学生400人が音楽遊戯「信濃の国」を行った。「市民に忘れていたものを思い出させるような懐かしい印象と感動を与えた。終戦まで『信濃の国』の歌と遊戯は必ず秋の運動会の最後を飾るメーンイベントだった」のである。
「信濃の国」が長野県歌として制定されたのが、1968(昭和43)年5月。長野版連載の4年後である。
連載の最終7回目に識者の意見を特集している。
作家で評論家の臼井吉見。「郷土の姿を歴史的、地理的に説明しているのだから、他県の人々が聞いたらさぞやひとりよがりで、無遠慮な歌と思うだろう。同窓会や県人の宴会があれば必ずといってよいほど出てくる。共通した思い出として自然発生的に歌う——それでいいのだ」
長野県人ではない当時国立音大教授の岡本敏明。岡本は、玉川学園の校歌、輪唱曲「蛙の合唱」「どじょっこふなっこ」などの作曲者で知られる。「日本は敗戦でよりどころを失ったが、それと一緒によい歌まで失った。ところが『信濃の国』だけは失わなかった。郷土愛を歌い上げたすぐれた歌、得がたいホームソングであるからだ」
JR長野駅の北陸新幹線ホームの発車メロディは、「信濃の国」である。2015(平成27)年3月の金沢駅延伸に先駆けて、「信濃の国」になった。
◇
以下に2番から6番までを掲載したい。カラオケで歌ってみて下さい!
〽四方に聳ゆる山々は
御嶽乗鞍駒ヶ岳
浅間は殊に活火山
いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は
北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川
これまた国の固めなり
〽木曽の谷には真木茂り
諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊かにて
五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて
蚕飼いの業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ
国の命を繋ぐなり
〽尋ねまほしき園原や
旅のやどりの寝覚めの床
木曾の棧かけし世も
心して行け久米路橋
くる人多き筑摩の湯
月の名に立つ姨捨山
しるき名所と風雅士が
詩歌に詠てぞ伝えたる
〽旭将軍義仲も
仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も
象山佐久間先生も
皆此の国の人にして
文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ
川と流れて名は尽ず
〽吾妻はやとし日本武
嘆き給いし碓氷山
穿つ隧道二十六
夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば
昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる
国は偉人のある習い
村田さんは2000年10月21日没62歳、武田さんは2008年2月5日没89歳だった。
(堤 哲)
2023年7月3日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑬活版部員の昭和史その1

CTS制作への移行見通しが立った頃から、活版の記録をどういう形で残すべきかを考えました。そこで、制作部内にあった資料を整理したところ、「昔の東京日日新聞活版場を語る座談会」という冊子が出てきました。それを出発点に調べてみますと、活版部大先輩の古川恒さんの手によって、新聞協会発行の「新聞印刷・活版編」や「毎日新聞百年史・技術編」などに、活版の沿革から毎日新聞社内における発展の歴史が克明に記述されていました。これにはもうかなわないと頭が下がりました。そこで古川さんが取り組まなかったことをと考え、「お世話になりました」と社報に書いた活版部員の回想文と、亡くなった活版部員に対する「故人を偲んで」と題した追悼文に注目しました。
退職挨拶は、1928(昭和3)年5月20日入社、1958(昭和33)年5月10日退社の藤本忠一さん(私が組版課配属になった時の課長さん)はじめ367人、追悼の言葉は、1943(昭和18)年12月8日死去の大武巌さんはじめ95人を集めることができました。この方々は昭和初期から1953(昭和28)年までに入社された方々ですので、昭和の激動期に生き、働いた方々です。召集された外地での苦労、戦後の混乱期に生活と仕事を両立させた体験など、貴重な「活版部員の昭和史」となりました。以下、抜粋して紹介します。
戦争末期の昭和19年は、東京の空襲の激しい時で、会社の警防団の消防班に属していたので、帰宅後も空襲警報のサイレンが鳴ると深夜でも毎日の腕章をつけて勝鬨橋を渡り、火の手を気にしながら会社に駆け付けた。寝る時はゲートルを巻いたまま寝たことも思い出される。(髙橋不二雄さん、昭和2年入社)
*
当時、大陸の戦局は激しく、職場の青年は毎朝、日比谷公園で軍事訓練を受けさせられ“ロートル組”も号令一下、皇居を拝してから作業を始めるというご時世でした。やがて大東亜戦争に突入し、敵機来襲に備え、かつて祝宴をした屋上には水を張り、材木を浮かべる始末でした。骨皮子の私にも赤紙が来て北支へ持っていかれ、終戦を張河口で迎えました。(大矢誠一さん、昭和14年入社)
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昭和24年に亡くなった主人(輪転課員)が入院する前夜「自分にもしものことがあったら鴫原部長にお願いして、何でもよいから会社で働かせてもらいなさい。下の子供二人は他に預けるか、あげるように」と言いました。5人の男の子は、長男が中学1年、末の子が1歳でした。鴫原部長のお骨折りと会社のご好意で間もなく活版部に配属されました。(多田俊子さん、昭和27年入社。活版OB多田俊雄さんの母)
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太平洋戦争に突入、本社でも比島のマニラ、セレベス島などで邦字新聞発行のため、私もその一員としてセレベス島のマカッサルへ出向。現地生活の3年間、爆撃の恐ろしさ、終戦後の“死の丘”での集団生活の苦しさなどを体験して無事に内地へ引き揚げてきましたが、この時くらい大樹というもののありがたさを身にしみて味わったことはありませんでした。(小河原道春さん、昭和3年入社)
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昭和19年6月応召、北千島に行ったのですが、寒風吹きすさぶ中での厳しさは言葉にいい表せないほどでした。20年9月復員しました。応召中は、入社間もない私にまで暖かい恩情を示していただいたほか、父の戦災死に際しても多大のお見舞金などを頂戴致しました。会社をはじめ諸先輩のご好意にはただ感謝あるばかりです。(井田晋さん、昭和18年入社)
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いまさら組合のカタを持つわけではないが、毎日の月給はたしかに高くはない。女房とも「これでもう少しお金があったら申し分なかったね」と笑ったものだが、半面、男の商売として仕事の面では十分すぎるほどの機会を与えられ、退屈する暇もなく過ごせたのは幸せだった。その意味では悔いはない。(柳町正義さん、昭和19年入社)
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思い返せば入社早々召集され、西も東もわからないままに大東亜戦争で満洲、中国大陸を転戦。南支において病に苦しみ、九死に一生を得て帰ってまいりましたが、私が属した部隊はニューギニアで全滅との悲報を知りました。幸か不幸かと考えたこともありましたが、現在皆様と苦楽をともに出来たことは、病気のためと感謝しております。(中村嘉一さん、昭和16年入社)
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日華事変と太平洋戦争で二度応召しています。私と一緒に応召した小林寅夫、中野三郎君は戦死。私も19年8月、北支済南の奥地で、八路軍のため貫通銃創をうけましたが、幸いにも命をとりとめることができました。(畑忠隆さん、昭和2年入社)
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入社2年目、試刷夜勤の日に2.26事件が勃発して軍国主義に突入し、勤務時間外に青年学校で軍事教練に汗を流したことも当然のことと思っていました。昭和21年6月、5年有余の外地ばかりの軍隊生活を終え、有楽町駅頭から社屋を見た時、思わず涙が流れました。(湯原房次さん、昭和10年入社)
*
昭和18年に応召、バシー海で魚雷を受け、2700余人のうち931人の生存者の一人でした。次第に敗戦が濃くなり転進転進、山また山、山奥に入り、米はもちろん塩もなく、かえるもいない高山で、もっぱら木、草、へび、さわがに、かたつむりなどを食べ、どんどん死んでいく戦友をどうすることもできず、ただ傍観するだけでした。埋めてやる穴堀りの気力もなく、木の葉をかけ、冥福を祈ったものでした。(内藤良吉さん、昭和12年入社)
◇
この連載にあたって、「活版部員の昭和史」を再度読み直してみました。ここに掲載した方々のほとんどはお名前と顔が浮かんできます。寡黙だった方が思いのたけを記している一方、書きたくても書けなかったのだろうと推測できる方、一行の俳句にすべてを託した方など思いは様々です。一方、レッドパージで追われた6人をはじめ、故あって途中退社された方々もいます。そうした方々にも活版工としての思いがあったと思いますが、それはもう調べようがありません。
ところで、「会社」という言葉は逆から読めば「社会」です。「活版部員の昭和史」からは、かつての毎日新聞社は、亡くなった社員の家族に配慮して妻を採用し、「寄らば大樹」を実感させる処遇をした「社会」的な存在であったことが伺えます。
翻って今、多くの会社は、「非正規労働者」をボロ雑巾のように使って恥じません。労働者を人間扱いしていないのです。単純に「終身・年功序列雇用制度」にすべきだとは言えませんが、こんな「会社・社会」でいいわけがありません。
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「活版部員の昭和史」を読んで
「活版部員の昭和史」は、1989年12月13日に開催された「活版さよならパーティー」で記念品として配布しました。さらに関係者には贈呈したところ、感想のご返信をいただきました。その中から、藤平寂信(信秀)さんの感想を紹介します。
◇藤平寂信さん
年賀状の束といっしょに、貴兄の「活版部員の昭和史」が届きました。すごいお年玉です。こいつァ、春から……とうれしくなりました。
貴兄らしい暖かい目線、的確な問題意識、職人なればこその緻密な編集作業と、それをやりおおせたエネルギーには、つくづく敬服します。数多くの先輩諸公も、この労作をどれほど多としていることでしょう。大兄抜きで、この労作が陽の目を見ることは、ついになかったと考えます。
ただ、貴兄の「編集を終えて」にあるとおり、なんらかの形で、心ならずも社を去った方々の悩み、苦言も、ぜひ聞いてほしかった。
いつの日か、またお逢いできる日があるかもしれません。いつまでもお元気で、ご精進ください。取り急ぎ、お礼の一筆啓上仕りました。合掌
*
藤平さんのほか、小島成一弁護士、新井直之さん、桂敬一さん、藤田修二さんらからも感想をいただきました。平野勇夫さんからいただいた長文の感想は次号で紹介します。
(福島 清・つづく)
2023年7月3日
雲仙普賢岳事故・石津勉カメラマンの三十三回忌に同期12人が慰霊
いまから32年前の1991年6月3日、長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流事故で、1983年同期入社の石津勉君ら会社の仲間3人が命を落とした。「三十三回忌に同期で現地に行こう」という声が出て、12人が集まった。そのことを私は本紙の連載コラム「掃苔記」で書いた。社内外から反響があった。仲間の死は悲しいけれど、死を思うことはまた多くを学ぶ機会でもあると、改めて感じさせられた。

石津君は口数は多くないけれど、内に熱情を秘めたカメラマンだった。私は同じ現場で仕事をする機会はなかったが、西部や大阪本社の同期たちは付き合いが濃かった。彼らは事故当時も、そして年忌法要の年が訪れると集まり、遺族と交流を続け、普賢岳への慰霊登山までしたという。
長崎県出身ではあるが、私が事故後この現場に立ったのは、地元で三十三回忌の慰霊祭が行われた、この6月3日が初めてだった。曇天だったという「あの日」とは打って変わり、胸のすくような青空が広がっていた。報道各社がカメラを構えていた「定点」と呼ばれる場所に立つ。2㍍を超す白い三角すいのモニュメントが建てられていた。山頂を見上げた。「威容」というありきたりの言葉でしか形容できない山の頂からは、いまも白い煙が立ち上っている。動いている。活きている。いまだに、仲間の命を奪った山は、まだ活動をつづけていた。
石津君はあの日、「ちょっと上がってくるわ」と同僚に言い残し、山のふもとから制作技術部員、ドライバーとともにここに向かい、そして大火砕流に巻き込まれた。

モニュメントの横には、災害遺構として毎日新聞ほかの被災した取材車両が並べられていた。車の形がわずかに残るのみ。「毎日新聞取材車両」というプレートがなければ、ただの赤錆びた鉄屑にしか見えない。想像を絶する熱エネルギーを、見る者に感じさせる。車両は長く、雑草の中に遺されていたという。地元の協力を得て「遺構」として整備されたと聞いた。災害の記憶には、やはり遺された人たちの意思が必要なのだろう。
同期の1人が、石津君がこよなく愛したバーボン「フォアローゼズ」を持参していた。瓶を車両の横に供え、皆で手を合わせた。
災害で亡くなった記者の同期が集まった、ということを聞きつけ、地元テレビ局から取材を申し込まれた。代表して、嶋谷泰典君がインタビューに応えた。こんな内容だった。
<三十三回忌を経ても、友の死は悲しいです。しかし、あの時の報道態勢がこのような惨状を生んだのも事実です。消防団、警察の方、タクシー運転手さんなどが、犠牲に巻き込まれました。そのご遺族が、今も報道機関にわだかまりをお持ちだとききます。当たり前です。そのことを考えると、報道機関にいた人間として、複雑な思いにさいなまれます。
亡くなった写真記者の友(石津君)は、当時から「報道のあり方」につい、さまざまな側面から考えていました。普賢岳の直下で取材を続けていたことに対して、彼はどう考えていたのでしょうね。まさか、自分も、そして消防団の方々などまで犠牲になるとは、想像もしてなかったでしょうが。
規模や犠牲者の数ではなく、自然の猛威はいつでも我々の前にもたらされます。
災害被害、それを取材する報道の在り方、それらへの答えはありませんが、いつも考えていかないといけないことです。>

初めて現場に立った私はただただ感傷にふけっていたのだが、ずっと石津君の死に向きあい遺族との交流も続けてきた彼は、もっと視野を広げて「災害報道」のあり方について考えを巡らせていた。頭が下がる思いがした。
12人はその後、車に分乗して同じ雲仙市内にある小浜温泉の旅館に移動。温泉に入り、夕食時に旧交を温めた。33歳で亡くなった石津君の三十三回忌である。当然、参加者全員が還暦をすぎ、会社に残っているのは少数派だ。
誰かが、石津君が遺作集を持ってきていたので回し見た。彼が同僚に言い残した最後の言葉をタイトルにして、事故の年の年末に非売品として出された。入社当時の集合写真を持ってきた者もいた。石津君だけがそのままで、あとはみな、年を重ねた。もう当時の面影はない。第二、第三の人生を歩み始め、自らの病と向き合ったり、親の介護の問題に直面したりしている。それらのことを、ぽつりぽつりと話す。
この場は、もしかしたら一夜限りの「安息の場」だったろう。家族にも職場の人たちにも話せないことを、小出しにできる。人生の最終盤を迎える前に、誰しも何かしらの悩みを抱えている。それを全部ではないにしろ、ほんの少し仲間に伝えることで、つかの間の安らぎを得たか。
「また、集まりたいね」と誰かが言う。みんな同意した。「次は五十回忌か」。そんな声には、全員が即、「無理だよ、それは!」と否定した。そんな先のことは、誰にもわからない。
コラムを出したあと、フェイスブックにも投稿した。すると、写真部の後輩から「石津さんの思い出」がアップされたほか、大阪代表をされた迫田太さんからもメッセージをいただいた。「石津君の大阪での葬儀や夫人と箕面のお墓に納骨に行った事を思い出しました。迫田太」とあった。仲間の死は悲しいけれど、死を悼んで仲間が集まることで、たくさんの学びがあるのだと、改めて思い至った。
(専門編集委員 滝野 隆浩)
2023年6月16日
日本の野球記事の嚆矢は相嶋勘次郎
毎日新聞11日、日曜日の1面特集は、名探偵シャーロック・ホームズを生んだ作家コナン・ドイル(1859~1930)だった。ロンドン支局長篠田航一さんが健筆を振るった。

ドイルは1908(明治41)年ロンドン五輪のマラソンのゴールシーンをスタンドで見ていた。1着でゴーインしたイタリアのドランド・ピエトリ選手はゴール直前で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となった。「ドランドの悲劇」といわれる。
「……再び彼は崩れ落ちそうになったが、親切な人たちが支えて転ぶのは免れた。彼は私の席からほんの数フィートのところにいた。身を乗り出し手に汗を握る群衆の中、私は憔悴して黄色くなった顔、光を失い表情のなくなった瞳、眉の上まで乱れてたれ落ちた髪の毛を見つめた」(デイリー・メール紙1908年7月25日)と寄稿している。
大阪毎日新聞記者相嶋勘次郎(当時40歳)もこの現場を目撃した。虚吼生のペンネームで「マラソン競争」を9月7日から12日まで5回連載している。
この相嶋記者について、「野球文化学会」創設者の1959年入社諸岡達一さん(86歳)は1896(明治29)年6月7日付大毎朝刊2面に掲載された一高対横浜外人連合軍の試合の記事を書いた記者ではないか、と野球文化学会論叢『野球博覧』(2014年刊)で論考している。

『明治野球史』(功刀靖雄刊)に「明治29年の横浜外人チームと一高の試合により、初めて新聞紙上に野球が紹介されるようになった」とある。
野球記事の嚆矢だったのである。
諸岡さんによると、当時大毎東京支局(1889=明治22=年開設)には相嶋勘次郎のほか友野荘次郎、井原輝忠、菊池清(幽芳、初代大毎社会部長)の4人がいた。
当時の記者は、探訪が持ってきた材料をもとに記事を書いていて、直接取材に出ることはあまりなかった。しかし、「相嶋勘次郎は俳人であり、英語に興味を持つハイカラ人間だった」。だから、というのだ。
日清戦争に従軍記者として派遣され、正岡子規(新聞「日本」の従軍記者)とも現場で一緒になっている。
相島勘次郎(1868~1935)は、常陸国筑波郡小田村(現在の茨城県つくば市)出身。慶應義塾大学を卒業後、大阪毎日新聞社に入社。1900(明治33)年から02(明治35)年までのアメリカ留学、帰国後大毎通信部長。06(明治39)年に大毎が東京に「毎日電報社」を創設すると副主幹となり、11(明治44)年には大毎が「東京日日新聞」を買収、東日副主幹となった。12(明治45)年の第11回衆院議で当選して代議士となり、次の総選挙でも再選された。
(堤 哲)
2023年6月12日
「東日」「大毎」の夕刊1面で展開した連載小説「大菩薩峠」
読売新聞が朝刊文化面で[時代・歴史小説の世紀]の連載を始めた。その第1回が《「大菩薩峠」の足跡》。ニヒルな剣豪机龍之助が活躍する未完の大長編小説である。
「大菩薩峠」は、中里介山(1885~1944)が自身の勤めていた「都新聞」で1913(大正2)年9月12日から連載を始めた。21(大正10)年10月まで8年間で1438回続いた。
4年後の1925(大正14)年1月6日夕刊「東日(東京日日新聞)」と「大毎(大阪毎日新聞)」の1面で連載が再スタートする。翌26年10月21日まで最終500回だった。


以下が「東日」夕刊の第1回である。
夕刊の目玉として、「大菩薩峠」の連載が出来ないか。「東日」編集主幹城戸元亮(のち会長)が、論説委員で「近事片々」を担当していた新妻莞(のち学芸部長、イト夫人は戦後初の衆院選で当選した女性代議士の1人)に作者中里介山との交渉を命じた。
新妻は、同時に挿絵を彫刻家で画家・版画家の石井鶴三に頼んだ。
紙面で中里介山と石井鶴三の名前が同じ大きさの活字で並んでいる。1回の原稿料も同額にしたという。
紙面の真中に中里介山が「大菩薩峠」執筆に臨んで、と「緒言」を書いている。
最下段は、「大菩薩峠」を出版した「春秋社」の全2段広告。既刊4冊、定価各3円、4冊12円とある。
この連載が評判を呼び、「東日」「大毎」とも発行部数を伸ばすのだ。
さらに1年後の27(昭和2)年11月2日から28(昭和3)年9月8日まで連載、掲載回数は計709回に及んだと、社史『「毎日」の3世紀』にある。
「大菩薩峠」は、その後「国民新聞」「読売新聞」と掲載紙を変えて連載が続き、介山が44(昭和19)年4月腸チフスで急逝(享年59歳)、未完で終わった。
「全41巻(18冊)、文字にして510万字。それは源氏物語の6倍、八犬伝の3倍、トルストイの『戦争と平和』の3・5倍に相当するのだという」
これは伊東祐吏著『「大菩薩峠」を都新聞で読む』(論創社2013年刊)からの引用だが、伊東は、単行本の「大菩薩峠」を読み始めて、すぐ投げ出してしまう。「大衆向けの娯楽的な読み物であるはずなのに、話の内容がよく分からないのである」
そこで、「都新聞」に当たる。「単行本と違って、すらすらと読める。とにかくおもしろいのである」
何故か。介山が単行本にする際、大幅に編集している。「とにかく話の筋が分かればいいというような、極めて雑で荒い編集」「ひとことで言うならば、現在の『大菩薩峠』は、質の悪いダイジェスト版である」
「都新聞」連載1438回の全体の削除率は、単純計算で29・4%と算出した、とある。
◇
『大菩薩峠【都新聞版】』第1巻~第9巻が発行されている(2014年~15年)。「都新聞」の復刻版で、定価は第2巻の2400円を除き3200円+税である。
出版した論創社は、社会部OB滑志田隆さんの最新刊『椿飛ぶ天地』の他、『埋もれた波濤』『道祖神の口笛』を出版している。
(堤 哲)
2023年6月1日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑫活版が消えていった
1988年になると天皇の病状が悪化。1面に「天皇陛下のご容体」として体温、脈拍、血圧、呼吸数が報道されるようになりました。政治面はCTSに移行していましたが、社会面はじめ多摩、長野、茨城など地方版はまだ活版制作だったため、活字とCTS両方の予定稿準備という余計な仕事が加わりました。Xデー対策に振り回されたことを思い出します。


平成となった1月8日以降、順調に移行が進み、1989年12月には完全移行できるメドがたちました。そこで最後の活版制作面を何日付にするかを決める時、一計を案じ、私の51歳誕生日である12月11日付にしようと考えました。若干の前後は問題にされませんでしたので、12月10日組み込み、11日付の群馬、栃木版が毎日新聞活版制作最後の面として、記録に残ることになったのです。そして群馬版はOBの青木靖夫さん(写真・左)、栃木版は同竹原昌治さん(同・右)が大組を担当しました。
活版さよならパーティー
CTS移行が終わった1989年12月13日。広い活版場に活版OBと東京本社関係者を招いて、「活版さよならパーティー」を開催し、活版に別れを告げました。



活版資材の売却

CTS移行紙面が大半となった1989年10月からは、膨大な活版資材の処分を開始しました。
残っている処分記録を見ると、「鉛」59㌧、「アルミニウム」約30㌧などでした。これらの売却代金と活版さよならパーティーへの先輩からのご祝儀は、約510万円となり、制作部特別会計として、活版制作終了記念品制作などに充当しました。
この会計処理に会社からは何の文句も出なかったのは、活版消滅への香典がわりとしたのでしょうか。
昭和初期から稼働していたとトムソン活字鋳造機、RACモノタイプ、FLT連数字鋳植機、見出し鋳植機など、鉛を溶かして活字にする機器の撤去は大掛かりな工事になるので、CTS化完了後になりました。

CTS制作へ移行後、活版工たちは制作部員として新聞制作にあたってきました。私が1995年末に定年退職後、技術革新はさらに急ピッチで進行し、編集者が組版することができる端末が完成し、制作部員の仕事が徐々になくなっていき、1999年9月30日をもって、制作部は廃止されることになりました。
1999年9月17日、B1毎日ホールで「制作部さよならパーティー」が開催され、上記のように270人が参加しました。参加した活版OBたちにとっては、「活版さよなら」として欲しかったのではないかと思います。最後まで残った58人の制作部員は、9月、10月に企画制作室、広告連絡部などに異動となり、名実ともに活版は消えたのでした。
(福島 清・つづく)
2023年5月22日
97歳牧内節男さんが小西良太郎さんの葬儀に列席

築地本願寺で5月20日、営まれた元スポニチ常務・音楽プロデューサーの小西良太郎さん(13日逝去86歳)の告別式後のスナップ。元スポニチ社長の牧内節男(97歳)さだ子さん夫妻と、牧内さんからスポニチ社長を引き継いだ森浩一さん(88歳)である。
下の写真は、かつてのスポニチ社員の挨拶に応じているところ。ドクヘン(独断と偏見)社長時代を思い出したのか、手振りを交えて、声に張りがあった。
「3月末だったか、小西君がオレの見舞いに来てくれたんだ。昔話を3時間くらいしたかな。自分の病気(膵臓がん)のことは一切口にしなかった。まさか先に亡くなるとは思ってもみなかった」と牧内さん。

夫人のさだ子さんは、元写真部の米津孝さん(94歳)と岡崎市の根石小学校で同級生だったというから奇縁である。
スポニチ社長になったのが1988(昭和63)年12月。最初に取り組んだのが編集局長人事で、翌89年4月に小西編集局長が誕生している。その直後に「女王」美空ひばりが亡くなり、編集局長自ら「不滅ひばり真話」を1カ月間にわたって執筆した。
《「スポーツを中心とした総合大衆紙面」(喜怒哀楽をはっきりさせる庶民感覚の新聞)の展開を考えていた私にはユニークな発想をする編集局長が欲しかった。役員の石井経夫さん(故人)に聞くと「傍系の会社にいる小西君がいいでしょう」という。そこで小西さんと食事をしながら雑談をした。第一印象は「やんちゃなきかん坊主」という感じであった。私の出す企画に常に+アルファをつけて紙面化した》(銀座一丁目新聞)


小西さんの通夜・告別式の模様はスポニチアネックスの記事を読んで下さい。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/05/20/kiji/20230520s00041000026000c.html
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/05/21/kiji/20230520s00041000763000c.html
遺影の前に「酔々独歩」。《小西の造語です。「ほろ酔いながらスーイ、スーイと我が道をゆく…」》《歌を愛し、人を愛し、そして仕事を愛した。100%全力の人生でした》と、喪主の妻玲子さん(右の写真中央、隣はスポニチ小菅洋人社長)。
祭壇の花。北島三郎、五木ひろし、川中美幸、石川さゆり、八代亜紀、小林幸子、由紀さおり、坂本冬美……。それが式場両脇、通路から玄関まで。「こんな大がかりの葬式は初めて。コロナ前も経験していません」と、直会の席で演芸評論家・矢野誠一さん(88歳)。
小西さんは、音楽担当記者時代から美空ひばりをはじめ、吉田正、船村徹さんらと交友を深め、八代亜紀の「舟唄」「雨の慕情」や坂本冬美の「夜桜お七」などのヒット曲をプロデュース。日本レコード大賞審査委員長を7年務めた。
阿久悠さんの「甲子園の詩」もヒット企画だった。
2000年にスポニチを退社すると、舞台俳優に転身。「東宝現代劇75人の会」に所属、川中美幸の劇場公演にも出演、熱演した。
(堤 哲)
2023年5月15日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その25 なみが帰ってこない(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496877.html

昨年の8月29日、夏の間ほったらかしにしていた庭の手入れをした。そのときに撮った写真がph1~ph3である。前回の連載エッセイで、わが家の小さな庭と飼いネコについて触れることがあった。写真ph1をご覧いただきたい。庭と通りの境に雑然と植えたイチジク、サンショウ、キンカン、ノウゼンカズラなどが勝手放題に枝を伸ばしている。
写真ph2、ph3のネコは、わが家の飼いネコである。名前はなみで、生後11カ月。家の中に閉じ込めておくのはかわいそうなので、妻と私の目の届くときは庭で遊ばせていた。この日はいつもとようすが違うせいか、木陰にじっとすわったまま、私のすることをおとなしく眺めていた。

それから6日後の9月4日、私が外出から帰ると、なみが玄関に出てこない。妻と息子が2人そろって浮かない顔をしていた。なみが目を離したすきに逃げ出したまま帰ってこない。近所を捜しまわったがどこにもいない。かれこれ5時間になる。というのである。
これまでもネコは飼ってきた。逃げ出しても、たいてい1時間か2時間もすれば帰ってくる。迷子になって家に帰れなくなったか、そうでなければ、連れ去られたのである。
翌日の夜明けから捜索を始め、習志野市役所と習志野警察にも失踪届を出した。
すると、どこで知ったのか、同じマンションに住むご夫婦が、捜索願のポスターをつくってくれるという。近くの動物病院とコンビニに貼らせてもらいましょうといい、その手配までしてくれた。ご夫婦は野良ネコの世話をするグループのメンバーで、近くには同じようなグループが2つもあるとのこと。そちらへも連絡し協力を頼んでくれるという。
これも前回の連載で書いているが、近所の一戸建てにやはり野良ネコの世話をしている私と同年配のご夫婦が住んでいる。同じグループのメンバーである。そのご主人が、迷いネコを捕まえるのに役立つかも知れないということで、どこからか動物用の捕獲機を借りてきてくれた。溺れる者は藁をもつかむの諺を絵に描いたように、捕獲機は専用駐車場の庭への出入口に仕掛けることにした。
そのいっぽうで、私は私なりに捜査の協力を頼むチラシをつくった。近くにあるカメラのキタムラで、なみの近影をサービスサイズで60枚プリント(ph4)、写真の裏には彼女の特徴と連絡先などを書いた下記のメモを貼りつけた。

ネコを捜しています
9月4日午後3時ごろより行方不明に
名前…なみ/種類…ノルウェージャンフォレストキャット/性別…メス/年齢…11カ月/体重…4キロ
特徴…①体の色が白・黒・茶の三毛/②水色の首輪をつけている/③しっぽは長くて太い/④目は茶色がかった黄色で、大きい/⑤耳の内側に長い毛が生えている
(以下略)

2023年5月12日
「奥ゆかしすぎる」司法記者三浦正己さんの「日航機墜落事故」特ダネ
社会部OB小畑和彦さん(2012年没67歳)のブログがインターネット上に残っている。日航ジャンボ機墜落事故に関連して、三浦正己さんの特ダネを書いている。
《事故が起きた1985(昭和60)年8月12日、東京社会部の三浦正己記者は、終戦記念日の企画記事を担当していた。事故を知って社会部に戻り、犠牲者の名簿班に入り遺族の取材に走り回った。翌年夏には墜落事故一周忌の取材班に入り、遺族との交流を深めていった。遺族で作る8・12連絡会は、遺族の手記「茜雲」と手紙集「聞こえますか」を手作りの小冊子にまとめていた。三浦記者はこれを出版することを勧め87年3月、「おすたかれくいえむ」のタイトルで毎日新聞社から刊行された》
その4年後には、続編『再びのおすたかれくいえむ』が毎日新聞社から出版された。

小畑さんの記事によると、事故機内の写真が群馬県警に提出され、90(平成2)年8月12日に事故の刑事責任の時効が成立すると、写真が遺族に返却された。三浦さんは、この写真の公表を求めて遺族と交渉、毎日新聞が夕刊で報道すると同時に遺族が記者会見して公表することになったという。
これがその紙面である。小畑さんは、こう書いている。《13日付夕刊に衝撃的な写真が掲載された。1面トップ5段でジャンボ機が墜落直前、天井から下りた酸素マスクを口に当てた乗客の後ろ姿を写していた。もう1枚は伊豆半島に向かう途中、窓から相模湾、江の島、富士山を映し出していた。3面には離陸直後、やはり窓から撮影した写真4枚が掲載された。空には、夕日に染まり始めた茜雲が広がっていた。写真ごとに撮影したと推定される地点が地図で示され、緊迫する墜落直前の様子は改めて事故の悲惨さを読者に訴え、大きな反響を呼んだ》
◇

三浦さんは東大剣道部OB。近況をメールで尋ねると、「昭和女子大学トルストイ室長を65歳定年で退職してからも、日本トルストイ協会事務局長理事を続けています。年2回の講演会、毎年の協会誌発行、何回かの理事会の設営――というのが、その主な活動内容です」と返信があった。
(堤 哲)
2023年5月12日
「モーリシャスへの汐路」―元編集委員、鈴木志津子さんの「クルーズの旅」ブログ転載
鈴木志津子さんのブログ https://cruise-to-mauritius.blogspot.com/

☆1974年9月 ラファエロ カンヌ→ニューヨーク
9f9e3b66ab61e365a85bf992beb2304b.jpg (736×556) (pinimg.com)
「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズを離脱した私は涙にくれましたが、この時もまた、私は泣きました。実は私は「ラファエロ」ではなく、「フランス」に乗るためにフランスにでかけたのです。
ドゴール大統領が「船は動く文化大使だ」と威信をかけて建造した「フランス」は運航費もかさみ大赤字でした。ジスカール・デスタン大統領は、その年のシーズンかぎりで運航停止を決定しました(大西洋横断は9月でシーズン終了)。パリ特派員伝で知った私は、運航会社メッサジマルティニに「乗りたい」と手紙を書きました。同社から「お金を送金すれば船室を取れる」と電報が来たのはその便の1週間ほど前。私は「乗船する」と電報を打ち、小切手を送り、返事を待つ間もなくパリに飛びました。
「貴女の切符はここにあります。ただ、乗れるかどうかはわかりません」。メッサジマルティニ事務所でこう言われました。この朝、ニューヨークから到着した船は、乗客を降ろすと、ルアーブルの港の中央に碇を下ろしたのです。こうすると大型の船は入港できなくなるのだそうで、港を封鎖して運航停止反対のストライキを始めたのです。会社はただちに予定していた残りの航海の中止を決めました。
ルアーブルの港では小型船が「フランス」の周りを巡る商売を始めていて、さっそく乗りました。近づいて、甲板から見下ろす人の顔が見えるようになった時、心の中で「乗せて!私はそのためにやってきたのよ」と叫ぶと、どっと涙が出て、泣き伏してしまいました。
その1週間後、カンヌから「ラファエロ」に乗りました。この船もストライキをしたとかで、乗船は真夜中になりました。はしけで沖停めの船に向かうとき、突然滝のような雨が降り、雷が鳴りました。遠雷のようですが、凄まじい轟音。稲光で瞬間真昼のようになりました。
「降るがいい、最後の涙雨。私の旅は今始まる」心の中で叫びました。
このクルーズ、テーブルメートが1組の中年カップルのほかは若い女性(私も若かった?)で楽しい食卓でした。アメリカ映画とイタリア映画を交互に上映しましたが、聞いたこともなかったイタリア語の映画のほうがわかりました。ハリウッド映画は会話が理解できないと分からないけど、イタリア映画はさりげない景色などの挿入が、登場人物の心象を表現してくれました。こうして私は、映画も音楽も、料理もファッションもイタリアびいきになりました。
☆1973年2月 アーカディア(先代) 香港→大阪
P&O Cruises - ウィキペディア (wikipedia.org) =英文
(クリックするとリダクトしますか?と聞いてきますが、そのままアドレスをクリックすると見られます)
このクルーズが、私を船旅にいざなってくれました。海外旅行にお金を使うのなら船旅以外には使いたくないと思うようになりました。香港から大阪まで、この間、鹿児島に寄港し、私にとって初の九州旅行になりました。わずか4日間のクルーズだったのですが、それが素晴らしかったので、私は船旅にのめり込んでいきました。
きっかけは茂川敏夫著「船旅への招待」という本を読んだからです。それですぐに乗れそうな船を探した結果です。当時私は新聞社の運動部に所属していました。夏はスポーツが多い時期で、交代で取る夏休みを冬にずらすのは喜ばれました。
私の船室は一番安い4人相部屋。藤製の2段ベッドが2つ。料金は5万円でした。行きの飛行機も5万円でした。4日間3食、アフタヌーンティーまでついてなんとお得なんでしょう、と私は思いましたが、他人に話すと「え、クルーズ、何?船で旅するの?なんで?お金がないから?」といわれました。
ルームメイトは名古屋在住の、私より少し年下の女性が1人。高校の保健の先生でした。その後、相撲担当だった私は名古屋場所の際は彼女と会い、彼女が東京に来た時は一緒に食事をしました。ダイヤモンドプリンセスが日本一周クルーズをしたときは一緒に行きました。
私たちがパーサーズオフィスに行くと、デュプティー・パーサーのバックレー氏が名前を聞き、それぞれにカードをくれました。「デュプティー・パーサーのバックレーは(空白スペースに私の名前)と歓談いたしたく(食事時間を聞き、食後の時間を書き入れる)に、彼のキャビンでお待ちいたします」と書かれていました。時間に行くとパーサーズ・オフィスの仲間1人と待っていて、歓談した。それから毎晩私たちはいっしょにお酒を飲みました。彼らはアメリカ人が大嫌いで、うんざりしていたようでした。いったい何を話していたのでしょう?私は英語が大嫌いで、英語は中学で勉強したきり。大学受験はドイツ語でしたというへそ曲がりです。まあ、他愛のない話に違いありません。
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2022年5月、私はこのブログを立ち上げました。「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズをリポートするためです。ところが私はコロナ感染が判明して、早々に船から離脱してしまいました。 そのままになっていたこのブログを、タイトル「モーリシャスへの汐路」はそのままに、私のクルーズを回顧するものに転用することにしました。これまで新聞や雑誌などで書いたクルーズのレポートは、代々私のパソコンに引き継がれて保存されていますが、それは見ないで、ただクルーズ歴だけを見ながら、忘れ残った事を書いてみようと思います。はたしてどんなものになるか…?お時間がおありになら、時々のぞいてみてください。
志津
自己紹介に代えて
なぜそんなに船旅が好きなのか聞かれれば、たちまちまちに船旅のよさをいくつも挙げることができる。「いながらにしていろいろなところに行くことができる」「安全快適」「楽しい催し」「知らない人々との自然な交流」e t c
でもそれは船旅の説明であって、好きな理由とはちょっと違うような気がする。ハンサムだとか優しいとか、客観的に評価することと恋することが、イコールではないように。
多分私は生来の風来坊なのだ。私の父は幼い私をささやかな旅に連れ出した後、家に帰り着くといつも「やれやれやっぱり家が一番いいな」と息をついた。私はその言葉を不思議な気持ちで聞いていた。両親と不仲とか、家の居心地が悪かったわけではない。
やがて時刻表片手に一人旅をするようになったが、行き先は期待外れだったり、宿が酷かったり、高熱を発したこともあった。だからといって家に帰りたいと思った事はない。さりとて精力的に見て回ることもしない。見知らぬ街で、見知らぬ人たちの中で、自分は異邦人だと感じることこそ、最も自分らしく存在することのように思える。もし人並みの体力があったら、無謀な冒険を試みて、今頃もう死んでいたのではないかという気がする。
「旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る」
これが私の理想の境地だ。だが、人一倍足弱な私は、荷を背負って旅することはできない。だいいち、今の世は野ざらしとなって人知れず朽ち果てることなどできない。足弱で怠け者の出不精だけど旅したい。パッケージ旅行は嫌い。一人旅に必要な綿密なスケジュールを立てるのもいや。そんな私の要求に船旅はぴったりだった。船に乗るまでと降りて家に帰るまでのスケジュールさえちゃんとしておけば、船がどこかへ連れて行ってくれる。朝起きて窓から眺めると知らない街についている(もちろん本当は決まったスケジュールで運行しているのだが)。ふらりと降りて、出港の30分前までに戻る。このように船は私を疑似風来坊にしてくれるから、私は船に乗るのではないだろうか。
この文は当時勤めていた毎日新聞の社内報に、趣味について書くよう言われて書いたものです。クルーズに対するこの思いは、今も変わっていないと思います。
志津
大手海運会社の商船三井(MOL)は、傘下の商船三井客船(MOPAS)の「にっぽん丸」のモーリシャス・クルーズ催行を発表しました。このクルーズは、2020年7月に、MOLがチャーターした貨物船がモーリシャス近くの環礁に座礁して燃料流出事故を起こしたことに対するお詫びの一環として公約したものです。2023年12月15日横浜を出港して24年1月31日に同港に帰港する48日間の航海です。コロナ禍で実現が心配されましたが、なんとか22年の実施を果たせるようです。モーリシャスはアフリカの東岸、マダガスカル島の東800キロの洋上にある島国だそうで、私もこの事故が起きる前は知りませんでした。これを機にモーリシャスのことを勉強し、みなさんにお伝えし、また教えていただけたらと思います。
2022年5月21日 志津

2022年12月15日にっぽん丸はモーリシャスに向かって横浜を出港しました。コロナの感染拡大で実施が危ぶまれていましたが、辛うじて2022年中の実施が実現しました。これまでと違って、五月雨式のお知らせや書類の提出が続き、10月になって「催行を決定しました」という知らせに「え、まだ決定していなかったの?」と驚きました。
私も、直前の郵送によるPCR検査、横浜港での検査も陰性で乗船しました。2023年1月31日まで58日間のクルーズの始まりです。
スケジュール | |
12月15日午後 | 横浜出港 |
12月18、19日 | 石垣島 |
12月24、25日 | シンガポール |
12月30、31日 | マーレ(モルジブ) |
1月5~8日 | ポートルイス(モーリシャス) |
1月10~12日 | トゥアマシナ(マダガスカル) |
1月22、23日 | シンガポール |
1月31日 | 横浜帰港 |
志津
2023年は私にとり、初クルーズから50周年の年。数年前、持病を得(リウマチ)、医学の進歩のおかげで、なんとか日常生活は送れているけど、このクルーズをグランドフィナーレとし、一区切りつけようと思いました。これまで私の一番長いクルーズはリージェント・セブンシー・エクスプローラーのケープタウン周遊15日間なので、3倍以上の長期クルーズになります。
一番大きなスーツケースと一回り小さいスーツケースに一張羅を詰め込んで、大勢の人々に見送られて出発しました。
志津
コロナが流行し始めて以来、私は毎朝起きると検温していました。起床時の体温は36・1℃でした。ところが乗船2日目(16日)朝、36・3℃、次の朝には36・5℃になったのです。念のため医局に電話してPCR検査を受けると陽性でした。そのまま船室にこもり、那覇で降りて、無症状ながら陽性だったミュージシャンと地元の療養所に向かいました。
療養所は市内の大きなホテルを転用したもの。本来は地元の人のための療養所で、私は居候でした。毎朝検温し血中の酸素濃度を測り報告する。アナウンスがあると、だれもいないエレベーターホールに置かれたお弁当を取りに行き食べるのが日課。テレビのニュースは「この冬は寒冷前線の異常な南下で最高気温が12~13℃」と伝えていました。エアコンはあるものの暖房はなく、私はダウンコートにくるまって震えていました。
24日、クリスマスイブに解放されました。この間検査はしませんでした。もうウィルスは感染力を失っているからで、検査をすれば、ウィルスのカスが反応して陽性になる恐れもあるからだそうです。昼前に、ここへ来てから初めて1階へ降り、係にパルスオキシメーターを返し、出口(裏口)を示されて道に出た時、一瞬足がすくみました。まるで小屋で生まれ育った家畜が外の世界を恐れるように。
船を降りて、車で送られて着いた療養所。自分がどこにいるのかさえ分からない状態でしたが、MOPASの方が東京に帰る航空券を届けてくださって帰京できました。
志津
それから、再乗船を目指しましたが、何度PCR検査をしても陽性。この間、にっぽん丸はシンガポール、モルジブ、モーリシャス、マダガスカルを経て帰路につきました。
私は愚かだったのです。子供のころ、風邪をひいたらお風呂に入ってはいけないといわれていました。コロナも風邪のようなものと思い、私はずっと入浴を控えていました。寒がりの私は汗もほとんどかかず、それほど不快感はなかったのです。私はついにあきらめ、どうにでもなれと入浴しました。その翌日の検査で「検出不可」(陰性ではないが、ごく微量)となり、その晩洗髪したら「陰性」になりました。ウィルスのカスはどうやら頭に多くついていたようです。それで、私は感染経路の見当がつきました。私には不可抗力だったとだけ申しておきます。
1月23日にシンガポールから乗船しました。ホテルからバスで向かうとき、窓から見たにっぽん丸の細長い船体に驚きました。遮るものなく、船全体を真横から見られることはめったにないことです。この旅の贈り物に思えました。
コロナ下のクルーズは、密を避け、食事も家族や同行者とのみ同席するなどのルールで、1人旅には寂しいものでしたが、やむを得ないことです。それでも、長い旅の間に、数人の小グループもできているようでした。
コロナが治まったら、よきグランドフィナーレを求めたいと思っています。
志津
2023年5月10日
「幻に終わった横浜新支局の建設」の歴史を「有楽ペン供養」から
「ゆうLUCKペン」の前身「有楽ペン供養」第5集に、「幻の建設に終わった横浜支局」を元地方版編集長の梶ヶ谷忠良さん(2002年没90歳)が書き残している。
何故、1982(昭和57)年発行の「有楽ペン供養」第5集に出会ったか。「ゆうLUCKペン」第45集の刊行記念パーティーに、元運動部長・中島章隆さんが創刊号から17号までを持参したことにある。詳細はこの毎友会HP「集まりました」参照。

この話を横浜支局駆け出しの元東日印刷社長・取違孝昭さんにすると、「昔の横浜支局の写真が携帯に入っている」と送ってくれたのが、次の写真だ。写真部松村明さん撮影。
写真の横浜支局は、1929(昭和4)年11月に完成した。その披露は2日間にわたり、2千人を招待したという。
『新聞王・本山彦一伝』(昭和7年刊)に、「八層楼の東京日日新聞横浜支局」と紹介されている。
《昭和4年9月、25万円の巨費を投じ、8階建ての新館を建築した。4階は500人を収容し得る講堂。地上150尺の高塔には、昼夜「天気予報」を掲げ、市民の便を図り、屋上には2個の大ネオンサインと「探照灯」を備え、階上への昇降は、10人乗り自動式エレベーターが設けられてあるなど、設備の完璧と相まって大横浜の一異彩となっている》
関内の名物ビルだったようだ。
梶ヶ谷さんはこう書いている。《旧横浜支局は、昭和20年4月の横浜空襲で焼け野原となった関内地区に残った3つの名物建物の1つである。1つは隣接の国際親善病院、もう1つは旧第15銀行ビル(現神奈川新聞社)であった》
敗戦でビルは進駐軍に接収され、解除になったのが52(昭和27)年。老朽化で支局を移転したのが73(昭和48)年というから、この写真はその頃撮影されたと思われる。
新横浜支局は、桜木町駅前に土地を確保して、建設計画がつくられた。
梶ヶ谷原稿によると、6階建ての高層ビルで、1階は銀行、2・3階は支局、4・5・6階が貸ビル、屋上には電光ニュースを設置する計画だった。
しかし、建設費用に行き詰まり、結局、「毎日新聞横浜支局建設用地」の板囲いのまま、ビルが建つことはなかった。
《この幻の青写真に無念の涙をこらえることしばしばだが、このような構想がいくどか練られていたことを、横浜支局の戦後史のなかに書きとめておくことも無駄ではないと思い、「有楽ペン供養」の余白を借りた次第》
(堤 哲)
2023年4月20日
「少子化と私」―成田 紀子さんが寄稿

今は昔のことを書く。
なんで今さらと思われるかもしれないが、「少子化が問題」と言われてかまびすしい現在、私には書かずにいられないことがある。
毎日新聞社に入社して10年ほどたっていたころ、ちょうど今から半世紀ほど前になるが、私は、0歳数カ月の赤ん坊と2歳の女児2人を育てていた。会社ではなるべく所帯臭さを出さないように、あたかも子どもなんていないように振舞っていたが、家に帰れば子どもたちを相手にシッチャカメッチャカの生活だった。
私は子どもを抱かない母親だった?
上の娘がすでに50歳に近いころ、ポツンと「私って、お母さんに抱かれたことあったのかしら?」と言った。私は、びっくりして「当たり前でしょ。子どもを抱かずに育てられるわけないでしょ!」と返したが、いい大人になって、なぜ娘がそんなこと言うのか考えてみると、母親から離れていたような生活の淋しさをずっと抱えていたのかなと思った。
上の娘が赤ん坊の時は、預かっていただいた家へは遠かったので、私が毎朝行けず、夫の仕事の都合で朝7時に車で連れていき、夕方も7時過ぎに連れ帰る生活が続いた。ウイークデイは抱く時間なんてなかったし、休日も抱き癖がつくと困るので、ほとんど抱かなかった。
子どもを産みたくなかった私
振り返ってみると、もともと私は子どもを産みたくなかった。まさに男性と同じように、出来るだけ、仕事に没頭したかったのだ。しかし夫は子ども好きだったし、夫の母、すなわち姑は孫を欲しがっていた。結婚して4年ほど経過したころ、弟夫婦に先に子どもが生まれると、姑が「あなたは子どもが産めないの?」とねちねち言い出した。子どもを産むか、離婚するかしかないかと思い始めたころ、妊娠した。致し方なく出産することに決めたが、生まれた赤ん坊を見るまで、どこか長期に預かってくれるところはないかと、私はいろいろ探して施設を見に行ったりしていたが、安心して預けられるような所はなかった。
赤ん坊の顔を見て一転
そうこうしているうちに、いよいよ出産となり、無事赤ん坊が生まれ、子どもがいざ自分の隣に寝かされてみると、そんな考えはいつのまにか吹き飛んでしまい、何とか自分の手元で育てなければという気持ちに変わっていった。まさかそんな気持ちになるなんて、自分自身に驚いていたが・・・・・・?
育児と仕事の両立・・・ かなり甘かった私
産休は予定日より1か月前から取り始めたが、出産が半月遅れたので、産後の休暇は1か月半しか残っていなかった。その頃は「育休」は全くなかったので、「産休は産前・産後90日」が規定だった。
どうやって仕事をしながら育児をしていくか? 私としては漠然と同じ屋敷内に住んでいた、まだ50歳代の姑が赤ん坊を見てくれるかもしれないぐらいのことも考えていた。しかし産休が切れる少し前になって、そのことを姑に頼んでみると、全くけんもほろろに「私は赤ん坊なんて見ないから」と取り付く島もなかった。姑は姑で、きっとこれで嫁は仕事を辞めるだろうと思っていたらしいのだ。
私は自分の甘さをかみしめながら、出勤まであとわずかとなった期間に八方手を尽くして子どもを預かってくれそうなところを探し回った。結果、ようやく探しあてたのが、出勤開始の前日で、家から歩いて30分もかかる無認可保育園だった(横浜は山坂が多く、自転車を使いにくいという難点がある)。藁をもつかむ思いで直ちに夫とその保育園の責任者のところへ頼みに行ったが、保育園の開園時間が朝8時から夕方5時ということで、私の勤務時間に合わず、まして通勤時間を考えると全く無理ということが分かった。しかしそこで引き下がっては、翌日からの出勤に間に合わないので、膝詰め談判をした。朝晩の保育園の時間外は、その保育士さんに、私たちの子どもを特別に引き取って見てもらうように、なんとか頼み込んだ。幸いその保育士さんは保育園の隣に住んでおられたので、都合が良かった。ともかく強引に引き受けてもらったのだ。
このような次第で、私は何とか出勤できる状態になったが、まだ首の座らない生後一か月半の赤ん坊を柳行李に寝かせて、朝7時に車で件の保育士さんの家へ届け、夜は私が7時半近くに駅に着くと、走って赤ん坊を迎えに行き、おんぶして帰宅するという状態だった。確かに娘に「私はお母さんに抱っこされたことないんでしょ」と言われるとおり、ゆったりした気持ちで娘を抱いたことはなかったかもしれない。
本当に私は「子ども嫌い」なのか
今でも、私は時たま「私は子どもが嫌い」と言ってしまうことがある。あえて子どもと遊んだり、抱いたりしたいと思わないのだ。しかしこれは「子どもが嫌い」ということなのかとよく考えることがあるが、「嫌い」というより「苦手」といった方がよいかもしれない。ゆっくり子どもたちを相手に遊んで楽しんだ経験がほとんどないのだ。もっと時間的なゆとりがあって、子ども達と遊び方を考えたりして遊んだら、子どもとの時間を楽しめて、子どもを好きになったかもしれない。こんなふうに考えると、私は仕事にかまけて後天的に子ども嫌いになったのではないかと思う。
人間はそもそも先天的に幼いものをかわいがる性質をもっていると思うのだ。それが何かが原因で後天的に幼いものをわずらわしく嫌いになるのではないかと思う。
かくいう私も6歳まで一人っ子で育ち、弟たちが次々生まれるまで、自分の下に小さい弟妹がいたらかわいいだろうと思ったものである。しかし次々と弟が3人生まれ、彼らの面倒を見るのが私の仕事になってきて、幼い子どもたちが嫌いになってしまった経験がある。
長女が子ども嫌いに
上の娘が結婚して5年ほどたった30歳代前半のころ、私は彼女に「あなた子どもを産まないの?」と聞いたことがある。すると彼女は「産まないことにしたわ」と言うので、理由を尋ねると、「私、子ども嫌いだから」とのこと。その上「お母さんだって嫌いでしょ」と言われてしまって、私はグーの音も出なかった。私はそれ以上聞けず、黙ってしまった次第。その後、娘の夫に聞いてみたが、「二人で話し合った結果ですから」と言われ、それ以上何も聞けなかった。本当の理由は何だったのだろうか?聞かなくても私にはわかる気がする。しかしはっきり言うのは、つらい。現在娘は50歳を過ぎ、趣味と実益を兼ねる好きな仕事をしながら、夫との生活を楽しんでいる。もちろん「子どもが居たら良かったのに」という言葉は聞いたことがない。
私の生き方が、彼女に子どもを持たない選択をさせてしまったのか、あるいは現在の社会状況がそのような選択をさせたかは、明確には分からない。
少子化へ進む社会
・・・・遅まき、見当はずれの行政の対応
これまで私が漠然と感じてきた「こんな世の中では、いずれ子どもを産む人が少なくなる」という思いが現実になってしまったということは、言えるように思う。少しでも出生数を少なくするか、産まないという選択をし、自分たちの生活をエンジョイしたいというのは、自然の成り行きである。男女ともに長時間労働で、しかも育児は母親がやるのは当然という社会的な意識のなかでは、特に母親はボロボロになってしまう。毎日新聞東京本社では、私が出産した後、数人の出産する女性社員が出たが、子どもさんたちが幼かった時期は、みな戦闘状態だったようだ。
ここ数年は、政府や地方自治体が保育園を作ったり、子ども・子育て支援のための方策を実施したりしているが、本当に今さら遅すぎる。実際、私の下の娘が出産して子どもを保育園に預けようとしたとき、それは私が自分の子どもを預けるために保育園を探してから30年も後のことになるわけだが、若干保育園の数は増えていたが、預ける子どもの数が増えているため、保育園不足は続いており、保育士の待遇は相変わらず悪く、少し良くなったのは、育休の制度が出来たくらいで、一体行政は30年間何をしてきたのかと思ったものである。
ただ金をばらまけばよいという見当はずれの施策が多かった。本当に男女が働きながら幸せな家庭を築くには、何を変えなければならないか。家庭の中だけではなく、労働の現場の意識や仕組み、制度を変え、社会の中へジェンダー平等の基本的な考え方をしっかりと根付かせることが重要だ。
人間が家庭を営んで、出産するのは当たり前のこと。その当たり前の生活ができないようでは、社会の形に歪みが出てくる。現在、私自身の若かった頃を思い返してみて、いつのまにか「子ども嫌い」になっていたということを前述したが、もの凄く悲しいことではないかと思うのだ。
2022年の日本の特殊出生率は1.30を割る公算が大きいという。最近聞いたところでは、韓国のそれは、0.78という。他人事ながら、空恐ろしさを感ずる数字である。人間の「幸せ」とはどういうものか?いま本当に真剣に考えなければならないことだと思う。
2023.3.11
(元販売企画本部 成田 紀子)
2023年4月10日
スマホ社会で、「面と向かう大切さ」を実践し、見せてくれたWBCの選手たち
=元運動部、江成 康明さんのブログ「なんか変だなぁ」3号転載


頭ではわかっていても、言葉だけで言い表すことのできないもどかしさを感じることがある。とくに、ネット社会に慣れ親しんだ若者たちに「スマホより直接対話」「オンラインよりFace to face」「メールより手紙」と言ってもなかなか理解してもらえず、私自身もそれ以上うまく説明できずにいた。要はメールやSNSで相手とのやりとりはできるし、面と向かわなくてもオンラインで意思疎通を図ることができる。Face to faceで相手の表情を察知することや万年筆で書く手紙のぬくもりの実体験が少ない若者に、その良さをいくら説明しても砂上の楼閣のようなものだった。
そんな状況がずっと続いていたのに、野球の世界一決定戦ともいえるWBCに出場した侍ジャパンのメンバーがいとも簡単に「面と向かう大切さ」を実践し、見せてくれた。世代を超えて初めて共有できたネット社会での共通認識だったのではないだろうか。一人一人のごく自然な身体性が醸し出した人間本来の伝える力。タイムパフォーマンス重視の時代では旧聞の話題かもしれないが、やはり書き残しておきたい。
選手の中で最も年長者であるメジャーリーガーのダルビッシュ投手がチームに早くから合流し、若い選手たちに投手としての心構えや球種を伝授した。身振り手振りの指導やメジャーでの体験話が、どれほど若い選手の心に突き刺さったか。気持ちを一つにするために、積極的に食事会も開いた。日本を代表する一流の選手たちだ。目を見ながら一言話せば、通じるだけの人間性も技量も持ち合わせている。直接対話で侍たちの絆は深まっていった。
一次ラウンドで不振に陥った村上選手の背中を後押ししたのもメンバーだった。プロという競争社会でありながら、村上選手の三冠王の実績を信頼し、励ましていたという。眉間のしわ、下を向きがちな目線、肩を落とす様は真剣勝負をする選手たちにとって他人ごとではない。スランプは誰にもある。声をかけた先輩がいた。背中をポンと叩く後輩がいた。目で頑張れという選手もいた。オンラインではできない臨場感のある全員の仕草を肌で感じていた村上選手が準決勝、決勝で大活躍したのは、記憶に新しい。
二刀流の大谷選手は身体全体で野球の面白さ、楽しさを満喫していた。目の前で躍動する姿を見せられれば、誰もが笑顔になる。一球一球声を出しながらの投球。ベースに立った時のベンチを鼓舞する全身でのポーズ。若手選手の緊張感を払しょくする冗談交じりのいたずら…。
そして、決勝戦の前には彼にしか言えない言葉でチームメイトを励ました。「きょうは(大リーグ選手への)憧れをやめましょう」。憧れを持っていたら、それだけで気後れしてしまう。大リーガーに勝るとも劣らず、の気迫の必要性はMVPにも輝いた彼なりの言葉であり、日本選手が初めて聞く一段上の思考だったはずだ。現場でしか叶えられないチーム間の心の交流でもあった。
吉田選手や近藤選手ら他の選手の存在も大きかったが、栗山監督が選手全員に手紙を書き、選手の部屋に置いておいたというのも、素敵な話だ。メールで済む時代だが、栗山監督は選手個々に対する思いを手紙にしたためた。選手たちが気持ちの高ぶりを抑えながら読んだのは、想像に難くない。
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WBCでの侍ジャパンに日本中が湧いた。誰もが知っているエピソードだろうが、スマホやメールなどの無機質な機器では到達できない「人間だからこそ」の心の通いを短期間に教えてくれた。これこそが、アナログ時代を経験してきた昭和生まれが伝えたかったことだったのではないか。「日本が世界一になってよかった」「野球が好きになった」というだけでなく、選手たちが、テレビで見ていた人たちがなぜあんなに明るく、楽しく戦えたのか、が何よりのヒントになる。今、ネットより大事なものを諭すには、「侍ジャパンの笑顔」というだけで済むだろう。
折しもこの春、コロナ危機から開放されて数年ぶりの送別会、歓迎会が各所で開かれている。テレビの映像には、マスクを取って対面で話ができる嬉しさ、喜びにあふれている。満開の桜名所を訪ねる人たちの会話も弾んでいる。大自然の中での語らい、肌に伝わるお日様や風の感触は人の脳をプラス回転にし、スマホに向かっているだけでは味わえない気持ち良さも運んできてくれる。
コロナ危機は、オンラインでも仕事や勉強ができることを証明した。今後さらにネット中心の世界になることは確実だが、人間同士が相手の表情や話し方などを感じながら生きていくことも不可欠だ。ネット社会に物申す、としたら、今が絶好のチャンス。侍ジャパンが「人間味」を思い出させてくれた。
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今回は誰にも笑顔をもたらした「すごく良かった‼」の出来事を書き綴ったが、よくよく考えると、人と人が会って会話をする大切さ、を言わなければならない時代そのものが「なんか変だなぁ」なのかもしれない。一人一人の気づきが広がれば、きっと何かが変わる。そう、信じている。
(元運動部、江成 康明)
江成 康明さんは 田舎人(いなかびと)と称して、長野県白馬村でペンション「白馬さのさか 憩いの宿 夢見る森」を経営。
2023年3月31日
福島清さんの活版工時代あれこれ ⑪活版からCTSへ
「新聞労働運動の歴史」(新聞労連編・1980年刊)によると、新聞各社は1970年の大阪万博を契機に、増ページと新聞制作工程の技術革新を競うように推進しました。活版のCTS(コールド・タイプ・システム)化、印刷の鉛板から樹脂版→オフセット化、ファクシミリ紙面伝送による分散工場印刷などです。
こうした動きの中で、活版も消えていく方向に踏み出さざるを得なくなりました。「毎日の3世紀」の「制作・技術小年表」で確かめてみると、毎日新聞各本社の活版からCTS移行への概要は以下の通りです。

1981.2.3中部本社サプトン方式移行で活字消える。
1982.10.2大阪CTS始動、1988.7.23全面移行。
1987.2.28東京CTS始動。
1989.1.31西部CTS全面移行。
1989.12.11付の、栃木・群馬版で活版制作終了。
毎日新聞から活版が消えたのは、1989年=平成元年12月ですが、天皇が亡くなった1月7日までは昭和でしたので「昭和と共に消えた」と言ってもいいでしょう。
なお、東京本社の印刷部門は1984.9.16に紙型鉛版からAPR刷版に移行したため、活版より一足早く紙型鉛版はなくなりました。
一方、まだ活版制作が続いているのに、1984年9月には東京本社の機構から「活版部」の名称が消え、制作一部になりました。この時、活版職場ニュースに「活版を残せー制作一部なんて名称変更は反対だ」と書きました。
東京本社CTS移行の経過
毎日新聞活版のCTS化は大阪本社が先行し、富士通と提携して「マルス」と名付けて1982年に始動しました。東京では1985年11月にCTS開発室を設置。室長は国保仁さん。室員は、新川清隆、太田忠男、大野裕朗、遠井信久、久米賢彦、清水敬之、原田繁、落合悟、石黒悦夫、近江真のみなさんと私。なぜ活版から私だったのか。当時、活版の幹部に「誰か出せ」と言ってきたら、直前まで職場ニュースに「活版を残せ」なんて書いている私ではなかったことは確かです。
5階の一室に設けられた部屋に行ったものの何から手をつけたらいいのかサッパリわからず。何しろ活版ならタテ1.1mm、横1.4mmのルビ活字からタテヨコ24mmの10倍板活字まですべては目に見えるのですが、コンピュータは見せてくれません。
「先行している大阪に行って、イロハから勉強してこい」と国保さんに言われ、11月20日から12月24日まで大阪本社へ研修に。活版で旧知の入口邦孝さんが中心になって特訓してくれました。大阪活版のみなさんが、簡単にLDPを操作している姿をみて、理屈はともかく画面上で組版ができることが実感でき、何とかなるだろうと感じた程度の「研修成果」でした。
余談ですが、私が大阪に行くことを知った労働組合活動で一緒だった大阪のみなさんが、歓迎会を開いてくれました。議事規則改正問題などで意見が分かれたみなさんも気持ち良く迎えてくれたのは余得でした。
1986年からは4階編集局へのLDP室工事、ホストコンピュータと端末機器の搬入が続き、並行して制作部員の研修を開始。まずは先行している大阪本社で紙面制作の研修を受けることにして、数チームを派遣しました。一方、CTS要員が抜けた活版の各部門には、OBのみなさんに特別嘱託として残っていただき、協力してもらいました。
こうして、1987年2月28日、始動式となり、3月1日朝刊ラジオテレビ面からCTS制作に移行していきました。
写真左は、始動式でテープカットする山内大介・毎日新聞社長(左)と、山本卓眞・富士通社長。右は始動式後の国保仁CTS室長らと大阪本社からの応援者を含む制作部員の記念写真。


以後、制作部員の研修の進行と合わせて、CTSへの移行を進め、政治面、社会面などが移行する節目には関係者に呼びかけて活版制作さよならの集いを行いました。
写真左は、政治面が移行した1988.12.28、右は社会面が移行した1989.5.31の3階活版場での記念写真。


(福島 清・つづく)
2023年3月27日
元政治部長佐藤千矢子著『オッサンの壁』を読んで

元政治部長、現論説委員佐藤千矢子さんの『オッサンの壁』(講談社現代新書)を読んだ。面白かった。こんな記者と取材競争をしたら、確実に負けると思った。
佐藤さんは、男女雇用機会均等法が施行された翌1987年に入社、初任地は長野支局だった。黒岩徹(元ロンドン特派員)と私(堤)は64年長野支局赴任だから、佐藤さんは私たちの23年後輩に当たる。
《私が最初にした朝駆け取材は、長野中央警察署に毎朝7時に行って、夜中に何があったかを宿直の警察官から聞き出すことだ。…最初の1年間、平日はほぼ毎日続けた》
当直主任が次長に前夜の報告をする前に、取材していたのである。申し訳ない。私もサツ回りをやったが、事件以外で朝7時にサツに行った経験はない。
佐藤さんは、社会部を希望したが、政治部に配属される。90年春、山田道子さん(のちサンデー毎日編集長)と一緒だった。
《毎日新聞の政治部に女性記者は、それ以前に1人在籍していたことはあったが、短期間で外信部へ異動してしまっていた。本格的に女性記者を採って育てようとし、2人をいっぺんに異動させてきたのだった》
ときの政治部長は、64同期入社の上西朗夫(のち下野新聞社長)である。《部長自身は、福田赳夫元首相に食い込み、外交・安全保障にも詳しく、政治記者の王道を堂々と歩んだような人だった》
佐藤さんは、「女岸井」とあだ名が付けられたことがあった。《政治部の1年目は最長で5日間ぐらい風呂に入らず、仕事をしていた時があった》
「NEWS23」のキャスターとなった元政治部長岸井成格(2018年没73歳)は、風呂に入らないことで有名だった。《憧れの先輩にちなんだあだ名で呼ばれることは光栄なことであったが、そこに込められた意味は「ようやく男並みに仕事をする女の政治記者が出てきた」ということだったのだろう》
岩見隆夫(2014年没78歳)も実名で出てくる。《一緒に飲んで酔っ払い、「やり残したことは」と聞かれると、「政治部長」と言うことがあった》
岩見は、58年入社、大阪社会部→東京社会部→66年政治部。ロッキード事件政治部取材班キャップ。上西ら若手記者とともに「三木武夫首相降ろし」「灰色高官」などで精力的な報道をして特ダネを連発した。政治部デスク→秘書室長。経営危機の毎日新聞社が負債を旧社に残して新社を発足させ、その新社社長平岡敏男に請われて秘書室長就任だった。
その後、論説委員→「サンデー毎日」編集長→編集局次長→編集委員室長などを歴任するが、コラム「近聞遠見」で92年、日本記者クラブ賞を受賞した。
脇道に逸れるが、社会部のやり手記者ヤマソウ・山崎宗次(1987年没52歳)も「社会部長」にほぼ内定しながら当時の広告局長から貰いがかかった。岩見と同様のケースだ。
佐藤さんの2年間の政治部長が終える送別部会。《司会者が私についての挨拶を忘れて、送別会を終わろうとした》とあるから、びっくりだ。《「佐藤さんは、女性部長としてよく頑張ったと思います」。近くで聞いていた別の記者が「微妙な挨拶だな」と笑った》と続けている。コラム「風知草」の山田孝男元政治部長は《「あんなに雰囲気のいい政治部を作り上げて十分じゃないか」》。
◇
講談社現代新書のHPには、以下のように紹介されている。
永田町 「驚きのエピソード」
・総理秘書官の抗議 「首相の重要な外遊に女性記者を同行させるとは何ごとだ!」
・夜回り取材時、議員宿舎のリビングで、いきなり抱きついてきた大物議員
・いつも優しい高齢議員が「少しは休みなさい」と布団を敷き始めた……さて、どうする?
政治記者の「過酷な競争」
・事実無根の告げ口をされ、梶山静六に激怒される 「あんたが漏らしたのかっ!」
・空恐ろしかった一言「女性で声が一人だけ高いから、懇談の場の空気が乱れるんだ」
・毎朝の「ハコ乗り」競争、夜の「サシ」取材……入浴時間を削って働く激務の日々
男性でもオッサンでない人たちは大勢いるし、
女性の中にもオッサンになっている人たちはいる。(本書より)
(堤 哲)
2023年3月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その24 渋谷—駅周辺の再開発と渋谷川沿いの景色(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496876.html
前回にも書いた大学写真部の旧友たちと、昨年の12月9日と今年の1月13日、渋谷を歩いた。
12月9日の待ち合わせ場所は渋谷駅のハチ公前。最初に渋谷ヒカリエの11階から渋谷駅周辺の再開発現場を展望。それがph1~ph3の写真である。ph4は4階にある庭園でのスナップ。ph5は宮益坂から見た渋谷川上流方向の跡地(写真はph1のみ掲載)。
それより、渋谷センター街を抜け、再開発のため近々閉店するという東急百貨店本店と併設のBunkamura(文化村)を一目見たあと、その南側の斜面にある道玄坂のラブホテル街と百軒店商店街を歩いてまわった。さらに駅南側の再開発のようすをのぞいてから、渋谷川に沿って並木橋まで歩く予定だったが、あちこちで道草をすることが多く、途中で陽が落ちてしまった。
そんなことから、歩き損なった渋谷川の部分は、目的地を並木橋から天現寺橋付近までに延長し、年の明けた1月13日に改めて歩いてみることになった。ph6~ph20(写真は割愛)は、その日にスナップした渋谷駅周辺と渋谷川沿いの街並みである。
渋谷は周りを丘陵に囲まれた谷間にある。その中央を南北に流れていたのが渋谷川である。1885(明治18)年、その流路に沿って日本鉄道品川赤羽線(現JR山手線・同赤羽線)が敷設され、渋谷停車場(現渋谷駅)ができた。渋谷川の渋谷駅より上流は1964(昭和39)年の東京オリンピックまでに埋め立てられた。上流には隠田川と宇田川(河骨川)二つの流れがあり、渋谷駅北側の宮下公園南側で合流していた。
渋谷川の川名はこの合流点から天現寺橋までの通称である。江戸時代の渋谷は上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村に分れていた。渋谷駅の辺りは中渋谷村で、天現寺橋の架かる広尾のあたりは下渋谷村に属していた。上流の一つ隠田川は、神宮前公園(神宮前6丁目)から宮益坂までの流域が上渋谷村に属していた。もう一方の宇田川は、現在の宇田川町の中央を東南方向に流れていた。その流路跡が井の頭通りになるが、この宇田川町の一帯もやはり上渋谷村の内だった。
渋谷は街歩きの会でこれまでも何度か歩いている。
最初に歩いたのは2013年だった。メンバーの一人福田和久君の話では、渋谷は渋谷駅を中心にした大規模な再開発計画が進行中で、これから10数年をかけて、大きく変貌しようとしている。この年の3月15日には、その計画の一つとして、東急東横線の渋谷駅から代官山までの線路が地上から地下に切り換えられる、というのである。そこで、まず1月18日に宇田川町と道玄坂あたりの繁華街を歩いたあと、翌月の13日、東横線に沿って代官山から渋谷までを歩くことになった。

福田君は大学写真部の1年後輩である。彼は神宮前2丁目で生まれ育ち、いまもそこに住んでいる。子どものころは、すぐ近くを渋谷川(隠田川)が流れていた。しかも勤め先の音楽会社は自宅から歩いてせいぜい10分のところにあった。
そもそも私たちが街歩きを始めたのは、2011年に彼が定年退職したのがきっかけだった。彼と同期の宇野敏雄君によると、本人はこれから暇になるから街歩きをするつもりだということである。宇野君と3年後輩の柏木久育君と私は、大学を卒業した後も、月に一度は顔をあわせる間柄で、それぞれ街歩きを続けていた。
それなら、いっそのこと、4人で街歩きを始めたらどうだろう、と提案してみた。多久彰紀君や伊勢淳二君も同じ年回りだから、いずれ近いうちに暇になる。誘ってみれば、彼らも乗ってくるに違いない。というようなことで、4人が6人になり、やがて菊池武範さん、鈴木淑子さん、笹井温迪君も加わり、会員は9人になった。
私たちの会は誰が中心でもなければ、規約のようなものもない。街歩きの探索地はみんなで相談し、いまは案内役と下見役を、都心の近くに住む宇野・福田・柏木の3君が引き受けているが、もとは祭礼の頭屋や念仏講の寄合いのように持ち回りにしていた。当日は、12時に集合し、4時間ほど歩く。そのあとは飲み会。コロナ渦のいまは1時間か1時間半に自粛しているが、ふだんは街歩きより長くなる。(以下略)
2023年3月13日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑰最終回 ——若手写真家を発掘した「カメラ毎日」編集長・山岸章二



写真家立木義浩がデビューしたのは『カメラ毎日』1965年4月号「舌出し天使」だった。56㌻にわたって掲載された。当時27歳。《雑誌に写真集が綴じこまれた感じを出すのが、本号のねらいでした。…この試み、カメラ雑誌はじまって以来のことですが、立木氏のシャープな感覚や混血のモデル山添のり子さんをはじめ、友人、知友のあたたかい協力など、その内幕も話題豊富な企画でした》と編集後記にある。筆者Uは、後のカメ毎編集長宇野嘉彦デスクであろう。
写真構成・和田誠、詩・寺山修司、解説・草森紳一。《夢をみている時、いくら奇妙であっても私たちは波間に漂うイカダのようにただ運ばれていくにすぎないが、この「舌出し天使」のページも波間のイカダのようにめくっていきたい……》
この企画は、編集部員山岸章二が取り仕切った。その後、森山大道、奈良原一高、高梨豊、横須賀功光、大倉俊二、沢渡朔らを特集。「カメ毎」は若手写真家の登竜門となった。山岸は「山岸天皇」とも呼ばれ、カリスマ編集者となった。
編集長は、金澤秀憲(喜雄、2006年没94歳、写真部記者列伝③で紹介)だった。金澤は「カメ毎」創刊時に招いた写真家ロバート・キャパにアテンド、「編集長時代、写真は山岸章二、メカは佐伯恪五郎に全部任せた」といっていた。
カメ毎編集部の実力者、山岸と佐伯の頭文字から、カメ毎は「山佐商会」と呼ばれた時代があった。
この原稿を書くために調べていたら、立木義浩夫人美智子さんは、元毎日新聞記者大島鎌吉(1985年没76歳)=1932年ロス五輪三段跳銅メダル、1964年東京五輪日本選手団の団長=の娘さんと分かった。
「激写」の流行語を生んだ篠山紀信は日大芸術学部写真科、東京綜合写真専門学校を卒業しているが、その卒業制作が「カメ毎」63年4号に掲載されている。篠山が22歳の時の作品である。

これは金澤の前任岸哲男編集長の時だが、山岸が発掘したのだろうか。
72年10月号には、荒木経惟(当時32歳)の妻「陽子」が10㌻特集で載っている。
山岸は、1949(昭和24)年3月仙台工専(現東北大学工学部)を卒業、同年12月、毎日新聞に入社した。この時、同時に3人が写真部配属になったが、他の2人は佐伯恪五郎(山岸の後のカメ毎編集長)と中西浩(のち東京本社写真部長)だった。山岸と佐伯は郷里が長野県上田市で一緒。中西は、戦後の学士カメラマン第1号といわれた。
ところが山岸は結核を罹って病気療養、54年3月内勤の調査部へ。カメ毎に異動したのは58年8月だ。佐伯はカメ毎創刊時からのスタッフで、佐伯の誘いがあったと思われる。69年10月デスク、76年3月編集長。
その間、1971 年渡米してMOMA(ニューヨーク近代美術館)ジョン・シャーカフスキー写真部長と知り合い、J・H・ラルティーグ、ダイアン・アーバス、リチャード・アベドンの3人展を日本で開催。1974 年にはMOMA の『NEW JAPANESE PHOTOGRAPHY』展にディレクターとして携わった。
78年5月、50歳を前に退職。ライバル誌の編集長に請われて79年1月号から「アサヒカメラ」で写真時評「New Frankness」の連載を始めた。
《毎月率直、淡白、正直(研究社『新英和大辞典』FRANKNESSの項)に書きましょう。それも所詮、時代や状況にはまってのでしかないだろうから、そこにNEWをつけることによって、より旧態にとらわれぬ、そんな覚悟です、と》
第1回の見出しは《都美術館「写真と絵画」展は器ばかりで中身不在だ》だった。
連載の9回目、79年9月号は遺稿だった。その見出しは《画一化のいっぽうで地域文化をどう再編成していくか》。山岸が、51歳の誕生日に自殺したのだ。
山岸からカメ毎に誘われて、最後のカメ毎編集長となった西井一夫(2001年没55歳)が『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(窓社・2002 年)でその死を悼んでいる。
◇
「カメ毎」歴代編集長は、以下の通りだ。
① 井上繰次郎:1954年6月創刊号~。24(大正13)年入社。戦後2代目の東京本社写真部長、サン写真新聞編集局長。早大山岳部・スキー部の創設時の部員で、1953年サンモリッツ冬季五輪の記事を「毎日年鑑」に書いている。編集方針は「美しく楽しい写真雑誌」。表紙にカラー写真を使ったのはカメラ誌で初めてだった。戦前下野新聞主筆を務めた。1971年没70歳。
② 山下誠一:57年1月~。31(昭和6)年入社。社会部→整理部。戦前セレベス新聞、マニラ新聞へ出向。戦後54(昭和29)からカメ毎編集部。1963年没54歳。
③ 岸哲男:58 年1月~。写真評論では第一人者だった。《「カメ毎」を6年間編集してつねにイライラさせられたのは、新聞社の出す雑誌でありながら今日ただいまのニュースがすこしも盛りこめないことであった》と書き残している。著書に『写真ジャーナリズム』(ダヴィッド社69年刊)、『戦後写真史 解説・年表』(同74年刊)。59 年1 月号から1年間、土門拳「古寺巡礼」を連載。『土門拳の世界』(土門拳記念館85年刊)を出版した。2002年没93歳。
④ 金沢秀憲:63年8月~。2006年没94歳。このHP写真部記者列伝③で紹介。
⑤ 依田孝喜:66年9月~。1998年没81歳。このHP写真部記者列伝②で紹介。
⑥ 宇野嘉彦:72年10月~。46年入社。サンデー毎日→54カメ毎編集部。2017年没91歳。
⑦ 北島 昇:75年8月~。48年入社。68年点字毎日編集長。カメ毎編集長から76年昭和史「20世紀の歴史」編集長。1988年没65歳。
⑧ 山岸章二:76年4月~。1979年没51歳。
⑨ 佐伯恪五郎:78年6月~。2004年没76歳。
⑩ 武田忠治:82年3月~。55年入社。京都支局→大阪社会部→サンデー毎日。「旅にでようよ」デクス→図書第4部長から就任。編集長経験者で唯一存命。2月に93歳の誕生日を迎えた。元気だ。
⑪ 西井一夫: 84年2月~。1985年4月号をもって休刊。通刊379号。2001年没55歳。
1926年創刊で日本最古のカメラ誌を誇った「アサヒカメラ」は2020年7月号で休刊。「日本カメラ」(1948年創刊)も2021年4月号で休刊。日本の3大カメラ誌が消えた。




◇
最後に元「東京日日新聞」カメラマン佐藤振寿。カメ毎1980年3月号から「新聞写真の軌跡」の連載を始めた。1回4㌻だからかなりの分量だ。新聞写真の歴史から始まって、自身のカメラマンとして体験談など、休刊の85年4月号が連載第37回。三島事件で総監室に2人の首がころがった写真を朝日新聞が掲載したが、その撮影した模様を書いている。

《新聞写真の特ダネはどこにあるかわからない。ただ事件にあったカメラマンの好運、その撮影努力によって結実するものである。(未完)》
「未完」が残念な思いを語っているように思える。まだまだ続けるつもりだったのだ。
佐藤は、従軍記者として南京入城を撮影(1948年12月17日)。社会部の従軍記者から頼まれて「百人斬り競争」の将校2人の写真を撮ったことで知られる。
履歴に1932(昭和7)年入社。37(昭和12)年9月~翌年2月まで上海・南京方面、39(昭和14)年2月~10月南支方面従軍取材。41(昭和16)年病気のため退職。
その後、写真協会「報道写真」編集部、戦後は時事画報の「フォト」編集長を務めるなど写真ジャーナリストとして活躍した。2008年没95歳。
(堤 哲)
2023年3月6日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑯ ——「サン写真新聞」1946~60で活躍のカメラマンたち
作家戸川幸夫(1912~2004)が社会部から「サン写真新聞」取材部デスクになったのは、創刊3か月後の1946(昭和21)年7月21日付けだった。当時35歳。
「サン写真新聞」は、タブロイド判で横組、4㌻。写真を主体にする画期的なビジュアル新聞だった。しかし、売れ行きはイマイチ。「何かドギモを抜くようなことをやらねば」と、戸川は警視庁鑑識課から入手した小平義雄事件の被害者である若い女性の全裸の死体写真を掲載したのだ。8月21日付けの1面だった。
《その反響は大きく「アッという間に売り切れ続出です」》
戸川は、復刻版『サン写真新聞 戦後にっぽん』(毎日新聞1989刊)に書き残している。


◇
《雨後の筍といはれた新興諸紙の中にカメラで飛び込んだ「サン写真新聞」は百号を満たぬのに一日の発行部数11万を割らぬ立派な竹に成長してしまった。「ここまで来ればもう大丈夫」》
社報は、こんな前書きをつけて、出向者の名前を羅列している。
写真部から「サン」への第1陣は、木村謙二(初代部長)、阿部徹雄(第3代部長)、片桐幸、岩本重雄の4人。 第2陣に、石井清、石井周治、寺尾勇、鵜殿七郎、納富通。 第3陣(47年8月)で安保久武(第2代部長)、染谷光雄、桜井敬哉、尾野勇、吉村正治。
納富は「キミ、明日からサン写真に行ってくれ」と当時の井上繰次郎写真部長からいわれたという。暗室も当初は共用していて、本紙写真部との交流人事は日常茶飯だった。
他に大沢勇之助、大山正己、酒井慎一、仁礼輝夫、山内巌、吉田達二ら(五十音順)。
48(昭和23)年入社で、当時最若手だった川島良夫は、ことし2月17日に97歳の誕生日を迎えた。川島は、ベトナム戦争でゲリラの兵士たちに捕まった。40年後その兵士に再会、元外信部の北畠霞と共著で『ベトナム戦場再訪』(連合出版2009年刊)を出版した。
サン写真新聞OB会「同人会」の幹事を長く務めていた。


サン写真新聞社は、週刊サンニュースを発行していたサン・フォト・ニュース社と毎日新聞社が共同出資して設立。初代社長は山端祥玉(長男山端庸介は長崎原爆投下直後に写真撮影したことで知られる)。元写真部長三浦寅吉(写真部記者列伝⑤で紹介)はサン・フォト・ニュース社の専務を務めており、「サン写真新聞への道を拓いたのは三浦写真部長」と安保は毎日新聞東京本社写真部OB会編『【激写】昭和』(平河出版社1989年刊)に書いている。
サン写真新聞社の2代目社長は森戸武雄、3代目は石川欣一、4代目一色直文。いずれも毎日新聞OBだ。石川は大毎の第2代写真部長だった。戦時中、マニラ新聞に出向となり、敗戦で「新聞報道関係者23名の先頭に立って米軍に投降」(『比島投降記』)。帰国後、出版局長から3代目社長になった。米プリンストン大学出身、NY特派員・ロンドン支局長を務め、寝言も英語でしゃべったといわれた。




「フューチャー写真は、サン(写真新聞)で学んだ」と、カメラマン吉村正治(写真部記者列伝⑨で紹介)がよく言っていた。
しかし、残念ながら1960(昭和35)年3月31日で休刊となった。
その復刻版を企画したのが、「毎日グラフ」別冊編集長田中薫(2017年没76歳)だ。『サン写真新聞 戦後にっぽん』全15巻を予定したが、1989~90年に10巻まで出版、残り5巻は出なかった。田中は退職後、宮崎公立大学教授となり、「『サン写真新聞』と写真ジャーナリズム」を同大学の紀要に書いた。思うように売れずに、出版中止の命令が出た。
◇
丸の内のオフィス街に新聞全紙を配る丸の内新聞事業協同組合の理事長を長く務めた古池國雄(元毎日新聞東京本社販売局長、2013年没92歳)は、海軍士官で終戦を迎え、サン・フォト・ニュース社に入社。最初の仕事が「サン写真新聞」創刊の下働きで、「社名と題字の登録商標をとりに当時の商工省へ、立ち売り(即売)の場所の使用許可を取りに警視庁へ行きました」と話していた。
「サン写真新聞」創刊から100号まで、現物をファイルしていた。復刻版を発行する時に大いに役立ったと自慢していた。
(堤 哲)
2023年3月1日
福島清さんの「活版工時代あれこれ」 ⑩活版が賑やかだった頃

新聞各社は1970年代から紙面制作方式を活版からCTS(コールド・タイプ・システム)への切り替えを開始し、朝日新聞は1980年に築地に移転すると同時に、活版方式から「ネルソン」と称した全面CTSに移行しました。毎日新聞も1969年にサプトンによる案内広告のCTS制作を開始しましたが、まだ小規模で、活版制作が主流でした。
その頃の活版部は、1970年2月1日現在の「活版部人名表」によると総数は348人。各課の構成は以下のようになっていました。
活版部(部長、副部長、部付など) 10人
活版管理課 4人
さん孔課(原稿をさん孔機で入力) 45人
文選課(採字=活字を手で拾う) 42人
(ラドロー=見出し文字作成) 11人
(モノタイプ=文字自動鋳造機)31人
組版課(植字) 41人
(大組) 79人
広告組版課(広告版下作成) 31人
整備課(活字・インテル鋳造と補充) 26人
インタータイプ課(英文毎日) 28人
活版部には入社年月順の「勤続表」がありました。1966(昭和41)年4月のそれをみると、毎年の入社数はバラバラ。筆頭にいる54歳・勤続41年の湯川佐平さんは、1925(大正14)年3月入社ですから10歳で入社していました。戦前の1930(昭和5)年以降、敗戦の1945年までも毎年採用したでしょうが、詳細は不明です。戦後の1946年以降はどっと増えて、夕刊発行再開の1953年には何と37人も採用しました。55歳定年ですから全体に若く、1966年の平均年齢は34.7歳でした。
応召・入営休職者の苦悩を想像する
「❾太平洋戦争と活版工」で昭和20年3月1日付「毎日新聞社工務局人名一覧表」を紹介しましたが、活版からの応召者は47人、入営休職者(人名一覧表の数には入っていないので無給で在籍ということか)が20人いました。これらの方々の応召先は中国、朝鮮なのか国内かは不明です。

有楽町時代、夜勤で仕事が一段落して雑談になると、中国へ派遣され敗戦で帰還した先輩は、戦中の慰安所通いの体験などを話した一方、全く寡黙でひたすら仕事をしている人がいました。同じ植字にいたHさんもその一人で、毎日4合瓶の日本酒を持ってきて植字台の下に置き,呑みながら仕事をし、時間がくると平然として帰っていきました。亡くなられて弔問に伺った時、ご家族は「詳しいことは話しませんでしたが、戦地で大変な苦労をしたようです」と言っていました。
この工務局人名一覧表で、応召の◎印が付いている人と入営休職者のほとんどは、名前と顔が思い浮かびます。これらの先輩たちは、1980頃にはみな定年退職でいなくなりました。人名簿にはありませんが、在職中に戦病死された社員もいたはずです。
東京本社で最大人数だった「活版部」
1975年5月1日付東京本社職員録で、各部別の人数を見ると、活版部は394人で最大です。次いで印刷部346人、これに印刷局写真製版部56人、紙型鉛板部104人を加えると、印刷局総数は特別嘱託、組合専従含めて976人。一方、編集局は地方機関含めて331人、販売局436人(内発送部が319人)、広告局128人。このほかに出版局、経理局などがあります。
東京本社総計では、社員3,204人、嘱託18人、事務補助員40人、特別嘱託165人、組合専従4人となっていますので、約1割が活版部員だったことになります。
かつてある編集関係者が、賃金体系問題をめぐって「ミソ(編集)とクソ(現場労働者)を一緒にするな」と言いました。しかしその後の毎日新聞労組の運動は、ミソとクソが団結して発展させたのです。
技術革新はクソを追い出し、インクで手を真っ黒にした活版大組はなくなり、印刷は別会社です。技術革新全てを否定するものではありません。技術革新下でバラバラにされた労働者と市民が団結して闘うために何が必要か、何をすべきかを考える時だと思います。
(福島 清・つづく)
2023年2月27日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑮ ――何枚も写真を撮らなかった津川政二郎


西部本社の写真部長も務めた津川政二郎は、シャッターをバシャバシャと切らないので有名だった。「これ」という決定的瞬間だけ撮ればよいという考えだ。
この先輩カメラマンと会津に出張した。百歳の誕生日を迎えるおばあさんの取材だった。子、孫、ひ孫、玄孫139人に囲まれて、と思っていたら、お宅を訪ねると、誕生日の2日前に急逝したというのだ。
さぁ困った。おばあさんはチャンチャンコが縫うのが得意で、百歳記念のお返しに「寿」のノシをつけて贈ることにしていて、チャンチャンコ27枚が残された。
この話を隣に座って聞いていた津川が「それを物干し竿にかけていただけますか」と頼んで撮ったのが、この紙面である。4、5枚撮ったのだろうか。
手前にコスモスが咲き乱れ、向こうに茅葺の農家。センスあふれるワンショットだった。
◇
西部本社は、報道部写真課から1958(昭和33)年7月1日独立課となった。その初代課長が日澤四郎。その後国平幸男→岩本重雄→大沢勇之助と続き、津川は70(昭和45)年4月に第5代写真課長となった。翌71(昭和46)年2月に写真部に昇格、初代部長になった。
その後、東京本社に転勤になり、一緒に仕事をする機会に恵まれたわけだ。両切りピースをうまそうに吸う、おしゃれでダンディな津川さんを憶えている。2008年没82歳。
津川さんは、こんな写真も撮っている。「天皇陛下(昭和天皇)のネクタイのゆがみに気づかれた皇后さま(香淳皇后)がニコニコされながら直してさしあげた。急いでシャッターを切ったが、スピグラでは1枚がやっとのチャンスだった。
東京五輪では柔道を担当したからこの紙面の写真も津川撮影だ。
(堤 哲)
2023年2月20日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑭ ——「動物写真の草分け的存在」といわれる岩合徳光


この2枚の新聞切抜は、岩合徳光(2007年没91歳)の動物写真の新刊を紹介する朝日新聞の読書面である。
サンショウウオの写真をあしらった『カメラ動物記』(地人書館1959年刊)は、59(昭和34)年12月13日付。「作者は毎日新聞社のカメラマンだが、一枚一枚の写真に深い研究と苦心が読みとれる。動物学的興味だけでなく、観察写真としても美しく、楽しい写真集だ」
右の『滅びゆく日本の野生』(河出書房新社1975年刊)は、75(昭和50)年7月21日付。「動物の写真と取り組んで20年の著者は、この写真集の出版を思い立ったとき、日本の野生動物への“生命の讃歌”としたかったのだが、結果は滅びゆく野生動物の哀歌になってしまった、と嘆いている」
◇
岩合は北海道釧路市生まれ。日大経済学部を中退して、1942(昭和17)年5月、満州の大連日日新聞のカメラマンとなった。敗戦で帰国して48(昭和23)年7月、毎日新聞東京本社の6階にあった「サンニュースフォト」に入社する。前年11月に創刊した「週刊サンニュース」の編集長は、名取洋之助。ドイツで体験した「フォト・ルポルタージュ」(「報道写真」はその和訳)の写真誌だった。
3か月後には毎日新聞写真部へ転社。49年春には「暗室から解放され、スピグラを持たされた」が、翌年6月から出版物の写真を専門に撮るようになった。
「サンデー毎日」昭和25年10月15日号に、昭和天皇の長女東久邇成子さんと三女鷹司 和子さんのスナップ写真が載っている。姉妹で銀座に買物と説明にある。
「毎日グラフ」昭和27年8月20日号、上野動物園で撮影のサイをグラフで組んでいる。この年は、上野動物園が創立70周年。連日のように通って、チンパンジーやゴリラ、キリンなど動物写真をものにした。同時に小動物の産卵などを接写で撮影、「接写の岩さん」と呼ばれた。


岩合は、1961(昭和36)年に退社して動物カメラマンとして独立する。毎日新聞在社13年余だった。


『カメラ動物記』のあとがきにこうある。「小さな虫、魚、卵などに長い接写リングをつけ、ある時は、超望遠レンズのファインダーを夢中になってのぞく生活をしているうちに、生きるものが、それぞれに黙々と“種の保存”のために懸命の努力を重ねている姿が一番好きになっていることを自覚したのだ」
在職中に一番世話になった人に、先輩カメラマン二村次郎(1994年没、80歳)をあげている。二村は、報知新聞から1938(昭和13)年入社。東京五輪を前に63(昭和38)年8月に新設された出版局写真部の初代写真部長。「蚊のオシッコ」や「ノミの飛翔」の撮影に成功した動物写真の先達である。


猫の写真で有名なカメラマン岩合光昭さん(72歳)は、息子である。
(堤 哲)
2023年2月13日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑬ ——軍の焼却命令から戦時中の写真を守った大阪写真部長・高田正雄
——毎日新聞大阪本社には、日中・太平洋戦争期に特派員が海外で撮影した写真・ネガが6万点以上、保管されています。写真を入稿・掲載、検閲の記録などとともに整理したアルバムも69冊あります。これらを「毎日戦中写真」と呼び、戦後80年の2025年に向け、デジタルアーカイブ化を進めています。
昨年6月18日、東京大学福武ホールで開かれた「デジタルアーカイブ」開発計画の発表会で配られたパンフレットにこうあった。
渡邉英徳・東京大大学院教授、貴志俊彦・京都大教授らとの共同研究で進められる事業だが、6万点の写真を守り通した最大の功績者が、1941(昭和16)年6月から終戦の翌46(昭和21)年まで大阪本社の写真部長を務めた高田正雄(1973年没74歳)である。

胸に日報連のバッジ
「写しとめた厖大なネガは、日本歴史の貴重な資料であり、私たちカメラマンの血のかよった分身である」
軍の焼却命令に従わなかった心境を、日報連(日本報道写真連盟)会報「報道写真」1962年2月号にこう書き残している。
この戦中写真が、「一億人の昭和史」シリーズ発行につながった。そして今回の創刊150周年記念事業「毎日戦中写真」アーカイブプロジェクトである。
日本写真協会も1966年6月1日の「写真の日」に「貴重なネガを守り通した」という理由で功労賞を贈っている。
高田さんは、立志伝中の写真部長だ。満10歳から大毎で働いている。夜学に通った。
カメラマンになったのは、1919(大正8)年印刷部写真製版場勤務になってからだ。この写真部記者列伝⑪で紹介した従軍カメラマン第1号・二瓶将が写真製版場の場長を務めていた。
「私の修業は、誰よりも早く出社して暗室の掃除、現像薬品の整備」。ときにカメラマンと取材に出掛けて、「ポンタキ」の下働き。二瓶将から直接写真の撮り方を教えられたのだろう。
そして1936(昭和11)年のベルリン五輪特派員となり、大活躍する。37歳だった。
大毎・東日の取材陣は、ベルリン支局長加藤三之雄、ロンドン支局長南條眞一、パリ特派員城戸又一の他、陸上の大島鎌吉ら5人の記者が各競技団体の役員として現地入りした。
しかし、カメラは高田1人である。夜間にまで及んだ棒高跳び決勝。「友情のメダル」大江季雄と西田修平選手の銀・銅メダルの表彰式も撮った。水泳では「前畑がんばれ」の放送で一躍有名になった女子200㍍平泳ぎ金の前畑秀子。男子200㍍平泳ぎ金の葉室鉄夫(のち大毎記者)銅の小池礼三。マラソンでは日の丸をつけて金メダルの孫基禎。
競技写真ばかりか、雑観写真もいっぱい撮っている。
8月1日の開会式を報じる号外は、朝日新聞と競争だった。撮影したフィルムを空路モスクワ→ウラル山麓スウェドロフスク→シベリア横断列車で満州(中国東北部)へ運び、そこから自社機で大阪へ運んだ。ベルリンから大阪まで1万余㌔、7日と18時間2分かかった。
欄外の日付は、昭和11年8月10日である。朝日新聞もこの日に号外を発行した。相討ちに終わった。題字下に「高田本社特派員撮影」とゴシック体の大活字が入っている。


高田特派員は、開会式でヒットラー総統を撮影している。

カメラマン時代の高田さんを「ニッカーにスポーティーな上着、鳥打帽姿もさっそうと毎日の写真を一人で背負う気概でした」と写真部の後輩石川忠行が社報の「故人を偲んで」に綴っている。
1939(昭和14)年写真部デスク→41年写真部長。54年に55歳定年退職後は、日報連理事として、アマチュアカメラマンの指導にあたっていた。
日報連は、1951(昭和26)年4月24日に発生した桜木町事故で、読者が投稿した炎上する電車の写真が1面トップを飾ったことをきっかけに、アマチュア写真家の組織化を図ろうと、その年の11月3日、文化の日に創設した。土門拳、木村伊兵衛、渡辺義雄らが理事となり、会員は3か月ほどで1万人を超えた。ニッポンの「N」に、赤・黄・青・紫のフィルターをあしらった日報連のバッジも人気だったという。残念ながら2021年3月31日解散した。

ネットで検索したら、毎日新聞が出版した『新日本大観』の表紙に京都の石庭を撮っていた。
(堤 哲)
2023年2月6日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑫ ——「写真課」誕生、初代課長は「東日」西牧季蔵、「大毎」北尾鐐之助
東京と大阪の編集局に「写真課」が新設され、写真課長が発令されたのは1931(昭和6)年5月8日だった。
その時の職員録が残っている。
<東京支店>東京日日新聞写真課 課長:西牧季蔵
課員:関本虎蔵、橋本芳衛、三浦寅吉、山中宏、唐澤貫一
<大阪本社>大阪毎日新聞写真課 課長:北尾鐐之助
課員:半田義士、堤謙吉、高田正雄、松尾邦蔵、石川忠行(準社員)
東日の初代課長・西牧季蔵は整理畑出身で、それ以前に写真場長、整理部撮影係監督をしている。札幌・千葉各支局長のあと、1939(昭和14)年に写真部長に返り咲いた。
1977年没89歳。社報の追悼録で、入社3年目に写真部長として仕えた26歳年下の石井清(大阪・東京両本社で写真部長、「カメラ毎日」創刊号の表紙を撮影)が「謹厳で朴とつな人柄。『定年になったからと老け込むな。オレは80歳を超えたが元気だぞ』と年賀状に書いてきた」と綴っている。
大毎の北尾鐐之助は、1913(大正2)年大毎社会部入社。整理部→写真場長となり、「写真研究」の名目でアメリカ出張。その報告を本紙に連載し、26(大正15)年「あめりか写真紀行」を出版した。写真もなかなかの腕前だ。


26年1月「サンデー毎日」第3代編集長(当時は編纂課長)。5月には「日本写真美術展」を大阪、ついで東京で開催した。全国規模の写真展は初めての試みだった。
映画「新聞時代」制作の監督を務め、29(昭和4)年3月に完成、松竹系映画館14館で一般公開した。これは販促のツールに使われた。
35(昭和10)年8月にはフォト・マガジン「ホームライフ」を創刊した。北尾編集長は、「社会文化の波のうごきを文字からでなく、写真によって美しく視覚化された雑誌」をうたった。創刊号には、北尾が撮影した「打出の家・谷崎潤一郎夫人松子さん」をはじめ、大毎では松尾邦蔵、半田義士、高田正雄、石川忠行、東日では藤本健爾、橋本芳衛、佐藤振寿、山中宏の作品が掲載されている。



表紙は洋画家の高岡徳太郎。翌11年9月号から1年間は藤田嗣治が描いている。
終刊は40(昭和15)年12月。わずか5年だったが、2007年に「幻の高級グラフ雑誌『ホーム・ライフ』を完全復刻」とうたった復刻版が発売された。B4版2536㌻。定価28万5千円+税。版元は柏書房だ。
北尾は1925(大正14)年に発売されたライカをいち早く入手して、大阪の街を歩いて『近代大阪』(創元社1932年刊)を刊行。文章も軽妙だった。大毎にコラム「茶話」を連載していた学芸部記者薄田泣菫に褒められるほどで、いくつもの著作をものにしている。
写真課長から1933(昭和8)年10月新設の大毎初代写真部長。1970年没86歳。
大毎写真部長は、そのあと石川欣一→角井龍之介→高田正雄で終戦を迎える。
一方、東日写真課は、西牧のあと小林万之介→大野木繁太郎、1936(昭和11)年4月、大毎より2年半遅れて写真部に昇格、初代部長に校正部長から弓館芳夫(小鰐)が就いた。弓館は、1903(明治36)年に第1回早慶戦が行われたときの早大野球部のマネジャー。26(大正15、昭和元)年1月26日から5月27日まで、東京日日新聞夕刊で「西遊記」を連載している。写真部長は、その後今吉顕一→堤為章→西牧季蔵→三浦寅吉と続く。
三浦は42(昭和16)年9月から終戦後の45(昭和20)年10月末まで写真部長を務め、サンフォトニュース社へ出向する。
(堤 哲)
2023年2月1日
福島清さんの「活版工時代あれこれ」⑨ 活版工の闘いの記録

「❻日本の労働運動と活版工」で、活版工が日本の労働運動史の中で、先駆的な活動をしたことを紹介しました。今回はその続きで、1冊の本を紹介します。
【戦時中印刷労働者の闘いの記録―出版工クラブ】
編者の杉浦正男さんは1914年東京生まれ。小卒後東京印刷で文選工に。1937年に結成された「出版工クラブ」に参加。1942年に治安維持法違反で逮捕。戦後釈放されると全日本印刷出版労働組合書記長、全日本産業別労働組合会議(産別)書記長などを歴任し、2020年106歳で死去しました。本書(1964年2月18日刊、非売品)発行の目的について次のように書いています。
旧出版エクラブのおおくの会員が力をあわせて(本書を)つくった理由はいくつかある。一つは日本の労働運動史を訂正してもらいたいと思うからである。すなわち昭和15年から昭和20年の終戦の日まで、日本の労働運動は戦時下の徹底的な弾圧による左翼勢力の衰退と、それに加え右翼幹部の戦争協力という裏切りのため労働運動は影をひそめ、その意味では暗黒期といわれ労働運動の記録のうえでも空自となっている。私たちはこれに対して異議をとなえるものである。労働運動はけっしてなくなっていなかったのだと、印刷労働者の間には立派に労働運動は存続していたのである。あの烈しい弾圧のなかで抵抗し、組織をのこし闘いをすすめていた力こそ印刷労働者の、いや日本の労働運動全体の不屈の精神を示すものであると思うのでここに出版エクラブの活動の全貌を発表するのである。
二つには私たち出版エクラブの指導者であった柴田隆一郎氏の活動の上でのこした高い指導性と徹底した大衆路線は、現在の労働運動においても学ぶべき点がたくさんあるのではないかと思うからである、私たちはおおくの人がこの本のなかから何かをつかんでくれたらありがたいことと思う。
では、出版工クラブは、どのようにして結成され、どのような運動を組織したのでしょうか。
杉浦さんは冒頭の「出版工クラブと柴田隆一郎氏の思い出」で次のように書いています。「出版工クラブは、東京の印刷労働者によって組織され、労働組合と同じように戦争に反対し、労働者の生活と権利を守るために闘ってきた組織である。なぜ労働組合の看板をかけなかったという問いに対して、激しい敵の弾圧の中で大衆の中にしっかりと根を下ろし、大衆とともに闘うにはこの形態が一番ふさわしかったのだと答えれば足りるだろう」と簡潔に書いています。
この詳細は「1934年出版工クラブ準備期」から「1945年柴田の獄死と終戦による指導部の出獄」までの各項で紹介しています。出版工クラブが組織化の対象にしたのは、1938年当時の印刷製本工場3,932のうち、98.3%をしめる100人以下の中小零細工場の労働者たちでした。出版工クラブの存在と方針への支持は高まり、1939年には1500人に達しました。当時、東京で参加した工場名が、以下のように記録されています。
【神田支部】鉄道弘済会、同興社、塚田印刷、太陽社、文雅堂、一番館、広業印刷、日英社、加藤文明、川瀬印刷、長瀬印刷、三秀社、宮本印刷、三鐘印刷、有朋堂、オーム社、精興社、大山印刷、勝文社、秀英社、活文社、新間の新聞社、常盤印刷、松村印刷、松浦印刷、桑田印刷、文誠社、明治印刷、堀口印刷。
【芝支部】常盤印刷、中屋三間印刷、川口印刷、一色活版、ユニオン社、ジャパンタイムス社、安久社、ダイヤモンド社、青野印刷、小野印刷、山県印刷、中村印刷、野村五七堂、和田印刷、金山印刷、近藤印刷、民友社、鷲見文酉堂、硯文社、杉田屋、あけぼの新間、日進社、月山社、東京製本合資、青山印刷。
【京橋支部】大参社、三友社、原田印刷、浜野印刷、第一印刷、丸の内印刷、円谷印刷、豊文社、尚文社、倭文社、三豊社、邦文社、金凰社、大倉印刷、庄司印刷、典文社、電信堂、石川印刷、国際出版印刷、細川活版、文祥堂、特急社、藤生社、三協印刷、帝国興信所、福神印刷、ヘラルド通信、安信社、伊坂印刷、不二印刷、京屋印刷、三共印刷、農林印刷、国光印刷、川橋仁川堂。
【その他】行政学会印刷所、陸軍小林印刷、康文社、昭文社、今井印刷、文明社、正文社、畠野製版、旭印刷、凸版印刷、中島印刷、安田印刷。
*
あの戦中、大手新聞社の印刷活版労働者たちは何をしていたでしょうか。新聞労働運動の歴史には何もありません。今、新聞各社には現場労働者はほとんどいません。また新聞経営は極めて深刻になっていると報道されています。毎日新聞も例外ではありません。さらに労働運動は「連合芳野麻生にチン上げおねだりし」(亀山久雄さん)で、「野党共闘」は幻と化しています。「出版工クラブの闘い」は、「じっとしていていいのか」と問いかけてきます。
(福島 清・つづく)
2023年1月31日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑪ ——従軍カメラマン第1号は1914(大正3)年の二瓶将
新聞写真の歴史を見てみたい。新聞に写真が掲載されるようになったのは、1904(明治37)年が最初である。
報知新聞 1月2日
読売新聞 4月1日
東京日日 4月4日
東京朝日 9月30日
元毎日新聞情報調査部長・小林弘忠さん(2017年没80歳)が東京で発行されていた各紙マイクロフィルムにあたった。『新聞報道と顔写真』(中公新書1998年刊)にある。
『毎日新聞百年史』に、〈東京〉明治37年4月4日〇1面に「閉塞決死隊29勇士」の網目写真を初めて掲載〈大阪〉12月5日〇記事面に写真版(築港大道の送迎門と電車)を使用、輪転機印刷では関西最初のもの、と書かれている。
《このころ各社とも、まだ社内に製版設備はもちろん、暗室もない時代で、いちいち社外の製版所に依頼していた。しかも写真銅版を紙型にとる技術がすすんでいなかったため、輪転機の鉛版に直接写真銅版をとりつけた。この技術を開発した東京の製版所では特許をとっていたので、各社ともその店にたのまないわけにはいかず、また鉛版の数だけの銅版がひつようだったため、月々の支払いは相当な額にのぼった》と、『朝日新聞社史』明治編(1995刊)は、当時の新聞写真事情を説明している。
さらに《大阪には、まだこのような製版所がなかった》《(大阪朝日新聞では)社内での製版設備をいそぎ、翌(明治)38年2月11日、「戦時の観兵式」と題する写真を、はじめて大きくのせた》と続けている。
前記にならうと、大阪での新聞写真の最初は以下のようになる。
大阪毎日 1904(明治37)年12月5日
大阪朝日 1905(明治38)年2月11日
当時、報知新聞(のち読売新聞に吸収合併)の写真製版技術がトップだった。大阪毎日新聞(大毎)は、報知新聞に技師を派遣して技術の習得を図ったが十分でなく、東京の製版会社にいた技術者・二瓶将(当時26歳)を1904(明治37)年12月21日付で採用した。
「明治43(1910)年ドイツからアンゴー(写真機)を購入、初めて動的な写真が見られるようになった」(『毎日新聞七十年』)。
本格的な写真取材が始まった。
その二瓶は、日本で初の従軍カメラマンとなる。すでに写真部長にあたる「写真製版場長」に就いていたが、第一次世界大戦中の1914(大正3)年11月、青島攻略戦に派遣されたのだ。毎日新聞の写真記者第1号である。当時36歳。
日露戦争(1904~05年)で従軍記者を経験した大毎社会部長・奥村信太郎(のち第6代社長)が、「大毎」から社会部の書き手・安藤繁治(古泉、1920年京都支局長で逝去47歳。後任の支局長が元NHK会長阿部真之助)、「東日」枠でカメラマンを選んだ。
ライバル朝日新聞の従軍記者は、社会部美土路昌一(当時27歳、のち全日空初代社長、朝日新聞社長)は「従軍記者は1社1名に限られ、写真班を連れて行くわけにはいかなかったので、僕が写真を撮ることになった」と、「毎日カメラ」連載「新聞写真の軌跡」(81年3月号)で筆者の写真部OB佐藤振寿が紹介している。
新聞は写真で勝負の時代を迎えていた。奥村社会部長は「ペンを2人出すより、戦場のリアルな写真が読者に受ける」と、ビジュアルな紙面づくりを目指したのだ。
そして連日「二瓶従軍特派員撮影」の写真がフロントページを飾った。



よほど評判が良かったのだろう。1面に「青嶋攻略記念写真帖、月極読者に進呈」と社告を出して、12月5日朝刊大阪毎日新聞第1万1262号の付録として発刊した。四六判16㌻とあるから、ちょっとした小冊子である。
表紙の左は、青島攻略を指揮した神尾光臣中将。ちょうど東京駅が完成、同じ1914(大正3)年12月18日の開通式で一番列車で東京駅に凱旋したのが神尾将軍だった。
(堤 哲)
2023年1月30日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑩ 早川弘——知覧で特攻機の見送り写真を撮った


左のモノクロ写真は、西部本社のカメラマン早川弘(ひろむ)さん(81年逝去64歳)が撮影した。1945年4月12日、特攻基地・知覧飛行場(鹿児島県)。
出撃する特攻機を前に知覧高等女学校の生徒らが桜の枝を持って見送った。5日後、同月17日付の毎日新聞大阪本社版朝刊に掲載、現在、知覧特攻平和会館に展示されている。沖縄の米軍艦船を狙った特攻作戦で亡くなった1036人のうち、439人が知覧から出撃した。
右のカラー写真は、渡邊英徳東京大学大学院情報学環教授が、AIでカラー化した。毎日新聞大阪本社には、戦中写真が6万点以上保管され、そのデジタルアーカイブ化を東大・京大と共同で進めている。創刊150年記念事業のひとつである。
◇
「飲んだくれのオヤジで、こんな写真を撮っていたことを知りませんでした。スゴイな、と思います。今では尊敬しています」
早川さんの長男巌さん(82歳)。大阪スポニチにカメラマンとして入社、写真部長→編集局次長→事業本部長を務めた。
1964(昭和39)年の東京五輪では、親子で写真取材している。巌さんは陸上男子100㍍9秒9で優勝した米ボブ・ヘイズ選手の写真を撮った。「オヤジは前線本部でデスクワークだったようです」
巌さんは、昨年7月知覧飛行場の跡地を訪ね、その模様が毎日新聞で紹介された。
◇
見送った知覧高女前田笙子さん(当時15歳)の「特攻日記」が残っている。
特攻機の操縦席は、第20振武隊穴澤利夫少尉(当時23歳)だった。《四月十二日の第二次総攻撃です。穴澤さんが一番最後でした。一生懸命お別れのさくら花を振るとにっこり笑った。きりゝ鉢巻姿の穴澤さんが何回と敬礼なさる。
パチリ・・・後を振り向くと映畫の小父さんが私達をうつして滿足してゐる》
「映畫の小父さん」と誤記されているが、早川カメラマンである。



新聞で紹介された早川カメラマンの写真は、他に①出撃命令待つ間の一刻鍬を執る振武隊員②女子整備員も神風鉢巻締めて特攻機整備③特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵の計4点だが、整備員と最後の杯を交わす特攻隊員や兵舎で眠る隊員も撮っている。「最後の夜くらいは綿布団で寝かせてあげたい」と住民が布団を提供したという。
早川弘さん=写真・右=は、37(昭和12)年入社。大阪の本社から西部支社(当時)に転勤。知覧には、旧満州(現中国東北部)従軍から帰国後、出張取材を命じられたとみられる。原爆投下後の長崎でも取材したという。
◇
1964年東京五輪毎日新聞オリンピック報道本部の取材配置表に「神宮前線本部【写真】早川弘」とある。配置表から【写真】を抜き出してみた。(重複者は略)
報道本部・社内取材本部【写真】岩本重雄、大沢勇之助、石井周治、染谷光雄、吉村正治、岩渓清光、寺尾務、松野尾章、荒井英雄、川島良夫、辻口文三、鈴木久俊、東康生、中西清、米津孝
神宮前線本部【写真】早川弘、坂口喜三、木村勝久、河合邦雄、大須賀興屹
駒沢前線本部【写真】山添昭二、大住広人、石川孝昌
競技会場・陸上競技【写真】東喜一、土橋亨、関口賢次郎、仁礼輝夫、橋本保治
バスケットボール【写真】小野克己、新倉義政
ボート【写真】影山日出夫、接待健一
ボクシング【写真】野末哲男
自転車【写真】橋本紀一、大宮晴夫、福井和博
馬術【写真】三十尾清
フェンシング【写真】中村太郎
体操【写真】鈴木茂雄
ホッケー【写真】唐沢信一
柔道【写真】津川政二郎
近代五種【写真】大家璋三
射撃【写真】山本哲正、井上豊和
水泳【写真】阿部三郎、土谷忠臣、牧野誠
バレーボール【写真】山内巌、関根武
ウエイトリフティング【写真】藤田君幸
ヨット【写真】佐藤竜彦
51人を数える。何故か東京本社写真部長日澤四郎の名前がない。
(堤 哲)
2023年1月23日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑨ ——空襲も、「額縁ショー」も撮った吉村正治

「写真部にボーヤから入ったから社歴は長いんですよ」
いつも色鮮やかなネッカチーフをして、おシャレだった吉村正治さん。背番号は「42」。戦前、昭和17年入社である。
空襲のたびに有楽町にあった本社ビルの屋上に上がって、カメラを構えた。3月10日の東京大空襲の時も、新館のプラネタリウムに焼夷弾が落ちて炎上した1945(昭和20)年5月25日夜半の空襲のときもそうだった。
48(昭和23)年7月1日、毎日グラフ創刊。表紙は高峰秀子。先輩カメラマンの助手を務めた。
52(昭和27)年5月1日、皇居前広場の血のメーデー。スピグラで3枚撮り、夕刊最終版に間に合うと社に駆け戻った。
後輩の米津孝さん(94歳)は「トシは4歳違いだが、社歴は10年違った」という。米津さんは、早大文学部美学卒で、52年入社だ。
吉村さんの代表作?!に——。

日本のストリップショーのはしりともいわれる「額縁ショー」だ。その始まりは、1947年(昭和22)年1月、東京・新宿帝都座五階劇場での「ヴィーナスの誕生」だった。
吉村さんが撮ったのは、同年9月、洋画家東郷青児氏が描いた「牧歌」「南風」「月光」などをモチーフに、出演者が絵と同様のポーズをとる「東郷青児アルバム」。その稽古中に撮影した。
「毎日グラフ」1948年(昭和23)年10月15日号に掲載された。写真説明に、「東京都新宿区の帝都座で1947年(昭和22)年9月、吉村正治撮影」とある。
吉村さんは、2016年、91歳で亡くなったが、米津さんは、この毎友会HP「追悼録」で「1964(昭和39)年東京オリンピック前、アメリカ特派員で取材された中の1枚、ロサンゼルスの高速道路をチャーター・ヘリからの空撮写真は、とりわけ印象深い。自信に満ちた吉村さんの取材姿勢に、自分の夢が託されていく幸せ感を持ったものです」と綴っている。
沖縄取材を始めたのが、1960年代初頭。アメリカの占領下にあった時代から40年以上にわたって取材し続け、写真集『沖縄いまむかし』(2001年)を出版している。
歌人塚本邦雄著『新歌枕東西百景』の写真を担当、毎日新聞社から1978年9月に出版。
芭蕉の「奥の細道」を追って、写真集『芭蕉紀行』①~③(グラフィック社 1994年刊)をものにしている。
(堤 哲)
2023年1月17日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑧ ——お手柄! Hカメラマン、Sポン焚き

この新聞は、チャーリー・チャップリン(1889~1977)が初来日、東京駅で歓迎のファンにもみくちゃにされたことを伝える「東京日日新聞」朝刊社会面=1932(昭和7)年5月15日付=である。
何故かチャップリンは「東京日日新聞」の社旗を持っている。左は、兄のシドニーである。
写真部のカメラマンが「この旗を記念に持って」と頼んでパチリ、いやマグネシウムを焚くから「ボ~ン」とやったのだろう。
誰が撮ったのか。元写真部長石井清が『新聞写真』(日本新聞協会1970年刊)に書き残しているのだが、「Hカメラマン、Sポン焚き」とイニシャルなのである。
当時のカメラマンで「H」は橋本芳衛しかいない。「S」は、佐藤振寿? 佐藤はこの年の2月に入社、暗室仕事と、合い間に「ボンタキ」に出掛けたと書いているからである。
チャップリンは5月14日午前8時、神戸港に着いた。午後0時29分、三宮駅発超特急「燕」の増結した1等車に乗車、午後9時20分終着東京駅へ。
《チャーリー来る!異常な昂奮に酔った人間、人間、人間の群れは、到着前3時間の前の6時といふのに降車口(現在の丸の内北口)をいっぱいにしてかれの顔の、かれの銀髪のひとすじだに見逃さないといふ意気込みをみせている。凄惨!ちょっとそんな感じだ》
《列車到着の5番ホームは、これまた金10銭の入場券でかれを見る優先権を得ようとするファンで一杯だ。何のことはない。震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いてゐる》
一夜明けた日曜日、チャップリンは官邸に招かれていた。5・15事件が起きた。犬養毅首相が海軍の青年将校に「問答無用」と射殺された事件である。チャップリンは予定を変更して相撲を観戦、危うく難を逃れたという。

チャップリンは20日間日本に滞在、6月2日横浜港から「氷川丸」で帰国した。その間、歌舞伎座や明治座で役者たちと交流。「一国の文化水準は監獄を見れば分かる」と小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察している。
さて、肝心のカメラマン「H」橋本芳衛さんは、1919(大正8)年「写真場助手」として入社。カメラマンとなり、36(昭和11)年に写真部デスク。そのあと資料部副部長。写真資料を担当していた。
『大阪毎日新聞東京日日新聞特派員従軍手帖』(1938年刊)に従軍して砲弾を浴び、首筋から血を流しながら鉄兜をしっかりと抑え、弾雨の中を身をかがめて、部隊本部に飛び込んだ、と綴っている。
1959(昭和34)年没、62歳。
(堤 哲)
2023年1月16日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その23 神田川・日本橋川—水都遊覧記(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
連載その4にも書いたが、神田川の旧名は平川という。太田道灌が江戸城を築いた室町時代のころは、河口は大手町1丁目のあたりにあり、日比谷入江と呼ばれた干潟の海に流れを注いでいた。平川の名は皇居平川門に残っていて、私が40年あまり勤めた毎日新聞社(パレスサイドビル)はその真向かいにある。
江戸時代の1620(元和6)年、平川(神田川)は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。いっぽうの日本橋川もこの天下普請にともない開削された人工的な河川とみられるが、その具体的な形成過程は史料的に必ずしも明らかでないという。江戸時代には、日本橋川の三崎橋から俎橋付近までは埋め立てられて堀留になっていたが、1903(明治36)年に流路として約300年ぶりによみがえることになった。

1964(昭和35)年の東京オリンピックのときに首都高速道路ができたが、その少なからぬ部分が既存の河川の流路を利用して建設された。日本橋川はその典型であり、口惜しいことに、神田川との分岐点から河口までのほぼ全流域が、高速道路に蓋をされるような形で視界を遮られている。
2012(平成24)年9月15日、神田川と日本橋川を船で廻る小さな旅をした。今回の連載エッセイに載せた写真20点はそのときに撮影したものである。
会社勤めを辞めて間もなく、早稲田大学写真部の旧友たちと街歩きをはじめた。この水辺遊覧はその第17回目。参加したのは多久彰紀、宇野敏雄、福田和久、伊勢淳二、柏木久育と私の6人。現在の会員は9人。その後、菊池武範、笹井温迪、鈴木淑子が加わり、街歩きの会は2022年12月現在で109回を数える。
10年前になるこの年、7月も8月も炎天下を歩いているのだが、天気予報では猛暑はまだしばらく続くという。たしか柏木君からの提案だったと思うが、小型水上バスで東京の川廻りをすることになった。私たちが乗ったカワセミという船名の水上バスは、東京都公園協会の水辺ラインに所属していた。災害時の緊急対策を目的に造られた船舶なのだが、平常時には遊覧船として運用されているのだという。
水上バスの発着場は日本橋の南詰にあった。集合時間の30分前に着くと、すでに福田君と柏木君が待っていた。乗船はならんだ順番だということで、柏木君が一番札を手に入れていた。周りを見渡すと川廻りの遊覧客と思われる人だかりがあちこちにできている。団体の遊覧客を引率する旅行代理店の人や通りすがりの人にチラシを配る人もいる。この日は3連休の初日だったからかもしれないが、東京の水辺に遊ぶ観光が静かなブームになっているように思われた。
水辺ラインの遊覧コースは、東京スカイツリーを廻るものなど、他にもいくつかあったが、私たちが選んだのは日本橋川と神田川を一回りするコース。日本橋川をさかのぼり、三崎橋で神田川へ、それより神田川をくだり柳橋から隅田川へ、さらに日本橋川の河口へ向い、これをさかのぼり出発点の日本橋へもどる、というものだった。所要時間は約80分。
思い起こせば、長谷川堯の『都市回廊—あるいは建築の中世主義』を面白いからぜひ読んでください、と薦めてくれたのもたしか柏木君である。私の3年後輩になるが、早稲田の写真部には珍しい博学の怪人である。『昭和二十年東京地図』(『東京ラビリンス』)の取材を始める直前だった。『都市回廊』は、建築の知識に疎い私には、どこか馬の耳に念仏の感があった。しかし、分からないながらも、目を覚まされるような考察が随所に散りばめられていた。次に引用する文章もその一つである。
妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通りぬける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定したのではないか、という点に思いあたるのだ。
「妻木」は妻木頼黄で、辰野金吾とならぶ明治建築界の巨匠である。「この橋」は日本橋のこと。現在の日本橋の橋梁は1911(明治44)年に竣工した。その総合的なデザインを手がけたのが妻木頼黄であった。
橋は水路と陸路の交錯する所に架かる。橋は陸路の端と端を結ぶと同時に、水路を陸路に連結する。陸路が流通の主流になるのは明治以降である。それまでは海や川あるいは湖などに開かれた水路が交通の主流を占めた。日本橋に白亜のアーチ橋がかけ替えられたころは、江戸時代からの魚河岸がまだ健在だった。また、江戸橋から鎧橋・茅場橋にいたる川沿いには、諸国からのまたは諸国への物資を取り扱う多くの倉庫がならんでいた。諸国の範囲は日本六十六カ国ばかりではなく、西欧の先進国をはじめとする国際社会も含まれた。
パリの凱旋門はシャン・ゼリゼの大通りの端に位置するエトワール広場にある。妻木頼黄はこの凱旋門に日本橋を見立てたのではないか、と長谷川堯はみている。日本橋は五街道の起点である。常識的に考えれば、中央通り(通り町筋)がパリのシャン・ゼリゼに相当する。しかし、妻木は陸路の中央通りではなく、日本橋川に水上のシャン・ゼリゼを幻視した。そして川面からの視座による橋梁の総合的な意匠を密かに構想した、というように長谷川堯は解析しているのである。
私の家は父親も祖父も船乗りだった。中学のころは、私も船乗りになるつもりでいた。高校へ進学してもいいといわれたので、水産高校の機関科を受験することを考えたが、父親から止めたほうがいいと反対された。海の仕事は斜陽産業でこれから先は見通しが暗い。船乗りは留守が多いから嫁の来手も少ない。それが理由だった。父親は東京港でタグボートの船長をしていた。1960(昭和35)年ごろの話である。
宮本常一が1960年代の山口県柳井市の街並みに言及した印象深い記述がある(註5 )。柳井は宮本の郷里である周防大島の本州側の対岸に位置する港町である。町内を柳井川が流れ、その河口に古くから美しい街並みが形成されていた。
この川(柳井川)は満潮時になると海水がさしてくる。町屋は川の上に張り出してたてられたものもあり、ここでは家がまだ川を背にしていない。家が川に向いあっているところでは川はきれいである。そういうところでは川へゴミをすてない。ところが家々が川を背にすると、容赦なくゴミを川に捨てはじめる。ここ1年あまり私はこの町をおとずれていない。いまも川が美しいだろうかと思ってみる。町は表通りが厚化粧をしはじめると裏側はたいていよごれて来るものである。そして昔みたような清潔な感じがきえる。
街並みの背景には、そこに住む人間の暮らしと生活がある。海や川が生き生きと機能していれば、必然的に建物もそれに向けて表情を整えるようになる。宮本常一は生涯を民俗学の旅に費やしたことで知られるが、旅の途中でこれはと感じるものがあれば、努めて写真に撮るようにしていた。10万カットに及ぶ写真の被写体は実に様々である。しかし、海であれ山であれ、水辺の景観となると尋常ではないこだわりを示した。柳井は東京と比べれば規模の小さな町であるが、宮本常一のこの指摘は消失した日本橋川に沿った街並みにも通じているように思われる。
連載その5で『1960年代の東京』について書いている。著者の池田信は無名のアマチュア写真家である。本業は東京都の職員で、日比谷図書館の資料課長を務めていた。東京オリンピックを3年後に控えた1961(昭和36)年、休日になると決まったように東京の町中をひたすら歩いて写真に記録することを始めた。
池田の没後、遺族から毎日新聞社に寄贈された撮影フィルムおよそ200本をそっくり見せてもらった。フィルムをたどると、池田が都心の川という川を隈なく歩き、橋という橋を漏らさず撮ろうとしていたことが分かった。日本橋川では首都高の建設工事が始まっているのだが、池田は河口の豊海橋から神田川の分岐点三崎橋までのほぼすべての橋と周りの景観を写真に収めていた。そればかりか、日本橋川の支流である箱崎川・亀島川・楓川・築地川・桜川(八丁堀)・京橋川・汐留川・浜町川などにも足を延ばしている。亀島川を除いた支流のすべてが埋め立てられてしまい現在は存在しない。
この写真集は、写真選びから写真キャプションさらにページ構成まで、私一人で編集した。副題を「都電が走る水の都の記憶」にしているが、これは池田の写真から長谷川堯の『都市廻廊』を直ちに連想したからである。長谷川によれば、幕末に来日したA・アンベールは江戸の都市構造を水の都ベニスの憧憬と比較しながら論じている。近世における江戸の街並みは東洋のベニスとも称すべき水辺の都市空間に映ったのである。(以下略)
2023年1月6日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑦ 鈴木茂雄——軽井沢のテニスコートで皇太子・美智子さんのツーショット撮影

この新聞は、1958(昭和33)年11月27日皇太子殿下と美智子さん(現上皇陛下と同妃殿下)の婚約発表と同時に配られた8㌻の「特別夕刊」である。
「皇太子妃報道に完勝」と『毎日新聞百年史』にある。横1段半の見出しを「赤刷り」し、お2人の写真を7段抜きで扱った。婚約発表と同時に全国各地で同時に配達できるように、事前に印刷・発送してあった。
このツーショット写真を撮ったのは、鈴木茂雄東京本社写真部員(当時31歳)である。

その時の模様を毎日新聞東京本社写真部OB会編『【激写】昭和』(平河出版社1989年刊)に書き残している。
《皇太子さまは観客席の最前列のベンチに腰をおろし、隣に座った学友と話し合われていた。そこへ素晴らしいお嬢さんが姿を現し、学友の隣の席につかれた。わたしのカメラ位置は皇太子さまの右正面、早速カメラを構えると、学友が体全体をそらしてくれたので、殿下とお嬢さんとが並ぶ図柄になった》
写真をよく見ると、皇太子さまと美智子さんの間にラケットを持った男性が写っている。その男性が、鈴木カメラマンがツーショットを撮れるように、体を引いて、殿下の後ろに隠れたのだ。
結果、この写真が特ダネになった。
《試合が始まったころ、社会部富永千枝子記者、通称お富サン(結婚して関姓、2021年没88歳)に
「さっき、ベンチでおそばにいたお嬢さんはどなたなの」
とたずねると
「正田美智子さん」
「こんな大勢のお嬢さまがたをひとりひとり全部写すの? 名前がわからなくて困ったな!」
「写真を見れば名前はわかるから心配ないわ」
「さっきの美智子さん、お妃候補?」
「わからないわ、まったく見当がつかないのがホンネョ」
「じゃー、名前のほうよろしく」
「ひとりでも多くのお嬢さん写しておいて下さいね」と、コート内でお富サンと別れた》
◇
鈴木さんは46年入社。東京・大阪写真部デスクから75年9月東京本社写真部長。79年毎日グラフ編集長。2009年7月29日没、83歳だった。
(堤 哲)
2023年1月5日
福島清さんの「活版工時代あれこれ」 ⑧大毎と東日の活版工

東京日日新聞と大阪毎日新聞の活版工育成方針には違いがありました。その違いと活版の歴史について、調べたことがありますので、簡単に紹介します。
◇活版の歴史
活字は、1445年ごろ、ドイツのグーテンベルクが発明したとされています。そのグーテンベルクは1455年に、42行聖書を200冊発行しました。これはゴシック書体の傑作で非の打ちどころのない活版印刷の最初の本だといわれています。


日本に活字が現れたのはそれから415年すぎた1870 (明治3)年、オランダ通詞をしていた本木昌造=写真・右上=が、20数年にわたる努力の結果、長崎に我が国最初の活版所を設立したときです。なお、「活版」と言う言葉は、それまでの板木とちがって「文字の組替えが自在にできるところから“生きた版"という意味で、活版と名づけられた」(平凡社百科辞典)ということです。
毎日新聞の前身、東京日日新間が創刊されたのはそれから2年後の1872(明治5)年旧2月21日のことです。その第1号は木版刷りでしたが、翌日の第2号で、日刊紙として初めて鉛活字を使いました。その後活字が揃わないところから木版に戻ったりして、約1年後の3月2日付第304号から本格的に活字を使いました。最初は勧工寮払い下げの活字でしたが、その後、本木昌造の門下生・平野富二=写真右・下=が上京してつくった平野活版製造所の活字を使ったとされています。
◇大毎・東日時代の活版工
1911年(明治44年)大阪毎日新聞と東京日日新聞は合併し、以後朝日新聞とともに全国紙として大きく成長して行きました。明治から大正にかけての活版工はどういう立場にあったでしょうか。毎日新聞百年史から引用してみます。
「ここで活版工という言葉を改めて考えてみたい。一般に活版工というのは活字を拾いまた組む職工のことで、決して高級な職業だとは思われていない。……
しかし活版工というものは、記者の書く原稿を一般の人に読めるように活字体でリライトする役割を果している。リライターというものは、記者の書いた原稿をただ機械的に模写しているのではない。その内容を理解し、一般の人に読み得る活字体に置換えているのである。したがってよき活版工というものは豊富な常識の持主であり、知能の優れた者でなくてはならない」(458P)
「まず、大阪と東京ではとくに活版工が非常に違っていた。大阪では早くから社内養成制度を確立していた。東京は長い間、いわゆる渡り職人の制度が行われていた。大阪で社内養成制度を確立したのは、明治20年の終りから30年ごろであったと思われる。大阪方が渡り職人をきらったのは、いわゆる職場士気の低下を恐れたのである。一方、東京は渡り職人制度が長く行われていた。先輩からよく聞かされた言葉であるが、昔は東京日日新間の活版場を“活版大学"といったそうである。東京日日に活版工としてはいるためには相当な腕をもっていなければならなかった。この渡り職人制度のよいところは、ある意味で技術がつねに公開されていることであった。その設備にしても、作業のやり方にしても、またその腕にしても、いわばつねに第三者の批判を受ける立場にあったのである。それによって改良され改善されていった。そしてだれいうとなく“活版大学"の異名をとったのである」(481P)
*
「昭和8年2月東日の工員、給料55円也。それでも年に1回か2回の昇給(5円が最高)があり、とくに賞与は年4回もあったので、余裕のある生活ができました。忘れられない思い出は当時初めて開かれた文選競技大会で特賞を獲得、一気に金8円也昇給したことでした」(村越清太郎さん・植字=1966年2月26日退職、社報「お世話になりました」から)
◇戦中・戦後の混乱の中で
百年史は戦時中について次のように記しています。
「最後に戦時中の総括として取上げておきたいことは、各社の協力ということである。新聞社は非常に競争の激しいところで、技術的にも互いに秘密を厳重に守っている。しかし戦時中はお互いに共同防衛の形をとり、よく協力した。これは言論統制のため軍部から仕向けられたことばかりではなく、むしろ軍部の処置を協同で防衛しようということから出発したとみられることも多い。こうしたことは戦後も続いている。実際問題として技術上の秘密などというものは、そう多く有るものではない。お互いの技術を公開し、共同で研究した方がはるか有利なものがある。戦時中の共同防衛はこのことをよく知る結果となり、現在にも及んでいる」(508P)
百年史で、「技術編」を担当したのは、東京活版部副部長だった古川恒さん(毎日新聞労組委員長だった古川和さんは甥)です。膨大な「技術編」は、古川さんの調査と思いが込められた貴重な資料です。
苦難の中で生まれたこのような総括が、現在の新聞制作にどのように生かされているかは分かりません。しかし活版労働者が築いてきた技術とその歴史は記録に残すべきだと思います。
(福島 清・つづく)
2022年12月26日
山宗さんが生んだ偉大なテレビマン平本和生さん

1か月ほど前、毎日新聞の読書面で元TBS報道局長・BS―TBS社長平本和生著『昭和人の棲家 報道局長回想録』(新潮社)が紹介された。
「平本さんは、山崎塾の1期生。何か書いたら」と社会部の先輩で、毎友会HP協力者の天野勝文さん(88歳)から電話があった。
ヤマソウ(山崎宗次)さんのことは宮城まり子さんが亡くなった時、このHPに書いた。以下の写真を付けて。
カンカラコモデケア作文術は、当然この本でも紹介されている。
ヤマソウさんの行動力は、平本さんのTBS入社試験で発揮される。

《「最終面接まで進めました」「良し、分かった。もう一押しだ。時子山総長の所に行こう」》
《その夜は土砂降りの雨だった。中野にあった早稲田大学総長宅にはポツンと軒先に裸電球が灯っていた。
「大きな声で言え。『早稲田大学第一政治経済学部政治学科のヒラモトカズオです』と雨に負けないように大声で言え」》
《「誰だ」……ガラガラとガラスの引き戸が開いた。ドテラ姿の総長が出てきたのだ。「何の用だ。夜中に」》
翌日の早大総長室。
《巻紙に黒々と筆で書かれた推薦文は、早稲田大学総長時子山常三郎の署名があり、総長印が押してあった。
TBSの狭き門はこうして山崎さんの徹底した指導とアイディアでこじ開けられて行く》
◇
読み進めていくうちに、64年同期入社で初任地長野支局へ一緒に赴任した黒岩徹(通称黒ちゃん)が出てきた。当時ワシントン支局勤務。
《毎日新聞の黒岩徹さんから連絡があった。「チャレンジャーの取材に行かないか」》
当時、スペースシャトルの打ち上げは、成功するのが当たり前になっていた。
アメリカ勤務が初めての黒ちゃんにとっては、打ち上げは初めての経験だった。
TBSワシントン支局の平本さんは、「ほとんど物見遊山になりかねない出張でフロリダまで行くのはどうか」と思って、《黒岩さんには丁重にお断りした。この判断は大きな誤りでもあったし、結果、正解でもあった》
「正解でもあった」というのは——。ナショナルプレスビル6階にあるTBSの支局で事故の発生を知った。《映像を送り出すケーブル回線が二本しか設備されていない。回線はワシントンからニューヨークに繋がっている。その回線を押さえなくては、テレビニュースは仕事にならない》で、10階に駆け上がって、回線の予約をしたのだ。日本の放送時間に合わせ、いわば手当たり次第に。
《「東京はしゃべれるだけしゃべれって言っている。時間は気にしないで」…記者になって初めて“勧進帳”で喋り続けた》
一方、ケープ・カナベラルの黒ちゃん。この日の打ち上げ現場にいた唯一日本人新聞記者。事故発生でプレスセンターの6台ある電話のひとつに飛びついて「チャレンジャーが爆発」と東京の外信部に叫んだ。
《「電話を切るな。原稿を送れ。輪転機を止める」》
新聞各社で結んでいる降版協定が解除され、午前2時10分まで延長された。
翌日の朝刊は、当然のことながら各社とも1面を埋めたが、【ケネディー宇宙センター(ケープ・カナベラル)発】のクレジットは毎日新聞独自であった。
事故の発生が、日本時間午前1時38分。その紙面が以下である。


右は、その日の夕刊社会面だが、黒岩特派員の現場リポートがバッチリだ。社会部の夕刊当番デスクは私(堤)だった。
◇
山宗さんの言葉が紹介されている。
「おいあんた。大学出て何になるんだ」
「ジャーナリストになれ」
「新聞じゃない、テレビの記者になれ」
「新聞はもう先が見えている。これからはテレビだ」
「テレビならTBSの報道局だ」
平本さんは、警視庁クラブで三菱重工本社爆破事件(1974年)やファントム偵察機墜落事件(77年)、政治部では自民党の旧田中派を担当し、田中角栄、竹下登の両首相らと交流し、92歳で亡くなるまで「平和」を唱えた野中広務・元幹事長を師と慕う。ニュース番組のキャスターも務めた。
引退後は東京・築地で早朝の社会人向けの勉強会を立ち上げた。コロナが広がって「築地朝塾 Plus」として発展した、と読書面の紹介にあった。
山宗さんは、偉大なテレビマンの生みの親である。
1987(昭和62)年7月ゴルフ場で倒れ、急逝した。享年52。
その1年後に『追想録:山崎宗次』が発刊された。ハードカバー、480㌻もある分厚い本だ。2人の世話人のひとりが平本さんだった。
(堤 哲)
2022年12月26日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑥ 日沢四郎——地獄坂を2年余、「東京裁判」を担当

日沢四郎は、東京裁判の写真取材を1人で担当した。1946(昭和21)年5月3日の初公判から、東条英機ら7人のA級戦犯に死刑が執行された48(昭和23)年12月23日まで。
法廷となった元陸軍省(現防衛省)はかつて陸軍士官学校だった。その正門の坂は地獄坂と呼ばれた。日沢は「私にとってもここは地獄坂であった。遅くも9時までにはこの坂を登って法廷に入らなければならなかった」と、自著『戦犯を追って三ヵ年』で述べている。
記者は7人登録できたが、カメラ枠は1。三脚にカメラを3台取り付け、3方向の写真が撮れるように工夫した。
ちなみにペンは、NY特派員をするなど英語が堪能な高松棟一郎をはじめ福湯豊、川野啓介、鈴木二郎、新名丈夫、杉浦克己。「多士済々、当時の新聞のベストメンバー」と、取材班のキャップ狩野近雄(のち編集局長、スポニチ社長)。自ら選んだ取材班である。
「極東国際軍事裁判」を「東京裁判」と名付けたのは、狩野である。自著『記者とその世界』に詳しいが、「東京裁判」で真っ先に取り上げたのは「ヒイさん」である。

大川周明が東条英機の頭をピシャッと叩いた場面が二度あったが、各社とも撮影できなかった。しかし、「ヒイさんはそのあと合掌する大川を撮るなど、数多くの特ダネ写真をものにした」。
——昭和21年5月3日のことである。(社会部の)福湯(豊)や高松(棟一郎)が休廷時間に、ゲラゲラ笑いながらクラブに戻って来た。ずっとクラブにいた私(狩野近雄)を見るなり、「大川周明が東条の禿頭を叩きやがった」という。
私は、開廷のベルがなると記者席に入ってみた。審理を再開するとすぐ、大川はまた東条の頭をたたいた。被告席は二段になっていて、東条は前列、そのすぐうしろの後列に大川はすわっているのである。手をちょっと上げて、ペタンと平手で、東条のハゲをたたいたのだ。そのときの東条が、うしろをふりむいて、そのふりむいた顔がよかった。微笑をたたえて、“なんだいこのイタズラ小僧が”といった顔なのである。人のいい東条の一面が見えた。
シーンとした法廷のなかに、ペチャッと響く音が奇妙なおかしさだった。
——法廷内珍事、大川周明が東条英機の頭をペチャンとたたいたときは、二度とも各社は撮影できなかった。しかし、ヒイさん(日沢カメラマン)は、東条の頭を叩いたあと合掌する大川を撮っている。
——ヒイさんは数多くの特ダネ写真を撮った。法廷という限られた場所、固定した写真班の位置、そういう条件のもとで各社を出し抜くことは容易ではない。ヒイさんは三脚の上にカメラを3台とりつけてシャッターを切ると同時に3方向の写真がとれる新発明をしたりした。
翌日の新聞各紙。「東条のハゲ頭をポカリ」という見出しが躍ったが写真はなかった。
毎日新聞に載った大川が合掌する写真を見て、MPたちから「これは君が撮ったのか。是非一枚焼き付けてくれ」と頼まれた、と日沢は自著『戦犯を追って三ヵ年』(1949年刊)に綴っている。
◇

日沢は1953(昭和28)年、英エリザベス女王戴冠式に出席する皇太子さま(現上皇陛下)に同行した。「プレジデント・ウィルソン」号の甲板でくつろぐ殿下の写真を撮って、伝書バト4羽に託した。うち1羽が航行中の貨物船に保護され、写真が毎日新聞社に届いた。特ダネ紙面となった。
日沢は旧制中学を4年で中退して写真館に4年勤務したあと、1935(昭和10)年、金沢支局嘱託から大阪写真部→マニラ支局→44(昭和19)年、東京写真部。戦後、東京裁判、エリザベス女王の戴冠式→西部本社写真課長→大阪本社写真部長→61(昭和36)年8月から5年間東京本社写真部長。1976年没65歳。
私(堤)が入社した1964年、狩野が東京本社編集局長、日沢は写真部長。外信部長大森実。オリンピック担当の運動部長仁藤正俊、社会部長稲野治兵衛だった。
=敬称略
(堤 哲)
2022年12月19日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝⑤ 三浦寅吉——「新聞写真でこの人の右に出る人はいない」

時事新報時代から特ダネカメラマンだった三浦寅吉の毎日新聞入社は、1925(大正14)年4月。26歳の働き盛りだった。
皇室にも、軍部にも、政界にも顔がきいた。菊池寛ら文士とも交流のある名物カメラマン。ラジオにもよく出演し「今の新聞に写真がなくて、活字のみで綴られた文章だけの新聞だったら、どんなに薄暗い感じでせう。そこで新聞写真は、新聞の燈火だと思ってをります」(朝日新聞1933(昭和8)年6月27日)などとPRしている。
月刊「文藝春秋」1934(昭和9)年10月号に「一新聞写真師の告白」を12㌻にわたって綴り、さらに53(昭和28)年2月号には「天皇と暗箱カメラマン—写真部生活30年—」で写真記者の総括をしている。
特ダネ写真をどうものにしたか自慢話の数々だが、昭和天皇・皇后両陛下がご臨席の東京奠都50年祭式典(1917(大正6)年11月4日)のときの自身の格好をこう記している。
「シルクハット、燕尾服、赤い大きなバラを胸に、旧型の写真機を持った紅顔?のデブ」
別のエッセーでは「22貫もある肥え過ぎた」と。22貫は82・5㌔である。
大食漢だった。銀座煉瓦亭のトンカツ10枚を食べる賭けをして、25円をせしめたというエピソードもある。けしかけたのは学芸部長・阿部眞之助と、初代写真部長となる弓館芳夫(小鰐)だった。弓館は、1903(明治36)年に早慶戦が始まったときの早大野球部の初代マネジャー。「早慶戦はすべて見ている」が自慢だった。萬朝報から入社、運動部長も務めた。東日紙上で「西遊記」を連載した。猪八戒を「ブタ」と書いた最初で、作家の筒井康隆が「自由自在のくだけた文章にすっかり魅了された」と感嘆した。1958年没75歳。
三浦は32年ロス五輪に派遣され、写真部デスクからカメラマンで初の写真部長に就任するのが1941(昭和16)年9月。太平洋戦争の直前だ。
デスク時代に、「腕が撮った時代はすでに去った。これからの写真班は頭で写真を写さねばならない」「写真が写せぬ記者がないと同様、記事の書けぬ写真班が1人もおらぬ時代の到来を私共は切望している」とカメラマンの心得を書き残している。
戦時下は「勝つためには、新聞は一億国民の眼となり、耳となって戦い抜かねばならない」と。敗戦後まで部長を務めたが、元早大教授の歌人・会津八一が1945(昭和20)年4月13日の空襲で自宅が消失、新潟に帰郷する際、毎日新聞の社機を用立てた。
その際、八一が詠んだ歌が2首残っている。
大空を渡れば寒き衣手に迫りて白き天の棚雲
うらぶれて空の雲間を渡り来と故郷人のあに知らめやも
「4月30日三浦寅吉に扶けられて羽田より飛行機に乗りてわづかに東京を立ち出づ。三浦寅吉、毎日新聞写真部長。侠骨あり、予を遇する最も篤し」
◇

三浦は、1945(昭和20)年11月1日付で「サン・ニュース・フォト社」へ出向、さらに翌46(昭和21)年創刊の「サン写真新聞」取締役となっている。
「新聞写真でこの人の右に出る人はいない」は、後輩・白井鑑三の言葉だが、三浦の作品を紹介したい。東京駅のホームでロンドン軍縮会議から帰国した山本五十六が広田弘毅外相と握手、その左に大角岑生海相。「ライカで撮った。薄暗ったが、ノーフラッシュだ」。
1965年没66歳。=文中敬称略
(堤 哲)
2022年12月12日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝④ 訃報が載った硫黄島の生き残り石井周治・摺鉢山の日の丸を撮った関根武

日本軍が全滅した硫黄島の戦い。写真的には、摺鉢山の頂上に星条旗を掲揚する米写真家ジョー・ローゼンタール(1911~2006)の写真がピューリッツァー賞を受賞したことで知られる。
◇
《昭和19年7月、一つ星を肩に、一衛生兵として硫黄島に上陸、それから悪夢のような十ヵ月。…玉砕し、すでに「故陸軍衛生上等兵 石井周治の霊」という白木の位牌になり、戸籍面からも抹殺されたとも知らず、戦い終わってP・W(捕虜)の生活が十ヵ月》

石井周治著『硫黄島に生きる』(国書刊行会1982年刊)にこうある。
1946(昭和21)年1月7日、浦賀に帰って来た。復員の手続きのあと9日、満員すし詰めの電車に乗って有楽町の毎日新聞東京本社へ。戦死したはずの復員兵が現れたのである。編集局中が驚きに沸き、生還を喜んだ。しかし、石井は捕虜になってアメリカ本土の収容所から帰国したと告白できなかった。
「硫黄島でなく父島にいたので助かったのだ」とウソの説明をした。「生きて虜囚の辱を受けず」を叩き込まれていたからだ。

硫黄島で戦死した総指揮官・栗林忠道中将(陸士26期)を書いた梯久美子著『散るぞ悲しき』(新潮社2005年刊)に「召集されて第百九師団混成第二旅団野戦病院の衛生兵となった毎日新聞写真部員・石井周治」、「生還して新聞社に復帰した石井は、戦後7年たって再び硫黄島の土を踏んだ」などと紹介されている。
石井は、栗林中将が近衛第二師団長時代(1943(昭和18)年6月10日~翌44(昭和19)年4月5日)に取材で面識があり、硫黄島で初めて会った時、「石井君か、暇なときは遊びに来給え」といわれた(『硫黄島に生きる』)。
石井が毎日新聞の取材団の一員として硫黄島を再訪したのは、1952(昭和27)年1月だった。毎日新聞1面に無名戦士の墓に東京から持参した水をかける石井の写真が掲載された。同僚の二村次郎カメラマンが撮影した。
硫黄島では水の確保に苦労した。「ぼくはねえ機会があったら必ずこの島を訪れて内地の水をたむけることを亡き戦友たちに誓っていた。いまやっとその約束を果たすことが出来てこんなうれしいことはない」という石井の談話が載っている。
社会部からは書き手の福湯豊と増田滋が派遣された。増田は1973(昭和48)年2月から1年7か月、東京本社写真部長を務めている。1989年没66歳。
石井は1997年没82歳。
◇

その硫黄島の摺鉢山に23年間翻っていた星条旗が米兵の手で降ろされ、自衛隊員によって「日の丸」が翻った。1968(昭和43)年6月26日小笠原諸島が返還され、その歴史的瞬間を関根武がポラロイドカメラで撮影した。紙面の写真左は米軍の戦勝記念碑である。
このポラ写真は、飛行場で待機していた毎日新聞社機「金星号」、さらに上空で待機していた本社機「新ニッポン号」、八丈島に特設した中継所を経由して1200㌔余の機上中継無線電送により竹橋の本社でキャッチ。その日の夕刊1面、横位置6段で「関根特派員撮影」と名前を入れて掲載された。
写真部OB会で、関根はいつも眼を輝かせて当時のことを回想していた。2018年没88歳。=文中敬称略
(堤 哲)

2022年12月6日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑦レッド・パージと活版工
日本がまだ米軍(連合国軍)占領下だった1949年から1950年にかけて、「レッド・パージ」が吹き荒れました。1949年は国鉄・通信はじめ官公庁の「行政整理」、民間の「企業整備」を理由とする労働組合活動家の狙い打ちでした。1950年は、GHQ強権により新聞・放送を皮切りに電力、教員、鉄鋼、造船などの労働者たちが問答無用で職場から追放されました。レッド・パージは、推定4万人の労働者たちが職場から追放された戦後最大の人権侵害事件で、現在もなお被害者救済の運動が継続されています。
新聞・放送では、1950年7月28日から49社で710人が追放されました。毎日新聞では、東京31人、大阪19人の49人が追放され、東京では6人、大阪では1人の活版工が含まれていました。

2020年12月、「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相と広める会」が『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに』と題した本を発行しました。執筆は大住広人さんです。この「あとがき」に私は次のように書きました。
*
高卒で国電・有楽町駅前の毎日新聞東京本社に印刷局養成員として入社した1957年はレッド・パージの7年後だった。配属された活版部には、私の出生(1938年)前に入社した人、徴兵で中国戦線に動員されて復員した人などがいた。午前0時を過ぎて、最終版降版の頃になると雑談に花が咲く。
そんな時、活版でパージされた6人を知る先輩は、小声で「あの時は酷かった。玄関から追い出したんだから」と言っていた。その後、1961年から毎日労組青年部委員になった。当時の新聞産業は東京五輪を前にして過当競争が激化していた。「増㌻の印刷、増版の活版」で、版数が増えると活版の仕事は多忙を極めた。
だがそんな時、労協に基づく組合活動招請状を持っていくと露骨に嫌な顔をする職制がいる一方、「すぐに行け」と仕事をはずしてくれる職制がいた。今になって思うと、その先輩はレッド・パージ時に問答無用で職場を追い出された仲間を見ていたのに、何もできなかった悔しい思いがあったのではないかと想像した。
新聞・通信・放送と、全産業の数万人に上るレッド・パージ被害者たちの無念と困難を極めたその後を思う時、「国家権力犯罪に〝時効〟はない」ことを心に刻みたい。
*
「レッド・パージ70年」発行にあたって、新聞OBたちに「意見・感想・問題提起」をお願いしました。その中で、朝日新聞OBの藤森研さんは「レッド・パージ70年に考える」と題して次のように書いています。
レッド・パージと聞くと、私は、それを生きた人たちの生き方に思いが行く。
私が勤務していた朝日新聞東京本社の8階に社員食堂がある。その入口脇の狭いスペースで、いつも衣料品を商っている年配の女性がいた。普通の出入り業者と思っていたが、ある日、その女性がレッド・パージで1950年に朝日の業務局を追われた人だと知った。本書にも出て来る北野照日さんである。
7月28日に解雇を言い渡された時、北野さんは「私に何か落度があったのですか」と聞いた。局長は「それはない」と言った。思想の弾圧を端的に物語る話だ。幼子を抱えて職場を追われ、路上で端切れを売って生活した。窮状を知ったかつての同僚が「布地を持って来なさい」と言う。社内に入れずに入口に置くと、同僚が取りに来て社内で売ってくれた。食堂の脇での商いはその延長上の今の姿だった。北野さんは、つましく生きて、思想を貫いた。(略)
坂田茂さんは、元日本鋼管川崎製鉄所の労働者で、砂川事件の元被告だ。(略)1950年当時、21歳の坂田さんは教会に通っていた。仕事で尊敬する先輩がレッド・パージを受けたが、「キリストはこんなことを認めない」と、職場討議で一人だけパージ「反対」に手を挙げた。翌日、労務担当者から「君は母子家庭を支えているね。反対を撤回すれば、第二のパージから外すようにはからう」と言われ、「撤回します」と言ってしまった。
帰宅して母に話すと「家は何とかする。自分の考えで生きなさい」と言われた。心を決め、共産党に入り、労働運動に携わり、砂川に行った、と書いている。そういう関わり方をした人もいたのだと知る。(略)
さまざまな人間の生き方。今に引きつけ、自分はどうするだろう、と考える。
毎日新聞東京6人、大阪1人の活版工たちのその後の人生は苦難の連続だったろうと想像します。「良心の自由」を守ることは、実に重い課題であることをかみしめています。
(福島 清・つづく)
2022年12月5日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝③ 金澤喜雄(秀憲)——ロバート・キャパにアテンドしたカメラマン

この写真は、写真家ロバート・キャパが羽田空港からSAS機で仏印へ出発するところである。1954(昭和29)年5月1日午後9時30分発ストクホルム行き。キャパは、ライフ誌の依頼でインドシナへ向かい、5月25日インドシナ戦線で地雷を踏み、死亡した。40歳だった。
何故、この写真を毎日新聞が撮ったのか。キャパは、「カメラ毎日」創刊に合わせて4月13日に初来日した。毎日新聞社が招待したのである。
日本滞在は20日ほどだったが、精力的に「日本」を撮った。その撮影ぶり——。
*桜は散っていたが「桜の花よりその下で働く人の方が魅力的だ」。

*浅草で。「ここはピクトリアル・パラダイス」(写真の天国)だ。
*京都桂離宮では3枚撮っただけ。法隆寺では一家でお弁当を撮影。まず5~6㍍先から、次第に近づき、カメラに気づかれたら撮影を止め、カメラを意識しなくなるのを待った。
*帝国ホテルのバーで英字新聞を読んでいたら、第5福竜丸の記事。翌日焼津へ。東京駅で、汽車の出る10分ほどにホームで52枚。若い男女の写真。
*天皇誕生日の皇居前広場。

*5月1日メーデー取材。毎日新聞夕刊に1面5段で掲載された。
「風船と旗と人波」。本社の招待で日本に来日中のマグナム・フォト会長ロバート・キャパ氏写す(神宮外苑メーデー中央会場)
キャパにアテンドしたのが、英語を話すことのできる金澤喜雄(秀憲)だった。
月刊「文藝春秋」2000年1月号の特集「私たちが出会った20世紀の巨人」でキャパの思い出を書いた。
見出しになった「こぼれたウィスキーを耳につけると幸福になる」は、キャパが女性にもてるエピソードのひとつだ。
《一緒に飲みに行ってハイボールをつくってもらったら、女の子がうっかりこぼしてしまった。すると「あ、いいよ、いいよ」と言って、「こぼれたウィスキーは耳につけると幸福になれるんだよ。だから皆さんも一緒につけましょう」と自ら率先して一生懸命、耳につけるんだ》
《写真は自分の感情を高くもっていって、そこにピントの山を重ねてシャッターチャンスを狙うものです。写真は技術でなくて心》《キャパのようにピュアな思いやりの心をもった人の写真はやはり人の心をうつんですね》
その後も日本国内撮影旅行のスケジュールが入っていた。九州、名古屋、東北、北海道。
《そこに突然ライフ誌から依頼がきた。激化するインドシナ戦線に従軍する企画だった。キャパはまた日本へ戻ってくるからと言い、荷物を残して羽田から飛び立って行った》
◇

金澤は、東京府立八中(現都立小山台高校)から東京写真専門学校(現東京工芸大学)を1933(昭和8)年に卒業して時事新報に入社、2年後の35(昭和10)年9月に「安保さん(久武、元東京本社写真部長)と一緒に東日へ入社した」。
上海支局、マニラ新聞出向など戦前は海外勤務がほとんどで、東京本社写真部デスクから「カメラ毎日」創刊に合わせ出版局に異動、活躍の場を得た感じだ。
「カメラ毎日」編集長は、初代井上繰次郎(三浦寅吉のあと戦後2代目の東京本社写真部長)、2代目岸哲男。金澤は3代目編集長として1963(昭和38)年8月から66(昭和41)年まで丸3年間務めた。その間、立木義浩、篠山紀信、森山大道、高梨豊、大倉俊二、沢渡朔ら若手写真家を大胆に特集・発掘した。
金澤は「編集長時代、写真は山岸章二、メカは佐伯恪五郎に全部任せた」といっている。
山岸と佐伯は1949(昭和24)年の同期入社。ともに「カメラ毎日」編集長を務めた。
「カメラ毎日」の最後の編集長・西井一夫は、『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(窓社・2002 年)を出版している。
金澤の著書に『報道写真の研究』(1951年刊)がある。理論家だった。
金澤は2006年没94歳。安保2005年没93歳、山岸1979年没49歳、佐伯2004年没76歳、西井2001年没55歳=文中敬称略
(堤 哲)
2022年11月28日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝② 依田孝喜と木村勝久―日本人初登頂のマナスルとエベレストへ同行
依田孝喜は、映画「マナスルに立つ」で第5回菊池寛賞を受賞した。1956(昭和31)年5月9日、毎日新聞社が後援した日本山岳会によるヒマラヤの未踏峰マナスル(8163㍍)初登頂を記録した映画で、同行した東京本社写真部の依田隊員が撮影した。新聞報道のスチール写真を撮影するのと同時に、ムービーもカラーで撮った。

日本の登山隊が8000㍍を超す高峰を征服するのは初めてで、映画の公開初日は観客が長蛇の列を作った。登山ブームが起き、記念切手も発行された。
依田は、「趣味は登山と写真」「大学に通うかたわら(編集局)事務員として毎日新聞で働いていた」と書き残している。入社は1937(昭和12)年、写真部は45(昭和20)年からだ。53(昭和28)年の第一次マナスル登山隊に選ばれた時、36歳だった。第一次隊は標高7,750㍍に達したが、登頂はできず、翌53年の第二次隊は、地元住民の反対で登山することもできなかった。
そして第三次(槇有恒隊長)で今西寿雄(当時41歳、のち日本山岳会会長)とシェルパのギャルツェン・ノルブ(同38歳)が初登頂に成功。2日後の5月11日加藤喜一郎(当時35歳、慶大ダウラギリ第2峰偵察隊長)と最年少隊員・毎日新聞運動部の日下田実(同25歳)が頂上に立った。

登頂成功の第1報は、5月18日付毎日新聞朝刊1面。第1次・2次隊員だった運動部長・竹節作太が署名入りで原稿を書いた。依田は、標高7300㍍のC5(第5キャンプ)まで登った。そこで映画の撮影をしたが、大変だったのは、毎日新聞への紙面用の写真原稿送り。C4(標高6650㍍)までに撮影したフィルムをBC(ベースキャンプ、標高3850㍍)まで下って現像、写真説明をつけてシェルパに託してカトマンズへ。そして再びBCからC2→C3→C4→C5と登るのである。
「ただでさえ息の切れる7000㍍の高所」での撮影が大変だったか、「マナスル登頂を終わって」の連載最終回で依田が書いている(6月5日付毎日新聞朝刊)。
依田は52年の事前踏査隊にも加わっており、マナスルには5年関わった。『マナスル写真集1952-56』(毎日新聞社1956年刊)を出版している。59年には雪男学術探検隊員としてネパールへ特派された。その後「カメラ毎日」編集長。1998年没81歳。
毎日新聞関係者は、竹節作太88年没82歳、日下田実2020年没89歳。
◇
エベレストに初の「日の丸」—日本山岳会、世界6番目の快挙
世界の最高峰8848㍍の登頂に成功が報じられたのは、1970(昭和45)年5月14日付毎日新聞夕刊だった。
松浦輝夫(当時36歳)と植村直己(同29歳)が5月11日午前9時10分頂上に立った。この登山隊にカメラマンとして同行したのが、東京本社写真部の木村勝久だった。

木村は日大芸術学部写真科を卒業して55年入社。毎日新聞社が後援した慶大未踏峰ヒマルチュリ登山隊(1960年5月24日7893㍍に初登頂成功)とエベレスト登山隊(1969・1970年)に特派された。
『日本山岳学会エベレスト初登頂を撮った男—報道カメラマン木村勝久』展が2018年に郷里の茨城県坂東市立資料館・坂東郷土館ミューズで開かれた。同展では、植村直己から贈られたエベレスト頂上の石も飾られた。
円満な人柄で、誰かも愛された。独身時代の植村直己がよく木村家を訪れ、「2人で酒を酌み交わしていたようです」と公子夫人が語っている。
1972(昭和47)年家業の貴金属店を継ぐため退社した。
私(堤)は、初任地長野支局で木村さんと出会った。1965年から始まった松代地震の応援出張で来られた。私が写真部長になったことを喜んでくれて、「長尾靖さんと年に数回会うんだ」と言って、ピューリッツァー賞カメラマン(浅沼稲次郎日本社会党委員長刺殺の瞬間を撮影)を紹介してくれた。池袋でカメラの展示会が開かれている時で、そのあと近くのホテルのラウンジで、3人で1パイやった。2人とも物静かな紳士だった。
木村さんは、2005年没74歳。長尾さんは、2009年没78歳。
(堤 哲)
2022年11月17日
『目撃者たちの記憶1964~2021』番外・写真部記者列伝①酒井慎一
毎日新聞創刊150周年記念出版と銘打った写真部史『目撃者たちの記憶 1964~2021』(大空出版@2420円・税込み)が好評だ。
この写真部史は、写真部OB会が1989年に平河出版から発行した『【激写】昭和』の続編という位置づけで、掲載は、前回の64東京五輪以降としたので、使えない原稿がいっぱい出た。その救済策で、写真記者列伝を展開したい。
第1回は、61入社の私(中尾豊)が師と仰いだ酒井慎一さん(1974年在職中に没50歳)。
まずこの写真から。

佐藤栄作首相の手である。写真説明は【政権担当2530日目 古希70歳の誕生日を迎えた佐藤首相の手相】。
私の原稿から。《昭和46年2月、東京写真部のレジェンド・酒井慎一さんが9年ぶりに大阪本社から古巣に戻ってきた。師匠には大きな仕事が待ち構えていた。社会部から写真部に転属してきた二宮徳一デスク(88年没57歳)とタッグを組んで夕刊三面の企画写真を担うことになっていたのである。「一枚写真」である》
《酒井さんからいきなり声がかかった。「君は国会取材の経験があると聞いている。ちょっと手伝って欲しい」。参議院大蔵委員会で佐藤栄作首相を撮るのが、その取材目的だった。
3月26日、二宮デスクともども3人で委員会に臨んだ。酒井さんは400㍉の望遠レンズをケースに収め、私が三脚を持ち運んだ。委員会での撮影場所は2階の最前列で、各社ともそれぞれ場所は決まっている。目の前には各社自前の金属製の雲台が、がっしり固定されている。三脚は使えないのである。そのことを酒井さんに言うと、ニタニタしながら「三脚は俺が使う」と》
《酒井さんは傍聴席から撮ることを考えていたのだ。傍聴席はまだがら空き。三脚を立てても報道用の傍聴章を見せると警備員も文句は言わない。
大蔵委員会の審議は、古希の首相に敬意を表して形式的に終わった。佐藤首相はニコニコしながら与野党の委員(議員)に笑顔であいさつ。酒井さんは首相の満面の笑みでも撮ったのだと私は思っていた。議長の散会の言葉で、首相は与党の委員に囲まれるように出口に向かった。その時である、出口で首相は両腕を後ろ手に組んだ。一瞬の間だった。傍聴席からシャッター音が2~3度聞こえた。酒井さんの満面の含み笑いが見えた》
◇

酒井さんは、1942(昭和42)年2月活版部から写真部員となった。サン写真部出向が10年近く。ここでストレートのニュース写真でなく、フューチャーものを会得した。
【荻外荘(てきがいそう)を散歩する吉田茂首相】
満面の笑みを浮かべている吉田茂首相。撮影は1948(昭和23)年10月。スピグラで撮っているので、艶やかな吉田の表情、着物のディテール、背景の木立なども細やかに表現されている。「あの頑固一徹な吉田茂」が無警戒に心を許してしまう何かが、撮影者の酒井さんにあった。この撮影テクニックこそが酒井流だった。



【料亭での隠し撮り。右端の笑顔の人は1960年代に総理になった池田勇人】
《1955(昭和30)年8月、料亭での吉田と自民党首脳との会合写真である。カメラは身軽に撮れるニコンSでの隠し撮り。彼は料理長の白衣を借り、接待する女性に寄り添うように近づいて撮ったと、6年後に私はご本人から聞いている。
自由民主党が政権を維持する55年体制が確立。この写真の右の方にいる岸信介が後継となった。この写真こそ、55年体制の象徴となる隠れた特ダネ写真だと言えよう》
◇
取材中の酒井さんのスナップ写真が残っている。皇太子殿下(現上皇陛下)の真後ろ、右端が酒井さんである。
在職中に逝去され、自宅には31冊のスクラップ帳が残された。
『酒井慎一写真遺稿集 心』(1976年刊)をインターネットで購入したら1万円だった。
(元出版写真部長・中尾 豊)
2022年11月16日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その22 本郷菊坂の樋口一葉と宮沢賢治(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
以下に引用するのは連載19でも取りあげた永井荷風の『日和下駄』(「第六 水 附渡船」)からの文章である。
本郷の本妙寺坂の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨の降る折といえば必ず雨潦の氾濫に災害を被る処であった。
「藍染川」はこれまで書いてきたように、埋め立てられて現存しない。「本妙寺坂の溝川」も、暗渠化した年代ははっきしないが、やはり近代になって消失した川である。しかし、『日和下駄』の書かれた1914(大正3)年のころは、まだ開渠の状態で流れていて、大雨がふるとたちまちに氾濫して、川沿いの住宅地を水浸しにしたものとみられる。後述するように、この溝川は江戸時代には「大下水」と呼ばれた。
本妙寺は、明暦の大火(1657・明暦3年)の出火元である。そのすぐ傍にあったのが本妙寺坂だが、寺は1911(明治44)年に本郷から巣鴨へ移転した。幕府を震え上がらせたこの未曽有の大火は、本郷丸山の振袖火事と称された。
本郷丸山とは現在の菊坂通りとその周辺を含めた地域の俗称で、江戸時代には菊坂通りの本妙寺坂から胸突き坂までは丸山通りと呼ばれたという。菊坂通りは、本郷通りの本郷4丁目から北西方向に緩やかに下る坂道で、約600m先で西片1丁目にいたる。
本郷3丁目の角に、「本郷もかねやすまでは江戸の内」の川柳で知られるかねやすビルがある。菊坂通りの入口は、そこから目と鼻の先になる。かねやすは、近年まで営業していた洋品店だが、もともとは兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出して評判をとったのが始まりだといわれる。
1730(享保15)年に大火があり、湯島から本郷の一帯が焼失した。そのころ町奉行を務めていた大岡越前守忠相は、町を復興するさいの耐火対策として、本郷三丁目から南側は土蔵造りや塗屋にすることを命じた。それにたいして、本郷四丁目より北側はおかまいなしで、相変わらず板葺きや茅葺きの町屋が並んでいた、というのである。
この川柳について、たしか木村荘八だったと思うが、こんなことを書いていた。本郷のかねやすから日本橋までは3km弱、徒歩で1時間足らずの所要時間である。生活感覚からすると、本郷のあたりまでが通勤に無理のない範囲と考えられた。近代になると、交通手段がさまざま発達する。それにともない、住まいも職場から次第に遠ざかるようになった。しかし、通勤時間の目安をおよそ1時間とする生活感覚には、あまり大きな変化は見られないというのである。
私自身をふりかえれば、勤務先の毎日新聞社は千代田区の一ツ橋で、住まいは習志野市にあった。最寄り駅の津田沼駅までバスで6、7分、それより東西線の直通なら竹橋駅まで40分。歩きと待ち合わせを含め、通勤時間は1時間15分前後。報道カメラマンだから、勤務は不規則になる。交通の便を考えると、それ以上遠くには住みたくなかった。
『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」をみると、中山道の本郷3丁目あたりまでは、街道の両側を町屋が占めているが、その外側を見ると、下級武士の屋敷や大縄地(組屋敷)が所狭しとひしめいている。
彼らの職場はおそらく江戸城とその周辺だったはずである。下級武士は、幕府の扶持だけでは暮らせなかった。そのため、屋敷や拝領地に借家をつくって、町人を住まわせる例も少なくなかったらしい。武家地の住人は武士ばかりとは限らなかったわけである。町人たちもまた仕事の関係で日本橋や神田などに出かけたものと思われる。
菊坂通りの南側は崖地になっていて、その下の低地には住宅が立ち並ぶ。さらにその奥には上りの傾斜地が連なっている。規模は小さいが典型的な谷戸(谷津)の地形である。その谷底を流れていたのが、荷風のいう大雨が降ると氾濫する溝川だったとみられる。菊坂通りから南側の低地へ降りる階段が何カ所かある。低地に下りたところに菊坂通りと併行する形で狭い道がある。周りとの標高差から、これが溝川の流路跡ではないかと推測される。
その1ヶ所に大正末か昭和初期の築と思しき木造建築がある。菊坂通りからはふつうの二階建てだが、階段の脇の脇に立つと紛れもなく三階建てである。菊坂通りとその下の道との間は急峻な崖地になっていて、その崖地に住居や商店などが、肩を寄せ合うように軒を連ねているのである。
本郷の観光名所になっている樋口一葉の旧居跡は、この階段からほど遠くない住宅地の一画にある。路地の一つを入っていくと、奥まったところに手押しポンプの井戸が残っている。共同井戸と思われるが、これに洗い場がついている。周りを石畳で舗装していることもあるが、周りの住居の狭苦しさと比べ、なんとなくゆったりした雰囲気がある。耳をすませば、女たちの井戸端会議が聞こえてくるような気もする。

井戸の奥に石段の坂道がある。そこも急峻な崖地である。石段の両側に木造三階建ての古びた住宅が建っている。左の住宅はICHIYO HOUSEの名で、Google地図にも載る。インターネットで検索すると、入居者募集の不動産広告があり、「築年数は約90年」、「大正時代に建築されたとか」を売り文句にしている。
石段を上ると、建物の裏側には植木鉢が並び、すぐ横には人の背丈の倍ほどもある石垣が聳え立つ(ph3)。石垣の上にも住宅が建っているのである。石垣の下には路地があり、20mほど先で鐙坂に通じている。その出口に金田一京助・春彦父子の旧居跡がある。鐙坂の名前は坂の形が鐙に似ているからとも、かつてこの付近に鐙を作る職人が住んでいたからともいわれる。
樋口一葉がこの菊坂通りと鐙坂に挟まれた谷間に借家住まいをしたのは、1890(明治23)年9月から1893年7月までの3年弱であるという。一家の暮らしは、父親の事業の失敗、さらに父親と長兄の死が重なり、それまでと一転して、困窮を極めることになった。母親と妹の三人暮らしのなか、一葉は一家の大黒柱となり、針仕事や洗張りなどで生計を立てようと労苦をいとわず働いた。その傍ら、中島歌子の「萩の舎」で歌を学んだり、上野の東京図書館で古今の名作を手当たり次第に読んだりしていたともいう。文学の師と仰いだ半井桃水と知り合ったのもそのころで、代表作の一つ『にごりえ』の結城朝之助は桃水をイメージしたものだといわれる。(以下略)

2022年10月19日
10月20日は毎日神社の例大祭、ニッポン号の偉業を称え
原田マハ著『翼をください』(毎日新聞社2009年刊)を最近読んだ。国産機初の世界一周飛行に成功した毎日新聞社のニッポン号をテーマにした小説である。
原田さんは、六本木ヒルズ森タワー53階にある森美術館の開館にキュレーターとして参画、「森ビル時代の同僚で飛行機オタクの矢部俊男さんに、ニッポン号の秘話を小説化しないかと持ち込まれた」と書いているが、あとがきに68年入社の元事業担当常務中島健一郎さんの名前があった。
早速メールをすると、即返事がきた。
《森ビルの勉強会で矢部俊男部長と知り合い、仲良しになりました。矢部さんは、東京の街を1/1000スケールで再現する都市模型を手作りしたユニークな人で、飛行機大好き人間。僕を毎日新聞社に訪ねて来た時に、ニッポン号の模型を見つけ「中島さん、世界一周の物語をスタジオジブリでアニメにしませんか」と提案してくれました。しかしジブリは「簡単にはアニメは出来ない」となかなか乗ってくれません。
そこで森美術館設立に関わった原田マハさんがラブストーリー大賞を受賞、作家デビューしたばかりだったので、矢部さんと僕でニッポン号の小説化をマハさんに頼み込んだのです。
僕としてはニッポン号の偉業を多くの人々に知ってもらうのは、毎日新聞の宣伝になるし、出版で儲け、もしジブリでアニメになったら映画事業を始めた事業本部にとってもチャンスと考えたのです。
マハさんは、小説家として直木賞候補に4回もなり、大成された感じですが、当時はういういしい賢い女性で、とても魅力いっぱいでした。僕の大好きな作家です》
そしてパレスサイドビル1階にあるニッポン号の模型の写真を送ってきた。


10月20日は毎日神社の例大祭だ。毎日神社は1939(昭和14)年、毎日新聞社(当時は大阪毎日新聞社、東京日日新聞社)の双発輸送機「ニッポン」号が国産機初の世界一周飛行に成功したのを記念して創建されたのだ。
ニッポン号は1939(昭和14)年8月26日午前10時27分羽田飛行場(現 東京国際空港)を離陸し、東回りで太平洋→北米大陸→南米大陸→大西洋→アフリカ大陸→ユーラシア大陸のルートで巡り、55日後の10月20日に帰国した。総飛行距離52,886 km。所要時間194時間。乗員は機長中尾純利、副操縦士吉田重雄(航空部員)、機関士八百川長作(航空部員)、機関士下川一、通信士佐藤信貞、技術士佐伯弘の6人に、親善使節として外国特派員を経験している毎日新聞社航空部長大原武夫を加えた。


(堤 哲)
2022年10月17日
鳥栖工場の思い出を計画当時の西部本社代表室長、吉原勇さんが振り返る

社報2022年秋号(第 1191号)に「九州センターで聖教、公明新聞の印刷始まる」の記事があった。
《毎日新聞九州センター北九州工場(北九州市)で8月31日、聖教新聞と公明新聞の印刷が始まった。印刷を受託したのは北九州地区に輸送される両紙。安定的な部数維持が期待できるため、九州センターの収益アップにとどまらず、毎日新聞グループホールディングス全体の経営安定につながる》
記事には、「西部印刷100年、北九州工場20年」とあった。毎日新聞九州センターは1989年11月創立、鳥栖工場は2019年に創業30周年を迎えている。
◇
昭和天皇が崩御され、平成元年となった1989年の6月下旬、経営企画室委員だった私は秋山哲室長から「西部本社に代表室を新設する。鳥栖工場建設のためであり、君に代表室長として行ってもらいたい」と命じられた。その前年の夏ごろから、九州にも分散工場が必要だという認識が強くなり、経営企画室委員として候補地をいくつか視察、西部本社の人達とも協議して鉄道輸送にも高速道路輸送にも便利な鳥栖に建設すると決まったばかりだった。読売新聞も同じ鳥栖に、朝日新聞は大宰府にそれぞれ工場を建てるという発表があり、大手新聞3社の建設競争が始まろうとしていた。
7月1日付で北九州市小倉の西部本社に着任した。私は大阪本社管内の京都支局を振り出しに中部本社報道部、経済部、東京本社経済部、大阪本社経済部、東京の経営企画室と三本社を体験しており、毎日社員としては空前絶後の四本社を渡り歩いた男になったのだった。西部本社に行って驚いたのは、社員が裕福な暮らしを楽しんでいることだった。ヨットや釣り船を所有している社員が複数いたのである。物価の安い九州では、給料が安い毎日新聞社員でもそれなりの暮らしが出来るのだった。
工場建設についての最初の会議を開いたところ、驚いたことに完成した設計図を示された。西部本社は土地取得の前から大林組の協力を得て設計を進めていのだという。見ると輪転機三セットを備え、最上階には広いホールを作る計画になっていた。
私は、既存の小倉工場を出来るだけ活用し、新工場は必要最小限の設備にしたいと思っていたので示された設計図では過剰投資になるように思えた。「二セットにできないですか」という私に、「販売局は大拡張すると言っているから三セットでなくてはいけない」という返事。「ホールは何に使うのですか」と問うと「地元の人にコミュニティセンターのように利用してもらい地域密着型工場にします」という答えだった。そして「これから設計を変更すると三か月かかります。そうすると朝日、読売に先をこされてしまいます」と口々に主張するのだった。突然舞い降りてきた男の言うことなど聞くものか、という空気が流れていた。それが西部本社の総意だと感じた私は「追加工事は認めない」という条件で設計を了承、7月末の取締役会で決定するよう稟議書を書いた。
取得した用地を整地したあと9月には着工した。工事現場にはよく視察に出かけたが、本社での仕事を終え迫田太代表の自家用車をお借りして現場に行くと工事責任者が終業時間を延長して作業してくれるのに気付いた。その日は午後9時ごろまで作業が続いた。
そこで週一回の割合で午後6時に社を出発、高速を使って現地に午後6時40分ごろ着くという視察を繰り返した。その効果もあって作業ははかどり、建屋の建設は予定より1か月以上早く出来上がった。
三菱重工業三原工場に輪転機を受け取りに行ったのは翌年の2月だったと思う。受け取り式を行ってラッシュアワーが終わった午後8時すぎ、大型トラックを連ねて国道2号線を西に向かった。私は列の最後尾を迫田代表の車で従った。広島県内は何事もなく通過したが山口県に入って暫くすると、前を走るトラックが左側に傾くのが分かった。列をストップさせて点検すると道路左側の路肩が壊れ車輪が沈み込むためと分かった。なにしろ輪転機は一基30トンの重さがある。三セット分12基が同時に通行するから道路がその重みに耐えられないのだった。
しかしそこで立ち往生する訳にはいかないのでソロリソロリと動かしてみると、道路の中央部分をゆっくり走らせると無事に通行できるとわかった。その徐行に付き合うわけにはいかないので、私は後を印刷部長に任せて小倉に帰った。
翌朝出勤してみると午前7時頃無事に鳥栖工場に運び入れたという報告だった。しかし国道2号線を10数キロにわたって損傷させたので、三菱重工業が陸運局に始末書を提出することになった。毎日より後に輪転機を輸送した読売、朝日は国道2号線の利用を認められず、中国縦貫道を使用した。そのため中国縦貫道に深い轍の跡が数か所にわたって残り、通行するのに苦労したことを覚えている。
鳥栖工場は当初の予定より2か月早く完成、「毎日九州印刷センター」として1990年5月2日稼働を開始した。他社に先駆けて完成したため、部数の伸びは大きかった。北九州市や下関市などでは朝日新聞の部数を上回るほどになった。しかし2か月後に読売新聞の工場が、半年後に朝日新聞の工場が完成すると部数の伸びは止まった。
それとほぼ同時に巨額の赤字問題が浮上することになった。一セットの輪転機を何人で操作するかという機付人数を削減したり、カラー広告の受注、小倉と鳥栖を掛け持ちする制度をつくったりした。しかしなかなか効果はあがらなかった。私は1991年4月1日付で不動産企画室長として東京に帰り、あとは西部本社のひとたちに委ねることになった。
(64年入社・吉原 勇 84歳)
2022年10月3日
日中国交正常化50年。元北京特派員、辻康吾さんが「私とパンダ」の思い出

今年米寿を迎え、またちょうど五十周年となる日中国交正常化交渉のことがしきりと思い出される。
1972年9月25日、特別機で北京に入り、29日に日中共同声明が調印され、上海で一泊して帰国した。
北京での取材の合間に外国人用の友誼商店で買い物をし、高さ50㌢ぐらいの巨大なパンダの縫いぐるみを買った。今でこそパンダ(ジャイアントパンダ)のことは誰もが知っており、ぬいぐるみなどの人形も巷に溢れているが、茅台酒と同様、日中国交正常化まで日本でパンダを知る人は多くはなかった。
実は動物好きの私は入社前から、後に上野動物園長となる増井光子さんなどが加わる希少動物の研究会でパンダのことは知っており、入社後には訪中する松村謙三氏に日中関係促進のため中国からパンダをもらい受けて欲しいと陳情したこともある。そんなこともあり共同声明調印後の記者会見で大平外相からパンダの話が出た時、記者団から「パンダってなんですか?」との質問があり大平外相は「何か大型のネコのようなものなそうです」と答えたとき、思わずニンマリしたことを覚えている。
話は前後するが国交正常化前に広州交易会に参加し、ついでに広東の動物園でパンダを取材、パンダの檻に入れてもらった。ちょうどパンダの食事時間で竹ではなく、ちょっと甘いお粥のようなパンダの餌の味見をしてみたり、お尻を押したり叩いたり、また三頭のパンダの名前を聞いて標準の中国語で呼びかけても応えないのに、地元の広東語で呼びかけると寄ってくるなど---その際に撮った写真が本紙に掲載されると、本社ではその写真を欲しいとの読者の電話が殺到したそうだ。


あの北京で買った大型パンダの縫いぐるみは今でも手元にあり、その頭を撫でながらお尻を叩いた広東のパンダに悪いことをしたなと反省している。
(1961年入社・辻 康吾)
辻康吾さんは東京外国語大学中国語学科、立教大学法学部卒。香港、北京特派員を経て、北京支局長、東京本社編集委員など歴任し2005年退職。東海大学教授、獨協大学教授も務めた。著書は「転換期の中国」(岩波新書)「中華曼陀羅『10億人の近代化』特急」( 学陽書房のち岩波現代文庫)「中国考現学」(大修館書店)「中華人民笑話国 中国人、中国人を笑う」(小学館)「中国再考――その領域・民族・文化」 (監修、岩波現代文庫)など。
2022年10月3日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑥日本の労働運動と活版工
活版工は日本の労働運動にどのように関わってきたでしょうか。「新聞労働運動の歴史―新聞労連編」(1980年大月書店刊)は、「序章 新聞労働運動の黎明―戦前の先駆的な闘い」「1、新聞のはじまり、労働運動のおこり」の「近代的労働運動の誕生」で以下のように紹介しています。
暗黒の時代に「活版工組合」があった
前世紀(1800年代)の末期、日清戦争後にはじまった産業革命の急激な展開に伴って、日本でも資本の集積集中と階級分化が進行し、近代的な労働運動が現れた。明治初期から労働者の大衆的な騒擾や反抗、ストライキはおこっていたが、これらの闘争はまだ散発的で自然発生的なものにとどまっていた。近代的な労働組合の組織化をめざして「労働組合期成会」が結成されたのは、1897(明30)年夏のことであった。
期成会の創立者はアメリカ帰りの高野房太郎(横浜の英字新聞記者)、片山潜(活版労働者出身)らであった。キリスト教人道主義の彼らに、労使協調の立場のものも加わった期成会は、労働者の示威運動、各地への遊説、工場法案の促進、消費組合運動などをおこなったが、とくに力を入れたのはその名が示すとおり、労働組合の結成をめざす運動であった。期成会の努力によって、鉄工組合(砲兵工廠と鉄道工場を主力とする機械金属労働者の組織。1897年12月)、日鉄矯正会(日本鉄道株式会社=現・国鉄東北本線の鉄道労働者の組合。1898年4月)、活版工組合(1899年11月)があいついで結成された。
活版工、印刷工の組織化は1880年代から早くもはじまり、1884年、89年、90年(「活版工同志会」結成)とあいついだが、いずれも失敗に終わり、やがて日清戦争を経て社会運動が高揚をみせはじめた1898年(明31)2月に東京本所・深川の活版工、印刷工による「懇話会」(発起人が解雇されストライキをおこなったが、やがて消滅)、同年8月の東京の印刷労働者による「活版同志懇話会」の結成をみた。
活版同志懇和会は、秀英舎(大日本印刷の前身)社長・佐久間貞一ら資本家の援助もあって順調に組織をのばし、翌99年(明32)1月2日に会員2000人の「活版工組合」へと発展した。(略)彼らの1日10時間労働制、残業割増賃金などの要求とたたかいは、「労資の調和」をうたった創立の理念と対立するようになった。やがて資本家の組合抑圧がはじまり、治安警察法が成立した直後の1900年(明33)5月には「規約の運用停止」を宣言して事実上の解散をみるにいたった。(略)
労働組合運動にとって暗黒の時代に、新聞の印刷労働者、記者らの先進的なたたかいがみられた。
活版労働者だった片山潜

期成会創立者の一人・片山潜は「(活版労働者)」だったとあります。そこで「自伝 片山潜」(1954年岩波新書)で調べてみました。
片山潜は1859(安政6)年12月2日岡山県生。父母は水呑百姓。19歳で片山家養子に。1881年23歳、岡山師範を中退して上京し活版工に。1884年26歳、渡米。1921年63歳、コミンテルンの幹部となり、日本共産党結党の指導を行った。1933年11月5日、モスクワ市内の病院で敗血症 のため死去。満73歳。
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以下、活版工当時のことを要約して紹介します。
1881年、予は成績優秀で岡山師範で級頭になったが向学心抑えがたく上京した。しかし頼った友人があてにならず、懐中が寂しくなったのをみた下宿の主婦が「今活版屋に口があるから行って働いてみませんか」と言ってくれ、この日から活版所の労働者となった。
活版所は「績文社」と言って、銀座鍋町にあり、煉瓦造りの西洋館2階建ての大きな建物で、2階が活版、1階が印刷所だった。房州からきた夫婦が経営し、文選は7、8人の子ども、植字工2人、印刷工は2人の子どもと紙取り兼インキつけの2人。職工長は鈴木さんという熱心な老職工。主人は校正を担当してした。
最初は活版印刷機の車回しの仕事だった。文選の小僧どもは印刷の小僧をバカにする風があった。予は田舎者ではあるが、暇な時は何時でも書物を読んでいた。それを見た工場主の妻君が文選へ廻してくれた。ところが炭焼、木樵夫、鋤鎌を持ち馴れた予の手には活字を取り扱うのはなかなか困難であった。それに活字の在り場所が容易に覚えられない。論語、孟子、文章軌範位読んだ知識では知らない字が沢山ある。わずか10か12の子供が予より遥か早く字を拾う。予は活字拾いとなって異常なる苦心をした。(略)
暫くの間の活版屋の生活は予にとって多大の経験で、後年労働運動をするようになった時、この経験は少なからず予に職工気風を覚悟する資格を与えた。
*
活版工の経験は、片山潜のその後の活動に確かな影響を与えたのでした。
(福島 清・つづく)

<追記> 前回の「⑤太平洋戦争と活版工」で、「マニラ新聞」に触れたところ、里見和男さんが『マニラ新聞、私の始末記』故・青山広志(編集・発行人 吉田勉)を送ってくださいました。
「毎日新聞百年史」には「マニラ新聞では出向社員のうち54人が殉職したほどである」(393P)としかありませんが、本書の「比島関係殉職社員霊名表」には、55人の氏名、殉職月日、享年、殉職地域が記されています。その中に、大阪活版の8人、西部活版1人の氏名があります。セレベスに派遣された東京活版の方々の消息は不明です。
2022年9月26日
人形浄瑠璃「文楽座」が開設してことし150年・銀座で文楽鑑賞
人間国宝桐竹勘十郎が人形を操る「GINZA文楽」が 9 月 21 日、東京・中央区役所隣の銀座ブロッサム(中央会館)で開かれた。演目は『端模様夢路門松』(つめもようゆめじのかどまつ)。一人遣いの人形「つめ人形」の門松が、三人遣いの人形になって主役を演じる夢を見るという勘十郎が80年代に創作したちょっぴり切なく、ユーモアあふれる作品。
門松が嘆く。「毎日~~、舞台へ出りゃ、どつかれたり蹴られたり頭にたんこぶ作らん日はないわい。みんなワイなぁ、一ぺんでもエゝ、三人遣いになってみたいんじゃ」
解説を聞いてびっくりしたのは、ことし2022年は、文楽150年に当たるメモリアルの年であるということ。1872(明治5)年に、大阪の松島遊郭に「文楽座」が創設され、それから人形浄瑠璃が「文楽」と呼ばれるようになったのだという。
この1872(明治5)年、「東京日日新聞」は浅草で創刊、「資生堂」は銀座で、「鉄道」は新橋—横浜間で10月14日(太陽暦)開通した。ベースボールもこの年に米国人教師から伝わったとされる。文明開化の世の中だった。
「GINZA文楽」は、この毎友会HP編集責任者の高尾義彦さんのあっせんで、OBの磯貝喜兵衛さん(93歳)、元日本記者クラブ事務局長・中井良則さん(69歳)、編集局の事務・経理を取り仕切っていた国井道子さんと共に鑑賞したが、大阪社会部育ちの磯貝さんは「私の知っている文楽は、大阪の四ツ橋にあった」と話した。
調べてみると、「文楽座」は、その後、御霊(ごりょう)神社(大阪市中央区淡路町5丁目)→1927(昭和2年)に「四ツ橋文楽座」がつくられている。1956(昭和31)年、四ツ橋から道頓堀(のちの「朝日座」)→84(昭和59)4月に大阪日本橋に国立文楽劇場が開場した。


(堤 哲)
2022年9月20日
元西部本社編集局長、篠原治二さん(91歳)から 茫々記「吉展ちゃん事件」異聞・番外編続報
他紙との競争にとどめを刺した遺体発見のスクープ

もう一つ、私が放った特ダネ、吉展ちゃんの遺体発見のニュースは、一連の毎日報道の勝利に花を添えるものであった。そのことには一切触れずに、9月のはじめ私は堀越章さんに手紙を出した。
ただ、あの頃が懐かしいとだけ、書いた。ところが、堀越さんはちゃんと覚えていてくれた。すぐに返信があった。
「あの日、篠さんが下谷方面のお寺に片つぱしから電話をいれ、円通寺につながったとき、住職の奥さんが、『いま吉展ちゃんの遺体が、うちの墓地から見つかりました』と答えてくれた。これが大特ダネになりました」
堀越さんの手紙は、冒頭こうであった。
あの日とは、小原保が自供をした昭和40年7月4日である。私は、たまたま警視庁クラブで宿直をする日に当たっていた。防犯担当という地味な持ち場であり、堀越さんら捜査一課担当の若手の活躍をいつも横に眺めていた。
遺体が出た場所を「エンツウジらしいよ」と囁いてくれたのは、防犯部の部長刑事、通称荏原の人である。スパイ合戦みたいに、そのようなコード名で呼んでいたが、警視庁のどこでひそかに会っていたのか、記憶はぼけていて思いだせない。
急いでクラブに戻り、道村博キャップに報告すると、電話作戦が始まった。なんと、エンツウジとう名前だけで20か30カ寺あるのには驚いた。運よく10箇所もいかぬうちに、南千住の円通寺にであい、しかも住職夫人との会話は、何者かによりさえぎられた。
きっと、捜査官が横にいて、打ち切ったのだ。
「キャップ、間違いありません」
堀越さんの手紙は続ける。
「以後、同寺の電話は『話し中』となって通じなくなりなり、寺の周辺は機動隊が封鎖したため、他社は明け方、4時過ぎの発表まで手が出ない、忘れられない篠さんのホームランでした」
私は、畏友、堀越さんに褒められたことが、この年になってもたまらなく嬉しい。
電話で突き止めたのは、4日の夜7時ごろと記憶している。少なくとも早版だけは勝ったつもりだ。「シロ」から「クロ」へと揺れ動いた2年3ヶ月の報道をみて唸ったことは、道村キヤップの緻密さと粘っこさだった。かつて、捜査一課担当の名記者といわれた人だったが、二課をやらせても成功したであろうと思っている。
これらの茫々の記には、いまにつづく後日談がある。若き日の堀越記者が、あるときは家の床下にまで潜りこみ、真相を追求した捜査責任者、武藤三男氏はその後、捜査一課長になり、さいごは警視庁参事官までものぼりつめ、亡くなる。
その長女の結婚では仲人までつとめ、武藤氏が亡くなったあとまで家族ぐるみの付き合いが続いているそうだ。かつて、夜回りの記者へむけ「父を寝かせてください」と門柱に張り紙をしたあのお嬢さんたちも、孫をもつ初老の主婦になった。
「思えば長い時間が経ちました」と、堀越さんは手紙に書いていた。
(東京社会部OB 篠原 治二)
2022年9月15日
ハワイの日本語新聞「日刊サン」のニュースコラムが50本に――元社会部司法記者の報告

ハワイで発行されている日本語新聞「日刊サン」に3年程前から寄稿を頼まれ、毎月1本(当初は月に2回)、メールで原稿を送り、「高尾義彦のニュースコラム」として掲載され、14日で50本になった=写真。97歳になった大先輩、牧内節男さんにはとても及ばないが、「書くこと」にこだわり、発信の場に恵まれたことに感謝している。
この企画は、定期的に赤坂で飲み会を開いてきたグループのメンバーの一人、TBSシニアコメンテーター、川戸惠子さんから持ち込まれた。当時は川戸さん自身がコラムを執筆していて、寄稿者を増やしたいとのことで、気軽に引き受けた。
2019年6月がスタート。「宇宙かあさん」として参院選に立候補を予定していたJAXA(宇宙研究開発機構)の水野素子さんが、赤坂の飲み会に飛び入りして一緒にカラオケなど楽しむ機会があった。そこで第1回目のテーマは「参議院議員にもっと女性を」に決めて、1回2000字ほどのコラム執筆を始めることになった。水野さんは今回の参院選で立憲民主党から立候補し神奈川で当選している。
2回目からのテーマを並べると、「蝉が鳴く頃」(2019年7月)、「大嘗祭と阿波忌部」(同)、「八月ジャーナリズム」(8月)、「緑の宝石 スダチの季節」(同)、「裁判員裁判10年経って」(9月)、「三陸鉄道に乗って」(同)、「銭湯は減る一方だけど」(10月)、「日本の童話 100年の歴史」(同)、「国家機密と新聞」(11月)、「帰ってきた寅さん 今年映画は」(同)、「連句の楽しみ 奥の細道330年」(12月)、「人間みなチョボチョボや」(同)。
出身地の徳島に関する話題や、40年近く前の開通時に取材し東日本大震災の被害からも立ち上がった三陸鉄道、生前付き合いのあった作家、小田実さんの話など、テーマは自分が専門としてきた司法にとどまらず、あちこちに手を広げた。小学校時代の同級生二人とメールで楽しむ連句(歌仙)は212巻に達した。
2020年に入ると、「特捜IR捜査の光と影」(2020年1月)、「東大安田講堂事件から半世紀」(同)、「日本の美術館が進化する」(2月)、「法匪!? 検事総長候補の定年延長」(同)、「ハワイにも咲く今年の桜事情」(3月)、「皇居のお濠、きれいな水に」(同)。
黒川弘務検事総長実現のために安倍政権が法律を無視しようとした事件では、事態が動く可能性があったので掲載時期を早めてもらった。すると直後に、国家公務員法の定年延長規定を検察官にも適用する、との方針が当時の安部晋三首相から示され政治問題化し、その後は「麻雀報道」などの展開となった。ハワイの桜は、知り合いのボタニカルアーティスト、石川美枝子さんたちがハワイで開催した植物画のグループ展を取り上げた。
ここまでは毎月2回の掲載だったが、新型ウイルスの感染拡大で経営に打撃を受けた「日刊サン」は、「紙」の新聞を週2回に減らし、デジタルに重点を移した(その後、「紙」は一時、発行休止に)。寄稿回数も月に1回となった。
この時期のテーマは「春の四国路 お遍路さんが行く」(4月)、「香川県豊島の自然と花を見る会」(5月)、「アウンサンスーチーさん」(6月)「辺野古と沖縄の民意」(7月)、「どこへ行った?女性天皇論」(8月)、「日本の陶芸 苦境を超えて」(9月)、「田中角栄元首相と菅義偉新首相」(10月)、「リニア中央新幹線、ちょっと待って」(11月)、「タネは誰のもの? 種苗法改正、さらに議論を」(12月)。
2021年に入って、「核兵器禁止条約発効、日本はどうする?」(1月)、「日本の裁判、IT化と課題は」(2月)、「東日本大震災から10年、いま考えること」(3月)、「本気で原発に代わる新たなエネルギー政策を」(4月)、「女性が輝く時代へ、一歩でも前へ」(5月)、大丈夫か?デジタル庁9月発足」(6月)、「沖縄戦犠牲者の遺骨と辺野古埋め立て」(7月)、「東京五輪パラリンピックから総選挙へ」(8月)、「どうなる将来のエネルギー選択」(9月)。
この年の10月から「紙」の新聞を毎週土曜日だけ復活させ、コラムはデジタルにオンした週の土曜紙面に掲載されるようになった。
「桜を見る会疑惑と検察審査会」(10月)、「将来のノーベル賞学者を育てるために」(11月)、「瀬戸内寂聴さん、辻元清美さん……」(12月)、「天皇制度の将来を考える年に」(2022年1月)、「ノーブレス・オブリージュを、天下分け目の関ケ原で考える」(同)、「日大事件後、どうなる私立大学のガバナンス」(2月)、「徳島・上勝町のゼロ・ウエスト運動を世界に」(3月)、「ドバイ万博から大阪・関西万博へ」(4月)、「沖縄復帰50年、本土が引き受けるべき責任は」(5月)、「IT化目指す日本の司法、現状の課題は?」(6月)、「日本の寄付文化はどう変わって行くのか」(7月)、「国交回復50周年、中国とどう付き合うのか」(8月)。
堅苦しいテーマも、できるだけ自分の体験などを盛り込んで、取っつきやすくと心がける。検察審査会の審査員だった経験、99歳で亡くなった同郷の瀬戸内寂聴さんとは、中坊公平さんの取材に関連して、俳人鈴木真砂女さんが経営していた銀座・卯波でお酒を飲んだ話、辻元清美さんとは彼女が早稲田大学の学生で「ピースボート」を立ち上げた頃から取材した歴史。日大事件では、学生時代に初代若乃花の娘さんの家庭教師をしたこと(二子山部屋の土俵を、その後、日大相撲部が使用)……。関が原では、美術や文化の支援に力を入れる関ケ原製作所元社長、矢橋昭三郎さんの要請で、旧知の彫刻家、杉本準一郎さんとのトークイベントにも招かれた。
今後、いつまで続けるか見通しは立たない。「日刊サン」の社長兼編集者の平山由美子さんから「今後ともよろしく」とメールをいただいている間は、あれこれネタを探して。付け加えると、これらのコラムは今春30巻でフィナーレとした季刊同人誌「人生八聲」に転載し、雑文と俳句を集めた自費出版の『無償の愛をつぶやく Ⅲ』(2020年6月刊)にも収録してきた。
50回目のテーマは「読書の秋 どんな本を読もうか」。
「日刊サン」https://nikkansan.net/ のページを開いて、「ニュースコラム」を検索していただければ、バックナンバーを読めます(WEB掲載スタイルは流し込み)。
(元東京社会部 高尾 義彦)
2022年9月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その21(後編) 谷中の清水と鶯の初音(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
地名は大事である。その土地の埋もれた歴史を掘り起こす糸口になる。
私の生まれ育った集落の地名は小沼という。別称があり、シギダともいう。
家の前から太平洋が見渡せる。海までは800メートル弱の距離。正面には伊豆大島が間近にせまり、西側には伊豆半島が横たわる。いまは耕作放棄地が歯止めもなく増えつつあるが、起伏のある斜面に拓かれた不定形な畑と棚田の景色は子供心にも美しかった。その奥に低い砂地の丘陵が続き、その丘陵のさらに奥に白い波頭が見え隠れする。
小沼という地名は、海岸の近くに沼があったことによるらしい。そこを開墾し水田に変えたのである。別名のシギダは、念仏講の教本などでは鴫田と漢字を充てている。シギは水辺の渡り鳥である。遠浅の砂浜をハマシギが群れをなして乱舞するのをよくみかけた。海辺の田んぼでシギの仲間が遊んでいたとしてもおかしくない。田植えの時期は水辺の鳥類が渡ってくる季節とかさなる。
海岸まで約200メールの東西の端に両墓制の埋め墓(タチューバ)と弁財天があった。そこが昔の海岸線らしい。その奥の丘陵は、いつのころなのか分からないが、大地震による隆起だといわれる。そのあたりの畑は土壌が砂地で、形が規則正しい短冊形になっている。村の言い伝えによれば、明治か大正のころ、村中総出で開墾し、それを均等に配分したとのことである。

話をもとに戻そう。谷中には谷中清水町のほかにも、実に興味深い地名がある。その代表格が谷中初音町である。これも明治に作られた旧町名である。谷中初音町(1-4丁目)は、現在の谷中(3丁目、5-7丁目)にほぼ相当する。
JR日暮里駅から谷中方面に向かうと、線路を超えたすぐ先が御殿坂である。この坂道を進んで行くと、道が二又に分れる。まっすぐ進むと、夕焼けだんだんの石段がある。そのすぐ先が東京下町の観光名所として人気のある谷中銀座である。 こちらの道ではなく、二又の左手にあるひっそりした坂道に入る。これが七面坂で、江戸時代からの旧道である。坂を下ると長楽寺が左手にあり、その先のT字路を左折すると、右手に宗林寺がある。それより先は緩やかな下り坂がしばらく続く。これが六阿弥陀通り(六阿弥陀道)で、およそ400メートル先の三埼坂(大円寺)で、都道452号・白山神田線(谷中道)に合流する。
六阿弥陀通りの途中に、都立岡倉天心記念公園がある。向いの路地に谷中初四会館(谷中初四町会会館)がある。またこのあたりには、区立の公民館や図書館が置かれ、初音の森という防災広場も併設されている。谷中初四会館の初四は、この地域の旧地名である谷中初音町四丁目のことだろう。防災広場の初音もこの旧地名に因むに違いない。
そんなことから、谷中初音町四丁目について『日本歴史地名体系13 東京都の地名』で引いてみると、思ってもみなかったことが書いてある。
安政三(1856)年の尾張屋版切絵図では大円寺の北に「御切手同心」と明示されている。町内に鶯谷とよばれる所があり、初音町の名はその鶯の初音にちなんだといわれる。鶯谷は七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷で、この鶯谷へ下る坂を中坂といった(御府内備考)。
そこで今度は、同書のいう「安政三(1856)年の尾張屋版切絵図」、すなわち『江戸切絵図』「根岸・谷中・日暮里・豊島辺図」を見てみる。
絵図の東南側に「東叡山御山内」が描かれていて、その北西に「天王寺」(谷中天王寺)がある。天王寺北側の道が御殿坂である。道を隔てて「本行寺」・「経王院」(経王寺)。そして御殿坂と諏訪台通りが交差する斜向かいに七面延命院(延命院)がある。七面坂の名はこの寺院に因む。
『御府内備考』は幕府の手になる史書で、1829(文政12)年に完成した。同書のいう中坂というのは、七面坂下の「宗林寺」・「長楽寺(長明寺)」から「御切手同心屋敷」に通じる坂で、現在の六阿弥陀通り(六阿弥陀道)のことである。「御切手同心屋敷」の「切手」は通行証のことで、江戸城の切手御門で大奥への出入を監視する下級役人の組屋敷が谷中にあったのである。
『江戸切絵図』で六阿弥陀道をたどると、「宗林寺」と「御切手同心屋敷」の間に田地(百姓地)がある。『御府内備考』のいう「七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷」とはこの田地のことをいうのではないかと思われる。六阿弥陀通りと併行する形で、西側の低地を流れていたのが藍染川で、先にも書いたが、現在のよみせ通りがその流路跡になる。
『谷中初四町会』のホームページによると、谷中初四会館が建っている場所は、切手同心の組屋敷跡であるという。上記のように、都立岡倉天心記念公園が六阿弥陀通りに向かいにあるが、ここは『江戸切絵図』では「酒井甚之介」と記されている。あるいは鶯谷と呼んでいた範囲にこの武家地も含まれていたのかもしれない。
というのも、鶯谷については『江戸砂子』にも言及があり、同書は鶯谷の範囲を『御府内備考』よりもっと広く捉えているからである。
〇鶯谷 溝口家下やしきの向。寺院七ケ所ある谷なり。いつのころにや、東叡山の宮より京の鶯数多放させたまふは此所なりとぞ。いまに至て音色すぐれたりといふ。
(以下略)
2022年9月9日
元西部本社編集局長、篠原治二さんから、茫々記「吉展ちゃん事件」異聞・番外
吉展ちゃん事件のときの警視庁クラブのメンバーが、堀越章さんの原稿の最後にあった。当時の年齢を入れて、再掲すると——。
▽キャップ:道村博(当時42歳、2002年没79歳)
▽捜査一・三課・鑑識担当:堀越章(33歳)・小石勝俊(27歳)
▽捜査二課:桜井邦雄(36歳、1988年没59歳)・今吉賢一郎(28歳)
▽捜査四課:寸田政明(36歳、2003年没74歳)
▽公安・警備:森浩一(30歳)・原田三朗(30歳、2017年没82歳)
▽防犯:篠原治二(34歳)
▽交通:鳥井守幸(33歳)
皆さん若かった! 57年前だから当然か。
元西部本社編集局長・篠原治二さん(91歳)にメールで知らせると、以下の返信があった。
——RKB(元社長)の永守良孝君から小原保事件を堀越さんが書いていますよ、と電話があり、ホームページをあけてびっくりでした。さつそく、堀越君には手紙を書きました。
森浩一さんの社会部回想記も、楽しく読ませてもらいました。
寸ちゃん(ぼくより年上ですが、ほぼ同期入社です)は、思い出たくさんです。ネタとり名人で、おそらく日本最強の事件記者と思います。
警視庁担当は、ぼくより1年ばかり早く、かれからマル暴取材を引継ぎました。そうした関係で、夜回りの哲学みたいなこと(寸田流は、まず夕方になると、ばりっと糊の効いたYシャツに着替えたこと。相手の刑事に最高の敬意を表した)をいろいろ教わりました。人たらしというか、警視庁の名だたる刑事からスパイもどきでマル秘文書をとってきたこともあり、だれもかなわんなぁと思ったものです。
今吉賢一郎君も懐かしいですね。無口なのに、どうすればネタが取れるのか、警視庁クラブの七不思議。歩く姿は鉄人28号と評されました。
ところが、数年前、「ゆうLUCKペン」誌でガード下の女について、小説仕立てで書いている文章を読んで、見事に才能を隠していたのだと一驚しました。
今もそうかもしれませんが、僕たちのいたころの社会部同人には、優れた人たちが一杯いましたね。ぼくは多くの師匠に恵まれたことを感謝しながら、ついつい長く書いてしまいました。
東京の毎友会ホームページは、紙の社報のころより、はるかに面白くなったと思います。最近は西部の訃報や、近況だよりに場所を貸していただき、感謝申し上げます。
これからもどうぞよろしく。
シノハラ ハルジ

*ネットを検索すると、篠サンのこんな写真が見つかりました。大分若い感じですが、参考までにアップします。
(堤 哲)
2022年9月5日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(5)最終回
素直(すなお)は美徳である。が、事件記者にそれを求めるのは、お門違いというものだ。仕事相手である捜査員の言葉を額面どおりには信じない。疑い深く裏付けをして確かめる。性格が悪いと軽蔑されることもあるが、それが事件記者の稼業なのだ。
7月3日夜、「小原捜査」の責任者である武藤三男の言葉も、記者の「業」が信じさせない。帰宅する車の中で決めた。明朝といっても数時間後だが、もう一度、武藤を打つ。
7月4日朝8時。武藤宅を訪ねた。夫人が出てきた。「あーら堀越さんお早いのね。主人は出掛けたのよ」「どこにですか」「実はね、つい最近なんだけど親戚に法事があったのよ。でもあの騒ぎでしょ。行けなかったのよ。今日は日曜日だし、遅れ馳せながらお線香をあげに……そのおうちは千葉なのよ」。絵にかいたような内助の功に頭を下げた。数時間前に「お互い疲れた。今夜はゆっくり寝よう」と言った本人が、寝るどころかお出掛けだ。行く先は決まっている。やっぱりそうだった。疑念は確信になった。小原が落ちた。間違いない。近くの公衆電話に走った。道村キャップは電話口で言った。「わかった。すぐに落ち合う」
小原保に対する捜査はこの日の夕方から一変した。「捜査終了」が「続行・新展開」になった。
4日18時40分 身柄を東京拘置所から警視庁に移す。
19時35分 誘かい、恐かつ、殺人死体遺棄容疑で逮捕。
5日2時40分 自供どおり東京荒川区南千住の円通寺墓地で吉展ちゃんの遺体発見。
4時20分 遺体発見の発表(中原総監)

小原に変化が見え出したのは捜査一課長が取調べの打ち切りを発表した数時間後。事件とは直結しないことで小原が軽口のようにしゃべった<とても小さな事実>について「それ違うよ。こういう証拠があるんだよ」と指摘しているうちに、顔色が変わってきたという。犯行の大筋を認めた(自供)のは夜10時過ぎ。武藤が自宅応接室で受話器をとり、「いまお客さんだ」と言って切った電話は、小原自供を報告するものだった。また、4日朝、武藤夫人が台本を読むように口にした「千葉の法事」は、想像どおり武藤の振り付けだった。
発生から解決まで2年3ヶ月の「吉展ちゃん事件」は土壇場の劇的大逆転で終る。捜査ミスの連続。公然の風説となっていた迷宮入り。あげく苦しまぎれのあがきとまで陰口された「小原捜査」が土俵ぎわの一瞬で「シロ」を「クロ」にした。
テレビは番組を変更して小原の取調べ状況を終夜、リアルタイムで放送した。視聴率は60パーセントを超えた。長い間、警視庁捜査一課に向けられた怒号と怨嗟の声は、この夜が明けると称賛の拍手になっていた。
この事件がいかに社会的関心を集めたか。象徴的なエピソードを紹介する。時の佐藤栄作首相は「小原捜査」に当った捜査員と刑事部幹部を官邸に招待し、「日本警察の威信を回復させた」として総理大臣表彰したあと盛大な祝賀会を開き、労をねぎらった。このような例はない。

また毎日新聞社は狩野近雄東京本社編集局長主催で祝宴会を開き、捜査一課長ら捜査員をレストランに招待した。
茫々のベールをはぐようにして記したこの異聞。冒頭で「老兵の自慢話にならぬように書く」としたが、自慢話とは真逆、詰めの甘い事件記者落第記になってしまった。(敬称略)
おわり
(東京社会部OB 堀越 章)
追記
毎日新聞社が所属する警視庁の記者クラブは「七社会」という。通称で「ななしゃ(七社)の毎日」と呼ぶ。当時のメンバーは以下のとおり(カッコ内は担当)
(キャップ)道村博(二課)桜井邦雄・今吉賢一郎(防犯)篠原治二(四課)寸田政明(交通)鳥井守幸(公安・警備)森浩一・原田三朗(一・三・鑑識)堀越章・小石勝俊。小原捜査の担当は堀越・小石に加え森・原田を投入。当初から4人体制とした。これが効率的に機能した。
2022年9月1日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑤太平洋戦争と活版工
一昨年秋、NHK「趣味の園芸」編集長・阿川峰哉さんが、戦時中の毎日新聞広告局にいた祖父が保管していた資料を提供したい、と明珍美紀さんに連絡があったそうです。明珍さんの要請で、共同通信OBの丸山重威さん、毎日新聞外信部OBの永井浩さん、毎日新聞労組書記OBの水久保文明さんと一緒に、その資料を見せてもらいました。
その中に、昭和20年4月4日付の「編輯関係職員録・毎日新聞社(東京)」と、昭和20年3月1日付の「毎日新聞社工務局人名一覧表」がありました(下記写真)。この2枚の名簿をコピーさせてもらってよく見ると、編集名簿には「南方新聞局」があり、「工務局人名一覧表」には、活版部6、写真製版部1、印刷部4の11人の「南方出張」者がいます。
太平洋戦争中、東南アジアの「占領地」で新聞を発行していたことは、派遣された活版OBから聞いたことがあります。また2020年7月から伊藤絵理子さんが毎日新聞で25回連載した「記者 清六の戦争」の第19回に「マニラ新聞」のコピーが掲載されていました(下記写真)。ではどこでどのようにして活版刷りの新聞が発行されていたんだろうかと、少し調べてみました。
東日(大毎)は「マニラ」と「セレベス」で発行
毎日新聞百年史392㌻に「10 占領地で新聞を経営」と題して以下の記事があります。
「昭和17年10月、陸軍では南方占領地区の文化宣伝工作のため現地新聞の経営を内地の有力新聞社に委託することになった」。そして「南方陸軍軍政地域新聞政策要領」には「現地に設立せらるべき新聞社の担当地域は左の通りである。(イ)東京日日(大阪毎日)新聞社=比島(ロ)朝日新聞社=ジャワ(ハ)読売報知新聞社=ビルマ(以下略)」とあります。
この方針に従って毎日新聞は「東西3社の精鋭をすぐって現地に派遣し、10月12日T.V.T新聞社の委託経営に着手し……11月1日からは「マニラ新聞社」として邦字新聞のほか英語、スペイン語、タガロク語の3新聞を発行……」となりました。
続いて12月には、海軍軍政地域でも同じような措置が取られ、毎日新聞はセレベス(現インドネシア領スラウェシのオランダ占領時代の名称)、朝日はボルネオ、読売報知はセラム地域を担当しました。
毎日新聞はマニラとセレベスを担当したことがわかりましたが、前記工務局人名一覧表にある「南方出張」の11人はどちらに派遣されたかは不明です。わずかに活版から派遣された6人のうち、小河原道春、高尾一男、小林松雄の3氏は、定年退職にあたって社報に書いた回想記に、セレベス時代のことを書いていますが、他の3人はありません。印刷部から南方に派遣され、後に役員となった長谷川勝三郎さんや、古川恒さんが、当時の社報か新聞協会の出版物に当時のことを書いているかも知れません。
南方に派遣された工務局員は名簿で見る限り11人しかいません。11人だけで活版制作新聞ができるわけがありませんので、現地邦字紙の活版工や印刷工を指導して新聞発行にあたったのではないかと想像します。
南方に派遣された記者たちの苦闘
一方、新聞記者たちの行動は「清六の戦争」で経過や実態が分かってきましたが、戦後レッド・パージで毎日新聞を追われた三上正良さん追悼集によると、三上さんは、ジャワの「大毎・東日バタビア支局」に派遣されています(下記写真)。これは陸海軍の要綱に基づく派遣ではなく大毎・東日の特派員でした。三上さんは「故国の皆さんへ 兵隊さんから慰問袋 ミルク・砂糖・純綿・革類・肉罐など 忘れませんぞこの真心」(昭和17年3月27日)などの記事を送ったとあります。
工務局人名簿には「南方出張」とありますが、「編輯関係職員録」には、記事を送った記録がある社員の三上正良さん、マニラ新聞出向の伊藤清六さんはじめ南方に派遣された記者たちの名前はありません。伊藤清六さんは6月30日に餓死し「神州毎日」を発行した毎日新聞関係者は一人も生還できなかったと「清六の戦争」にあります。
今になって、在職中に活版で指導を受けた小河原道春、高尾一男、小林松雄さん、そして毎日新聞再建闘争時に、日本ジャーナリスト会議事務局長だった三上正良さんに、当時のことを聞いておけばよかったと後悔しています。
軍部の要請で占領地での新聞発行に協力したことの是非を含めて「戦争と新聞」についてはまだ調べるべきことがあると思います。
(福島 清・つづく)



2022年9月1日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(4)
時間は容赦なく流れる。小原は落ちない。2週間と制限された取調べの期限は7月3日。その日がきた。警視庁刑事部は午前中に「小原捜査」をどうするかの会議を持った。ここで取調べの中止を決める。午後、捜査一課長が記者会見し発表した。
――本日をもって小原保の取調べを中止します。終了です。ただし、吉展ちゃん事件の捜査は専従班で続けます――
小原は再び「シロ」となった。
「取調べ中止」と課長が言った瞬間、多くの記者がボクに視線を向け、会場を出る何人もの記者が「おわった。終った」とため息のようなつぶやきを口にしていた。
テレビ・ラジオは速報を流し、夜のニュース番組は大々的に報じた。ちなみに翌朝の各紙は社会面トップで「小原はシロ 捜査は終了」「吉展ちゃん事件は迷宮入り」といった大見出しが躍った。毎日新聞は社会面3段で「事件捜査は続行」だった。
その夜、武藤宅を訪れた。前夜まであれほど群がった記者はいない。応接室で向い合った。ずっと引っ掛かっていることがあった。捜査が攻めていない感じがしていた。いくつもの傍証を束ねて補強した「ガチガチの事実」をふところにしていて機をみてたたみかける八兵衛流が見えない。これまで捜査側は、新事実はないと言ってきたが、あれは本音だったのか。密かな隠し玉を持たずに「火中の栗」に手を出したのか。そんなはずはない。
武藤は「結構、きびしい調べをしたんだ。だけど結果は発表どおりだ」をくり返すばかり。押問答になった。これ以上は取材ではなくなる。帰ろうとした。その時、電話が鳴った。午後10時を回っていた。武藤が受話器をとった。「ご苦労さまでした。いまお客さんだ」。それだけで切った。「いまの電話は……」「ああ、小原を調べた部屋などの跡片付けがすべて終ったという報告だ」。そんな報告を夜中にするわけがない。「小原になにかありましたね」「取調べは記者発表と同時にやめたよ」「課長の発表は本日をもってという表現でした。まだ、その本日の時間内でしょう」「それは理屈だよ。課長が発表したとおりだよ」「小原が落ちた」「そんなうまい話はないよ」「自供でしょう」「くどいな」。会話ではなく口論のようになる。「堀越さん、あんた、この50日以上ほとんど寝てないだろう。疲れているよ。私も同じだ。とにかく小原については終ったんだ。今夜はお互いゆっくり寝よう。もういいだろう」。仕方なく立ち上がった。
頭の中で武藤が口にした「いまお客さんだ」がぐるぐる回る。あれば<いま夜回りの記者がいる。あとでこちらから電話する>の意を込めた応答だったはずだ。このままでは帰れない。
門を出ると砂利道である。砂利を踏みしめ、ザックザックと靴音をたてて歩いた。70㍍ほどで広い道路に出る。曲り角を折れて20㍍ほど進む。靴を脱いだ。今度は砂利のない端をゆっくり逆もどりし、いま出たばかりの門をくぐった。右側に回ると応接室の出窓があり、その下に潜り込んだ。頭上近くに電話機があるはず。20分ほどたった。近くの植木がボーと明るくなった気がした。すぐに光の輪が照度を増した。懐中電灯が出窓の下に向けられた。「そこにいるのは、どちらさんですか」。なんとも丁寧な言葉づかい。武藤が立っていた。
「堀越さん……何度もくり返すが、取調べは終ったんだよ。拘置所の部屋をいくつか借りていたので跡片付けといっても時間がかかるんだ……その辺に車を停めてあるんだろう。そこまで送るよ」
深夜の砂利道を異なる思惑を抱いた捜査と報道が肩を並べて歩いた。(敬称略)
(東京社会部OB 堀越 章)


2022年8月30日
「我に一斑の恩義ありー―鈴木棟一を偲ぶ」山本茂さんの思い出
東京オリンピックがひらかれる昭和39年3月、私は残雪の札幌駅を発った。上野駅は桜だった。迷いつつやっと有楽町の東京本社にたどりついた。ほうほうのていである。初めて紺のスーツが身にしっくりしなかった。私はひとりエレベーターで最上階まで上がった。東京というところを俯瞰したかった。屋上に立つと東京が一望できた。私は片足をぐいと格子にかけて「こいつを征服してやる」と呟いた。ものを知らないにもほどがある。世に俊秀はごまんといる。おぬしごときの凡才が、花の東京を征服できるはずがない。稚戯、笑うべしである(と今ならそう言える)。
あまたある同期生の中にひときわ目立つ偉丈夫がいた。長身、広い肩幅、褐色の肌、切れ長の目はやや吊り上がって眼光が鋭い。後頭部が絶壁なのは典型的なモンゴル種だ。元寇の役、こんな奴らが博多湾岸に攻め込んできたのだろうな、と思った。ある日、当人に言った。「おまえを見ていると、先祖が蒙古高原からやってきたことがよくわかるな」。男はいささかも動ぜず「面白いことを言うね」と破顔一笑。その笑顔が石原慎太郎みたいだった。銀の匙をくわえて育ったであろう少年を思わせた。鈴木棟一である。
自分とまったく異なる私が“北方の珍動物”のように見えたのか、親しげに接するようになった。「おい、昼飯を食いに行こうや」などと誘う。こいつ一体、何者なのか、と訝しかった。研修期間中に父親が急死したらしいことも知った。たまたま手にしていた弔文を覗くと「御令息様」とある。からかって「おお、御令息かい」。鈴木はまたも動ぜず「そういう風に書くもんだよ」とにべもない(私は礼節もわきまえない野蛮人なのだ)。父親は読売新聞の政治記者だと言っていた。ずいぶん早く実父を失ったことになる。兄弟のことは聞いたこともないから一人っ子なのだろう。どんなに大事に育てられたことか。彼の野放図な我がままぶりもそこから来ているに違いない。しかし、父親はかなりの傑物だったらしく、棟一は幼くして漢籍を叩き込まれ、意味も分からぬまま素読をさせられたと言う。おかげで長じても漢学の知識があふれるようだった。のちのことだが、私が他人とよくぶつかり合い、喧嘩することにいささか悩んでいると知った鈴木は「英気あれば圭角あり、だよ」と言った。その一言が自己嫌悪からどれだけ救ってくれたことだろうか。
研修期間も後半になったころ、鈴木が中心になって「箱根一泊旅行」が企画された。親しくなった6人ほどで大涌谷の本社保養所に泊り、芦ノ湖まで土・日かけての旅である。いずれも私には初体験のことばかりだった。保養所では朝方まで喧々諤々の議論となった。60年安保世代のコミュニズムの洗礼を受けた私は勇ましかったが、根っからのナショナリストの鈴木も超然として怯まなかった。対立したとはいえ、何ほどのことがあろうか。どっちにしても、へなちょこの“理論”でしかなかったからだ。
約50日間の研修が終わると、私と武藤完は青森支局、鈴木は名古屋本社の津支局(三重県)の配属となった。人事担当は、鈴木は見るからにタフそうだから、どこへ飛ばしても平気だろうと思ったのだろう。それっきりの別れとなったが、2年目の夏休みにひょっこり青森支局へ訪ねてきた。カンカン帽をかぶって、どこのお大人かと思うような素性不明の格好だった。三重県から長旅も苦にせずに「きみに会いに来た」と嬉しいことを言うのである。こいつ、ちょっと人恋しがるところがあるのか、と思った。早く父を亡くしたせいでもあろうか。入社1年もしないで結婚した我が新婚家庭で夕飯を食った鈴木は、深夜出航の青函連絡船で北海道へ渡って行った。万事にものぐさな自分にはできない芸当だった。
私は田舎者ゆえ、怖いもの知らずだった。他者への敬意というものが乏しい。鈴木がなにかのときに「俺はコクリツ高校だ」と言っていたが、その意味を図りかねていた。そんな高校ってあるのか。のちに東京教育大学付属高校と知ったが、「それがどうした」と思っていた。考えてみればIQの高い大変な秀才だったはずだし、暁子夫人とは同じ書道部の部員同士だった。鈴木の博識、才知、図太さ、プライドはそうした自信からきているのだろう。「俺はコンプレックスなんて感じたことがない」と嘯いたこともある。優劣いずれにしてもコンプレックスのない知識人なんているわけがないが、あえてそう言い切るところに鈴木棟一の矜持があったのだろう。
鈴木と私とは正反対の人間だが、運命はしばしば二人を邂逅させる。
5年間の青森暮らしで心待ちしていた辞令が、名古屋本社整理部と知ってがっかりした。名古屋駅では鈴木棟一が出迎えてくれた。彼は1年早く津支局から転属していた。原稿が書けない内勤は不満のはずだが、そんなことはおくびにも出さず泰然としている。どんな不本意な環境でも嘆かず、明朗にふるまう棟一を大した根性だと思った。

棟一には少なからぬ恩義がある。春は蒲郡の潮干狩り、夏は福井県美浜町の海水浴に誘ってくれた。いずれも彼が勤務担当デスクに掛け合い、二人の休みを重なるように交渉している。押しの強さは天下一品だった。そのプランのままにお互い子供連れの家族旅行を楽しむことができた。棟一と暁子夫人が水着で手をつないだスナップを渡すと「どうだ、太陽の季節みたいだろう」と自慢した。青春映画のワンシーンのような若々しいカップルだった。その写真はいまも私のアルバムに残っている。
東京整理本部、社会部を経て「サンデー毎日」へ配転になると、またも棟一が待ち受けていた。彼の左隣が私のデスクだった。不思議な縁である。鈴木は政治部に席を置いたままでシリーズ「永田町の暗闘」を執筆していた。ウイークデーはほとんど取材でおらず、締め切りの金曜日の夕、ネタをどっさり仕込んで席に帰ってくる。おもむろに靴を脱ぎ、床の新聞紙の上に足を乗っけると、猛然と書き出した。毎週、同じスタイルだった。
たまに暇ができたときは、映画に誘われ、岩波ホールでギリシア映画『トロイの女』を観た。あまりの迫力に編集室に戻ってからも盛んに感心し合っていたら、八木亞夫編集長が「きみらは感心ばかりしてるなあ。感心屋か」と皮肉を飛ばしてきた。棟一は苦笑しながら「なぁに言ってんだ。俺たちは感受性があるから感心するんだよ」とやり返した。私も「そうだよ、感心できないやつは鈍感てことだ」と歩調を合わせると、八木さんはケタケタ笑っていた。いずれも懐かしい思い出の一齣だ。
約10年間の九州女子大の教壇を降りて帰京すると、真っ先に歓迎の席を設けてくれたのも鈴木だった。「孟子曰く」と言い出した。「君子に三楽あり。父母ともに存し、兄弟故なきは一の楽しみなり。仰いで天に愧じず、俯して人に愧じざるは二の楽しみなり。天下の英才を得て、これを教育するは、三の楽しみなり」と流れるように言った。なるほど、しかし、俺は英才を教育できたか、いささか臆するものがあった。
その後、何度か食事の席を設けてくれた。その理由は「われわれジャーナリストは偉そうな顔をしているが、実は近現代史について系統的に勉強していない。そこで教えてほしい」と殊勝なことを言う。ならば、と毎回、大東亜戦争に至る遠因や東京国際裁判の是非、戦争犯罪とは何か、スターリンの奸計、ルーズベルトの失政などについて語った。彼はメモしながら聞いていた。やがて何回かが終わったころ、私の過剰なばかりの太平洋戦争肯定論に辟易し始めたらしく、最後に「日本はワシントンまで攻める戦略なくして開戦すべきじゃなかった」と言い出した。それはトンチンカンな理屈なのだが、いったん言い出すと引かない男だけに放っておいた。二人の勉強会はそれで終わった。われわれは、いわば決別した。
しかし、その後も鈴木からは律儀にも毎月、リーフレット『永田町リポート』が郵送されてくる。盆暮れには三越から中元・歳暮が届けられ、それは今夏までつづいた。友情は持続していたかのようであった。
鈴木棟一が毀誉褒貶の多い男であることは承知している。彼の古めかしい“羽織ゴロ”的な挙措を良しとせず、権力を私用する生き方も好きではない。しかし、彼の内奥からあふれる英気がやや悲しく感じてはいた。鈴木家は旧紀州藩士であったと聞くが、むしろ雑賀衆鈴木氏の末裔の方がふさわしかろう。己れ自身ではどうにも抑制できぬ雑賀孫市の過剰な血のことである。
鈴木は毎日新聞を最後まで愛していた。そのことを疑いはしない。そして私自身が彼には一斑の恩義がある。ゆえに追悼文を書かせてもらった。大きなやんちゃ坊主を巧みに御していた、あの利口な暁子夫人が数年前に先立たれていることを知って涙がとまらない。青春映画のヒロインのようだった。
人生、生きていてナンボだ。死んで花実が咲くものか。棟一よ、安らかに眠れ。俺はまだまだ生きて花実を咲かせてみせる。そして、この生のつづく限り、おまえと生きた日々のことは忘れないだろう。
1964年同期入社 山本 茂(85歳)
*鈴木棟一さんは8月11日逝去、82歳だった。
2022年8月29日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(3)

事件報道は捜査情報を取ることから始まる。だが、これが一筋縄では行かない。捜査側は情報を隠し、はぐらかす。ときにはウソもつく。一方の報道側は、それを承知のうえで探りを入れる。不条理を共有しながらの交流である。
吉展ちゃん事件は発生から2年。三度目の正直という異例のかたちで「小原捜査」が始まる。といっても容疑者の小原保は服役中で対面での取調べは行なわれていない。容疑事実は過去2回の捜査で洗いつくされている。新事実の発見はない。それでも捜査一課はあえて、それをやるという。勝算はあるのか。疑問を抱きながら記者は追わざるをえない。もしこれまでの「シロ」が「クロ」になったら前代未聞のビッグニュースになるからだ。
このような局面で「シロ」か「クロ」かに関心が集中するのは当然の成り行きだろう。だが、そこに取材の重点を置くと、どうしても、思考が過去2回のときと同じ回路をたどる。いつか来た道をまた歩く。堂々巡りで新味に遭遇せず記事にならない。捜査と報道は立場が違う。ときに視点をずらすことも必要だ。

捜査一課担当のボクと小石勝俊は初期の段階で道村博キャップと相談。当面の取材は、「シロとかクロにはこだわらない。捜査の動きだけを重点に記事にする」と決めた。平凡でありきたりだが、この合意は案外よかった。過去への回帰を封印して、いまを書けばいい。
紙面は初報の「元時計商・小原を捜査」に続いて「捜査員を小原の故郷福島へ」「小原を前橋刑務所から東京拘置所に移管」「元愛人を事情聴取」といずれも社会面4段から6段の目立つ扱い。この段階で他紙には「小原捜査」の記事はない。この状況を週刊誌はこう書いた。
<クロ説の毎日 他紙はシロ説>
<第2の下山事件>
また他紙の中には小原に対する取調べを<人権か捜査か――取調べの問題点>という記事を社会面トップで掲載した。毎日新聞東京本社社会部内でも同様の意見が出始めた。「シロ・クロにとられない」立場で書いた記事がクロ説に化ける。レッテルを貼る趣向は60年前もいまも変わらない。
小原の対面での取調べは2週間という期限つきで行われた。取調室は東京拘置所内の部屋。この捜査が異例ずくめだという事情を考慮した条件つき取調べであった。取調べるのは平塚八兵衛である。
小原はそれまでに2回逮捕されており、捜査側のやり方、思惑を経験知としてわかっている。しかも3回目の取調べが強制捜査ではなく任意の事情聴取だということもよく理解している。だから「ちょっと横にさせてください」といって寝転び、しばらくはそのままだったりする。季節は6月下旬。むし暑い部屋の中で平塚は小原の挑発的な嫌がらせに耐え、ひと言でも多くしゃべらせるよう仕向ける。下着やシャツだけでなく、ズボンまでが汗でびっしょりになった。
取調べが始まると、取材はこれまで以上に過熱した。各社とも応援の記者を投入した。捜査責任者・武藤三男宅の門柱には――父を寝かせてください 姉妹一同――と書いた大きな紙が貼り出された。(敬称略)
(東京社会部OB 堀越 章)
2022年8月25日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(2)

吉展ちゃん事件の専従捜査班は警視庁捜査一課の片隅で資料の点検と整理が主な仕事になり、どうみても事件の幕引き役であった。
一か月が過ぎた。4人に共通の思いが募る。小原保(当時32歳)という男である。旧捜査本部が公開捜査から1ヶ月後に別件の横領容疑で逮捕。さらに6ヶ月後に詐欺容疑で逮捕、徹底的に追及した結果、シロとした男だ。その男を「再度追及したい」というのである。
当時、同課筆頭課長代理の武藤三男(当時警視)はこう思った。
➀2度も逮捕して調べシロにした者を再度追及することは捜査本部の判断を否定することだ。
➁当時、小原は詐欺罪で実刑判決を受け、前橋刑務所で服役中。取調べをするとしても刑務所内で任意の事情聴取しかできない。
➂仮に3度目の取調べをし、再びシロとしたら事件発生時に浴びせられた以上の非難を受ける。人権問題になるかもしれない。逆にクロとなったら事件は解決するが、2度もシロとした旧捜査本部員の立場はどうなる。両者の間に軋轢が生まれ、捜査一課が割れる。
小原は火中の栗である。
武藤は自身で資料を調べ直す。結論は「なるほど3度目をやってみる価値はあるな」。
その場合、自分自身が捜査責任者になるしかない。進退を覚悟しなければならない。
5月13日。捜査一課幹部会(課長・課長代理7人)は小原に対する3度目の捜査を決める。毎日新聞はこの動きを2日前につかみ、同日の夕刊最終版社会面3段で特報する。武藤が危惧した通り、旧捜査本部員が強く反発した。「2年間も同じ捜査本部で仕事をしシロにしたのに、いまになってクロだというのか」。
周囲をはばかることなくシロの根拠が語られた。震動は刑事部を超えて伝播し、シロの大合唱となった。事態を重視した警視庁刑事部は専従捜査班と旧捜査本部員を集め、打合せ会と称し両者の融和を図ったほどである。しかし、この紛糾は収まらず続いた。
武藤は「小原捜査」のために専従捜査班に新しいメンバーを加え13人のチームをつくり、自ら捜査責任者となる。のちに伝説的刑事となる平塚八兵衛は、この時に加えられた1人である。
平塚は武藤から「明日は休日だが、話があるので出勤してほしい」と言われた。その休日の早朝、ボクは平塚の自宅に行った。「おはようございます」「エッ…オッ…なんだ」。「今日は休日だゾ」「でも平塚さん…出勤でしょう」「…ウム ウウ…なんで知っているんだ」
「車でお迎えにきました。警視庁の近くまで送ります」……長い沈黙……「そんなら乗せてもらうか」。車中での会話。「平塚さん……やるんですか」「なにを…」「小原の取調べです。今日、武藤さんは平塚さんを口説くはずです」。答えない。会話はとぎれる。しばらくして「やりたくねえな。オレは吉展ちゃん事件と関係してこなかったが、みんなの話を聞くと小原はシロだろう。それに前の課長とは縁が深くてな……世話になった。そういう恩義もある。オレはやらないよ。おことわりだな」。
その夜、再び平塚宅を訪れた。「こんばんは」「やっぱり来たか」「どんな返事をしたんですか」「うん。やるよ。やることにした」。なんともあっさりした返事だった。
武藤は、その後、捜査一課長、浅草署長、方面本部長、警視庁参事官と昇進して退官する。ボクとの付き合いは亡くなるまで続く。ある時、こんな会話をした。「あの時、平塚さんを選んだ根拠はなんですか」。答えはこうだった。「彼の功名心の強いところを買いました」。(敬称略)
(東京社会部OB 堀越 章)
2022年8月22日
50年前「サンデー毎日」特報の久米島虐殺事件をNHKEテレが特番に

「久米島の戦争〜なぜ住民は殺されたのか〜」が8月20日午後11時からNHKEテレのETV特集で放映された。

《太平洋戦争末期の1945年6~8月、沖縄の久米島で日本軍が住民計20人をスパイとみなして次々と殺害する事件が起きた。これまで住民の多くが事件について沈黙を守ってきたが、去年発刊された「久米島町史」には、悲劇を風化させてはいけないと重い口を開いた住民の証言が多数収録され、事件の複雑な背景が明らかになりつつある。なぜ住民は殺されたのか。米軍資料や新たに見つかった日本兵の日誌も分析、事件の深層に迫る》
沖縄のソンミ事件——久米島島民虐殺の真相
サンデー毎日が特ダネ報道したのは、1972年4月2日号だった。沖縄が本土復帰した50年前である。
取材したのは、社会部からサンデー毎日編集部員となった1963年入社の大島幸夫さん(現85歳)である。
「編集長の中村均さん(2002年没74歳)が、沖縄のソンミ事件(1968年ベトナム戦争で米軍がソンミ村の住民500人余を虐殺した)だ、と見出しを付けた」という。
6月23日が「沖縄慰霊の日」、沖縄の終戦記念日だが、離島の久米島には6月26日、米軍が上陸した。米軍は、住民に投降を呼びかけ、島民も次第に山を下り、米軍政下に入っていったという。
日本海軍通信隊の鹿山正兵曹長を指揮官とする鹿山隊は、山に身を隠し、島民が米軍に寝返らないよう見せしめの虐殺を繰り返した。
鹿山隊による虐殺は、6月27日から始まり、玉音放送のあった8月15日後の8月20日まで、4度に及んだ。鹿山隊が投降したのは9月7日、米軍がこの島から撤隊したのは10月27日だった。

続報 沖縄ソンミ事件「私の信念はお国の為にであった」鹿山兵曹長の独占手記(4月23日号)
あの鹿山兵曹長の現地が告白する「沖縄の怨」——久米島虐事件(6月4日号)
「サンデー毎日」には、以上のような続報があって、大島さんはこれらに加筆して、『沖縄の日本軍』(新泉社1975刊)を出版している。
ネットで検索すると、久米島には「痛恨之碑」が1974年に建立されている。
(堤 哲)
2022年8月22日
茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(1)


事件は人の仕業である。それに捜査や報道、ときには世論という仕業が絡んで、渦を巻く。渦の中で人間臭い物語がつくられる。それを劇的というなら「吉展ちゃん事件」ほど劇的な事件はない。
60年前のことである。いま語るとすれば<この事件とは>という注釈がいる。老兵の自慢話にならぬように書く。
1963(昭和38)年3月31日に事件は起きた。東京台東区入谷の小さな公園で遊んでいた当時4歳の男児(よしのぶちゃん)が姿を消した。自宅は公園のすぐ横だった。
2日後、犯人から1回目の脅迫電話がかかってきた。7回目の電話は4月7日未明。「いますぐ現金50万円を持ってこい」と言い、自宅から約300m離れた場所に現金を置くよう指定した。
捜査側の段取りとして、先ず変装した6人が現場に向い、あとから身代金を持った母親が車で出ることになっていた。ところが母親の車が先に出てしまった。6人は徒歩で追った。現金が置かれ、6人がその場に着くまで「空白の3分間」が生まれた。50万円は奪われた。母親の車の中に潜んでいた捜査員は「ただ乗っていただけ」になった。
失態はそれだけではない。決定的ともいえるミスが重なった。
➀脅迫電話は1回目(4月2日)のあと翌3日、4日と続いたのに、捜査本部が置かれ、報道協定が成立したのは5日。この間、所轄署を中心に電話はいたずらではないか、迷子あるいは事故の可能性もあるなど根拠なき憶測だけの時間が空転した。初動の遅れは驚くほかない。
➁身代金50万円は3日前から用意されていたのに、肝心な紙幣番号を記録しておかなかった。このあまりに初歩的な大ポカ。
身代金が奪われてから2週間後、捜査本部は公開捜査に踏み切った。失態の事実は一斉に報道され、脅迫電話の犯人の声がテレビやラジオで連日くり返し流された。
身代金は奪われ、愛児は帰ってこない。元気なのかどうかもわからない。悲劇の家族に日本中が同情した。この不条理に対する思いは、そのまま捜査に対する非難と怒号の嵐となった。国会でも厳しい追及が行われた。明治7年、わが国で最初の警察組織として発足し、自他ともに最高の捜査力を認められていた警視庁は信頼を失い、怨嗟の中で地に堕ちた。
時代は翌年に東京オリンピックを控えていた。無責任男が「スーダラ節」を唄うなかで地方から人の群れが奔流となって首都圏に流入していた。その労働力で「東京」は大改造され「Tokyo」に変貌した。「マイカー」という新語が生まれ、それに乗った人たちは自宅のモノクロTVをカラーに変えた。
そういう気分のなかで「吉展ちゃん事件」は起き、捜査は汚名を着たまま2年経った。
警視庁は1965(昭和40)年3月31日、捜査本部の大幅縮小を発表した。180人の捜査本部員はたった4人となり、「吉展ちゃん事件専従捜査班」と名称を変えた。だれもが未解決事件になると受けとめた。
(東京社会部OB 堀越 章)
2022年8月18日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(16)」(最終回)
1977(昭和52)年4月、牧内節男社会部長が東京編集局長になり、後任に石谷龍生さんが就任した。石谷さんは司法クラブのキャップも警視庁キャップも経験している知能犯関係の事件記者である。その昔、私が警視庁捜査1課担当のころ捜査2課担当のベテランだった。石谷さんの下で私は筆頭デスクとなり、部員の勤務表の作成や取材費、旅費などにもかかわっていた。その期間が短かったことや比較的世の中が静かだったせいもあるかもしれないが、世の中に生起した事柄を不思議なほど思い出せない。
しかし、石谷部長のもと、「ロッキードの毎日」はロ事件裁判報道に当然力を注ぎ、紙面の多くを割いた。その報道は精緻を極め、東京地裁法廷での直接取材にあたった勝又啓二郎、高尾義彦君たちの、論告や証言の一言一句を聞き漏らすまいと耳を澄まし表情を読む緊張は、この先長く続くことになる。
毎日新聞社再建へ
経営不振に陥った会社は再建策をめぐって労組と激しくやりあっていた。社会部の大住広人君が労組の執行委員長だった。会社は、新聞を作る新会社と資産管理や資金問題を扱う旧会社に分離して再建にあたることになった。ここに至るまでの労使双方の緊張感は相当なものであった。
1977年12月1日、新会社発足の日、大きな人事異動が発令された。その中で私は社会部長の辞令を受けた。編集局長室に呼ばれ、牧内編集局長と細島泉新編集局長からそれを申し渡されたときはギクリとし声も出なかった。牧内さんは「命令だ」、細島さんは「頼むよ」とおっしゃった。石谷社会部長は編集局次長になった。
苦しい状況の中で、みんな頑張った
会社の状況が状況だけに苦しいスタートだった。みんな頑張った。年末の一時金は極度に抑えられた。示された取材経費の額に部長といえども息をのんだ。当然である。要員減で多くの社員が定年を待たずに退職していった。残った社員が大多数だけれど、状況はみんな理解していたと思う。
その中で新聞協会賞

苦しいながらも、労使が合意した、編集の独立確保・編集綱領委員会設置を決めた「毎日新聞社編集綱領」に希望を見出し、取材に力を注いだ。
社会部は1980(昭和55)年2月、早稲田大学商学部入試問題漏洩事件を朝刊でスクープ=写真。詰めかける報道陣に早大当局がすべて毎日新聞に出ているとおりだと言うほどに、完全な取材だった。以後、事件はいろいろな経過をたどった。このスクープは新聞協会賞となった。チームによる組織的な取材と高く評価された。
それ以降、KDD政界献金事件をはじめ、1面トップで特ダネをしばしば放った。勢いに火が付いた。社会部員諸君があちこちの持ち場、担当部門で懸命に取材に心身を懸けた結果であった。新会社をつぶしてはならない、その心意気でもあった。
1982(昭和47)年9月、私は4年10か月務めた社会部長を離れた。先輩に多く教えられ、同僚や後輩のみなさんに助けられ、感謝しかない。後任は中部報道部長の白根邦男君。
ここまで私は、1960年、70年代の若干の時代の流れに触れながら、その時代の東京社会部の一員としての経験、体験を記してきたにすぎない。
時代は変わる。私は好んで時に平家物語や方丈記を紐解き、また、芭蕉の「不易流行」という言葉を思う。世の中は常に変化している。しかし変わるものと変わらぬものがある。「社会部」も同じであろう。87歳、老いの繰り言と思っていただきたい。
東京社会部はつねに噴煙をあげ、ときに大噴火する活火山のようだったという思いを抱きつつ、『毎友会HP』からの宿題を終えます。
(社会部OB 森 浩一)
2022年8月15日
森浩一・元社会部長の「東京社会部、記憶の底から(15)」
ロッキード事件、社会部総力を挙げ大奮闘

1976(昭和51)年2月、ロキード事件が発覚した。直ちに大取材体制が敷かれた。
その3月1日、社会部長竹内善昭さんが論説委員に、長く論説委員を務めた牧内節男さんが社会部長の人事異動があった。同日付けで私は社会部デスク兼警視庁キャップを命じられた。突然の異動で名古屋から急遽上京した。
社会部のロッキード事件取材は、社内に事件を独自に取材する「ロキード班」、事件の本筋を捜査する東京地検特捜部を追う司法クラブ、検察捜査のワキを固める警視庁と国税庁を両クラブ担当がカバーする、そういう構図で進んだ。要人張り込みに関東地方の支局からの応援ももらった。もちろん、政治部、経済部も力投していたし、外信部もであった。
目の色が・・・
このロキード事件では、当初私は、ここでは多くを述べる必要はないと思っていた。自分の歳も忘れて昨日のことのように思っていたことと、『毎日新聞ロキード取材全行動』(講談社)や『児玉番日記』(毎日新聞社)がすべてを語っていたからである。しかし、これらの書も店頭から消えて久しい。事件からすでに40数年という長い年月が経っている。最小限のことは記しておこうと思い直したのである。
自らをドクヘンつまり独断と偏見という牧内社会部長のロキード事件にかける意気込みは、鍛え抜かれた往年の事件記者のそれであった。このように言うと96歳にしてお元気な牧内さんから、キミなに言ってるんだと叱られそうな気がするが。
取材に携わる部員の目も最初から変わっていた。苦しい取材の中に、誰しも、前方に立ちはだかる深く濃い霧の中に、急峻な巨峰が隠されているに違いないと自らに言い聞かせ仲間と語り合って、取材に励んでいた。
組織挙げて
事件取材は白木東洋さんが統括デスク。「ロッキード班」の取材全体を司法経験の愛波健君と捜査2課(汚職捜査)経験の澁澤重和君がまとめる。中島健一郎、板垣雅夫君たち多数が強力に取材を展開。事件の核心を握るとみられた児玉誉士夫のフォローに警視庁公安3課(右翼)担当だった堤哲、司法経験の才木三郎君が当たった。商社丸紅を堀一郎君がカバー。日米両国にまたがる事件なので英語にめっぽう強い中村恭一君、草野靖夫君もロッキード班に加わった。さらに米国上院外交委員会の議事録・資料の分析に吉川泰雄、寺田健一君。
本筋を直接追う司法クラブ。山本祐司キャップ、勝又啓二郎、野村修右、高尾義彦の4君。そこへ司法経験者の橋爪順一、藤元節、大阪社会部の観堂義憲君が応援に。藤元君は渡米する検事を追ってアメリカへ。
警視庁クラブは前田明サブキャップ、捜査2課の牧太郎、茂木和行、防犯(外国為替)の福永平和、古賀忠壱君たち。国税庁クラブは田中正延君に応援の武藤完君、鳥越俊太郎君。
捜査とは直接関係ないが、三木内閣は不安定化し国会の動きも注目された。国会担当は加藤順一君で、応援に市倉浩二郎君。

ロッキード報道に勢いをつけた「児玉誉士夫、臨床取り調べへ」(3月4日)の特ダネは、主治医に密着した司法クラブ経験の才木三郎君の情報が決め手だった。東京地検、警視庁、国税庁はそれぞれ連絡をとりつつ独自の捜査、調査を展開する一方、児玉の家宅捜索ほかでは3庁合同で捜査にあたった。調査報道の進展に伴い、調査報道は捜査本筋の報道としばしば融合し、毎日新聞は外部から「ロッキードの毎日」と評されるようになった。読者と直接接する販売店のみなさんからの励ましもいただいた。
セミの鳴くころ、そして「検察、重大決意へ」
社会部は多くのすぐれた記事,特ダネを報じつつ、報道合戦は「セミの鳴くころまでには」とひそかに言われていた夏、商社丸紅や全日空の元会長、社長、専務ら多数が東京地検に逮捕され、ついにその時が来た。
7月27日毎日新聞は朝刊で『検察、重大決意へ』と大々的に報じた。東京地検特捜部に任意出頭を求められた田中角栄前首相は午前8時50分、外為法違反容疑で逮捕された。号外が街に躍り出た。
さらに検察は佐藤孝行、橋本登美三郎衆院議員を逮捕。秋に丸紅ルート、全日空ルートとも捜査が終了した。
8月4日。「ロッキード事件に関する一連の報道」に対して、東京編集局一同(代表社会部長牧内節男)に編集主幹賞が贈られた。またJCJ奨励賞も受賞した。事件が一段落した後で私はデスク専任となり、警視庁キャップは堀越章さんにバトンタッチした。
1977(昭和52)年4月、ロキード事件で剛腕をふるった牧内節男さんが東京編集局長に就任、石谷龍生さんが社会部長になった。
(社会部OB 森 浩一)
2022年8月15日
「カクヘキ(隔壁)」って? 37年前の日航ジャンボ機墜落事故を、社会部運輸省担当だった菊池卓哉さんが回想

あの日からもう37年の歳月が経ってしまった。早いものである。
1985年8月12日の暑い夏の夕方、私は運輸省(現国土交通省)5階の記者クラブにいた。レク資料を整理しながら、他社の記者たちと雑談していた。
午後6時57分ごろだったと思う。「レ-ダ-から日本航空123便の機影が消えたようだ!」。そんな情報が記者クラブに飛び込んで来た。
「おい、本当か?」「まさか」。各社に緊張が走った。
私は社会部デスクと遊軍長に一報を入れた。社内は色めき立った。ほどなく、日航機墜落は現実となり、ほぼすべての東京社会部記者は本社に動員された。全社挙げての取材体勢が始まった。
私は軟派(現場雑感等)ではなく硬派(墜落原因究明)に力を注いだ。「機体や機内で一体何が起きたのだろうか」。疑問を抱きながら本当に「不眠不休」の取材が始まった。
一切の予断を捨てた。日航ジャンボ機(ボ-イング747型機)について専門家から知識を得よう、と駆けずり回った。
「原因原因原因…」。コクピット(操縦席)の仕組みを調べ、何人もの専門家に会い、考えた。墜落原因はいくつも想像できた。でも、原因はそのうちのひとつかふたつだろう。
取材して耳にしたのは現役パイロットの口から出た「カクヘキ(隔壁)」の言葉だった。華やかなジャンボ機にあって、「カクヘキ」は素人には耳馴れない存在。でも、その「カクヘキ」は航空機の内圧を一定に保つため、胴体の前後に設置された頑丈な「仕切り」であると学習した。これなしには、航空機は安全に飛行できない。航空工学上、「カクヘキ」は絶対的強度を保持しているという。そのパイロットは、推論ではあるが、「カクヘキの破損も否定できないのでは」と話してくれた。そのことを東大教授(航空工学)にぶつけると、「ヒコ-キのことをもっと勉強しなさい!カクヘキ破壊なんて万が一にもないんだよ!」とけんもほろろに突き放された。
墜落の可能性は幾つも数えられた。それを書くことは「書き得」になる。だが、自己満足でしかない。「何が事実なのか」。私はそれにこだわった。抜くか抜かれるか。焦る気持ちを抑えながら、とにかく確たる情報を探った。
14日未明。何度も訪ねた霞ヶ関の幹部宅の夜回りで、「後部隔壁破裂」が主因との情報を得た。午前4時近くであった。それでも、デスクは14日の夜討ち朝駆けを命じた。現地(前橋支局)からの情報とすり合わせながら、16日朝刊で「最初に後部『隔壁』破裂」のスクープを打った。
このニュースは、当時花形であったジャンボ機を使用する世界各国に速報された。事故原因取材斑はじめ、前橋支局の記者たちの総力を挙げた取材の成果であった。
日航123便は墜落の7年前、尻もち事故を起こし、隔壁を修理ミスしたことが判明した。東大教授の「万が一にも破損はない」との説明は正しかったことになる。
この墜落事故の2年前、私が防衛庁(現防衛省)担当時の1983年9月には、北海道宗谷海峡付近で、ソ連による大韓航空機撃墜事件が発生した。国際的な大事件と事故を体験したことは忘れられない。
故郷の札幌に戻って10年。再会を願った幾人もの社会部の先輩、同僚諸氏が旅立たれたことは悲しい。この場を借りてご冥福を祈りたい。
(社会部旧友・菊池卓哉 75歳)
2022年8月12日
元ロンドン特派員・論説委員の福本容子さんが得度して京都で修行中(下)
二〇一九年九月末、私は定年を待たず退職した。

「どうして?」とよく尋ねられた。会社やメディア関係、取材先などの人の中には、仏道に入るためという理由が信じられず、悪い冗談だと思った人も少なくなかったようである。
誰かの影響かもしれないが、男女関係の深刻なもつれ、といった深い事情を想像した人もあったようだ。自分で説明しようと簡単な文書を用意して、「拡散して欲しい」と周囲にも頼んだ。
その文書を見た他紙の記者仲間からある日、言いにくそうな書き出しのメールが届いた。「怪文書が出回っているようだから注意した方がいい」。
仏道と自分の日頃の言動があまりにもかけ離れていたので、信じてもらえないのも仕方がない。
私はバブル最盛期の一九八七年四月、毎日新聞社に入り、英文毎日編集部を振り出しに、本紙外信部、経済部を経て、ロンドンの欧州総局にも四年間、勤務させてもらった。
経済部時代は、バブル後の金融危機、銀行・証券会社の相次ぐ破綻、不祥事などを追いかけ、ロンドン時代は、現金ユーロの導入という歴史的出来事に立ち会うことができた。
帰国後は、十年余りを論説室で過ごした。力がないにもかかわらず、貴重な経験をたっぷりさせて頂いた。本当に幸せだったと思う。文章が下手だ、下手だと言われ続けてきた自分が、コラムまで担当させてもらった。
できる限り、ずっと続けたい。そう思う反面、もう十分ではないか、これ以上欲張ったら執着することになる。そういう気持ちが生まれていたと思う。ただこれは、後付けかもしれない。
二〇一九年春に、きっかけとなる出来事があった。
我が家は、祖父の時代から、本門佛立宗を信仰してきた。だから物心ついた頃から、信仰というものが身近にあった。
実は教員をしていた祖父も、定年を待たず退職して、得度している。結果として同じ道を歩んだわけだが、後に続こうと考えたことは一度もなかった。
私が現在所属するのは、豊島区南大塚にある遠妙寺というお寺である。そこの信徒で、フィリピン人と結婚し、マニラに住んでいる男性がいた。
この男性信徒による布教をきっかけとして、フィリピンで入信する現地の人が相次いだ。組織的に取り組んだわけではなかったのに、数年間で二、三百人に膨れ上がったという。そこで、彼らを教導する僧侶が必要となり、現地の事情に最も詳しい、この日本人男性信徒が得度して僧侶となった。
数年間は順調だったのだが、事情により、この僧侶と現地の家族が急にそろって日本に帰国することとなった。それが一昨年、二〇一九年の春の出来事である。
私は、毎日新聞時代に、夏休みなどを利用して、何度かフィリピンを訪問しており、現地の信徒とも知り合いになっていた。みんな極貧だが、子どもたちも含め、とにかく笑顔が印象的な人たちばかりである。
この先、彼らはどうなる?
生まれた時からの信仰であるキリスト教から改宗してまで入信してくれた大勢の人たちを放っておく、という選択肢はなかった。当面は日本から僧侶が通って、サポートを続けるしかない。でも、誰が?
信仰の教導で、言葉は不可欠である。いくら正しいことを伝えようとしても、フィリピンの人たちに日本語では話にならない。
不思議なのだが、自然と、自分が何かさせて頂こう、という思いになった。
新聞社勤務との両立は物理的に無理なので、やはり退職するしかない。年内か、年度内か、と考えていたところに、早期退職の募集がかかった。そういうことなのね、「今」ってことなのね。妙に納得をした。
もちろん、経済的なことなど将来について、少し考えた。退職金と年金を合わせていくら。独身で子どもがいないし、ボケたらどうなるのだろう……。二日ほど思いを巡らせた。
しかし、そういうことは考えて答えが出るものではない。人のために我が身を使おうと決心すれば、仏さまが必ず後押しして下さる――。常日ごろ、教わっているではないか。
困っている人がいる現状から目を逸らし、自分のことばかり考えていては、いずれ大きな罰が当たり、後悔する。そもそも、田舎育ちの自分が英語を学ぶ環境に恵まれたのも、ここで役に立たせて頂くためだったのではないか。ならばなおさら、自分さえ良ければ、は通用しないはず。会社には恩返しができていないが、会社は人材が豊富だし、自分がいなくて困るということはまずない。
もともと悩む性格ではないので、あっさりと結論に至った。
会社を辞めて、信仰のために残りの人生を使わせてもらおうというところまでは決めたが、すぐ得度しようとは当初、考えていなかった。しかし、時間の問題だった。どうせ、と言っては大変失礼だが、相手が日本人であろうと、フィリピン人であろうと、信心の面でお手伝いさせて頂こうというのであれば、得度して教学的な土台と実践面での経験を備えておいた方が、より役に立たせてもらえるのではないか。そう考えた。
それにしても面白いものである。ほんの三年数カ月前まで、自分が京都に住み、二十代の男子たちと寮生活を送りながら、試験勉強をしたり、炎天下のグラウンドでソフトボールをしたりするようなことになるなどとは、想定外も想定外だった。
人生の中で起こる一つ一つの事柄は、独立した「点」のように見えるかもしれない。それが後から振り返って眺めると、点は全部つながっていた、とわかるのである。
これは、米アップル社の創業者、故スティーブ・ジョブズ氏が語った言葉だ。本当にその通りだと実感している。
例えば私は大学受験で失敗し浪人をした。その時は確かに落ち込んだが、もしあそこで合格していたら、自分は故郷の熊本で教員になっていたに違いない。毎日新聞社に入ることもなければ、外国に住むこともなかっただろう。今、こうして京都の僧侶専門学校に在籍している可能性は限りなくゼロだ。
ただしこれは偶然ではないのである。信仰的な解釈となって恐縮だが、仏教を正しく実践していれば、必ず良い方向へと導いてもらえる、ということである。ほんの限られた経験と知識でもってしか、物事を見ることができない人間に、何が本当の「成功」や「幸せ」であり、何が「失敗」や「不幸」であるかはわからない。
だから、仏の知恵、仏智に委ね、その教えの通りに行じていれば、たとえその時点において、難に見舞われたように感じても、何ら不安に思う必要はないのだ。
蝉時雨の中、そのようなことを思いながら生きる還暦の夏である。
合掌
(福本 容子、僧名・清容)
2022年8月10日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(14)」
西独ミュンヘンオリンピックは血塗られた

1972(昭和47)年、東奔西走のような年だった。第11回札幌冬季オリンピックから帰京するとすぐ連合赤軍「浅間山荘事件」で軽井沢へ。ついで「沖縄 いま帰る」の企画で沖縄に行き、今度は第20回夏季オリンピック西独ミュンヘン大会の取材であった。当時のオリンピックは冬と夏が同じ年に開催されていた。
美しい古都のオリンピック
ミュンヘン大会は8月26日開幕、9月11日閉幕のスケジュールだった。参加国、参加選手とも史上最高のオリンピックで、西ドイツは第2次世界大戦の過ちを詫び、復興し、平和な国へと生まれ変わっていることを世界に示そうとしていた。
事前取材と企画で、開幕に先立つ1か月ほど前に、写真部の仁礼輝夫さんと2人で羽田空港をたった。フランクフルトからバイエルンの古都ミュンヘンへ。まず街の様子を探った。尖塔や丸い頭の古い教会の数々。バイエルン王の夏の離宮ニンフンブルク城。ミュンヘン・オペラハウス。マラソンコースの下見に出ると、コースは緑したたる英国風公園の中を延々と続く素晴らしいコースだ。公園には人の姿もあまり見かけず、時折リスが顔を出し、ベンチの老夫婦がサンドイッチをゆっくり口に運んでいた。街中の、分厚い木のテーブルが並ぶ大きな大きなビアホールはいつもいっぱいだった。
東大闘争のとき農学部学生だった人がミュンヘン大学に留学していて、会って3年前を懐かしんだ。社会部からオリンピック担当の牧孝昌デスクが来て大会施設の準備状況を見て帰った。
日航に度々原稿を託す
仁礼さんと2人で取材していた時は、原稿は全部マス目の書きゲン、写真フィルムは未現像で、両方セットにし、空港へ運んでは日航経由でハネダに届くよう頼んだ。何度ホテルと空港を往復したことか。いまのようにパソコンがあったならばと思う。このオリンピックは、いままさに50年前、半世紀前のことになった。
開幕前、プレスセンターがオープンし、東京運動部の矢野博一、中沢潔、大阪運動部の長岡民男、写真部の鈴木久俊のみなさん、社会部の杉山康之助君、伝送課の大庭啓男さんが到着、取材送稿体制が整った。キャップは運動部の矢野さん。ボン支局から塚本哲也さん、ロンドンから小西昭之さん、モスクワから佐野真君が加わって、にぎやかになった。安心した。
開幕を前に、ミュンヘン・オペラハウスでIOC総会。ブランデージ会長は「オリンピックはアマチュアのためにある。商業主義は許さぬ」と札幌での主張を繰り返し、長い演説をした。持参のカセットテープに録音したので、アルバイトのベルリン大学留学生に翻訳してもらい、長文の原稿にした。20年間会長の座にいたブランデージ氏はこの大会を最後に引退した。この後、オリンピックは急激に商業化して、放送権料もまさにうなぎ上りとなった(ブランデージ会長退任後にオリンピックがどのようにして商業化し今日に至ったかかについては、スポニチに移ってから頼まれて東京女子体育大学で講義したことがあった)。
アラブゲリラ、選手村を襲う
開会式は、晴天下、華やかで楽しいものであった。日の丸を先頭に日本選手団は赤のブレザー、白のズボン、スカートで堂々とした入場だった。戦争で破壊された建物の残骸を集めて築き上げたオリンピックの丘が見えるメーンスタジアムを中心に、大会は順調に進んでいた。競技種目では、私は射撃や柔道を取材、写真も撮った。柔道の無差別級決勝でルスカ(オランダ)が優勝を決めた、その瞬間の写真がオリンピック面に載ったと連絡があったときは早く紙面を見たいと、うれしかった。

10日目を過ぎて9月5日未明、まだ熟睡中、東京からの電話でたたき起こされた。「選手村で事件らしいぞ!」。選手村へ走る。パレスチナゲリラ「黒い9月」がイスラエルの選手村を襲い、役員選手2人を射殺した。すぐに西ドイツ国防軍が出動、空港までの銃撃戦となり、死者17人。
大会は中止か延期か。情報は混乱した。ブランデージ会長は一時、大会の続行は困難ともらしたが、追悼式を行い1日延期で悲しみの中に再開した。「テロに屈しない」とのブランデージ会長の決断であった。
帰国して秋、私はサツデスクとなり、取材の第一線から遠ざかった。
(社会部OB 森 浩一)
2022年8月8日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(13)
1972、札幌・軽井沢・沖縄・西独ミュンヘン
1972(昭和47)年の年明けとともに、2月開幕の「雪と氷の祭典」サッポロ冬季オリンピック取材で札幌に長期出張をした。社会部からは八木亜夫、杉山康之助、有馬寧雄君が一緒だった。
天皇皇后両陛下 小雪舞う中で

当時は、開会式もスピードスケートも屋外リンク。ボブスレーやリュージュも同じであった。2月3日の開会式。天皇皇后両陛下が着ぶくれて、小雪舞う屋外リンクにお立ちになった。ボブスレーは氷が固い明け方に競技があるので、未明、弁当が凍らないようにコートの中の腰に巻きつけ、ゴール地点からスタート地点へ自分の足で登った。
スキーのシュランツ選手(オーストリア)が商標入りのスキーを担いで乗り込んできた。IOC会長ブランデージは「オリンピックはアマチュアのためのみある」とシュランツの出場を禁じた。

スキーの70m級ジャンプで日本選手が金、銀、銅を独占した。笠谷、今野、青地選手で、観衆は大歓喜。運動部編集委員の石川泰司さんが大声をあげて狂喜したのを覚えている。フィギュアスケートのジャネット・リン(アメリカ)が選手宿舎の壁にPeace and Loveと書いて大変な話題になった。オランダのスケート選手ケレンデール・ストラは3児の母だった。
赤軍、軽井沢浅間山荘を襲う
群馬県の榛名山中ですさまじい事件を起こした連合赤軍の1派が猟銃店から猟銃を奪って長野県軽井沢の河合楽器保養所「浅間山荘」に逃げ込んで、管理人の女性を人質に立てこもっていた。サッポロから帰るとすぐに軽井沢へ、とデスク。長野支局、社会部から大勢行っているところへ行くことになったが、「山荘」から一番近いところへ陣取って、人質救出を取材する役割だった。
零下20度近くまで下がる軽井沢の夜は冷たく寒い。股火鉢にと、ヒゲの前田昭君がカラの石油缶に火を入れて持ってきてくれた。長期戦になり、あらゆる戦術を用いて突入した警官隊が人質を救出、立てこもった犯人5人を逮捕したのは2月28日だった。
目の前で警官2人がライフル銃で撃たれ死亡した。その1人は以前、警視庁公安警備を担当したときの警備2課の係長だった温厚な人で、機動隊長になって指揮を執っていた。他社の取材陣にも負傷者が出た。
今度はまた沖縄へ
3月、東京社会部の杉山康之助、吉川泰雄、有馬寧雄、西部報道部片山健一君と本土復帰を前にした企画取材『沖縄 いま帰る』で沖縄に長期出張した。外務省機密漏洩事件が発覚したのは沖縄にいる時だった。
4月、佐々木武惟さんが社会部長になった。5月15日、沖縄本土復帰・沖縄県発足。この日のためにまた沖縄にトンボ返りした。
西独ミュンヘン・オリンピック
その後、写真部の仁礼輝夫さんと組んで西独ミュンヘンに渡るようにと言われた。 2人で都内外の諸競技練習場などに予備取材で足を運んだ。第20回夏季ミュンヘン・オリンピックは、第2次世界大戦で破壊しつくされたドイツの目覚ましい戦後復興と平和を目指す国家に生まれ変わっていることを世界に示す史上最高の大会になるはずだったが……血塗られた大会になってしまった。
(社会部OB 森 浩一)
2022年8月8日
元ロンドン特派員、元論説委員の福本容子さんが得度して京都で修行中(上)

この四月、晴れて一年生になった。
入学した先は、京都市内の専門学校だ。新米僧侶を教育するところで、本門佛立宗という仏教の宗派が運営している。
同期生は私を含め六名。うち四名は二十歳代である。私以外は皆男性だ。学校に隣接する寮で、彼らと共同生活を送っている。
「学生」とはいえ、坊さんなので、半分が学校での勉強、そして半分がお寺での修行だ。
毎日新聞の連載を書くための体験入学ではない。一昨年秋(二〇二〇年十月)、私は得度をして、僧侶となった。「職業」の欄に記入する時は、もう会社員でも新聞記者でもジャーナリストでもなく、「僧侶」と書く。いまだにちょっと不思議な感覚。
なぜ三十二年半勤めた毎日新聞社を辞め、僧侶になったかは、後ほど記すことにして、まずは現在の日常を紹介させて頂きたい。
お寺の朝は、やはり早い。
男子たちは坊主頭なので楽そうだが、私は有髪であるため、朝の準備はそれなりにかかる。よって四時十五分起床。身支度をして、徒歩七分の本山、宥清寺へ向かう。白衣の上に黒い衣、白足袋に雪駄。一般的な坊さんの制服姿だ。
本山に着いたらまず本堂などのお掃除である。三六五日、必ず朝夕の一日二回、お掃除がある。今のところ春と夏しか経験していないが、真冬は水が相当冷たいに違いない。ハタキや布巾で綺麗にして、朝の勤行に備える。
勤行は通常六時半から八時まで。その間、学生僧侶たちはそれぞれ、その日の担当任務(「お給仕」と呼ばれる)をこなす。勤行を取り仕切る筆頭の僧侶(導師)のもとへ、その日読み上げられる書類などを、順番通りに運んだり、ご信者さんが申し込まれるお塔婆を浄書したり、みんなで唱えるお題目のリズムを保ち、盛り上げるための太鼓を叩いたりする。
とにかくやるべき項目が多い上に、短時間でテキパキとこなさなくてはならないし、道具類が大きかったり、重かったりで、小柄の高齢新人はほとんどパニックだ。ある程度、こなせるようになるまで二か月はかかった。
勤行が終わると、後片付けをして、食堂で朝食を頂く。
ところで、「お寺なら野菜や豆腐しか食べないのか」といった質問をよく受けるが、私の宗派に関する限り、一般の日本人の食生活と何ら変わりない。節度は大事だが、飲食上の禁止事項は特にないので、時間があるときは、夜、自室でビールも頂くし、たまに外食もする。
朝食を慌ただしく済ませると寮に戻り、登校の支度だ。教科書や筆記用具をそろえて、いざ学校へ。
キンコンカンコンという、あのチャイムが鳴ると朝礼だ。校歌を歌い、点呼がある。
輪番で務める日直は、休み時間に黒板消しをきれいにしなくてはいけない。授業の最初と最後には、「起立、礼」と声をかける。「礼」の後に「合掌」が加わるところだけ、小中学校と違う。
昼食を挟んで午後の授業が終わると、また慌てて支度をして本山へ。夕方の勤行である。その片付けが終わると残りの時間は自由だ。しかし、中には復習テストがあったり宿題が出たりする科目もあるので、寮に戻ってからも勉強、という日がある。
十時の就寝を目指しているが、結局、十一時を過ぎることが多い。
授業の内容はといえば、当たり前だが、ほぼ仏教一色。経文や鎌倉時代に書かれた文章を読まなくてはいけないから、漢文、古文の授業もある。同期の若者にとって学生時代はつい最近のことであるが、こちらは「レ点」とか「一、二点」とか、もう何十年も耳にしていなかった懐かしいボキャブラリーである。
信仰の拠り所となる教義や仏教の歴史などを詳しく学ぶのは実に楽しい。何十年も〝訓練″を受けてきたので、自分で調べて、レポートを書く作業も抵抗はない。
大変なのは体育の授業である。噂には聞いていたが、そもそも二十代の男子と一緒に山登りやソフトボールは無理筋というものだ。しかも、ジムのベンチプレスで百キロ以上を楽々持ち上げる、筋肉隆々の二十二歳や元アメフト選手といった体育会系に混じっての運動だ。周囲から何と言われようと、評価が赤点になろうと、とにかく怪我をしないことだけに集中し、遠まきに参加している。
そして期末試験。十一科目もあり、血圧がかなり上昇したはずだ。何十年ぶりに消しゴムが友達になった。
試験が終わると学校は九月まで休み。本山での朝夕のお勤めこそ毎日あるものの、自由時間が増えた。とはいえ、やはり学校である。宿題が出た。読書感想文まである。恐らく活字離れで、まとまった文章を書くのが苦手、という若者を意識しての課題であろう。コンテストをするらしいが、入賞を逃すと古巣の新聞社に迷惑をかけるのだろうか・・・。とりあえず頑張ろう。
(福本 容子 僧名・清容)
福本容子さんは1987年入社、2019年退社、
(下)は8月12日に掲載します。
2022年8月4日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(12)」
3回目の遊軍、「夕焼け小焼け」で成田・三里塚闘争終結

1971(昭和46)年冬、札幌冬季プレ・オリンピックで札幌に。終わって社に帰り、4階のエレベータを降りて編集局に向うと、前方からヒゲをたくわえた大きな人が局を出てきて顔が合うと立ち止まり、いきなり「キミは森君か」。「はい」「ぼくは畑山です」。2月異動で大阪社会部長から東京社会部長になった畑山博部長だった。驚いた。
新国際空港成田の空港反対闘争は主として三里塚を舞台にピークを迎えていた。ここは労働者・学生の闘争とともに「土地を奪われる」農民の闘争がメインに浮上していた。大学闘争とは質が違ってくる。三里塚へは何度か行ったが、いつの時点でどうだったか、よくは覚えていない。
いくたびも多くの社会部員がナリタで取材にあたった。みんなが苦労した。
戦国映画のような砦「団結小屋」
農民・学生は地下深く穴を掘って立てこもり、地上には戦国時代の映画で見るような砦を築いて抵抗した。これを「団結小屋」といった。第2次強制代執行のときだったと思うが、団結小屋の攻防で警官3人が死亡した。
機動隊に攻められて最後の砦が落ちた時、抵抗者たちは穴を出て「夕焼け小焼け」の童謡を歌い、警官に連行されていった。社のヘリで現場に畑山部長が降り立った。
12月、警視庁の土田警務部長宅に小包が届き、開けたとたん爆発、夫人が死亡、息子2人が負傷した。新宿伊勢丹前でツリー爆弾事件が起きた。東京のゴミ問題が深刻になり、美濃部都知事は「東京ゴミ戦争宣言」を出し、対策に乗り出した。ゴミも経済の高度成長の産物でもあった。
**************
私はどうもあちこちに取材に回ること多く、翌1972年も同じであった。単独クラブなどを担当したたくさんの東京社会部員の中には、後々それぞれの分野で筆を立て、また学生諸君を指導してきた人たちがいる。
1970年代、80年代は高度経済成長のヒズミが環境、公害、住宅都市問題などに顕著に現れてくる。また一方、交通が発達し、クルマ社会が広がることによって普通の人々に旅の楽しみが増えても来た。
原 剛君は環境の専門家であり、早稲田大学の教授として、教室ばかりでなくフィールドワークで学生と接し、早稲田環境塾長を務め、活躍している。川名英之君は公害関係の著書多く、『ドキュメント 日本の公害』(全13巻)をものした。
都市問題では、なんといっても本間義人君である。遊軍や都庁クラブで活躍。のち九州大学大学院や法政大学教授を務めた。労働関係では大橋弘君(のちに中部大学教授)。福祉・介護では坂巻熙君(のちに淑徳大学教授)や宮武剛君(埼玉県立大学教授・目白大学大学院教授)。司法の山本祐司君(社会部長)は「最高裁物語」(上下)などの司法関係で日本記者クラブ賞。
楽しい方では国鉄ときわクラブを経た種村直樹君、堤 哲君。種村君は日本中の鉄道を乗りこなし、いまだに新聞でその手の記事を見るとき宮脇俊三氏と並んで名前が出てくる。
まだまだ同様の元社会部員はいると思うが。
(社会部OB 森 浩一)
2022年8月1日
名物コラム「黒獅子の目」が都市対抗野球紙面から消えた!
2022年の第93回都市対抗野球大会の優勝戦は、ENEOS大久保秀昭監督(53歳)と東京ガス山口太輔監督(45歳)の前田チルドレン対決だった。
2020年に野球殿堂入りした慶応義塾大学野球部の元監督前田祐吉さん(2016年没85歳)は、93年まで2度にわたり18年間36シーズンつとめた。エンジョイ・ベースボールでリーグ戦優勝8回。全勝優勝(引分け1)してストッキングに2本目の白線を入れた。
大久保監督は91年度、山口監督は99年度のキャプテンだ。山口キャプテンのときは後藤寿彦監督(第50回大会で三菱重工業広島の補強選手として優勝。現朝日大学野球部総監督)だったが、後藤さんは前田監督葬儀の弔辞で「ノーアウトで走者がでるとすぐバント。それが3回続いたとき、こんな試合は見てられないと神宮球場をあとにしました」と話した。前田イズムを伝承したはずだ。
そういえば今回の優勝戦でバントは一度もなかった。

結果は、ENEOSが5-4で連覇を狙った東京ガスに逆転勝ち、史上最多の優勝回数を12に延ばした。日本石油時代から優勝戦では負けたことがない「不敗神話」を誇る。
大久保監督は翌日の毎日新聞「ひと」で取り上げられた。小野賞も受けたのだ。
ここからはちょっと因縁話になるが、「小野賞」創設は、小野三千麿さん(元毎日新聞記者)が58歳で亡くなった、1956(昭和31)年の第27回大会だった。その年、日本石油が藤田元司投手の活躍で初優勝した。ともに慶大野球部OBで、野球殿堂入りしている。
日本石油は、2年後の29回大会で2回目の黒獅子旗を手にした。優勝監督増山桂一郎さん(慶大OB)に「小野賞」が贈られている。
◇

ことしの都市対抗野球大会紙面で残念なことがある。名物コラム「黒獅子の目」が消えたことである。
2017年に野球殿堂入りした鈴木美嶺さん(1991年没70歳)が始めたコラムで、「黒獅子の目」のカットがついた第1回は1961(昭和36)年7月30日の運動面だった。
美嶺さんが書き残している。《大会の報道は試合を正面から取り組むのが本筋だが、都市対抗野球のもうひとつの顔を試合にからませて書けないものか——大会がここまで発展するまでの波乱曲折、あるチームが、ある都市が全盛を迎えるまでの先駆者たちの情熱と努力、野球人たちの興奮や感傷の交錯するグラウンド裏の人間模様などなど、あれこれ織り込んで歴史を伝えて行きたいものだが——と考えたのがはじまりであった》=「私と都市対抗野球」(『都市対抗野球大会60年史』)。
そして定年を迎える最後の「黒獅子の目」1977(昭和52)年8月3日付をこう綴った。
《いつもそうだが、決勝は別れの日だ。生い立ち、境遇、年齢、人生観。それぞれ違うひとたちが、都市のため、チームのため、自分のため、白球を追って、くる夏もくる夏も全精魂を傾ける。それだけになお決勝は残酷だ。

年行き星は移りなば
若き血潮はもえざらん
この世の春はかえるとも
我が青春をいつか見ん
ああ高殿に友と来て
今宵は別れの宴なり
面は笑みて歌えども
心に泣ける我を見よ》
結びは、美嶺さんが学んだ旧制八高で別れに歌う寮歌「春は日影」から2番を引用した。「ひどく感傷的だった」と結んでいる。
昨年の92回大会は、東京オリンピック開催の関係もあって、12月に東京ドームで開催された。「準決勝戦2試合が行われた12月8日は、80年前に太平洋戦争が始まった日だ」と、翌9日付「黒獅子の目」にあった。
(堤 哲)
2022年8月1日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ④南信日日新聞と父
余談になります。活版工として先輩の父のことを書きます、父・瑛(てる)は、1909(明治42)年7月17日、長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)で父・茂十、母・よしの次男として生まれましたが、7歳の時母が病死し、9歳の時父も亡くなりました。親類衆が相談の結果、尋常小学校3年までは親類が面倒を見て、4年になったらどこかに住み込みで引き取ってもらおうとあちこち相談した結果、上諏訪町で当時、南信日日新聞を経営していた三澤慶十さんが住み込みの小僧として面倒をみてくれることになりました。
両親と死に別れ住み込みの小僧に
10歳の4月、世話人に連れられて三澤さん宅に行ったところ、初対面の奥さまが「これは小さいなあ」と驚いていましたが、義務教育修了と徴兵検査までの約束で小僧生活が始まりました。1週間ほどは泣いてばかりいましたが、同じように年季奉公していた先輩に励まされて何とか続けることにしました。
1922(大正11)年、高島尋常小学校を卒業すると朝から南信日日新聞の工場に入り、先輩から「解版、文選、大組」を教えてもらい活版工となりました。昭和に入ると南信日日新聞社は末広町に新社屋を建設。三澤さんも諏訪湖に近い湖柳町に新居を建設したので、そこから同じ住み込みの小僧たちと一緒に末広町に出勤しました。


その後、上諏訪町の至誠堂新聞販売店の息子で東京高師在学中、帰郷の際は新聞販売を手伝っていた、小尾乕雄さん(後年、東京都教育長となった)と知り合い、「トラオさ」「テルさ」と呼び合って交流を深めました。また三澤慶十さんの孫で後年、毎日新聞整理部副部長から発送本部長になった三澤祥貞さんが父のことをよく覚えていました。祥貞さんから父宛の手紙には「テルさは家族として私を大変可愛がってくれました」「私の母が『テルさは努力家で勉強者でねえ、よく役人になるための試験を受けていたよ。漢字をよく知っていて、新聞社一番だったんじゃないかね』と言っていました」とありました。
有楽町時代、私が活版に入ったことを知った祥貞さんが職場に来て「テルさの息子か?」と言って、八王子の自宅に呼んでくれて、したたか飲まされました。
徴兵検査後、体調悪化で退職したが再就職
1929(昭和4)年、適齢となったので、伊那富村で徴兵検査をうけ、丙種合格。翌1930年1月、晴れて年季が明け、三澤さんから報奨金500円と紋付袴をもらい、今度は月給50円で社員となりました。しかしこの年の12月、体調を壊して諏訪日赤病院に入院。肺結核初期と診断されたため南信日日新聞を退職。貯金で翌年から転地療養をしながら役人になるべく勉強し試験を受けましたがいずれも失敗。そこで1932年から再び南信日日新聞の活版工として働くことになりました。
内務省普通文官試験に合格、念願叶って役人に
1938年、周囲からすすめられて中谷つきゑと結婚。同年12月に長男(清)が生まれましたが、役人の夢を忘れられず挑戦を続け、1941年ようやく内務省普通文官試験に合格しました。全国からの受験者2000余人のうち合格者は180人。長野県では27人受験して合格者は3人。「心中喜びを隠すことができなかった」と書いています。
南信日日新聞を退職し、11月26日付で長野県庁へ赴任し「学務部社寺兵事課勤務・雇を命ず」。月給は45円。長女が生まれていて4人家族でした。
こうして念願の役人となり、以降、1942年上伊那地方事務所、1944年諏訪地方事務所、1945年2月1日赤紙召集。8月25日諏訪地方事務所復帰、1948年同事務所厚生課長、1950年長野県庁児童課、1951年上伊那地方事務所、1952年諏訪児童相談所・児童福祉司、1967年退職、岡谷市つつじが丘学園就職、1978年同学園退職。2003年11月30日、94歳で死去しました。
父の活版工時代はやむなく就いた仕事で、役人になることを目的に刻苦勉励したのだと思います。同じ活版工だったと言っても、父の努力と生き方には遥かに及ばないと思っています。
(福島 清)


2022年8月1日
元東京代表、秋山哲さんが、生まれた町の200年ぶりの祇園祭を楽しんで



7月23日と24日、私は大興奮であった。
私の生まれ育った町に祇園祭の曳山(ひきやま)が復活した。それも196年ぶりの復興である。23日の宵山、そして24日の巡行。暑い中を歳も顧みず、胸躍らせて町を歩きまわった。
京都の祇園祭には少し説明がいる。この祭りは八坂神社の祭りである。7月17日、神輿渡御の神幸祭に合わせて23基の山鉾が巡行する前祭(さきの祭り)が有名だが、還幸祭の24日にも別の山鉾10基が巡行する後祭(あとの祭り)がある。
巡行するのを山鉾と呼ぶのだが、鉾は車があって曳いて行く。山は原則、人が担いでいく。この山が大型になって発展したのが曳山である。曳山と鉾は見かけは同じである。違いは、屋根を突き抜ける真柱の上に長刀のような金属製の飾り物を付けるのが鉾で、真柱の先が松の若木というのが曳山である。
私の生まれた町は三条通の衣棚町(ころものたなちょう)というが、ここは後祭の区域で、衣棚町には「鷹山」という大きな曳山が応仁の乱以前から存在した。江戸時代の196年前、巡行中に嵐があって部分的に破損して巡行できなくなっていた。その上に、幕末の蛤御門の変(1864年)で京都市内が丸焼けになり、鷹山の骨組みや懸装品なども焼失してしまった。
子どものころ、祇園祭の時期が近づくと、近辺のあちこちの町で祇園囃子の練習が始まる。その音が衣棚町にも届く。羨ましかった。どうしてわが町に鉾がないのか。
それが復興したのである。10年ほど前から町内の動きが高まり、京都市なども支援した。2億円ほどかけて、ようやく初巡行の日を迎えたのである。
23日の宵山には鷹山の前後にたくさんの提灯をぶら下げて飾る。大勢の見物人で鷹山が大人気であった。24日の巡行日は、鷹山が動きだす午前8時まえから、この町にたくさんの人が押しかけ、人並みをわけて歩くのが難しいほどであった。動きだすと人々は拍手を送る。衣棚町の西の端、三条通新町の狭い四つ角で、鷹山は45度方向転換する辻回しである。大きな車の下に割った青竹を敷き詰め、水を撒いて滑りやすくして、無理やりに横に引く。「鷹山」はぐらぐらと揺れる。初めての辻回しを見物人一同、息を詰めて見守る。少しずつ方向が変わり、30分もかけて辻回りが成功した。町中から拍手が沸き起こった。こちらも胸を突き上げる何かを感じたのである。
絶え耐えて 二百年 今鉾囃子
鷹山のよみがえりての 夏日照り
(秋山 哲)


2022年8月1日
森浩一・元社会部長の「東京社会部:記憶の底から(11)」
国会担当、そして沖縄の国政参加選挙へ
1970(昭和45)年は安保条約改定の年。遊軍として大学問題に取り組んだあと、『回転――安保60~70』の連載を書いたが、天野勝文君の後を受けて国会担当となった。
さいわいにも国会内外に『60年』のようなことはなく、いくつかのデモも平穏に経過した。70年問題よりも「プロ野球の黒い霧」が衆院法務委員会で大きく取り上げられた。また、日航機「よど号」ハイジャック事件が起き、山村新治郎運輸政務次官が身代わりになった問題や青年法律家協会にからむ裁判官訴追委員会がクローズアップされた。
11月。沖縄の本土復帰を2年後に控え、それに先立って沖縄で国政参加選挙(衆院5、参院2議員)が行われた。10月、那覇支局の応援に三十尾清写真部員と沖縄に派遣された。

パスポートとドル札持って沖縄へ
沖縄はアメリカの施政権下にあり、政府発行のパスポートとドル札を持っての出張だった。機内で隣の席に座った人と言葉を交わしているうち、偶然にも衆院(自)の候補者と分かり、取材は機内から始まった。那覇空港上空では写真撮影禁止の放送。空港から米軍の戦闘機がスクランブルしていく、迷彩色の輸送機が駐機、ヴェトナムの戦場から運ばれてきた壊れたトラックのおびただしい量。これが今の沖縄だと気を引き締めた。長期取材だったので記すときりがない。2、3のことにとどめる。


本島の南から北、宮古島、石垣島のどこで話を聞いても本土復帰を喜ばない人はなかった。わずかに那覇の国際通りの電柱に選挙粉砕ビラを見たに過ぎない。ただし、選挙で衆と参の2票を入れるのはなぜか、よく理解できていない人があちこちにいた。無理ないことである。
宮古島へYS11で渡る。サトウキビ畑の中の滑走路という感じであった。機には候補者が保革まさに呉越同舟。機を降りると候補者はシンパに取り囲まれ、もみくちゃだった。
宮古島を回った候補者はそこからさらに離島の伊良部島へ定期船で渡る。船には穀類、お茶の葉、雑貨類が無造作に積まれ、そこへ選挙の七つ道具を持った候補者、運動員が乗り込んだ。伊良部島で運動をした候補者はチャーターした小舟で東シナ海を池間島へ。
「本当の日本人になったような」

11月15日投票日。雨。米軍の基地そのものの嘉手納村の投票所で投票を済ませた米軍雇用労務者が「これで本当の日本人になったような気がした」。涙が出た。80年、90年と生きたおばあさんが杖をつき、娘に手を引かれて投票所に来た。悪天候にもかかわらず投票率は87%を超えた。
11月24日。私は国会玄関わきにいた。天皇陛下をお迎えするときか、特別な行事の日以外開かない国会中央玄関の扉が開かれた。沖縄選出7人の国会議員が赤じゅうたんを踏みしめた(25日、三島由紀夫が自衛隊東部方面総監室で割腹自殺)。11月27日、上原康助氏(社)が沖縄選出議員として戦前戦後を通じて初めて衆院本会議で代表質問をした。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月28日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(10)」
大学闘争拡大 東大闘争

1968(昭和43)年夏、東京大学で、反日共系学生が安田講堂を占拠した。あちこちの大学に学部校舎のバリケード封鎖、占拠が広がった。東大では全学共闘会議(全共闘)が結成された。東大と日大の闘争が最も注目された。このころ社会部長は谷畑良三さん。社会部に東大取材グループができた。キャップ高井磊壮、吉野正弘、森浩一、清水洋一、原田三朗、松尾康二、内藤国夫の7人で、うち5人は東大出身。東大・本郷の三四郎池から上ったところにある山上会議所が取材者のたまり場になり、やがて各社専用電話を引いて取材拠点とした。以後、半年以上にわたって東大通いが続いた。
経過を追っていけば際限なくなる。医学部に端を発した東大闘争は、全学共闘会議結成、安田講堂封鎖、医学部本館占拠・封鎖、全学部無期限スト、林健太郎文学部長(のち学長)軟禁など全学に広がった。大学当局も教授会内で対立があり、学長の辞任やら加藤一郎学長代行(のちに学長)の選出。大学当局と学生の七学部集会、大衆団交。ヘルメットにゲバ棒、投石、火炎ビンの登場。闘争学生の派閥分裂、乱闘。何でもありの状態。

背中のいちょうが泣いている

それでも「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」などという看板が出たり、軟禁された文学部長の夫人が着物姿で現れるという思いもしないことがあった。看板のコピーを書いたのは文学部学生で、のちに小説家、評論家として著名の橋本治だったという。大学闘争当時、かなりの学生たちが漫画雑誌「ガロ」を愛読し、白戸三平の「忍者武芸帳」「カムイ伝」等を好んでいた。
ついに安田城落城
年が明けて1969(昭和44)年1月、学長代行は警視庁に機動隊出動を要請。1月18日朝、6000人近い機動隊が東大に入り、火炎ビンと投石で抵抗する学生を次々排除。最後はガス弾と放水を浴びせかけ、ヘリコプターに縄梯子。地上から空からと攻め上げた。攻防は日をまたぎ、19日になってようやく安田講堂が陥落した。機動隊の精鋭が講堂最上階の学長室に駆け上がる。機動隊の後を追って、鍛冶壮一さんと私が、トランシーバーを持ち、ヘルメット、マスク、防水のコート、長靴姿で階段を上った。書くのもはばかられるひどい現場だった。
東京大学と東京教育大学の入学試験は中止と決まった。
東大が一段落すると、京都大学でも入試中止になるかどうかが焦点になってきた。デスクから「京大に行ってくれ」と言われ、松尾君と京都に向かった。大阪本社の地方部、社会部、京都支局の取材陣に交じって仕事をするのには気を使った。京都では、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士とも親しい社会部の編集委員(科学)河合武さんがヒョイと現れて慰労してくれた。
社会部員の多くが日大はじめ東教大ほか都内の多くの大学で総力取材だった。全国の大学闘争は、「大学臨時立法」が制定され、以後、次第に沈静化。
2月25日、社会部長谷畑良三、副部長竹内善昭、警視庁キャップ佐々木叶、部員高井磊壮、二宮徳一、白木東洋、大橋久利、吉野正弘、牧野賢治、森浩一、清水洋一、松尾康二、内藤国夫、野口元、前田明、編集専門委員河合武の16名に編集局長賞。「新しい形式の軟派記事を産み出しオピニオンリーダーにふさわしい方向を切り出した」と表彰状に。
その後、東大取材グループは『総討論 大学とは何か』の連載企画を始めた。1、2、3部構成の81回に及ぶ長期連載。これに対し11月26日、社会部副部長竹内善昭、部員高井磊壮、吉野正弘、森浩一、原田三朗、松尾康二、内藤国夫の7名に編集局長賞。「本社のイメージアップに資するところ大」と表彰状。
高井さんと私などはこの後、来るべき70年安保に備えて「回転――安保60~70」の連載企画を始めた。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月26日
京都大学野球部OB、大阪社会部旧友・津田康さんとのコト
京大「旋風」で終わらせない 野球部元プロの近田監督
24日日曜日の1面トップ記事「迫る」は、京都大学野球部を大躍進させた近田怜王監督(32歳)のドキュメントだった。3面もつぶし、全文5404文字の長文だった。
《就任1年目の近田監督率いる京大は今春、旋風を巻き起こした。昨秋に優勝した関西大、2位の立命館大から2戦先勝で得られる勝ち点を挙げ、「定位置」だった最下位を2年半ぶりに脱した。最終的に5位だったが、シーズン5勝は4位だった2019年秋と並んで現行リーグで最多、ベストナインにも過去最多の3人が選ばれた》
《09年春から12年春には60連敗(1分けを挟む)を記録している》
関西六大学野球リーグ戦のお荷物チームが、変貌したのである。
◇

京大野球部OBで思い出すのは、大阪社会部旧友の津田康さん(ことし86歳)である。
「村山実(関大→阪神タイガース、野球殿堂入り)と投げ合ったんだ」とよく言っていた。
津田さんは、自著『陽は舞いおどる甲子園—高校野球青春論』(サイマル出版会1977年刊)に自らの球歴を披露している。
中学時代、大阪府下の700余校の頂点に立った。サウスポー。8試合のうち7試合をシャットアウト。
《新聞は「超高校級」と書いた》とある。
——“甲子園の星”になりたい。
——プロ野球に入ってお金をどっさりもらおう!
大阪府立今宮高校に進学したが、甲子園出場の夢は果たせなかった。
1956(昭和31)年、1浪して京都大学法学部に入学した。
《入学した年から主戦投手だった。神戸大に2勝、京大は5年ぶりに5位になった》
《村山実—上田利治(のち阪急ブレーブス監督。野球殿堂入り)バッテリーの関大とも2度に1度は互角の戦いをした》
《京大4年間で5勝。負けは数えられない》
1960(昭和35)年に卒業して神戸・川崎重工に就職。都市対抗野球大会にも出場し、2回戦日本ビール戦に先発、《2回を0点に抑え、その後四球を連発して1-9で敗れた。『先発津田はスピードもなければ、コントロールもない』と書かれた》と自嘲気味に書いている。
そして翌61(昭和36)年に毎日新聞大阪本社に記者として入社した。
◇
津田さんと一緒に仕事をしたのは50年前のセンバツである。大会前日の開会式のリハーサルのあとの人文字は、第44回大会の「44」と、毎日新聞創刊100年の「100」を描き出した。

大会期間中、阪神電鉄甲子園駅前にあった旅館「清翠荘」に泊まり込んだ。キャップ津田康、サブが私(堤)だった。担当デスクは、新任デスクが定まりで、事件記者の寸田政明(2003年没74歳)だった。
私は、前年の8月に東京社会部から転勤となり、街頭班(サツ回り)だった。
開会式で優勝旗を返還したのが日大三高のキャプテン吉沢俊幸(早大→阪急ブレーブス→南海ホークス)、選手宣誓は日大桜丘のキャプテン常田昭夫。
そして優勝戦は、2連覇を狙う日大三高と日大桜丘の対戦となり、ジャンボ仲根正広(のち近鉄バファローズ、1995年没40歳)—常田昭夫バッテリーの日大桜丘が初優勝した。「優勝戦は神宮球場でやったら」と皮肉をいわれた大会だった。
津田さんは、当時遊軍だったか。クルマ社会を告発する「くるまろじい」という続き物を社会面で展開していた。のちに『くるまろじい—自動車と人間の狂葬曲』(六月社書房1972年刊)として出版、第3回「新評賞」を受賞した。
いつもボサボサ頭で、身なりは全く構わなかった。添付の写真は、受賞式のために正装していたと思う。
このセンバツのあと、津田さんは高校野球取材を続け、『陽は舞いおどる甲子園』、さらに74年「さわやかイレブン」で準優勝の池田高校の蔦文也監督を取材して『池田高校野球部監督蔦文也の旅—やまびこが甲子園に響いた』(たる出版1983年刊)をものにしている。
大阪社会部OB会の集まりで何度か顔を合わせたが、最近はご無沙汰している。
(堤 哲)
2022年7月25日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(9)」
有楽町旧社屋の思い出を少々
1966年9月、東京本社新社屋が竹橋に完成、有楽町の社屋から移転した。皇居のお堀際に建ったパレスサイドビルは眩しい美しさで、ビルの東西に立つ円形の塔は何だろうと思った。
ここで黙って有楽町の貫禄あるビルを去るわけにはいかない。
旧社屋。編集局は4階だったと思う(老いた頭の中は、有楽町の社屋構造と竹橋に移ってからのそれがごちゃごちゃになって現れるので始末が悪い)。社会部は富士アイスなどが見える窓側ではなく編集局に入っていって右側ではなかったか。机の表面にインキのシミや煙草の焼け跡。木製の鉛筆立てが並ぶ机の随所に置かれ、3Bの鉛筆が立っていた。4Bもあったような記憶がある。鉛筆は黒塗りで「毎日新聞」の金色の文字が入っていた。1辺が軽く糊付けされた矩形のザラ紙の雑用紙がこれも随所に積んであった。その1枚に当時の新聞の1行15字分が収まるぐらいの目安で、大きな字で原稿を書いた。時には青色のカーボン紙がを挟んであった。「青」は西三本社送り用に連絡部に渡った。鉛筆を削ったりカーボン紙を挟んだりするのはアルバイト学生。用事があると「おーい、ぼうや!」。
デスクの机には浅い木箱に朱色のスミ壺と筆が2、3本入っていた。デスクが原稿を直したり削ったりするのを「赤を入れる」といった。これは間もなくボールペンに変わった。


部長席の後ろの小部屋に桜木谷範秀さんがいて、給料の受け渡し、出張旅費や取材費の精算に携わっていた。給料の一部前借りの相談に乗ってもらう人もいた(桜木谷さんのあとは、新社屋になって内藤寅一さん)。
昼夜仕事の編集局。有楽町の社屋は、夏は暑く、天井に羽の長い大きな扇風機がゆっくりと回り、盛夏には社会部の机にも四角の大きな氷柱が立った。
鳩よ さようなら
宿直室は5階だったか、朝、外のコンクリート製の、いくつも蛇口が並ぶ洗面所で顔を洗っていると、鳩舎から遊びに出た鳩と顔を合わせることがあった。連絡部の鳩係が100羽を超える鳩の面倒を見ていた。社屋移転のとき、鳩係は廃止となり、鳩たちはあちこちにもらわれていったようだ。ときどき有楽町に舞い戻ってくる鳩もいたという。
忙中閑あり 社会部が社内野球で優勝!
会社の厚生部は春秋の年2回、社内野球を開催した。と言っても早朝野球である。どの部局と当たるかは抽選ではなかったか。私が社会部に来た頃は会社のグラウンドが巣鴨の駅近くにあって、そこで試合が行われた記憶がある。警視庁七社会にいたほぼ5年間のうちに試合会場は神宮外苑軟式野球場に変わっていた。
新社屋に移った後の1969(昭和44)年秋、われらが社会部チームは第48回社内野球Bで優勝した。社報に『個人表彰で最高殊勲選手大島幸夫(投手)優秀選手賞野口元(三塁手)』と載っている。捕手はたいてい田中正延君で、時に根上磐君。この大会ですごいことがあった。準決勝で勝又啓二郎君が満塁ホームランを打ち、決勝戦でまたまた満塁ホームラン。まさに奇跡というほかない。野球通の堤哲君によれば、監督が中村侔さん、主将は森、優勝旗は田中浩さんが受け取ったという。絶対に塁を離れない不動の1塁手原田三朗君、出ればのらりくらりの投手土屋省三さん。出場選手みなさんの名前を挙げていきたいところだが、優秀なプレイヤーでも仕事があれば出られない。臨機応変。かわるがわるのチーム編成であった。
優勝チームはその日、夕刊の仕事が始まったばかりの編集局に優勝旗を先頭に入っていきナニゴトカと驚かれるやら拍手を受けるやら。社内野球のとき、ベンチ兼簡易スタンドには常連の堀井淳夫さん、岩崎繁夫さんや米山貢司さんたち。非番のデスクも応援に現れることもあった。
(社会部OB 森 浩一)
≪社内野球優勝記念写真≫(敬称略)
1969(昭和44)年秋、社会部はBクラスで優勝した。その表彰式の写真を当時監督の中村侔(92歳)が保管していた。
記念写真に写っているのは、前列左からMVPの投手・大島幸夫(当時32歳)=5方面(池袋警察署)サツ回り▽勝又啓二郎(29歳)=7方面(本所警察署)▽優秀選手賞の三塁手・野口元(31歳、93年没55歳)=遊軍▽キャプテン森浩一(34歳)=元社会部長、スポニチ社長▽社会部長・谷畑良三(43歳、00年没73歳)▽監督・中村侔(39歳)=東京東支局デスク▽原田三朗(34歳、2018年没82歳)=元論説委員▽堤哲(27歳)=3方面(渋谷警察署)▽松尾康二(32歳)=元カルビー会長▽その隣の優勝旗・田中浩(38歳、2022年没91歳))=元毎日映画社社長▽そのうしろ・荒井義行(32歳)=74W杯(西独)から現地取材しているサッカー記者。
中腰の中列▽澤畠毅(30歳、2021年没81歳)=警視庁担当、▽滝本道生(28歳、04年没62歳)=2方面(大崎警察署)▽土屋省三(43歳、09年没81歳)=武蔵野駐在▽横山裕道(25)=八王子支局▽根上磐(34歳、2015年没80歳)=警視庁捜査一課担当、
後列▽河合武(43歳、99年没63歳)=科学記者▽筆頭デスク・桜川三郎(48歳、86年没64歳)▽岩崎繁夫(43歳、03年没76歳)=東京東支局長▽竹内善昭(40歳)=元社会部長▽吉川泰雄(30歳)=東京西支局▽米山貢司(40歳、12年没83歳)▽岩間一郎(45歳、87年没63歳)▽杉山康之助(33歳、79年没42歳)=東京東支局

2022年7月21日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(8)」
黒い霧を払え。次いで初の革新東京都知事
航空機の大事故が続いた1966年の年末に衆議院の「黒い霧解散」があった。政界は多くの濁りを抱えていた。田中彰治衆院議員の逮捕をきっかけに「黒い霧」事件のキャンペーンが始まった。私も取材の一員となり政治という世界の闇の一端を知った。社会面連載企画「この霧を払え」の第1回は私が書いた『この顔4000万円なり』。総前文を吉野正弘さんが「背徳の風に乗って乱れ飛ぶ札束」と書いて、私はウーン、ウマイモンダナアと感心した。担当デスクは牧内節男さんだった。麹町寮にこもって原稿を書き続けた。
12月27日衆院解散。翌年1月27日の衆院選で多党化が顕著となった。一連の「黒い霧キャンペーン」に対し、森丘秀雄社会部長・細川隆一郎政治部長に社長賞、そして新聞協会賞を受賞。

1967(昭和42)年春、社会部平野勇夫筆頭デスクに呼ばれ、4月の都知事選では革新陣営に注目していく必要があるようだ、革新側の動きを水面下で探ってくれ、と言われた。取材を進めるうち、やはり大変なことになりそうだとわかってきた。結論を急ごう。
日本社会党(佐々木更三委員長)、日本共産党(野坂参三議長)、総評などが組み、大内兵衛ら東京大学経済学部出身の錚々たる学者グループが協力して東京教育大学の美濃部亮吉教授(経済学)を革新統一候補に担ぎ出す。これが明確になった時点で私は美濃部候補担当となった。自民、民社両党は松下正寿立教大学総長を候補に立て、たしか都庁クラブの永井康雄さんが担当した。
団地の主婦たち、そして銀座のビルからハンカチが
選挙戦は中盤から美濃部有利が見えてきた。郊外の団地に選挙カーが入って美濃部候補が降り立つと周りは主婦たちでいっぱいになった。銀座通りを走って美濃部候補が手を振ればビルの窓が開いて(当時のビルは窓が開いた)身を乗り出した人たちがハンカチを振る。こうして東京都に初の革新知事が誕生した。私は都庁クラブのメンバーとなり、知事部局を担当した。知事の特別秘書には社会党などからのほかに岩波書店の『世界』編集部員の安江良介さんが就任した。安江さんとは同じ歳で、彼が『世界』の編集長を経て岩波の社長になってからも付き合いは続いた。囲碁が強い人だった。当時の東京都企画調整局長はその後作家として名をはせた童門冬二である。都庁クラブには1年いて、また遊軍となった。世情騒然としてきた。
1968(昭和43)年6月。米軍ジェット機燃料輸送反対闘争で新宿駅は大混乱。電車が再三ストップ。10月の国際反戦デーでは線路上で火をたかれ、信号機が勝手に操作され、ついに騒乱罪が適用された。身の危険をひしひしと感じる現場取材で、多くの社会部員がどれほど危ない目にあったか計り知れない。
全国の50以上の大学が、学費値上げ、学生処分、米軍の研究資金受け入れ、大学移転と様々な問題で紛争が激化。学生たちは外では成田・三里塚、東京王子の野戦病院、首相の東南アジア訪問阻止(羽田)闘争と勢いを増すばかり。医学部に端を発した東大闘争が深刻化、日大闘争がクローズアップされてきた。年末、東京・府中で3億円強奪事件。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月19日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(7)」
大学・成田空港・4件連続の航空機墜落事故
遊軍兼気象庁担当としての気象関係は前回記した。この時の遊軍としてかかわったのは年間連載企画「人間形成 ある仲間」(週1回1頁、黒崎静夫さんと一緒の担当で、私は山形・最上川近くの農村青年たちの音楽グループ、築地魚河岸の早大出の仲買グループ「魚河岸稲門会」などを取材した)。さらに早大授業料値上げ反対闘争、初期のナリタ国際空港反対闘争(三里塚)そして連続して起きた航空機の大事故取材であった。
1966(昭和41)年2月4日、札幌雪祭りの団体客を乗せた全日空B727型機が羽田空港に着陸寸前、墜落した。閉鎖されて薄暗い空港内を息切らせて現場に走った。遺体の捜索が続いた。もちろん大勢の社会部員が随所で取材にあたった。乗客乗員133人全員死亡。

この事故からちょうど1か月後の3月4日、カナダ太平洋航空(CPAL)のDC8型機が着陸に失敗、防潮堤に激突、76人中64人が死亡。
その取材で羽田空港で夜を明かした翌3月5日、空港を離陸した英国航空(BOAC)のB707型機が富士山付近で墜落したとの情報が入った。デスクから写真部とともに社機で富士山付近の上空に飛び、現場を確認せよとの命令。『金星号』で出ようとすると、いや、待て、東京湾との説もある、とデスク。情報の混乱は無理もない、CPALの捜索に当たっていた海上保安庁の大型ヘリが墜落したのである。再度の出動命令。『金星号』には機長操縦士、整備士、写真部員と私の4人。窓外に目を凝らし富士山に向かった。
富士の頂上あたりから旋回し下方に機首を向け煙らしきものを発見したとたん、『金星号』はグラッと揺れ、ドアがわずかに開いた。乱気流に巻き込まれたのである。死ぬ、と思った。ドア側の席にいた私が機内の太い針金だったかを体に巻き付け、写真部員がそれを引っ張る。凍傷を防ぐためレインコートを手に巻き付け隙間からドアを引っ張ったが、隙間は縮まらない。(ねじれていたのである。)

「金星号」=写真=は両翼を揺らし、機首をアップダウンさせながら、それでもなお飛行を続けている。首筋に冷や汗を垂らして操縦士も整備士も一言も発しない。海の方に向かっているように思えた。最終場面を海上にしようとしているのだろうか、海なら助かるのか。やがて東京が見え、後楽園の緑が見え、羽田空港が視界に入った。よくは覚えていないが、空港では一時、空港閉鎖し、着陸許可を出したようである。恐ろしい経験だった。操縦士の冷静沈着に感謝しかなかった。乱気流に巻き込まれた際、機体各所のネジがゆるみ修理には相当時間がかかったという。
英国航空機はやはり富士山ろくに墜落していて、乗客乗員124人全員死亡。富士山特有の乱気流が原因と推定された。海上保安庁機は2人死亡1人行方不明(その時点)。
多くの取材者全員が身の危険に
私は自分が危ない目にあったことを体験として長々と記したが、この連続航空機事故の取材は社会部員、写真部員、千葉や横浜、川崎支局員にとって、やはり身の危険を顧みずの取材であったことを強調しておきたい。
社会部や支局は東京湾岸の釣り船を借りて海上捜索の取材をした。時に北西の風が強まる2月、3月初め、寒さと白波の立つ荒波のなかである。私たちの取材は危険と背中合わせのことがしばしばあった。のちの大学闘争、新宿の騒乱罪適用事件など都心でも激しい投石、ゲバ棒、火炎ビンの中での取材となった。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その21(前編) 谷中の清水と鶯の初音(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
上野動物園西側の崖下に沿って都立上野高校に通じる急坂がある。これを清水坂という。現地説明板にはこう書かれている。
「坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。」
『江戸切絵図』「東都下谷絵図」(尾張屋板、1851・嘉永4年)をみると、寛永寺の清水門は、清水坂上にある護国院(上野公園10-18)の北側に記されている。その西側は「松平伊豆守」(三河吉田藩下屋敷)になっているが、上記の説明によれば、この下屋敷の護国院に近い一画が谷中の清水谷と呼ばれていたことになる。
『江戸名所記』は、この清水谷にあった清水の井戸の由来をこう伝えている。
むかし、弘法大師が廻国修行の途中、谷中通りに差しかかると、一人の嫗に行き合った。嫗は水おけを頭にいただき、遠くから水を汲んで運んでいるところだった。大師がその水を乞うと、嫗はいたわしく思い、水を分け与えた。
嫗がいうには、このところには水がない。自分は年をとり、遠くまで水汲みに出かけるのはたいへん苦しい。また年ごろ病を患い臥せっている子どもがいる。嫗が養っているが、暮らしはともしい。
そこで、大師が独鈷で地を掘ると、たちまちに清水が湧き出た。その味わいは甘露のごとく、夏は冷ややかで冬は温かく、いかなる炎天にも枯れることがなかった。そして大師は自ら稲荷明神を勧請された。
嫗の子どもをこの水で洗うと、病は速やかに癒えた。それ以来、この水で洗えば諸々の病も癒えずということがなかった。後に人家が建ちならぶようになると、この一帯を清水町と呼びようになった、というのである。
1680(延宝8)年の『江戸方角安見図鑑』「丗一 東叡山寛永寺」をみると、上野寛永寺から谷中感応寺に通じる「谷中みち」(谷中道)がある。これが『江戸名所記』のいう谷中通りとみられる。
この絵図を現在地図に重ね合わせると、谷中道は上野公園(旧寛永寺)西側の縁に沿って、谷中天王寺に至る都道452号(神田白山線)にほぼ該当することが分かる。
清水坂を上ると護国院で、隣接して東京芸術大学がある。そこに都道452号との交差点がある。これを左折し北側に歩いて行くと、言問通りに行き当たる。交差点の右側に旧吉田屋酒店(上野桜木2丁目)がある。さらにまっすぐ歩くと谷中墓地入口に至る。ここで道は分岐する。右側は天王寺(感応寺)の参道である。左側が都道452号で、これをそのままたどると、三崎坂をへて、千駄木の団子坂に出る。
この「谷中みち」を逆に南側へ向かうと、上野山内と「松平イヅ」(三河吉田藩下屋敷)の間に、「志ミづ丁ノあと」(清水町の跡)と記された「あき地」(明地)がある。そのすぐ傍に「イナリ」がある。これが清水稲荷明神で、弘法大師にちなむ清水の井戸はそこにあったとみられる。
この清水町がなくなったのは、1661(寛文元)年に、この場所が上野東照宮の火除地となり、本所(現墨田区石原4丁目・亀沢4丁目付近)に町ぐるみ移転させられたからである。『江戸方角安見図鑑』に記された「志ミづ丁ノあと」の「あき地」というのは、この上野東照宮の火除地を指すものとみられる。
三河吉田藩下屋敷は明治維新に新政府に収公されたあと、1872(明治5)年、その跡地一帯に谷中清水町が起立された。町名は弘法大師の清水の井戸に因むとされるが、町域はかつての清水町よりもはるかに広く、現在の池之端3、4丁目にほぼ相当する。(略)
谷中清水町(旧三河吉田藩下屋敷)は上野山内から西側に下る傾斜地になっていて、その西端の低地を北西から南西へ藍染川が流れて不忍池に注いでいた。(略)根津にもやはり清水谷があった。根津の清水谷が向丘の崖下であるのにたいして、谷中の清水谷は忍が丘(上野)の崖下ということになる。

三遊亭円朝の『牡丹灯籠』では、根津の清水谷を上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」というふうに描写しているが、このせせらぎは藍染川に通じていた。それと同じように、谷中にあった弘法大師の井戸からあふれた水も、周りの湧き水や下水(したみず)を集めながら、藍染川に合流していたに違いないと想像される。
折口信夫(釈迢空)は近代を代表する歌人の一人で、柳田国男とならぶ民俗学の先駆者であるが、関東大震災(1923・大正12年)のころ、谷中清水町に住んでいたことがあった。その折口の「東京詠物集」(『春のことぶれ』所収)に、次のような「根津」と題した短歌がある。
道なかに、瀬をなし流れ行く水の
さゝ波清き
砂のうへかも
「東京詠物集」は、大震災で壊滅的な災害を被った東京が、未だ復興の道なかばで苦悶する姿を点描した短歌集で、初出は、1926(大正15)6月から翌1927(昭和2)年6月までの『日光』(短歌雑誌)である。
根津のあたりで「瀬をなし流れ行く水」といえば藍染川の外に考えられない。字面をそのままなぞると、うっかり見逃しかねないところだが、この歌を詠んだころに、藍染川がさゝ波立て、清く流れていたとは考えにくい。
藍染川の暗渠化については、連載その12でも取り上げている。東京市が谷中・根津・千駄木地区の藍染川を暗渠化する工事計画を立てたのは1913(大正2)年である。工事の目的の一つは、藍染川による氾濫対策だった。
タウン誌『谷中・根津・千駄木』第3号は「藍染川すとりーと・らいふ」と題して、藍染川の特集を組んでいるが、そのなかで、官庁に町ぐるみの請願を行ない、1918(大正7)年から排水工事を始めて、千駄木地区は1920年10月に暗渠化された、という住民の証言を載せている。
それにたいして、『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(編著・鈴木理生)は、藍染川(谷田川)は関東大震災後に暗渠化されたとも、不忍池に注いでいた流れを変更し、荒川に放水する下水道が昭和初期には開削されたとも書いている。
埋立工事の完了年次について、双方の記述に4年か5年の差があるのが気にならないわけではない。しかし、仮に後者の鈴木理生説に従うにしても、折口信夫が「根津」の歌を詠んだ大正末から昭和初年には、藍染川が「さゝ波清き」状態で流れる景観はとっくに消失していたか、そうでなくとも風前の灯の状態になっていたのではないだろうか。
最初の「道なかに」の後に読点がある。歌に句読点を用いるのは折口独特の表記法である。歌の流れに転調があることを読点で喚起しているのである。どういうことかといえば、「道なかに」は眼の前にある実景である。しかし、読点以下は、折口の心に浮かんだ過去の幻影に違いないのである。折口の脳裏に刻まれた忘れがたい憧憬といってもいいかも知れない。末尾の「かも」が詠嘆であるのはいうまでもない。埋め立てられ道路に変貌した藍染川をみて、折口は嘆き愁いているのである。この歌は失われた藍染川を追悼する挽歌ということになる。
同じ「東京詠物集」に「増上寺山門」と題した二首がある。
仰ぎつゝ
都ほろびし年を 思ふ。
このしき石に、涙おとしつ
国びとの
心さぶる世に値ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ
「都ほろびし」というのは1923(大正12)年の関東大震災のことである。それより3年か4年後に、折口は増上寺を訪れることがあった。山門を仰ぎながら、そのときの禍々しい出来事を思い出したのである。
大震災の翌々日の9月3日、折口は1921(大正10)年に次ぐ沖縄および先島諸島への民俗探訪の旅行を終え、船で横浜港に着いた。その翌日、歩いて谷中清水町の自宅に帰るのだが、その途中、増上寺の山門あたりで、刀を抜きそばめた自警団にとり囲まれた。不逞朝鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をするという流言が広まっていた。
折口は40日あまりの長旅のくたびれた風体から朝鮮人と疑われたのである。「心(ウラ)さぶる世に値(ア)ひし」とはその出来事を指す。折口は『自歌自註』(1953年)のなかで、こう書いている。「(自警団の)その表情を忘れない」、「平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があるとあんなにすさみ切つてしまふ」。
それよりこのかた、「顔よき子らも、頼まずなりぬ」というのである。頼むとは、信頼するの意味である。同じことを『自歌自註』では、「此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた」とも書いている。
谷中清水町の地名由来となる弘法清水の伝承については、これとよく似た説話が各地に散在する。もちろん作り話に違いない。この伝承で重要であると思われるのは、嫗が廻国の修行僧を最初から弘法大師と見抜いていたわけでない点にある。嫗は他国からたまたま訪れた正体不明のみすぼらしい僧侶を下にも置かないもてなしをしている。そこには旅する者は神や仏の身をやつした姿であるとする古代から連綿と続く庶民信仰の伝統が息づいていたように思われる。(以下略)
2022年7月14日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(6)」
1965年2月、日韓基本条約仮調印、6月本調印。ヴェトナムに沖縄から爆撃機B52発進。これに反対する激しいデモ取材に明け暮れしたあとに、5年ほど住みついた?警視庁担当から遊軍に移った。
それ以前のことになるが、63年に大阪社会部長の稲野治兵衛さんが東京社会部長になって、稲野部長は大阪社会部から寸田政明さんを東京社会部に呼んだ。寸田さんは警視庁七社会に在籍し捜査4課(暴力団ウオッチ)を担当した。暴力団にめっぽう詳しい記者で、私はたくさんの関西暴力団の写真を見せてもらい驚いた。酒が強く、コップ酒をぐいっとあおって警視庁食堂から取り寄せた夕飯を食べ、夜回りに出て行った。
*社会部は取材チームを組んで「組織暴力の実態」を連載。反響大きく、稲野部長、佐々木武惟副部長、道村博、寸田政明、吉野正弘、山崎宗次の6人に社長賞、そして新聞協会賞を受賞した。
遊軍兼気象庁担当・台風と噴火の恐怖と地震と
1965(昭和40)年後半、遊軍兼気象庁担当になった。お天気相談所であれこれ気象の話を聞くのは楽しかった。気象関係の書物を繰り返し読んだ。当時のことを記しておきたい。
予報官も台風の進路予想を出すのはなかなか困難な作業で担当記者まで心を悩ました。大きな台風が接近しそうだと社会部と地方部、写真部は1日ぐらい前から、上陸が予想される地点、例えば伊豆半島とか房総半島のしかるべき地点に取材者を派遣し、待機した。今日ほど予報官から発表などない。まして、いまTVで見るようなコンピューター予報などは。だから、社に上陸地点の予想を伝えるのには神経を使った。房総の突端に配置したのに進路がずっと南や北だと、まるで自分の責任のような気がした。
1965年11月、東京から南へ600キロ、鳥島が爆発噴火の恐れが出た。沖縄も小笠原もアメリカの施政権下だったから、鳥島は日本の最南端。島には気象庁気象観測員と避難小屋建設の作業員あわせて52人が滞在していた。この人たちを救わねばならない。横浜から島に向かう海上保安庁の「のじま」に乗船せよとのデスクの命令。急遽、写真部とハンディトーキーを持って横浜港に行き乗船。出港に間に合った社の記者たちも一緒である。記者のほとんどはひどく船酔いしたが、朝日の写真部員と私はそれほどでもなかった。暗くなり始めたころ、「のじま」は島から500メートルほどのところに停船した。
乗船していた気象庁の諏訪彰火山課長が状況説明。「これ以上、船を島に近づけることはできない。暗い海に艀は出せない。もし島が爆発噴火すればこの船はやられてしまう。しかし、これ以上島から離れることはできない。離れたら島にいる観測員たちが自分たちは見捨てられたという不安と恐怖にさいなまれるだろう。みなさんも覚悟してもらいたい」。島の海岸線に信号の焚火がかすかに見えた。記憶の底にこびりついている一昼夜である。

まんじりともせず夜が明けると気象庁の観測船「凌風丸」が到着し「のじま」に接近、記者たちは縄梯子を伝って「凌風丸」に乗り移った。艀が何度も往復して52人を救出した。
帰りはかなりの雨。船のマストにアンテナを縛り付け、ハンディトーキーで原稿を送ろうとするが、なかなかうまくいかない。船のファクスを借りての簡単なプール原稿だけ。船を降りても会社に帰りたくない気分で、自分への責めが残った。島は爆発を免れた。一連のこの動きは、やがて新田次郎が小説『火の島』にした。
支局にどんと大型編集車
1966(昭和41)年春、長野県松代(現長野市)群発地震の応援取材で米山貢司さんと長野支局へ。ドーンと下から突き上げる気持ちの悪い地震だった。写真部員は風呂に入る時もカメラを出入り口に置いて瞬時に備えていた。社会部デスクだった末安輝雄さんが支局長で、支局にはやがて社会部員となる越後喜一郎、大島幸夫、堀一郎、堤哲、長崎和夫(のち政治部)君がいた。長崎君は市街地外れの皆神山のだったか、地震の地滑りに乗り、そのルポが社会面トップに。
気象庁は大型地震になる心配をしていた。それに備え東京から大型編集車が来て支局に横づけした。さいわい地震はその後、沈静化した。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月11日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(5)」
国鉄大事故続き、そして東京オリンピック

警視庁捜査1課担当当時、1962(昭和37)年5月3日夜、国鉄常磐線の東京三河島で列車事故、死者160人。夜回りの途中、現場に向かった。真っ暗な中に死体、死体。この事故に警視庁は捜査本部を設置、1課第2係が捜査にあたった。原因究明には時間がかかった。夜回りの取材には列車のブレーキの構造、運転台のことなどを知らなければ話が聞けず、勉強に苦労した。
この大事故で重傷を負った乗客に大島幸夫という青年がいて、病床で毎日新聞社会部記者の取材を受ける。大島青年は大会社に就職していたが、この取材がきっかけで毎日新聞入社試験を受けて合格。長野支局から社会部へ。大島君への取材者は中野謙二さんだったという。中野さんはのち外信部へ。

翌1963年11月9日真昼、国鉄東海道線・川崎の鶴見でまた大列車事故。死者161人。私はそのとき、右翼の大物田中清玄が東京会館正面でピストル3発撃たれて重傷を負った現場にいたが、デスクの指示で直ちに鶴見に向かった。見分けがつかぬ血塗られた死者のかたまり。すさまじい現場だった。(この夜、九州の三池炭鉱で爆発、死者458人)
航空機事故そして伊豆大島大火
同年8月17日、伊豆諸島の八丈島空港を発った藤田航空4発プロペラ機(乗員3、乗客16人)が消息を絶ち、21日、八丈富士の中腹に墜落が判明。写真部員と社機で八丈島へ。
1965年1月11日、伊豆大島の中心地、元町で火災発生。警視庁で泊り明けだったが、警視庁にはだれか出すからすぐに羽田にとのデスクの命令。藤野好太朗キャップや写真部員と社機で大島空港に向かった。567戸を焼いた「大島大火」である。
東京オリンピックと亡命
1964(昭和39)年10月10日朝。前夜の激しい雨がぴたりとやんで快晴。私は警視庁公安部、警備部担当だった。世界は東西対立、自由圏と共産圏の対立が際立っていた時代だったから、オリンピックを機に選手役員、観客からの亡命者が出ると警戒、公安部は神経をとがらせていた。昼は警備、交通、夜は亡命警戒の夜回りの日々である。
朝日新聞に抜かれた。何とか抜き返そうと懸命だった。警視庁に保護を願い出た外国人がいることをキャッチ、しかもアジアの選手らしい。調べつくし、夜遅く、外事2課の幹部宅に確認に行ったが、黙したまま。もう寝るという。首の動き、表情を読んで大丈夫だと判断、原稿を送った。1面左に大きく載って選手の亡命を抜き返すことができた。亡命事件は全部で7件も起きた。
日本共産党の分裂
警視庁公安部公安1課は日本共産党の動向をマークしている(当時。現在は公安総務課)。日共の党本部は、部分核停条約の評価をめぐり、国会で条約に賛成した志賀義雄(衆)鈴木市蔵(参)を除名、さらに神山茂夫、中野重治、佐多稲子らを除名。党書記長宮本顕治らとの対立が激しくなった。ソ連共産党と中国共産党の対立、日共の中共批判公然化。共産主義は国際的に多様な局面にあった。
日本共産党は一層分裂を重ね始めた。日曜日の朝、谷畑良三デスクから電話があった。あの件もう少し掘ってみてくれという。家に社の車が来た。新しい主張をしようとしている人たちを訪ね歩いた。共産党を除名された内藤知周のところで長時間話しているうち、自分たちの主張、方針などをまとめた文書を見せてくれた。夕方、社会部に電話、谷畑デスクに取材結果を報告すると、それで十分だ、上がって原稿に、という。
原稿を書き始めると、12版から入れようとしたのだろう、谷畑デスクは本番デスクの了解をとって、1枚ずつひったくるようにして目を通し、整理部に渡していった。前日午後からのデスク勤務だったのに1日中待って原稿を見てくれたのであった。谷畑デスクはモスクワ特派員から社会部デスクになった人だから、共産党の国内外の事情に関し第一人者である。翌日、公安1課を回っていたら、「きのうはご苦労さんだったねえ」 ? みんな見張られていたのであろう。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月7日
森浩一・元社会部長の「東京社会部、記憶の底から(4)」
警視庁「七社会」へ、捜査1課担当

サツ回りの1年が過ぎて私は1961年(昭和36)年、遊軍となった。ほどなくして部長に呼ばれた。「警視庁に応援に行ってくれ」。捜査1課担当の山崎宗次さんが短期間入院するためで、すぐ遊軍に戻るのだと思っていた。山崎さんは元気で退院したが、キャップからは一言もない。ついに警視庁に居ついて約5年、牧内節男、藤野好太朗、道村博の3代のキャップの下で鍛えられた。当初のメンバーは記憶の底にこびりついている。
キャップ牧内さん。刑事部捜査1、3課、鑑識課担当が道村博、山崎、森。2、4課担当は石谷龍生,新実慎八。公安、警備両部が高井磊壮、白木東洋。防犯部が開眞。交通部は高橋正賢。すごい先輩ばかり。多くを教わった。開さんと白木さんは紛らわしいのでオープンさん、ホワイトさんとも呼ばれていた。
捜査1課の第1係(殺人捜査)は1号から6号までの6班が小部屋(捜査員の部屋、デカ部屋)に分かれ、1部屋に10人ぐらいの刑事がいた。事件発生に待機している部屋もあれば、捜査終了後の諸整理をしている部屋もあった。はじめのうち、このデカ部屋に入るのには相当な勇気が要った。腹を決めて、恐る恐る入った。顔と名前を覚えてもらわないことには、こっちは仕事にならない。
鑑識の神様からの教訓
それに比べると鑑識課は大きな部屋で、あまり抵抗感なく出入りできた。鑑識課は現場から得た資料の分析等捜査の基本となる事項を扱うから面白いところでもあった。
鑑識課に岩田政義さんという係長がいて、のちに鑑識課長になり、鑑識の神様と言われた人である。岩田さんの席に行っても何も言わない。1か月以上たっていたろうか。「もういいだろう。アッハッハア……」と高笑いした。解禁というわけだ。どうも、牧内キャップと岩田さんが組んで私を鍛えたらしい。夜回りでお宅にも行ったが、岩田さんはある時「現場百ペン意おのずから通ず」とおっしゃった。またある時、「モノからモノを聞け」とも。事件取材ばかりではない、以後に生きる言葉を私はもらったのである。自分の手帳に「鉄の忍耐、石の頑張り」(ゲーテ)を記していた私は、岩田さんの言葉を書き加えた。
忘れられぬ事件次々
1、3課担当として取り組んだ事件は、捜査本部事件だけでも相当な数になる。時代の諸相を浮かび上がらせるような主な事件3件だけをしるす。
*吉展ちゃん身代金要求誘拐殺人事件。1963年3月、東京・入谷で村越吉展ちゃん(4)が自宅近くで誘拐され、身代金が要求された(5月、東京に隣接の埼玉・狭山で女高生誘拐殺人事件が起きた)。吉展ちゃん事件は2年余経って容疑者が逮捕され、入谷の墓地で吉展ちゃんは白骨体で発見された。参院選開票が始まっている中で早版から突っ込んだ。犯人逮捕までわたしたち捜査1課担当者も代替わりするほど捜査は長引き、厳しい取材だった。65年7月、取材担当6人(道村、山崎、堀越章、森、原田三朗、小石勝俊)に編集主幹賞が出た。「第一報から終始他紙を圧倒、事件急転解決に際しては速報、内容ともに輝かしい成果を挙げ」と表彰状に。
*ニセ千円札「チー37号」事件(1962年)。「チ」は千円札の千、37は昭和37年の37。偽札製造は国家に対する反逆罪。日銀秋田支店で発見され、以来関東を中心に280枚見つかった。米山貢司さんと取材にあたったが、米山さんの取材にかける執念に頭がさがった。取材は捜査3課や鑑識課と神経戦の様相。1973(昭和48)年11月、犯人未検挙のまま時効成立。
*爆発狂「草加次郎」事件(1963年)。上野署に「草加次郎」名で手製のピストル弾が郵送され、島倉千代子、吉永小百合、東横百貨店などに脅迫状が送られた。地下鉄銀座線電車内では爆発し10人重軽傷。騒ぎが拡大。未解決。
(社会部OB 森 浩一)
2022年7月4日
福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ③活版配属後の日々
1957年4月に毎日新聞に入社した直後の5月25日、すぐ前に読売会館が完成して、大阪のデパート「そごう」が開店しました。入口のエアカーテンとかX字状に交差する上り下りのエスカレーターなどが話題に。この年、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしました。
ネットで「有楽町すし屋横丁」と検索したら「三友」が写っている写真が出てきました。当時の給料日は10日と25日。10日は基準外賃金のみ。給料日の夕方になると、3階の活版場入口には、つけ取りのねえちゃんやおばちゃんがウロウロしていました。


「週6日・10時間労働」でも楽しかった
活版の新米の仕事は小刷から始まります。文選やモノタイプからくる1段組の小ゲラや、植字からくるハコ組などを印刷して原稿と一緒に校閲へ気送管で送り、ゲラは政治面、社会面、地方版などの大組台まで配達するのが仕事。大刷は組版途中でぬれ紙をとったり、組みあがった1ページの紙面を大刷機で印刷する仕事。

表は、入社約2年後、58年入社の坂戸悦偉君らが来て、私たち6人は1年先輩の滝沢直幸、林武雄さんの2人の8人で大刷担当となった時の勤務表です。何と毎日2時間の残業が組み込まれた10時間労働で6日勤務。休日はずれているので、みんなが一斉に休めるのは休刊日(元旦と春秋彼岸の年3日)だけでした。それでも、今振り返ってみて、仕事が辛くて辞めようなんて考えたことはなかったように思います。
当時の雇用関係は、現在のような非正規社員(いやな言葉です。人間に正規・非正規なんてあるんでしょうか)はいませんでした。養成員として定期採用された私たちも、途中入社の人もユニオンショップですので、みんな社員=組合員となり、健康保険・厚生年金・雇用保険とも法律通りの運用がされていました。いつクビを切られるかという不安はありませんでした。
小刷、大刷を経て、組版課・植字に配属になったのは、1959年入社組が小刷に配属された同年7月ころでした。そして1961年5月に活版選出の青年部委員になり、以後、代表委員はじめ本部役員を経験しましたが、所属はCTS制作に移行するまで、組版課・植字、つまり活版植字工でした。
ここから先は長くなりますので、入社から小刷・大刷時代の写真を紹介します。




(福島 清・つづく)
2022年7月4日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(3)」
マンモス交番襲撃
池田内閣が発足し、『安保』が沈静化して世の中は普通の日常に戻り、季節は夏の盛りだった。1960(昭和35)年7月末。突然、東京浅草の山谷ドヤ街で暴動が起きた。いまはドヤ街という言葉を使うかどうか知らないが、ドヤは簡易宿泊所のことである。寝泊まりしている人は日雇い労働者が多く、手配師が仕事を割り振っていた。一種、闇の世界であった。その街に3階建てのマンモス交番ができた。交番と言っても並みの交番ではない。警察官が40人ぐらい配属されていた。
警察官がある日、窃盗少年と酔っぱらいをマンモス交番に連行した。するとドヤの住人が騒ぎ出し、ついに不穏な群衆と化して、新設なった大交番を襲撃した。警察官多数が重軽傷。騒ぎはますます大きくなった。仕事にあぶれると昼間から酒をあおっていた者もあり、大変な事態。連日2000人以上、3000人と膨れ上がり、投石、放火である。機動隊が出動して鎮圧に努めたが、騒ぎは8月まで続いた。

戦後社会が15年たち、復興期で建設業などが活発化、人手需要が増して、山谷の街にも人が集まっていた。社会の貧困層に漠然としたやり場のない不満、不安がよどみ、溜まっていたと思う。経済の高度成長への助走期に起きた社会現象ではなかったか。
浅草山谷の簡易宿泊所はいまや外国人旅行者が利用する宿泊施設となっているという。隔世の感である。
上野動物園
夕刊に彩が欲しいときなどデスクから「動物園に」と電話が来る。暑い夏など写真部員はペンギンにレンズを向ける。こちらは「ペンギンも暑いでしょうね」などと月並みなことを飼育係に聞くと「ペンギンに聞いてみな」。返事はそれだけである。女性の飼育係が1人いた。何を聞いても黙々と仕事をしていた。
警察署もそうだが、動物園にもどこにもいまのような『広報』というものはなかった。それだけに、それによって取材者は個々人それぞれに鍛えられた面があったと思う。
新聞カメラマンのステータスシンボル「スピグラ」
当時、毎日新聞は毎週1頁をさいて『日本の鉄道』を連載していた。サツ回りの私にもその出張取材が回ってきた。連載を取り仕切っていた遊軍の山口清二さんが「青梅線に行ってもらう」と。ちょっと拍子抜けした記憶がある。
米軍横田基地を抱える立川、福生にかけては、まさにアメリカ軍の基地の町。ここでは基地の飛行場拡張測量で砂川地区の農民と応援の学生が機動隊と激しくもみあった。この砂川事件はのちに日米安保行政協定の合憲性をめぐる問題として最高裁まで争われた。
立川駅を発った電車からは広大な基地が眺め渡せた。
青梅駅を過ぎて電車が山間部に入る。写真は山から線路も入れて撮ることになった。写真機は大きなスピグラ。それが確か2台と脚立などの機材。それを分け持って中腹まで登った。

当時、写真部はもっぱらスピグラ=写真・右=だった。
大きなスピグラを持って大変だったと思うが、このカメラはもっぱら新聞カメラマンが使い、そのステータスシンボルでもあったらしい。戦後、アメリカ軍が大量に持ち込んだカメラだそうだが、東京オリンピックごろ急に使われなくなったという。事件現場の取材で、スピグラを竹竿の先に縛り付けて掲げ、非常線の外側から撮影した写真部員がいて、驚いたことがあった。取材にかける意気込みはすごかった。
奥多摩では、蕎麦に清流に育ったワサビ。久々に奥多摩の味覚を味わった。
(社会部OB 森 浩一)
2022年6月30日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(2)」
サツ回り仕事始め 安保闘争ピークに
秋田支局から社会部に転勤になったのが1960(昭和35)年5月1日。サツ回りで近藤健さんと私の持ち場は、上野署に取材拠点を置く警視庁第6方面本部(上野、浅草、蔵前、下谷、荒川、尾久、南千住警察署)だった。まことに風流な地域ではあるが、「花の雲鐘は上野か浅草か」(芭蕉)などと面白がっているどころではない。東京は騒然としていた。
*雅樹ちゃん誘拐殺人事件。―――銀座の天地堂カバン店社長の長男、慶応幼稚舎2年生の雅樹ちゃんが学校に行く途中に誘拐され行方不明になって、犯人から身代金を要求されていた。
*国会は安保阻止国民会議などの10万人デモに取り囲まれていた。
*文京区では女子高校生が通り魔に刺殺された。新宿や板橋などあちこちで若い女性が狙われる事件が起きた。
国会へ国会へと
サツ回りは持ち場を離れて連日のように国会周辺のデモ取材に動員された。
国会請願のデモは全国各地からやってきていた。

新宿から、渋谷から池袋からとデモ隊が途切れることなく国会へ国会へと向かつた。「安保 反対!」のプラカードとシュプレヒコール。国会、首相官邸、アメリカ大使館周辺はデモ隊で埋め尽くされた。学生、労働者、いわゆる文化人たち、演劇人は首にすてきなスカーフを巻いていた。学者たちの姿も目立った。1年余前まで教えを乞うていたあの物静かな教授がデモの中にいた。各大学では教授陣の安保研究集会や抗議集会がもたれ声明が出た。デモの波は国会周辺から日比谷、新橋、有楽町方面へと流れていった。銀座では道路いっぱいのフランスデモ。
街角の赤電話を見つけてはメモ帳片手に小刻みに原稿を送った。原稿というより状況報告みたいなものだった気がする。

国会請願のデモは6月に入ると過激化。「安保 粉砕!」。「反対」は「粉砕」に変わり、ストライキで電車は止まり、郵便や通信にも支障が出た。商店は「閉店スト」。
6月15日、全学連が国会内に南通用門から突入した。私は国会内のその現場にはいなかったが全学連と機動隊の衝突で東大生樺美智子さん(写真・右)が死んだ。新聞は岸首相退陣を要求した。毎日新聞はじめ在京新聞七社が「暴力を排し議会主義を守れ」との共同宣言を出した。
この連日の安保闘争を報じる毎日新聞は学生たちの間で特に注目されたとのちに聞いた。
初の女性大臣誕生
7月に入って岸首相が右翼に尻を刺される事件まで起き、その後、岸首相が退陣。池田内閣が発足。その7月19日、私は当直で夕方から社に上がっていた。「森君、中山マサが厚生大臣で入閣するらしい、追ってくれ」とデスク。行く先々で「さっきまでおられたが……」である。やっと会えたけれど、だいぶ時間がたっている。叱られるだろうと思いつつ電話送稿。社会部に戻るとデスクがニヤリとした。『なんといっていいかうれしくて、女であることの幸福を感じています』。原稿のこの部分がデスクは気に入ったらしく、ほっとした。初の女性大臣誕生であった。
池田首相は所得倍増計画を発表、これが経済の高度成長、人口の都市集中、その対策としての郊外巨大住宅団地の建設と、世の中は大きく舵を切ってゆく。東北各地からの中学卒の集団就職が続き、彼ら彼女らは「金の卵」と呼ばれた。「あゝ上野駅」の歌ができ、その碑が上野駅東口に立った。「配達帰りの自転車を とめて聞いてる国なまり」。故郷を懐かしみ上野駅に国訛りを聞きに行くのである。近年、映画「三丁目の夕日」「続三丁目の夕日」が、よくその時代の情景、雰囲気を伝えていた。
7月末、持ち場の浅草・山谷で衝撃的な事件が起きた。
(社会部OB 森 浩一)
2022年6月28日
岸井成格さんの父・寿郎さんの追悼・遺稿集を小野喬啓さんがPDFに
=大阪毎友会ホームページから
※全文、PDFは大阪毎友会のホームページをご覧ください
http://maiyukai.o.oo7.jp/
2021年、5月~7月にかけて東京毎友会のホームページで、福島清さん(元毎日新聞労組本部書記長、その後制作局次長)が随筆「岸井成格さんの父・寿郎さん」を①〜⑩回に分けて連載されていた。
内容は30年前(1990年頃の制作局次長時代)に岸井成格さんが福島清さんの職場に来られて「親父は昔、東京日日新聞の印刷部長だった。参考になるかも知れないからと言って、追悼・遺稿集「岸井寿郎」(きしい・としろう)をくださいました。友人たち14人の追悼の言葉に加えて、慶子夫人の36ページもの「夫を偲んで」、そして遺稿4編などが掲載されていますと紹介されていた。

また、福島清さんの随筆によりますと「大正から昭和の激動の時代に立ち向かった寿郎さんの姿勢は、岸井成格さんに受け継がれていると同時に今の社会に対する警鐘のよう思います」とありました。
岸井寿郎さんは私の故郷・香川県観音寺市の出身で、母校(香川県立観音寺第一高等学校、旧制三豊中学)の大先輩にあたることから、福島清さんが随筆で紹介された記事を、大いに関心をもって読ませて頂いた。
その後、岸井寿郎さんの追悼集の話を、岸井家の子孫で故郷にある岸井家ご先祖様の墓守をしている同窓生・岸井清純君に、その追悼・遺稿集の話をしたら、その本なら我が家にもあるよとの話になった。
そこで、その本を借りて読ませて頂きましたが、30数年前の本ですのでかなり色褪せており、縦書き活字も小さく読みづらかった。そこで、全頁をパソコンに接続しているスキャナーで画像として織り込み、OCRソフトを使って電子ファイル化しました。また、パソコンやスマホでも読み易いように横書きに変換しましたので、全頁をPDFで紹介させて頂きます。
岸井寿郎さんの略歴は、遺稿集の末尾に簡単に記載されておりますが、追悼文に書かれていることや、地元の旧常盤村常盤誌、Web情報などによりまとめました。
岸井寿郎(きしいとしろう。故郷では「じゅうろう」さん、と呼ばれていたようです)は1891年(明治24年)5月28日、香川県豊田郡常磐村(現観音寺市村黒町)で藍玉製造業と全国に販売をしていた豪商家に生まれ。香川県立三豊中学(現観音寺第一高等学校)、第三高等学校(京都)を経て、1917年東京帝国大学法学部英法科卒、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞に入社して、東京日日新聞社(当時大阪毎日新聞社社長・本山彦一が社長)に勤務。1930年政治部長兼印刷部長を務めた後、1937年退社して実業界へ。1942年香川2区から衆議院議員となり、1945年12月まで一期を務める。以後再び実業界へ。戦後は日本デリス社長、協和鉱業社長、中央広告通信会長を歴任。1970(昭和45年)年10月1日、79歳で永眠。
先妻が病死後、再々婚された慶子夫人との間には成格さん(三男)と巍次さん(四男)の二人の息子さんに恵まれた。岸井成格さんは平成21年発行の観音寺第一高等学校東京支部同窓会誌「燧34号」の特別企画の鼎談に父の名代として出席されている。
1932年(昭和7年)4月19日から5月10日かけて大阪毎日新聞と東京日日新聞に『連盟を脱退すべし』を連載し国際連盟の無益有害なることを強調し「世界は今渦の如くわき立っている、国内的に、国際的に、目まぐるしく流転を始めている日本」と二本の論文を発表されたとある。



毎日新聞社在歴19年であったにもかかわらず、在任中に社命を受けて洋行する際、本山彦一社長自ら横浜の港まで見送りに来ていただいたことなどが記されている。また、亡くなった昭和45年には、当時の毎日新聞社の田中香苗社長が葬儀委員長となり、故人をお見送りされた他、追悼文を寄稿されるなど破格の扱いを受けていたことが記されている。
その他、毎日新聞社社史には記述の無い事柄も沢山掲載されている。
(元大阪本社制作局 通信システム部 小野喬啓)
<参 考>
平成24年に同窓生の岸井清純君から手紙を預かって、岸井成格さんに届けたところ、岸井成格さんから丁重な葉書を頂いた。


2022年6月27日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から (1)」
はじめに、そして1960(昭和35)年

毎日新聞OB・OGの『毎友会ホームページ』制作や執筆に力を注いでいる社会部OBの天野勝文、堤 哲、高尾義彦の三君から私に東京社会部員としての個人史を書くようにとの要請が来ました。もうメモも残してないし物忘れがひどくなっています。難聴で電話での問い合わせもできません。とうてい無理なので私は固辞しました。けれども「1960年以降の社会部の生き証人だ」と言われて私は考え直しました。
『60年安保』(1960年の日米新安全保障条約締結)は、戦後社会の変革の一大契機であり、今日まで続く政治の姿の、経済発展の、大都市とりわけ東京圏への人口集中、人々の日常生活大変化のスタート台であったと思います。

すでに私も87歳、多くは忘却の彼方ですけれど、1960年代、70年代の激しく変貌する時代の風をもろに受けながら、昭和35年以降の東京社会部在籍20年余の一記者が経験した道を思い起こし、時代と東京社会部の断面を浮かび上がらせることができれば何かのお役に立つかもしれないと思いました。当今のデジタル化時代、新聞および新聞社はこれからどこに向かうのかを思いつつ。
****************
1960(昭和35)年5月1日、私は秋田支局から東京社会部へ異動。秋田駅から特急で12時間かけ上野駅に到着、山手線で有楽町駅へ。1年前、秋田に出発するころは、まだ街にフランク永井の「有楽町で逢いましょう」が流れていた。それを懐かしむ気持ちの余裕もなく駅を出て、毎日新聞社の貫禄十分の社屋(写真・上)をじっと見つめた。
その時の社会部長は杉浦克己さん。デスクは見谷博、柳本見一、桐山眞、三木正、森丘秀雄さんの5人。警視庁キャップが佐々木武惟さん、サツデスクは牧内節男さんと清水一郎さん。桜木谷範秀さんが部長席うしろのちょっと奥まった小部屋で事務を扱っていた。この大先輩の方々のことは目に浮かぶように覚えている。
泊りで社会部に上がった夕方、原稿を書いている女性記者がいてびっくりした。当時、女性の社会部員は古谷糸子、岡本初子、関千枝子のみなさん。在籍した増田れい子さんは「サンデー毎日」に移っていた。あの時代に、すごい会社だった。外信部にも女性記者がいるのが社会部の席から見えた。
サツ回りは14人、社会部1、2年生が警視庁各方面本部に2人ずつ。私は近藤健さんと上野・浅草・荒川の6方面担当になった。近藤さんは間もなく遊軍に、その後外信部へ。近藤さんのあとにずっと年上の岩本實さん。この年の秋ごろからだったと思う、地方部や支局からベテラン記者の社会部への異動が始まった。ベテランといえども社会部ではまずサツ回りからだった。
サツ回りには木曜会があって、毎週木曜日、夕刊が終わった午後3時、編集局の会議室に集まった。サツデスクからの指示などもがあったが、ざっくばらんな話をする会でもあった。お互いを知りあう良い機会だった。
サツ回りには夕刊の小さなコラム『赤でんわ』が課せられていた。赤電話は街のどこにでも設置されていた。通信連絡には極めて重要で便利な赤電話だった。コラム『赤でんわ』とはステキな名前だと思いつつ、これは街ダネを拾えということでもあるなあ、と思った。いい原稿だと先輩から褒められた。年末には『赤でんわワイド版』を書いた。
聞けば『赤でんわ』は1年前の1959年4月1日にスタートしたという。サツデスクが増田滋さんと牧内節男さんのときで、ネーミングはのちに防衛・航空記者になる鍛冶壮一さんだったらしい。増田さんは東京オリンピック前の60年ローマオリンピックに、そして牧内さんは東京オリンピック後の68年メキシコオリンピックに特派された。皇太子妃となる正田美智子さんの取材に深くかかわっていた清水さんが役目を終えて増田さんの後任だった。
さて、回顧にふけっている時ではない。私が東京社会部の一員となった1960年春の………世の中は騒然としていた。東京は恐ろしいところでもあった。
(社会部OB 森 浩一)
森 浩一さんは1959(昭和34)年4月東京本社入社、5月秋田支局 /1960(昭和35)年5月東京・社会部 (サツ回り、警視庁七社会、遊軍兼気象庁、都庁クラブ、2度目の遊軍、国会クラブ、3度目の遊軍、遊軍長、サブデスク)/1974(昭和49)年5月中部報道部副部長 /1976(昭和51)年3月東京社会部副部長兼警視庁キャップ、10月副部長専任 /1977(昭和52)年12月社会部長 /1982(昭和57)年9月学芸部長(新設の生活家庭部長兼務)のち編集局次長兼務 /1985(昭和60)年6月経営企画室長 /1988(昭和63)年6月から1991年6月まで東京・編集局長(89年6月取締役) /1991年6月出版・英文毎日・学生新聞担当/1992(平成4)年6月から1994年6月まで常務取締役 /同年6月スポーツニッポン東京本社社長 /2000(平成12)年6月スポニチ社長退任。
・森浩一さんが社会部に在籍した当時の社会部長は以下の通りです。
(頭の数字は在任順、敬称略)
26杉浦 克己 1958.8~ 27角田 明 1961.8~ 28稲野治兵衛 1963.8~
29森丘 秀雄 1966.8~ 30谷畑 良三 1968.8~ 31畑山 博 1971.2~
32佐々木武惟 1972.4~ 33竹内 善昭 1975.2~ 34牧内 節男 1976.3~
35石谷 龍生 1977.4~
※寄稿をお願いした経過を付記します。早稲田大学政治経済学術院、土屋礼子教授から昨年4月に「社会部経験者の聞き取り調査をしたい」との依頼があり、森浩一元社会部長をはじめ9人を推薦しました。その結果は今年3月に「個人史聞き取り調査」報告書として刊行され、毎友会ホームページで紹介しました。この過程で森浩一元社会部長の聞き取り調査が大学側の手違いで実現しなかったため、寄稿をお願いした次第です(事務局)。
2022年6月20日
泰さん、恒さん、三千麿さん…運動部記者と「記録の神様」山内以九士


《「記録の神様」山内以九士と野球の青春》(道和書院刊、定価2,000円)が出版された。著者は、孫の読売新聞記者・室靖治さん(54歳)。
山内以九士(1902~72)は慶應義塾野球部OBで、1985(昭和60)年に野球殿堂入りしているが、この本には毎日新聞運動部の記者がいっぱい出て来る。それを紹介したい。
「記録の神様」は、打率早見表をつくった。タイガー計算機を使って700打数300安打まで計算、351ページに、下4ケタの数字15万8500個を収めた。
『ベースボール・レディ・レコナー』。1954(昭和29)年7月刊行。自費出版である。
当時、ピッ・ポッ・パッで即座に打率が算出される計算機はなかった。
「新聞社運動部では神様からの贈り物のような貴重な本だった」と石川泰司(元東京本社運動部長→編集局次長。97年没69歳)。現物は日本体育大学図書館で見られる。
泰さんは、名文記者として知られた。英語をよくして外信部を志望していたが、初任地浦和支局から運動部へあげられた。
外信部の脇にあった外電のチェッカーから吐き出されるsports記事は、運動部に運ばれた。それを読んで原稿にするかの判断は、運動部の記者の仕事だった。英語遣いが必要な職場だった。
山内さんが打率早見表をつくるきっかけは、1939(昭和14)年のセンバツ(全国選抜中等学校野球大会)だった。
この大会は、東邦商(現東邦高)が5試合、73安打、59得点、チーム打率3割6分2厘という猛打で優勝した。山内さんは、大毎本紙の大会後記の最終回に「数字が語る東邦の威力」という見出しで「山内佐助」の署名で書いた。本名は「育二」だが、島根県松江市の呉服商の「7代目佐助」を継いでいたのだ。
その大会期間中に大毎の運動部記者から「打率早見表があったら」と持ちかけられ、「事の重大さに気づかず」膨大な作業に取り掛かかったという。

翌40(昭和15)年「紀元二千六百年記念」と銘打って『野球成績早見表』全127㌻を自費出版した。
依頼したのは同志社高商を卒業して1936(昭和11)年入社の蜂須秀夫(67年没53歳)だが、《記者は喜ぶどころか、頼んだこと自体忘れていた。…「戦争、戦争で野球の記事もかけないから要らない」と言う》。
「この打率早見表(レコナー)を大リーグに紹介したのが、鈴木三郎さんだ」と筆者の室さんは言っている。
鈴木は同志社大学英文科→京都帝大(現京都大学)文学部を修業して1920(大正9)年に大毎に入社した。27(昭和2)年から3年余りNY特派員、その後大毎と東日で運動部長をつとめた。41(昭和16)年2月から南米ブエノスアイレス特派員。44年1月にアルゼンチンが日本との国交を断絶、本社からの送金が途絶え、生花を市場で仕入れ、それを売って生活費を稼いだ。敗戦後の47(昭和22)年に帰国。『タンゴに乗って―アルゼンチン夜話』(日本交通公社出版部、49年刊)を出版している。62年没68歳。
日本のラグビーは慶應義塾が創始校で、同志社との定期戦は1912(大正元)年に始まったが、鈴木は、そのファーストマッチにFB(フルバック)として出場している。ラグビー早慶戦の始まる10年前である。
山内さんは、松江中学から1920(大正9)年慶應義塾大学に入学、野球部に入部する。
その時の慶大のメンバーが載っているが、主力選手は卒業と同時に、ちょうどその年に発足した大阪毎日新聞社の野球チーム「大毎野球団」の選手として迎えられている。
投手・小野三千麿(野球殿堂入り)
新田恭一(23年度主将)
捕手・森 秀雄(20年度主将)
遊撃・桐原真二(24年度主将、野球殿堂入り)
右翼・高須一雄(21、22年度主将)
この5選手は、いずれも1925(大正14)年に大毎野球団がアメリカ遠征をしたときのメンバーである。
山内さんは、1950(昭和25)年のプロ野球セ・パ2リーグ分裂で、「太平洋野球連盟(パソフィック・リーグ)」の公式記録員となる。
太平洋野球連盟は、発足当時、有楽町の毎日新聞東京本社内に置かれていたのだ。
最後にもう一人、岩崎恒(2004年没79歳)。恒さんは、1943(昭和18)年入社の運動部記者。運動部デスクから青森支局長になり、72(昭和47)年2月学生新聞編集部に部長待遇で戻ったときに、山内に連載を頼んだ。
毎日中学生新聞に連載された「プロ野球珍記録あれこれ」だ。
◇
野球好きには楽しい本です。《「記録の神様」山内以九士と野球の青春》、手に取ってみて下さい。野球発展に毎日新聞がどれほど寄与したかも分かります。
(堤 哲)
2022年6月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その20(後編) 道灌山の正岡子規と芥川龍之介(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
道灌山に胞衣会社が設立されたのは、『文化の瀧野川』によれば、1895(明治28)年ごろだという。敷地は5000坪。その内の3000坪に胞衣神社と運動場があり、一般に開放されていた。一時は飛鳥山公園以上の賑わいぶりだったようである。しかし、いつのころかはっきりしないが、鉄道省の手にわたり、この本の刊行された1923(大正12)年には、鉄道省の官舎が建ちならんでいた、と書かれている。
『年末の一日』の初出は、『新潮』の1926年1月号である。巻末にある「(大正一四・一二・八)」の表記は、小説を書き上げた日付の意味である。この日は漱石の命日の前日にあたる。ところが、小説でいう「年末の一日」は、漱石の9年目の命日を何日か過ぎたある日ということになっている。時間的な辻褄が合わない。しかし、こんな大事なことを編集者が見落とすはずがない。
だとすれば、「(大正一四・一二・八)」の表記は、この小説は事実ではなく虚構だとわざわざ断っているのである。『文化の瀧野川』の上記の記述が事実だとすれば、『年末の一日』を芥川が書いたとき、実在の日本胞衣会社は移転したか倒産していた可能性がある。
木下忠の『埋甕―古代の出産習俗』は、わが国の古代から近代まで胞衣習俗の歴史を考察した労作である。木下によれば、胞衣および産穢物についての取締規則が1887(明治20)年ごろから全国の府県でしだいに定められていった。東京の場合は、1891年3月、警察令第三号が次のような骨子で施行されたという。
胞衣及産穢物ハ家屋ニ近接セル場所ニ埋納スヘカラス、但胞衣産穢物取扱営業者ハ東京府庁ノ許可ヲ得タル一定ノ埋納焼却場ノ他埋納又ハ焼却スルヲ得ス
胞衣を人家に近い場所へ埋納することが出来なくなった。また胞衣の取扱営業者が東京府の許可する場所以外で埋納することも焼却をすることも禁止された。
この警察令では胞衣は産穢物とは一応は区別されているが、取り扱い方に変わりはない。胞衣は産穢物の一つで、単なる穢(きたな)い物、非衛生な危険物と見做されたことになる。私たちの祖先が胞衣を大切に扱ってきた風習に大きな変化が生じたのである。
道灌山に胞衣神社が建立された詳しい事情は不明だが、この取締規則に基づく措置であったことは想像するに難くない気がする。
正岡子規に『道灌山』の紀行文がある。
1899(明治32)年9月28日、子規が道灌山を訪れ、胞衣神社の前にあった茶店に立ち寄っている。『道灌山』の初出は、10月2日と9日の新聞『日本』である(註18)。芥川龍之介の『年末の一日』より25年前になる。
そのころ、子規は結核の病状が悪化し、歩行が困難になっていた。そのため、人力車を頼み、根岸の自宅から田端に向かった。田端停車場が出来たのは3年前である。周りを廻ると新築の家が建ちならび、なかには料理屋の看板を掛けた家もあった。また歯磨きや煙草の広告が目ざましく聳え立っていたとも書いている。駅のあたりはすでに市街化が進んでいたことになる。
子規は田端停車場(田端駅南口)から開削されたばかりの急峻な不動坂を上り、田端高台通りに出た。胞衣神社は停車場の真上にあった。
胞衣神社の前の茶店に憩う。この茶屋此頃出来たる者にて田端停車場の真上にあり。固より崖に臨みたれば眺望隠す所無く足下に見ゆる筑波山青うして消えなんとす。我嘗て此処の眺望を日本第一といふ。平らに広きをいふなり。(中略)
岡の茶屋に我喰ひのこす柿の種投げば筑波にとゞくべらなり
この紀行文でいう道灌山は、現在の西日暮里駅から田端駅あたりまでのJR線路に沿った丘陵のことである。この丘陵は上野から赤羽まで連なり、これに併行して、北西崖下の低地にはJR線路(京浜東北線)が敷設された。
道灌山の地名由来は、室町時代の太田道灌の斥候台があったからとも、鎌倉時代の関道閑の屋敷があったからともされる。それに加えて、道灌山がどこかとなると諸説あり、書物により一定しない。例えば『新編武蔵風土記稿』は秋田藩佐竹氏下屋敷(現在の開成中学・高等学校)東側の崖際としているが、『江戸名所図会』は、新堀(日暮里)から北は平塚(上中里)までの広範な地域だと書いている。
確かなのはこの台地の東側は断崖が続き、眺めがよいことである。子規は「我嘗て此処の眺望を日本第一といふ」と書いているが、広々した関東平野の彼方に筑波山が望めた。武家地として奪われなかったこの自然豊かな高台は、江戸時代を通じて庶民の行楽地となった。とりわけ秋の夜長には涼を求めて集まる人たちで賑わったといい、また酔客による土器(かわらけ)投げも名物の一つだったといわれる。
土器投げは京都の高雄山や愛宕山の花見で流行った遊びで、投げた土器が空中で舞うさまを楽しんだとされる。もとを正せば疫病退散や魔除けなどが目的の信仰習俗だったとみられるが、高雄山(神護寺)のほか、滋賀竹生島の都久夫須麻神社・宮崎青島の青島神社・神奈川大山の大山寺などに同様な趣向の行事がいまも残っている。子規は柿を好んだようだが、「我喰ひのこす柿の種投げば」の句は、この土器投げの習俗に擬えたものとみられる。

それより間もない10月のある日、正岡子規は道灌山の胞衣神社で石井露月を送別する『ホトトギス』同人による句会を開いている。『柚子味噌会』はこのときの模様を記した随筆で、11月発行の『ホトトギス』に掲載された。
石井露月は子規に師事し、新聞『日本』に勤めた。子規は河東碧梧桐や高浜虚子にならぶ警抜と評した。1年前に医師試験に合格。この年は京都で6ヶ月におよぶ実地研修を受けた。いよいよ郷里の秋田に帰り、これから医師として再出発するところ。その途中、東京に立ち寄ったのである。
東都の同人、日を卜して露月を道灌山胞衣神社の傍に送る。此日秋陰将に雨ならんとして冷気野に満つ。障子を閉じ火鉢を囲んで話す。五彩の幣帛床に揺れて静にして風無く、浅紅の茶梅階(ちゃばい きざはし)に落ちて微(かすか)に声あり。崖上に句を拾ふ者、胞衣塚に畫(え)を写す者、呼べば即ち来る。行厨を開き芳醇を汲む。虚子齎(もたら)す所の柚子味噌、是日第一の雅味と為す。
「東都の同人」は東京在住の『ホトトギス』同人。「胞衣神社の傍」は上記の茶店。「障子を閉じて」以下は、茶店内部の描写である。「五彩の幣帛」(五色の御幣)が飾られているのは、胞衣納めがお祝いの行事と考えられていたことを物語る。「浅紅の茶梅階に落ちて」の「茶梅」は山茶花のこと。後掲の子規の句では、その前に広がる芝生で子供が遊んでいた。
「崖上に句を拾ふ者、胞衣塚に畫を写す者、呼べば即ち来る」とある。道灌山の胞衣神社で行われた句会は、これが最初ではなかったように思われる。「畫を写す者」とは画家のことだろう。この句会には下村為山(牛伴)が加わっている。石井露月が『ホトトギス』の同人たちから慕われていたこともあるだろうが、道灌山と胞衣神社は彼らにとって以前から馴染み深い場所だったのである。だからこそ「呼べば即ち来る」ことになったとみられる。
『柚子味噌会』の末尾、露月を激励する子規の言葉。
豈慚愧無からんや。得意は爾(なんじ)が長く処(を)るべき地にあらず。長く処らば即ち殆(あやふ)し。如かず疾く失意の郷に隠れ、失意の酒を飲み、失意の詩を作りて以て奥羽に呼号せんには。而して後に詩境益進まん。行け。
続けて「附記」に載る16句から。
胞衣塚や桜落葉の吹溜 牛伴
皆曰く是より遠し秋の風 露月
山茶花や子供遊ばす芝の上 子規
「得意」は、胸を張って秋田に帰ることになった医学のこと。「失意」は志半ばで挫折した文学のこと。露月は文学で身を立てられず、医師への転身を図った。この句会は医師として生まれ変わる石井露月を祝福するいわば胞衣納めの行事だった。であるのに、子規は「豈慚愧無からんや」(恥ずかしくはないのか)と叱咤している。なぜか。露月の文学的才能がこのまま朽ちるのを惜しんだのである。(中略)
子規は、先に述べたように、歩くことも難しくなっていた。結核が悪化し、脊髄を冒されていたのである。当然、死が遠くないことは覚悟していた。子規の筆名は血を吐くまで啼き続けるホトトギスの別称だということである。最後の最後まで生きる拠り所となったのは、医学ではなく、文学(言葉)だったのである。
2022年6月1日
福島清さんの「活版工時代あれこれ」②養成員教育から活版へ
入社式翌日の1957年4月2日から3期にわたる「養成員教育」が始まりました。
【昭和32年度技能者養成教育実施計画】
◆第1期(4月1日~4月30日)
①本社職員として必要な教養知識を培養する②印刷全般の基礎知識を修得させる③各種作業の基本教育及実習により印刷工場の輪郭を把握させる。
第1期は以上の目的に沿って、午前中は「教養講座」午後は印刷局各部の紹介を兼ねた「実習」でした。
「教養講座」のテーマと講師は以下の通り。
新聞について 印刷局長 三宅 俊夫
新聞工場の施設について 同次長 長谷川勝三郎
新聞工場の作業について 同次長 小野 勝
本社の沿革と組織機構 人事部長 名取壌之助
本社の編集方針と通信機構 編集局次長 石井貞二
本社の営業について 経理部長 梶山 仁
出版刊行物について 出版局次長 千歳 雄吉
養成員制度と任務 管理部長 池田 克穂
活版の任務 活版部長 増田 弘
写真製版の任務 写真製版部長 竹下 嘉吉
活版について 活版部副部長 古川 恒
印刷・紙型について 紙型課 上坂 幸雄
印刷・鉛板について 鉛板課 後藤 賢司
印刷・輪転について 輪転課 林 秀
写真製版について 写真製版部副部長 吉村 茂三
本社の諸規定について 管理部副部長 杉本 恢憲
安全衛生について 管理部副部長 杉本 恢憲
輪転印刷について 管理部副参事 大西 末次
インキと用紙について 同 田口 大
結核と予防について 診療所 進藤 博士
第1期中の4月23日は、金曜社、インキ会社、十条製紙の工場見学でした。印刷関係の担当者にはまじめに教育しようという意気込みがありましたが、印刷以外のある幹部は、頼まれたから仕方なくやっている感じで、適当なことを言って、あとはバカ話で終わりでした。講師のみなさんはとっくに鬼籍に入っていますが、管理部副部長の杉本恢憲さんは、教育全体の責任者でおっかない人だったことを覚えています。
◆第2期(5月1日~7月31日)
①仮配属部の各課作業全般にわたる知識を習得させる②各課作業の完全な技能習得③作業環境、工場の気風に順応させる④各課作業が新聞製作上もつ意義と責任を認識させる。
◆第3期(8月1日~12月31日)
①仮配属部課の担当業務に習熟させる②基本教育及実習の補足を行う③仮配属部課の業態と作業規律及気風に十分順応させる。
1年間の研修終了後、提出させられた研修報告ノートが残っています。最初に三宅俊夫・印刷局長の「新聞について」の講義があります。

太平洋戦争を契機に日本は民主主義国家になった。その民主主義の根本は即ち真実を知ることである。国民が何も知らずに政治が行われた時に、それ、は独裁政治となり、戦前の日本が歩んだ道を再びくり返すことになるだろう。真実を知るためには言論の自由がなければならない。この言論の自由を守るものが新聞である。ここに新聞の近代民主主義国家に対する重大な意義がある。
新聞は国民を或いは、社会を指導するものではない。各社夫々の新聞社の方針に則り、国民に示唆し、道標となるべきものである。仮に新聞に指導性を持たせたならば、その社の中心の人の主観によって左右何れか、又は単なる娯楽新聞になってしまうであろう。又新聞には権威がなければならない。そしてその権威は常に経営の安定した上に立って初めて万人の認めるその社の権威が生まれるのである。
読み返してみて、いいこと言ってます。研修報告は、続いて「本社の沿革」「編集局の組織」「毎日新聞編集根本方針」「本社の営業について」「養成員制度について」などをまとめています。次に印刷関係です。「活版について」は、「近代印刷の祖」とされた1400年生のグーテンベルグが活字による印刷方針を確立するまでに始まり、母型、活字の基礎からモノタイプまで。続いて「印刷について」「写真製版について」「電気・ボイラーについて」をまとめています。
第2期の仮配属は印刷部で、第3期の仮配属は活版部でした。養成員教育修了後の1958年4月から正式に「活版部配属」となり、本給が450円上がって6600円となりました。
(福島 清・つづく)
2022年6月1日
皇居周回から始まった元社会部、大島幸夫さんのランニング人生


「ランニングの世界」最新刊の第27号(2022年4月1日発行)に、社会部旧友大島幸夫さん(6月で85歳)が、ランニング学会元会長で同誌編集主幹の山西哲郎元立正大学教授(79歳)と対談、マラソン文化についてウンチクを傾けている。
山西さんは、東京教育大学(現筑波大学)在学中に箱根駅伝に2回出場している。市民ランナーに「走る世界」の魅力を伝え続ける伝道師とも呼ばれる。『三途の川を走って渡ろう―中高年のためのランニング指南』(柏艪舎2016年刊)といった著書もある。
大島さんがランニングに目覚めたのは、皇居の周回コースだ。40歳を過ぎて、仕事の合間に走り始め、その魅力にはまった。ボストン、NY、ロンドン、パリなど世界主要都市のマラソンを走り、都心を駆け抜ける「東京マラソン」実現のきっかけをつくった。
フルマラソンのサブ3(2時間59分27秒)、100㌔マラソンのサブ10(9時間47分52秒)の記録を持つ。富士登山競走も完走。障がい者と走る「アキレスインターナショナルジャパン」を創設。「NPO東京夢舞いマラソン実行委員会」理事長として今も走り続ける。
第12回ランナーズ賞、第16回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞している。
対談でこう発言している。
《僕が「東京夢舞いマラソン」の名前に込めた思いは、ゆ=ユニバーサルデザイン(障がい者との境目のないデザイン)め=目抜き通り、ま=祭り、い=粋、ということ。それと名前にはありませんが市民主義ということ》
21世紀を迎えた2001年に、「都心を走ろう3万人で!」をスローガンに、「東京マラソン」実現の夢に向かってマラソン大会を企画、都心の名所を巡るコースを描き、第1回大会を開催した。
東京都による「東京マラソン」が始まったのは、2007年2月。それに伴い翌08年から「東京夢舞いマラソン・ポタリング」として、歩道を行くフルマラソンと自転車で車道を行くポタリングに変わった。2019年は台風、20、21年はコロナ禍で3年連続大会を中止したが、2022年は、10月9日(日)開催を予定している。
大島さんは、クライマーでもある。72歳のとき、マッターホルン(標高4478m)登頂に成功している。「真夏なのに、猛吹雪に見舞われ、両手に凍傷を負いました。幸い指を失うこともありませんでしたが」。
著書に『信州ルポ 土と心と』『信州からの証言—地方記者ノート』(令文社)『沖縄の日本軍—久米島の虐殺』(新泉社)『人間記録・戦後民衆史』(毎日新聞社)『不屈の闘魂・張本勲』(スポーツニッポン新聞社)『ドキュメント日韓ルート』(講談社)『沖縄ヤクザ戦争』(晩聲社)『勇気に風を』(毎日新聞社)『燃えろ!快速球—小松辰雄物語』(二見書房)『地球人の伝説—もうひとつのシネマワールド』(三五館)など。沖縄・日韓から野球・映画まで幅広い。ランニング関係では『市民マラソンの輝き―ストリートパーティーに花を! 』(岩波書店)『協走する勇者(アキレス)たち―マインドは誇らしげな虹の彩り』(三五館)がある。
(堤 哲)
2022年5月24日
奥武則・元学芸部長の「沖縄と私」―「新・ときたま日記」転載
なんだか江藤淳ふう(?)の偉そうなタイトルだが、要は沖縄についての私的体験ばなしである。
今年は本土復帰50年ということで、5月15日の「記念日」をはさんでメディアで沖縄関連記事が膨大に流れた。それらに接して、「感情的沖縄論を排す」というまじめな論文を書きたい思いが募っているのだが、いまはその状況にない。で、軽く、昔話である。
1970年に新聞社に入った。沖縄は復帰前だった。鹿児島支局、西部本社(北九州市)整理部を経て、報道部に異動したのは、1977年。サツ回りや司法担当をしつつ、沖縄関連取材があると手を挙げた。学生時代から沖縄には関心があった。
そんな私にとって、1978年は「怒涛の沖縄体験」の年だった。まず、「730」(ナナサンマル)の取材。この年の7月30日午前6時を期して、米軍統治下で続いていた車の右側通行を本土と同じ左側通行に変更することになったのである。
道路の構造はむろん、ガソリンスタンドをはじめとする道路沿いの店は車の右側通行を前提に立地していた。バスやタクシーの構造もそうだった。左側通行に合わせる交差点の工事などが「730」前から行われていたとはいえ、沖縄県民にとっては慣れ親しんだ(親しめさせられていた?)生活が一夜にして変わるのだ。
西部本社報道部の一員として、その歴史的事態を取材した。記事はたくさん書いたが、下は当日朝刊。

予想どおりというか、初日から大小の事故が続出した。しかし、私にとって印象的だったのは、午前6時、「右から左へ」に変わる、そのとき、歩道橋を埋めた人々の間に漂っていた、なんというか、雰囲気である。合図のサイレンが響く中、静寂が広がっていた。
続いて12月にふたたび、少し長い沖縄出張をした。まず、沖縄知事選の取材だった。下は12月3日の朝刊記事。

屋良朝苗氏以来の革新県政を受けつぐべく立候補した知花英夫氏に対して自民党衆議院議員を辞職した西銘順治氏の一騎打ちになった。結果、西銘氏が勝利し、「沖縄革新」の輝かしい歴史は頓挫した。まだ存命だった屋良氏を自宅に訪ねて話を聞いたりして、ストレートニュース以外に「沖縄革新の行方」(だったかな)という連載記事を書いた。
続いて、打って変わって、イザイホーの取材に久高島(くだかじま)に行った。久高島は沖縄本島知念半島の東南約5・5キロにある小さな島である。イザイホ―は、この島で12年に一度の午年に行われる神事である。沖縄の「古事記」ともいうべき「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」によれば、沖縄の島々の創造神はニライカナイの地から久高島に降り立った。聖地・久高島では、30歳を過ぎた島の成人女性たちはすべて2人のノロ(女性司祭者)のもとでナンチュと呼ばれる神女になる。イザイホーは新しくナンチュになる女性たちの加入儀礼である。神事は5日間に及ぶ。
5日間全部取材したわけではなかったが、私の33年間の記者生活の中でもっとも印象に残っている取材体験だった。下は、12月19日の夕刊に書いた記事である。

このイザイホーは最後のイザイホーになった。過疎化が進む久高島では、この12年後、新しく神女になるべき成人女性がいなかったのである。
強烈な異文化体験だった。そのあたりのことは、のちに「にっぽん一千年紀の物語」という長期連載をした際に別の形で記事にした。少し短くして引用する。
白装束の女性たちは、ときに厳粛な表情で舞い、ときに喜びを満面に表して激しく踊った。オモロ(沖縄・奄美地方の古謡)が歌われた。冬とは思えない陽光が差したかと思うと、スコールのような雨が降った。赤い琉球瓦と白い漆喰が鋭いコントラストを作る屋根。周辺に広がるアダンやクバの林。理解不能なウチナーグチ(沖縄方言)。「異文化」を強烈に感じた取材体験だった。
*
沖縄は長く琉球と呼ばれてきた。1000年前の琉球では米や麦の栽培が始まり、新しい社会体制への流動が始まっていただろう。やがて、按司(あじ)と呼ばれる首長が各地に登場し、抗争を展開する。14世紀になると、沖縄本島を中心に三山と呼ばれる小国家にまとまる。北部には北帰仁(なきじん)城を拠点とする山北(さんぼく)、中部は浦添城(後に首里城)に拠った中山、さらに南部では山南(さんなん)王を名乗る勢力が島尻大里城などを拠点にした。
1372年、中国・明の使節が琉球にやって来た。4年前に建国したばかりだった。「大明帝国」の一員となって朝貢することを求めてきたのだ。中山王・察度は、これを受け入れ、明に使節を送った。中山は1416年に山北を滅ぼし、1429年には山南も降し、琉球の統一を実現する。ここに明の冊封(さくほう)体制下の一国として琉球王国が誕生した。
冊封体制は中華帝国と周辺国家との間のゆるやかな服属関係といえるだろう。周辺国家は中国皇帝に入貢する。中国皇帝は入貢してきた者を皇帝の名においてその国の国王に任じる。中華帝国を頂点にした冊封体制には、朝鮮はもとより、東南アジア諸国、中央アジアのオアシス国家までが含まれていた。
琉球の人々は福建省の福州(初期は泉州)を拠点に東南アジア諸地域で活発な貿易を展開した。大交易時代と呼ばれる時期である。だが、さまざまな交流はあったものの、この時期の琉球王国は日本にとって、まだ「異国」だった。
1609年、薩摩藩が3000の兵で奄美と琉球を軍事占領する。奄美は薩摩の直轄となり、琉球も政治・経済的に完全に薩摩に従属することになった。東アジアの秩序を担っていた明の力が衰えてきたことがこの時期の混乱に拍車をかける。国際関係の中で翻弄(ほんろう)される琉球(沖縄)の苦悩の歴史は、ここに始まった。
幕府・薩摩藩は琉球を実質的に支配しながら、明の冊封体制下にあることは維持させた。幕藩体制下の「異国」として、琉球国王の代替わりには謝恩使が、将軍の代替わりには慶賀使が、京都・江戸に送られた。江戸時代を通じて、この琉球使節は18回に及んだ。
琉球使節によって、薩摩藩は「異国」を支配する大名であることを誇示できた。幕府にとっても、それは将軍の「ご威光」を示すものだった。後には、琉球使節は中国(清)の官名・風俗を強制される。清に朝貢している国からの外交使節であることが強調されたのである。
近代になって、この「作られた異国」は今度は日本への同化を強いられる。1879年、琉球王国は廃止され、沖縄県が設置された。琉球処分である。
太平洋戦争での沖縄戦の悲劇を経て、沖縄は米軍支配というかたちでふたたび長い「異国」経験を強いられた。そして復帰した後も日本の米軍基地の7割以上をかかえるという意味で、沖縄は日本の中の「異域」であり続けている。
*
久高島のイザイホーは1990年の午年には行われなかった。人口流出が進み、新たにナンチュになる女性が一人もいなかったのである。78年、思えば私は久高島で一つの「異文化」の終焉(しゅうえん)に立ち会っていたのだった。
この後、連載記事の企画で、沖縄本島に北端にある奥集落の「奥共同店」に行ったこともある。山原(やんばる)の海と林を見ながら、定期バスを乗り継いで、ずいぶんかかった気がする。ちなみに、いまNHKの朝のドラマ「ちむどんどん」、山原から東京に出て料理人になる女性が主人公だ。一家の母親(仲間由紀恵)が働いているのは、「山原共同売店」である。
「怒涛の沖縄体験」の1978年、私は記者になってまだ8年だった。当時書いた記事を読み返し、「元気だったなあ」と思うことしきりである(最後はトシヨリの繰り言)。
(奥 武則)
2022年5月23日
半世紀前の大阪本社社会部の面々
磯貝喜兵衛さん(93歳)のFacebookに、こんな写真が載っていた。6年前、2016年7月12日の日付が入っていて、《東京都知事選に出馬した鳥越俊太郎さん》とある。
テレビキャスターになった鳥越さんは中央の後ろ、黒っぽい上着で長髪。鳥越さんから左3人目が磯貝さんである。
磯貝さんの説明は《写真は1973(昭和48)年ごろに撮った大阪・堂島の古い社屋での「社会部全員集合」写真で、最後列中央の<長髪・長身・黒コート>が鳥越さんで、当時は事件記者として走り回っていました》。

ここに写っているのは34人。当時の大阪社会部は60人体制だったから、ほぼ半数である。前列中央の北爪社会部長を挟んで、藤原剛さんと松村洋さんがスーツ姿なので、2人の転勤記念だったか。
私(堤)は、大阪社会部在籍2年9か月だったが、この写真の全員を覚えている。懐かしいので、全員を紹介したい。
前列左から寸田政明、藤原剛、北爪忠士、松村洋。
中列左から酒井啓輔、堤哲、藤田修二、有馬寧雄、山崎貞一、西田尚、永岡靖生、橋本博行、津田康(後)、河北明(前)、観堂義憲、近藤勝重、大須賀瑞夫、永田孝、水間典昭、岡橿夫、川村正文、藤田健次郎、浅沼進、山口安昭。
後列左から佐竹通男、中田恭市、磯貝喜兵衛、奥村邦彦、宮本二美生。鳥越俊太郎、黒田耕太郎、亘英太郎、佐倉達三、竹内光=以上敬称略。
ほぼ半世紀前。皆さん若い! 鬼籍に入った方が10人を超えている。
(堤 哲)
2022年5月18日
皇太子・美智子さまのツーショット写真撮影は鈴木茂雄さん

元毎日新聞社会部の宮内庁記者、現成城大学教授、森暢平さん著『天皇家の恋愛』(中公新書)第5章「美智子さまは恋愛結婚だったか」に皇太子さま(現上皇陛下)と美智子さま(現上皇后陛下)とのツーショット写真が載っている。
その写真説明に「ただし2人の間に男性の足が見える」とある。
この写真を撮ったのは、東京本社写真部の鈴木茂雄カメラマン、当時31歳である。
その間の事情を鈴木カメラマンはこう証言している。
——昭和33年7月27日午前8時30分ころ、場所は軽井沢のテニスコート。皇太子さまは観客席の最前列のベンチに腰をおろし、そこへ素晴しいお嬢さんが姿を現し、学友の隣の席につかれた。早速カメラを構えると、学友が体全体をそらしてくれたので、殿下とお嬢さんが並ぶ図柄になった。縦位置で2枚写し、別のカメラでカラーを写す。
◇
皇太子の隣に座っていたご学友が、カメラに気づいて自分が映らないように配慮したのである。特ダネ写真となった。
この写真が陽の目を見たのは、婚約発表があった11月27日だった。撮影の4か月後である。
お妃報道の過熱から、宮内庁から公式発表があるまでは一切報道しないことを報道各社が申し合わせていた。報道協定である。
毎日新聞社は、これまでの取材から極秘に8ページの号外を作り、全国の販売店に配送していた。婚約発表・報道協定解除と同時に一斉に配布した。

「朝日の2ページ号外、読売の半ページ号外に比して圧倒的な質と量の勝利であった」(『毎日新聞百年史』)
このツーショット写真は、その1面に大々的に扱われた。
鈴木さんは、1946(昭和21)年入社。大阪本社写真部デスクから75(昭和50)年9月東京本社写真部長。毎日グラフ編集長、昭和史事典編集長も務めた。2009年没83歳。
◇
本書(『天皇家の恋愛』)は、皇室の150年の近代史を「恋愛」というこれまでにない視点で切り取った、自分で言うのもなんだが、画期的な本である。
これはこの毎友会HP新刊紹介に載った著者・森暢平さんの宣伝である。
(堤 哲)
2022年5月17日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その20(前編) 道灌山の正岡子規と芥川龍之介(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)は、球形に輝く光彩に包まれた胎児が宇宙空間から地球を見つめる幻想的な場面で終わる。
キューブリックの前作は『博士の異常な愛情』(1964)だった。第二次世界大戦後、米ソの二大国が核爆弾の開発に狂奔する世界情勢を辛辣に風刺する不気味な喜劇である。原題はDr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb。あってはならないし、ありえないはずの核戦争が抑止管理の盲点と偶然の連鎖から勃発して、人類の破滅が警鐘される。
『2001年宇宙の旅』の胎児は、宇宙の旅をした宇宙船ディスカバリー号のボーマン船長の生まれ変わりだが、キューブリックの意図は、類としての人間の生まれ変わり、またはその復活を希求する神話的な表現にあったように思われる。
『日本書紀』はわが国の創世神話をつづった史書だが、天孫降臨にさいして、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は真床追衾(まどこおふすま)に包まれていたと書かれている。瓊瓊杵尊は皇祖神である天照大神の孫で、皇太子(ひつぎのみこ)である。折口信夫は『大嘗祭の本義』のなかで、瓊瓊杵尊が「物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが真床追衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである」とこの箇所を読み解いている。(中略)
神であっても人間であっても、妊娠したらすぐに出産することにはならない。胎児は十月十日を母親の子宮で育まれ、ようやく人間として誕生を迎える資格を備えるのである。母親の子宮のなかで胎児を包んでいる膜や胎盤などは胞衣(えな)と総称された。胞衣は胎児のあとに娩出されることから後産とも呼ばれたという。
『2001年宇宙の旅』の最後の場面で胎児を包んでいた球形の光彩も、『日本書紀』で天孫降臨する瓊瓊杵尊を包んだ真床追衾も、この胞衣を擬えた形象で、その背景には畏怖と崇敬の重なり合う太古からの生命観があったように思われる。
根津神社境内に六代将軍徳川家宣の胞衣塚が築かれている。根津神社はもと家宣の父徳川綱重の山手屋敷(別邸)で、家宣はこの邸内で生まれた。胞衣塚の傍らに、文京区教育委員会による説明版があり、胞衣納めの習俗について、こう書いている。
われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
1935(昭和10)年、柳田國男などの指導で「妊娠出産育児に関する民俗調査」が全国規模で実施された。それをまとめた『日本産育習俗資料集成』を読むと、胞衣を埋納する方法は必ずしも一定していないが、上記の解説にもあるように、場所については家屋敷やその近くが選ばれることが少なくなかった。(中略)

芥川龍之介に『年末の一日』という短編小説がある。この小説の最後に胞衣を運ぶ箱車のことが出てくる。
夏目漱石は1916(大正5)年12月9日に死去した。その命日より何日か過ぎて、年の暮れも押し迫ったある日、芥川は奉天特派員から本社勤めになったという新聞記者のK君を案内して、漱石の墓参りをした。墓は雑司が谷霊園にあり、芥川はこれまで何度か墓参りに訪れたことがあった。
ところが、いざ行ってみると、なんとしたことか、漱石の墓の在り場所をすっかり忘れてしまっていた。江戸時代には幕府のお鷹部屋になっていた広大な園内を散々さまよい、とうとう墓地掃除の女性に道を教えてもらう羽目になった。ようやく墓の前にたどりついてみると、漱石の墓は「この前に見た時よりもずっと古びを加え」、「おまけにお墓のまわりの土もずっと霜に荒されていた」というのである。
雑司が谷霊園は染井霊園や谷中霊園と同じように、明治につくられた共同墓地である。寺院の境内墓地とは規模がまるでちがう。迷うのが当たり前なのに、それを過剰に気に病んでいる。漱石は文学の恩師であり、人生の羅針盤でもあったからである。
この日の明け方、芥川は雑誌3社から頼まれた新年号の原稿の最後を書き上げた。しかし「三篇とも僕には不満足だった」と思わせぶりな書き方をしている。漱石が亡くなって、9年が過ぎていた。文学・芸術をとりまく環境はすっかり変貌し、自分は道に迷いかけている。曖昧な描写の点と点を繋いでみれば、そんなふうに読めなくもない。
墓参りの帰り、芥川は護国寺前から上野公園前行きの市電に乗り、富士前(上富士前町駅)で途中下車した。そこで同行したK君と別れ、「東洋文庫にいる或友だちを尋ねた」。「私の駒込名所図会 総集編その2」にも書いたが、東洋文庫は中国の文物を中心に集めた東洋学の研究図書館で、開館したのは1年前である。
いっぽう、芥川は2カ月前に『支那游記』(改造社)を出版したばかりだった。この作品は、大阪毎日新聞の特派員として、1921年に中国を訪れたときの見聞記で、『毎日新聞』に連載した「上海游記」(1921)・「江南游記」(1922)を中心に、雑誌『女性』・『改造』に掲載した記事も加えた構成になっていた。
1921年7月、中国共産党の第一回大会が上海で開かれた。その会場となったのが、中国共産党の指導者の一人李人傑(李漢俊)の自宅であった。その3ヶ月前、芥川龍之介は李人傑の自宅を訪れ、中国の政治社会と芸術の未来図について聞き書きを取り、「上海游記」の一章としている。
芥川はそのなかで、李の政治思想を「信条よりすれば社会主義者、上海に於ける『若き支那』を代表すべき一人」と高く評価し、「予は李氏に同情したり」とも書いている。言いかえれば、中国共産党の革命思想と反日抗争に共感を抱いたのである。
しかし、芥川は小説家である。必然的に話題は文学と芸術に波及せざるをえない。そこで芥川は李に向かい、「プロパガンダの手段以外に、芸術を顧慮する余裕ありや」と問いかける。それにたいする李人傑の答えは「無きに近し」だった。芸術は政治的な宣伝手段に過ぎないとする中国共産党の芸術観に芥川が納得できたとは思えない。「私の手控えはこれだけである」と書くに止め、「同情したり」の言葉はない。(中略)
東洋文庫で用事をすますと、芥川は再び上野公園行の市電に乗った。「富士前」の市電停車場は、現在の上富士前交差点にあった。本郷通りと不忍通りの行き交うところで、「ときの忘れもの」のすぐ近くである。

市電が不忍通りを走り、自宅の最寄駅である「動坂」(駒込動坂町駅)に着いたときは、すでに夕闇が迫っていた。
墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、楫棒に手をかけて休んでいた。箱車はちょっと眺めた所、肉屋の車に近いものだった。が、側へ寄って見ると、横に広いあと口に東京胞衣会社と書いたものだった。僕は後から声をかけた後、ぐんぐんその車を押してやった。それは多少押してやるのに穢い気もしたのに違ひなかった。しかし力を出すだけでも助かる気もしたのに違いなかった。
(中略)僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。
八幡坂は東覚寺坂のことで、田端八幡神社東側の坂道。動坂からJR田端駅に至る切通し(都道458号白山・小台線)に併行する急こう配の旧道である。墓地は赤紙仁王で知られる東覚寺の境内墓地。現在は高い塀に遮られて、この坂道からは見えなくなっている。東覚寺は明治維新までは八幡神社の別当寺で、そのころは寺と神社は同じ境内にあった。
八幡坂を上ると台地の頂上で田端高台通りと交差する。その途中に童橋という鉄骨の橋がある。芥川の住んでいた家は、この橋を渡った東側の高台にあった。近藤富枝の『田端文士村』によれば、切通しと童橋の出来たのは、1930(昭和5)年かその翌年だという。
歩いてみれば、この切通しに沿った街並みは激しく変貌しているのが分かる。そこかしこに田畑や森林が見られたという田端文士村の出来たころの景色は想像しにくい。(以下略)
2022年4月27日
没後40年『柳田國男先生随行記』復刊の今野圓助さん


論説OBの天野勝文さん(88歳=4月28日米寿)からメールが入った。
《4月23日付毎日新聞読書面に今野圓輔著『柳田國男先生随行記』の紹介が載っています。ご存知かと思いますが、今野さんは毎日同人で、柳田門下の民俗学者です。今野さんのあれこれを掘り起こして、異色の毎日人を紹介する》のはどうか、という提案だった。
この本は、1983(昭和58)年7月、秋山書店発行の『柳田國男随行記』を「著者没後40年、柳田國男没後60年記念復刊」した、と版元河出書房新社のHPにある。
初版の著者は本名の「圓助」。復刻版はペンネームの「圓輔」である。民俗学者柳田國男(1875~1962)が1941(昭和16)年11月13日、東京から九州へ17日間の講演旅行に出掛けた。それに隋行したのが、当時慶應義塾大学文学部国文科の学生・今野さんだった。
今野さんは、その年12月に慶大を卒業、翌42(昭和17)年1月に毎日新聞に入社した。見習生とあるから幹部候補生だった。
初版本の「はじめに」に興味深い記述がある。67歳の奇縁である。
この旅行をした時、柳田國男は67歳だった。その高弟の折口信夫(1887~1953)と渋沢敬三(1896~1963)、折口の愛弟子池田彌三郎(1914~1982)が亡くなったのは、いずれも67歳。「そして今、私もその67歳になった」。
「はじめに」の日付が昭和57年7月25日。その6日後の7月31日に、今野さんは急逝した。従ってこの『柳田國男随行記』は遺作である。
「彼は永年愛した書斎で、白いマツゲも生きているそのままに、安らかに眠るが如く横たわっていた。心臓マヒだった」と整理部OBの西川雅敏さん(2019年没99歳)が社報の「故人をしのんで」に綴っている。
2人は「一つ土地を分けて買い、一緒に家を建てた」仲である。今野さんは「世話好きで、話上手」。柳田國男ら民俗学者たちから「新聞記者をやめて、これ専門にやれよ」と言われていたともある。

「『柳翁随行記』これは仮題ですが、民俗学の貴重な資料です。最後の一編が未完で残念ですが、この部分なしで近く出版されます」と、直江広治筑波大名誉教授(当時)が弔辞で述べている。
国会図書館で検索すると、「圓助」の単行本は『柳田國男随行記』1冊だけ。「圓輔」はいっぱい出てくる。
『海村生活の研究』日本民俗学会1949年
『檜枝岐民俗誌 : 福島県南会津郡檜枝岐村』刀江書院1951年
『馬娘婚姻譚―オシラ様信仰の周辺』岩崎美術社1956年
『怪談―民俗学の立場から』社会思想社1957年
『現代の迷信』 社会思想社1961年
『日本の行事と風俗』偕成社1963年
『日本怪談集』幽霊篇 社会思想社1969年。妖怪篇 1981年
『幽霊のはなし』ポプラ社1972年
などなど、怪談・幽霊・迷信・風俗・魔女・鬼婆……。子どもたち用児童図書も少なくない。文庫本で復刊されものもいくつもある。共著も『日本民俗学のために : 柳田国男先生古稀記念文集』第1-9輯(民間伝承の会1947~48)など多数だ。

では、毎日新聞記者としてどんな記事を書いたのか。戦前の文化部時代、毎日新聞社発行の『時局情報』に、「戦ふ科学兵器」(1943年9月)「防空兵器:照空燈と高射砲」(1945年2月)を書いていることが判明した。
戦後は東京本社社会部→文化部→出版局→社会部→学生新聞部→調査部。調査部に10年余、図書主任を務め、54歳で繰上げ定年退職をしている。
『柳田國男随行記』の著者略歴に民俗学研究理事、日本民族学会評議員、東京教育大講師、八戸・女子聖学院短大教授を歴任とある。
新聞記者として記事を書くより、民俗学会の活動の方が忙しかったようだ。
(堤 哲)
2022年4月26日
森林再生の宮脇昭さんと毎日新聞―偲ぶ会と記念刊行『九千年の森をつくろう!』を機に、135年記念事業「My Mai Tree」元事務局長、恩田重男さんが振り返る
熱帯林など森林再生の第一人者で、毎日新聞創刊135年記念事業の植樹キャンペーン「My Mai Tree」(2006~08年度)の植樹指導に力を尽くしてくれた宮脇昭横浜国立大学名誉教授を偲ぶ会が、4月24日、神奈川県厚木市のホテルで開かれた。

宮脇さんは、1970年代から、世界の三大熱帯林をはじめ日本の製鉄、電力、自動車、商事、鉄道、不動産、養蜂、大規模小売店など主要な企業の工場敷地や店舗周縁地、各自治体の公共用地、学校、寺社、大地震被災地などで、環境保全林としての常緑広葉樹の再生植樹指導を展開し、集計分だけで、世界19カ国164カ所で532万5522本、国内2773カ所で3397万7409本、合計3930万2931本の「地球の緑」再生実績を残し、昨年7月16日、93歳で亡くなった。
偲ぶ会は、新型コロナの感染拡大の影響により1月開催の予定を延期していた。会場には、宮脇方式(メソッド)の植樹事業を実施した主要な企業や官公庁・自治体関係者、植物生態学の研究者、NPOなど環境団体関係者、植樹祭への常連参加者ら約160人が参加した。
会場中央に飾られた宮脇さんの遺影は、十数本の常緑広葉樹の幼苗に囲まれ、植樹現場でお馴染みだった麦わら帽子姿。参会者の黙祷で開式し、主催者代表挨拶で、藤原一繪同大学名誉教授は、宮脇先生が特に3・11東日本大震災などの被災地の復興に心を砕かれていたことに触れながら、「ロシアの侵攻を受けているウクライナの惨状を見たら宮脇先生は何と言われたか。きっと復興の先頭に立たれたと思います」などと話した。
来賓挨拶では、ケニアの熱帯林植樹を支援した日置電機(長野県上田市)、中国やネパールで植樹支援を継続している山田養蜂場(岡山県鏡野町)などの代表者が、宮脇方式の植樹事業を後世に引き継ぐ決意を表明し、ドイツ留学時代以来の交友というイタリア植物学会元会長らからのビデオメッセージが披露された。
昼食は弁当の「黙食」、参会者の歓談はマスク越しで行われ、歌手の雨谷麻世さんが、「My Mai Tree」で歌詞原案を募集した森づくり讃歌「僕にできること」(荒木とよひさ作詞、宮川彬良作曲)などを披露した。

この偲ぶ会で、宮脇先生の偉業を讃えて記念刊行された『九千年の森をつくろう! 日本から世界へ』(藤原書店)が紹介された。全710頁の大作(6200円税別)。国際環境賞「プループラネット賞」(旭硝子財団主宰)を日本人で初めて受賞した時の記念講演録(2006年)や、宮脇方式の森づくり哲学と理論と手法、国内と世界で行われた植樹活動の報告、実践記録のデーターベース、先生の語録など7部構成。実践記録のデータは、1970~2020年の51年分の、施設・事業名、場所、事業者、植栽時期、植栽面積、植樹本数を列記。前半の1970~2004年分は、『あすを植える』(宮脇昭・毎日新聞「あしたの森」取材班共著、毎日新聞社刊)への掲載用にJISE(現IGES-JISE)国際生態学センターが集計したもの。
植樹活動報告には、「My Mai Tree」の3年間の実践が「市民参加で植えた一九万三○○○本」として(報告者・恩田重男)、その後2017年10月まで50万5925本を植えた植樹事業「つながる森プロジェクト」が「宮脇植樹が問いかけるもの」として(同・山本悟)、それぞれ4頁に所載されている。
◇
宮脇先生との出会いは、横浜支局長一年生の2001年10月。神奈川県内の異業種交流フォーラムで長年の業績を顕彰することになり、横浜市内のJISE国際生態学センターを訪ねた。当時はCOP3(気候変動枠組条約第3回締約国会議・京都会議、1997年12月)の京都議定書採択により、締約国がそれぞれ目標値を設定し国際社会が協力して地球温暖化対策に第一歩を踏み出した頃。先生提唱の「ふるさとの木によるふるさとの森づくり」も温暖化の主因とされるCO2の吸収削減策として注目され始めていた。
初対面から折に触れ、「新聞社も温暖化に本気なら、森づくりを」と、植樹事業への新聞社としての参画を促されて、創刊135年記念事業企画案募集に読者参加型の植樹キャンペーン事業として提案、採用された。06年1月に記念事業がスタートし事務局長3年、その後は08年9月に設立したNPO法人国際ふるさとの森づくり協会(レナフォ)の理事として、15年1月の先生の入院・療養後も20年10月まで特別顧問をお願いした。
20年余のご交誼でいただいた数多い薫陶を思い起こし、その人となりを敢えて表現させていただくなら、「限りない人間愛、地球愛」を見事に体現された生涯であったと思う。
事業企画には、協賛広告等収益の裏付けが要るが、この記念事業には苗木購入資金を読者からの募金や企業の協力金で調達しようという算段もあって、成否のハードルは低くなかった。この点、先生は先刻承知で、惜しみないご協力をいただいた。支援協力を引き出すために、企業トップの懐に積極的に入り込み、「次の氷河期まで9000年残る森」づくりを、と訴える各界識者との対談企画にも意欲的に時間を割いていただいた。
先生と毎日新聞のコラボで醸成された主な事業成果を当時の資料でみると、一般読者からの苗木募金3年余りで1,068件2,960余万円 ▽企業や団体からの協賛金など11件1,056万余円 ▽企画特集広告売上(グロス)延べ39件31,142万円 ▽緑の募金(植樹事業へ直接入金)12件2,300万円 ▽森づくり讃歌「僕にできること」は09年度小学校高学年用の音楽副教材(教材集)に採用 ▽出版物2件~宮脇式植樹の実績と講演、対談集『あすを植える―地球にいのちの森を』(2004年、毎日新聞社)~霞が関ビル設計者池田武邦氏との対談『次世代への伝言 自然の本質と人間の生き方を語る』(2011年、地湧社)
宮脇先生は、言葉や文化の異なる人々に対して全く同じように接した。自らが確立された哲学と理論の実践に揺るぎない自信を深めていたのだと思う。例えばドイツの都市再生林、中国・内モンゴル自治区の郊外林地、ケニア・ナイロビの環境保全林などで、現地の研究者や協力スタッフに、指示し、励まし、説得する。国内でも北は札幌市で、南は沖縄の本島南端の久高島まで30カ所近い場所で植樹祭指導の現場にお供したが、いつ、どこででも、先生の人との接し方にブレや違いは見られなかった。いつも前向きに、時に厳しく、しかし誠実に――。誠に逞しい「人間力」を見せていただいたと、感じている。
(恩田 重男)
2022年4月22日
100回を迎えた「毎トー」生みの親は、運動記者の弓館小鰐
毎トー(毎日テニス選手権)がことし100回の記念大会を迎え、まずベテラン大会(男75歳以上、女65歳以上)が5月30日~6月10日、昭和の森テニスセンター(東京都昭島市)で開かれる。

この大会は「日本最古・最大級の公認テニストーナメント」をうたう。その始まりは、1919(大正8)年8月のO・B(オールドボーイズ)庭球大会である。「東京日日新聞」記者弓館小鰐(本名芳夫)が提唱したといわれる。
写真右端が画家の小杉未醒(放菴)。のちに都市対抗野球大会の優勝旗黒獅子旗をデザインする。この大会にも橋戸頑鐵とペアを組んで出場したが初戦で敗れた。その左が優勝カップを持つ針重敬喜と1人置いて山崎喜作組だ。
小杉放菴記念日光美術館のHPに、「小杉や針重らが弓館に勧めて実現した大会」とあった。小杉らが1911(明治44)年5月、東京田端につくった芸術家の社交クラブ・ポプラ倶楽部にテニスコートを2面つくった。野球・相撲・漕艇・柔道などスポーツ好きの仲間の集まり天狗倶楽部の連中も、このコートでテニスを楽しんだという。
◇
弓館はナンパの新聞記者だった。振り出しは、黒岩涙香の「萬朝報」。1905(明治38)年に早大を卒業、野球部長安部磯雄の口利きで入社したという。
自慢は「早慶戦はすべて見ている」だった。野球の早慶戦が1903(明治36)年に始まった時、早大のキャプテンが橋戸頑鐵で、弓館はマネジャーだった。

早慶戦は1906(明治39)年11月、1勝1敗で迎えた第3戦が応援団の過熱で中止となった。第10戦は、1925(大正14)年10月19日早大戸塚球場。19年ぶりの再開だった。
弓館は「野球専門記者の元祖」(木村毅『都の西北―早慶野球戦を中心に』)といわれた。「萬朝報」から「東京日日新聞」に転社したのが1918(大正7)年1月。社会部に配属され、スポーツ記者として活躍した。2年後の1920(大正9)年2月、新設された社会部運動課の初代課長となった。運動課は5年後の1925(大正14)年1月に社会部を離れて独立課となり、1933(昭和8年)10月に運動部となるが、弓館は校正部に転出して校正部長→写真部長を歴任。運動部長は、写真部長と兼務で1年間ほど務めた。
1938(昭和13)年、55歳定年となったが、運動部顧問の肩書は1958(昭和33)年8月1日75歳で亡くなるまで外れなかった。
弓館は、運動課長時代の1926(大正15)年1月26日から5月26日まで東京日日新聞夕刊に小説「西遊記」を105回にわたって連載した。その挿絵を描いたのが小杉未醒である。

挿絵は猪八戒だが、猪八戒をブタと書いたのは、小鰐が初めてという。
作家の筒井康隆は、子どもの頃に小鰐の『西遊記』を読んで「実に面白かった。とんでもないギャクがあり、講談調、落語調、漫才調と自由自在のくだけた文章に、ぼくはすっかり魅了された」と激賞している(2009年4月19日朝日新聞朝刊読書面)。
(堤 哲)
2022年4月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその19 千駄木薮下通りの光と影(後編)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
団子坂で見落とせないと思うのが、歌川広重の『名所江戸百景』「千駄木団子坂花屋敷」の錦絵である。この「千駄木団子坂花屋敷」に描かれているのは、『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」で「四季花屋敷紫泉亭、眺望ヨシ」と記される花屋敷に他ならない。場所は森鴎外記念館(観潮楼跡)の薮下通りを隔てたすぐ真向かいになる。求めるさいに、広重の「千駄木団子坂花屋敷」を知らなかったとは考えにくい。
勝手な思い込みに過ぎないが、観潮楼という一種新奇な建築物には、前代の町人文化の典型ともいえる紫泉亭を本歌取りした和洋折衷の意匠があったような気がする。薮下通りの「余り綺麗でない別荘らしい家」の一軒に、鴎外自身の観潮楼も含まれていたのではないだろうか。「植木屋のような家」というのは、紫泉亭をはじめとする千駄木の植木屋たちが衰退していく眼前の事実であったように思われる。

広重の錦絵は、1856(安政3)年の制作である。花屋敷の庭内には、池が設けられ、周りには満開のサクラを楽しむ見物客が描かれている。画面の正面奥には断崖がそびえ立ち、爪先上がりの石段が通じている。崖の頂上に建つのが「紫泉亭」である。2階と3階が桟敷席になっている。持ち主は植木屋の楠田宇平次だという。花園の見事さばかりでなく、高所からの「眺望ヨシ」を謳い文句にしていたのである。
眺望の良さという点では、紫泉亭と観潮楼に大差はなかったはずである。紫泉亭の2階と3階の桟敷席からも、観潮楼の望楼と同じように、遠く品川沖が眺望できたに違いない。というよりも、事の順序は逆で、観潮楼が建てられたのは、江戸が東京になってからである。永井荷風にいわせれば、鴎外は当代の碩学だった。
永井荷風の『日和下駄』に「崖」と題した一章があり、そこに薮下通りが出てくる。
根津の低地から弥生ケ丘と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂へ通じる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味あるところはないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。

『日和下駄』の初出は『三田文学』で、1914(大正3)年8月から翌年6月までの連載である。ここでいう「弥生ケ丘と千駄木の高地」とは、忍が丘にたいする向丘のことで、薮下通りはその断崖の縁に沿った道筋である。「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」とあるのは100年前のことで、いまではすき間もないくらい家が建て込み、道幅を広げて自動車も通るようになっている。とはいっても、人影はまばらで、車の往来も少なく、ひっそりしたというか、落ちついたというか、都心には珍しい雰囲気を漂わせている(略)。
藪下通りの道筋を『新板江戸外絵図』でたどってみると、出発点(終着点)は、本郷通り(日光御成道)の「一里塚」(本郷追分)で、終着点(出発点)もやはり本郷通りの「富士権現」(富士神社入口)である。富士神社は「ときの忘れもの」のすぐ近くにある。ギャラリーの3階テラスから神社の森が望める。この道筋は、簡単にいうなら、駒込(江戸時代の駒込村)を半円形に廻る本郷通りの脇道なのである。
『新板江戸外絵図』を見ていただきたい。『青年』の主人公純一が本郷追分から歩いたのは、この脇道であることが分かる。水戸家と小笠原家の屋敷(現東大農学部)沿いにしばらく進むと「大ヲンジ」(大恩寺)がある。その跡地に建っていたのが東京聖テモテ教会である。純一はここを右折し、根津新坂に出たのだが、この絵図ではその先に「甲府宰相殿」の屋敷地(現在の根津神社)があり、道はその手前で途切れている。「甲府宰相」は六代将軍徳川家宣の父綱重である。家宣はこの屋敷地で生まれた。根津神社には家斉の産湯の井戸と胞衣塚が残されている。
大恩寺前で右折せず、道なりに歩いていくと、やがて「甲府宰相殿」の屋敷地の北側に出る。ここで道は直角に左折する。そこから先が薮下通りである。
薮下通り西側の台地上は「太田摂津」(太田摂津守屋敷地)と「千駄木林」(寛永寺の御用林)が占めている。その一方、東側の低地は農地で、「田」と「畠」と記されている。
薮下通りは団子坂までだが、道はその先まで続いている。
団子坂との交差点の北西側に「子ズノゴンゲン」(根津の権現)とある。ここが根津神社の旧社地で、後に元根津と呼ばれるようになった。さらにまっすぐ進むと、動坂に至る。そこで田端からの道に合流し、北西から南西に方向を変えつつ進むと、「神明社」(駒込天祖神社)の北側をへて、終着点の「富士権現」にたどり着き、そこで本郷通りと合流する。
団子坂から動坂までは、大給坂(おぎゅうざか)・狸坂・きつね坂・むじな坂と坂が続く。いずれも進行方向にたいし直角に右折する下り坂である。ということは、薮下通りと同じように、この道も向丘から続く台地の縁に沿って拓かれていることになる。
千駄木の動坂は駿河台付近から南北に連なる台地(本郷台地)の北の端になる。そこで忍が丘から赤羽まで続く台地(上野台地)に、行く手を阻まれるような恰好で突きあたる。
この脇道に併行するように、根津と千駄木の低地に拓かれたのが不忍通りである。不忍通りは『新板江戸外絵図』にも『江戸切絵図』にも見当たらない。近代になってから作られた道路である。さらにその外側を藍染川(谷戸川)が流れていた。その流路跡を道路に整備したのが、現在の谷田川通り・よみせ通り・へび道ということになる。
永井荷風が『日和下駄』に書いた「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」という景観を彷彿させる崖が、薮下道から入った路地の奥に残っている。雑木や雑草が伸びるに任せて繁茂しているが、文京区の管理する緑地である。もと太田摂津守の下屋敷の一画で、現在は千駄木ふれあいの杜の名前がついている。
私は田舎育ちのせいか、なんとなく草刈り機やノコギリを持ち出したくなる。しかし、考えてみれば、これはこれで一見の価値がある気がしないでもない。住まいも田畑も、人の手が入らなくなると、たちまちに雑草がはびこり、そのうちに樹木が芽生える。やがて30年もすれば、もとの自然に回帰し、すっかり「樹と竹藪に蔽われて」しまう。それを見るだけでも学ぶことは少なくない。
千駄木ふれあいの杜のほかに、昔ながらの崖の面影を残して興味深いのが須藤公園である。ここは江戸時代に松平家(越前大聖寺藩)下屋敷のあった一画である。南側は根津神社の旧社地や植木屋六三郎の店舗があった元根津である。公園のある場所は、明治時代に入ると、政治家の邸宅になっていたが、その後、実業家の須藤吉左エ門の手にわたった。1933(昭和8)年、その須藤家から園用地として東京市に寄付され、さらにその後、文京区に移管されたとのことである(以下略)。
2022年4月11日
福島清さんの「活版工時代あれこれ」①高卒で毎日新聞に入社するまで

毎日新聞社印刷局養成員として入社したのは1957年。最後の活版制作紙面は、昭和から平成に代わった1989年暮の12月11日付の栃木版と群馬版。この日は私の53歳誕生日でした。なぜこの日になったのかは、いずれ説明します。
父は長野県諏訪市にある「南信日日新聞」(現在は長野日報)の文選工でしたので親子2代の活版工です。「活版」「活字」という言葉は実にいい語感で、スマホやパソコンなんかと違って堂々とした日本語です。今でも好きです。私の人生をつくった活版のあれこれを書いてみます。ひまつぶしに読んでみてください。
子どものころから勉強大嫌いでした。母親から「長男のくせに、ずくなし(なまけもの)で飽きっぽい」とよく𠮟られました。優秀な製糸女工だった母親には、目障りだったに違いありません。それでも中学を卒業したら農業か工員になりたいと思っていました。
進学先を決める頃になって、教師と高等小学校しか出ていない父が「高校に行け」というので、妥協して行きました。高校は進学校で250人中、就職組は1割程度でした。進学する気は全くありませんでした。
3年の秋、高校推薦で上京して2カ所ばかり受けたのですが不採用。最後に受けたのが毎日新聞で、受験番号は150番台でした。同期入社は14人ですから結構倍率は高く、就職難の時代でした。ちなみに読売新聞社には3人が入社しました。
*
3次もの採用試験の結果、1957年3月6日付で合格・採用通知が届きました。4月1日の入社式には、戸籍謄本、卒業証明書のほかに「作業衣上下(色はなるべく紺系統、新品でなくてよろしい)、履物(古革靴又は運動靴)、石鹸、タオル」とありました。敗戦後12年、まだ作業服支給なんてなかったんです。
*
1957年4月1日、入社式。南信日日新聞時代に「東日の活版に入るのは大変だ」と聞かされていたという父は「東日」を見たかったのでしょう。一緒に出席しました。同期入社は以下の14人でした。(配布資料順)
江守信正(東京・都立江北高校)大槻進(東京・都立本所工業高校)小木曽清実(長野・県立飯田工業高校)金子善夫(千葉・県立木更津第一高校)高梨武夫(山梨・県立甲府工業高校)長南英次郎(東京・都立第三商業高校)豊島篤(埼玉・県立大宮工業高校)中村守郎(千葉・県立安房第一高校)福島清(長野・県立諏訪清陵高校)前田武男(鳥取・県立倉吉東高校)松宮伸治(神奈川・横浜市立鶴見工業高校)三井順治(長野・県立長野工業高校)横山進伍(静岡・県立御殿場高校)若林健一(長野・県立長野北高校)
何と長野県が4人もいたのです。戦後の東京本社印刷局では、局長、管理部長が長野県出身で、積極的に長野県人を採用したようです。活版に配属された後、出身地を聞かれて「長野です」と言うと「また長野か」とあきれられたものでした。
*
余談です。
作家の新田次郎(本名・藤原寛人、諏訪市角間新田出身)は諏訪中学出身ですので私の先輩です。その新田次郎が『小説に書けなかった自伝』(新潮社、1976年刊)の「故郷を書く」で次のように書いています。
『霧の子孫たち』は昭和45年11月単行本として発売された。諏訪の友人たちがぜひとも出版記念会を諏訪でやりたいから出て来てくれと云って来た。行きたくはなかった。今さら出版記念会もおかしいし、こういう行事をやれば、必ず、呼ばれた、呼ばれなかったで、後になって苦情がでる。宴席で頭を低くしておし通せればいいが、少しでも相手に気にさわるようなことがあれば、酒の勢いをかりてきさま生意気だと難題をふっかけて来る者も出て来るであろう。諏訪というところはそういうところであった。(この続きも面白いですが省略)
諏訪の人間は狷介だということは、振り返ると思い当たります。戦後、諏訪地方事務所の厚生課長をした父は「諏訪(の地方行政)を治められりゃあ長野県の役人として一人前だと言われたもんだ」と言っていました。自慢だが自嘲だかわかりませんが、そんな風潮はいまどうなっているでしょうか。
(福島 清)
福島清さんは1957年毎日新聞東京本社印刷局養成員として入社、活版部配属。1974~1978毎日新聞労組本部書記長、1993年10月制作局次長、1995年12月定年退職。
2022年3月31日
堤哲さんが記事にした「白い本」 発刊から半世紀、ロングセラー本になっている!
作家檀一雄著『火宅の人』。そのモデルである民芸俳優、入江杏子さんの『檀一雄の光と影』(文藝春秋)を読んでいたら、「中央公論」「婦人公論」元編集長八木岡英治さんの名前が出てきた。
入江さんは《「いい文章というものは、うまく炊けた御飯のように飯粒が立って、自然に眼の中に飛び込んでくるものです」
私は今回この一文を書きながら、八木岡さんの言葉を思い出し、〈ああ、これでは駄目だなあ〉と何度も筆がとまりました》と綴っている。
八木岡さんの名前に記憶があった。図書館で毎日新聞の記事・紙面検索「毎索」にあたると、51年前に書いた記事がヒットした。

「アレッ、この本何も書いていない」――。
真っ白の紙を束ねてハードカバーをつけた「白い本」。1冊380円だった。
社会部3年生、遊軍の末席にいたときの原稿である。
ネットで検索すると、「白い本」はロングセラー本になっていた。ISBNも付けてA5判美装箱入り1,000円+税、文庫判上製550円+税で販売されている。版元は二見書房である。
国会図書館の蔵書にもなっていて、「Y88-1046」で請求すると、閲覧可能だ。

ついでに朝日新聞の聞蔵を検索すると、毎日新聞の記事の4か月後、10月9日付で八木岡さんが「ひと」で紹介されていた。
〈何が書かれているかわからない。その恐ろしさがネライで〉
八木岡さんは、当時59歳とあるから、とっくに亡くなっていると思う。
この記事は、今回初めて読んだ。というのは、その年の8月異動で私(堤)は大阪本社社会部に転勤となり、街頭班と呼ばれるサツ回りをしていた。事件・事故に追い回され、大阪の朝日新聞紙面に載ったのかどうかも知らない。
『檀一雄の光と影』の書き出しに、著者入江杏子さんの父、入江邦太郎は大阪毎日新聞(大毎)の記者だった、とある。1958年没74歳。人事部に問い合わせると、人事記録がない、という返事だった。
(堤 哲)
2022年3月22日
モロさん(諸岡達一さん)の祖父・父・伯母、3代4人が毎日新聞一家
かつて毎友会のお世話をしていただいた角田小枝子さんをご存知ですか。
東京毎友会の会員名簿には、明治39(1906)年9月30日生まれ、昭和36(1961)年9月、人事部で定年退職とある。平成11(1999)年92歳で亡くなった。
「モガだったですね。おかっぱ頭、服装がカラフルで芸術家風だった。スカート姿は見たことがなかった。いつもパンツ。小柄だが、何でもはっきりものを言ってね。怖いおばさんでもあった」と、人事部の後輩、立木鉄太郎さん(82歳)が思い出を語る。
立木さんは62年入社だから、小枝子さんとは入れ違いだが「角田さんは嘱託で1年残られたので、全舷でも一緒だった。でも、ほとんど口をきいたことはありません」と言う。
小枝子さんの父親は、角田浩々歌客(かくだ・こうこうかきゃく、本名:勤一郎)。整理本部の鬼才・諸岡達一さん(1959年入社、85歳)の祖父であることを、つい最近知った。そこで諸さんに尋ねると、メールで以下の返信があった。
《堤ちゃん、はーいはい。
・角田勤一郎の次女と諸岡新平と結婚。長男がモロ。
・角田勤一郎の長女は「角田小枝子」。
・角田小枝子は「知らない社員はいない」と言われた人事部の女ボス。
・角田小枝子は定年後・毎友会事務局でボス続行。あの彼女です》
◇

モロさん親子は、東京本社整理部に一緒にいて「大モロ」「小モロ」と呼ばれていた。「大モロ」諸岡新平さんは、79年逝去、77歳。
小枝子さんは、モロさんの伯母さんである。親子3代、一族4人が毎日新聞旧友なのだ。
さて、浩々歌客である。
この写真が掲載された『慶応義塾出身名流列伝』(1909年発行)によると、1869(明治2)年静岡県の現富士宮市生まれ。沼津中学から86(明治19)年、慶應義塾に入り、90(明治23)年、新設した大学部文学科に入学したが、間もなく中退。郷里に戻って養鶏をする傍ら漢文、和歌、俳句などを勉強。97(明治30)年1月、国民新聞、99(明治32)年2月、大阪朝日新聞で記者生活のあと、1905(明治38)年8月、大阪毎日新聞(大毎)に入社した。
08(明治41)年12月から菊池幽芳をついで大毎第2代社会部長。翌年6月学芸部長。11(明治44)年2月第3代社会部長福良虎雄が東京転出に伴い、第4代社会部長を兼務した。
大毎は1911(明治44)年3月1日に東京日日新聞(東日)を吸収合併する。で、浩々歌客は翌12(大正元)年7月東日学芸部長となった。東京へ転勤である。
浩々歌客の名前が残っているのは、1904(明治37)年3月に制定した慶應義塾の塾歌作詞者として。この年4月21日に行われた慶應義塾創立50年記念式典で歌われた。鎌田栄吉塾長らに作詞を頼まれたという。
天にあふるる文明の
潮東瀛(とうえい)に寄する時
血雨腥風(けつうせいふう)雲くらく
国民の夢迷う世に
平和の光まばゆしと
呼ぶや真理の朝ぼらけ
新日本の建設に
人材植えし人や誰(たれ)
野球の早慶戦は、その前年の1903(明治36)年に始まった。応援に歌うカレッジソングが必要だったのかも知れない。「見よ風に鳴るわが旗を…」の現在の塾歌は1941(昭和16)年1月10日に発表されている。
「漫遊人国記」は、大毎で好評連載。出版の際、坪内逍遥は序文で「この漫遊人国記は、一種の日本文明史論」と褒めたたえた。
また北欧文学者でもあり、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を日本に紹介した。
◇

浩々歌客は東日学芸部長在籍中の1916(大正5)年3月16日に亡くなった。48歳だった。
本郷駒込の浄心寺で行われた葬儀には、坪内逍遥、与謝野鉄幹、高浜虚子ら文壇・知名人らが多数詰めかけ、大毎・東日の社員を代表して菊池幽芳大毎学芸部長が「君と机を同じゅうすること11年」「今君を失うは文壇の損失」と弔辞を述べた。
コラム「茶話」の筆者で8歳下の薄田泣菫は、菊池幽芳と2人で文楽を見ている時、訃報を知らされた。「交友17年。君は酒好きだったが、量は大して飲むほどでなく、ちびりちびり盃を嘗めてさへ居ればよい気持でゐられるらしかった」と悼んだ(薄田泣菫全集第8巻)。
泣菫は、菊池幽芳のあとの大毎学芸部長である。
モロさんのオヤジ「大モロ」さんも机の下に一升瓶を置いて仕事をしていたといわれ、「小モロ」さんも、パレスサイドビル地下の蕎麦屋でいつもチビリチビリ飲っていましたね。
ただ、小枝子さんは下戸だったとか。
葬儀広告にある中村春二は、浩々歌客の従弟で、成蹊学園創立者。諸岡さん、安倍晋三元首相は、成蹊大学の卒業生である。
◇
追記:毎日新聞のOB同人誌「有楽ペン供養」(改題して「ゆうLUCKペン」)のバックナンバーを見ていたら、角田小枝子さんが1回だけだが、寄稿していた。1985(昭和60)年11月発行の第8集、満79歳だった。
毎友会の部屋で、ここに顔を出すOBたちの思い出話を聞くのを楽しみにしていた、と語り《私も新聞記者の子なので、男の子だったら一生平記者でもよいからと思ってもみた》。
《むかし大正元年9月のある暁方、人力車で帰宅した父が、昂奮ぎみに乃木大将の殉死を母や祖母に語っているのを聞いた時、まだ小学校にゆかなかった私は「新聞記者っていいなあ」と思った。
何がいいかわからなかったが、興味があったことはたしかだ。しかし明治生まれの女の子にはすべてむり、出るものはみんな打たれて女の子、女の子である。
身にしみた教育勅語はそうかんたんに忘れられない。「ケセラセラ」とすでに一生も終わろうとしている。みなさんの想出記を読ませて頂くのをひとつのたのしみに》
(堤 哲)
2022年3月16日
57年ぶりに蘇った堀一郎さんのスクープ



「こんな珍しい写真を入手しました」
長野支局3年生、堀一郎さん(2019年没78歳)が興奮して支局に戻って来たことを憶えている。松代地震の発光現象を地元の歯科医・栗林亨さん(当時62歳)が写真撮影に成功したというのだ。
特ダネ写真として、1965(昭和40)年12月29日付社会面トップで掲載された。
それが何故、今、蘇ったのか。
地震の発生は、従来プレートテクトニクス説で説明されていたが、最近発刊された『徹底図解 メガ地震がやってくる!』(ビジネス社)は「地震は熱エネルギーマグマの移動で連鎖・発生する」と説く。「国民の生命と財産を守るため、あえて世に問う“仮説の卵”」とうたい、松代地震の発光現象も図解で紹介している。
地震地質学者の角田史雄埼玉大学工学部名誉教授と、経産省現役官僚・藤和彦さんの共著。
この2人を結び付けて、この本をプロデュースしたのが、元東大全共闘の前田和男さん(74歳)。『続・全共闘白書』(情況出版)の編纂者の1人として2020年3月19日付毎日新聞「ひと」欄で紹介された。
その前田さんは「本書の最大の売りは、アメリカの地質調査所とスミソニアン博物館の地震データベースにアクセスして読者自身が予知作業をできることです。私もはまってしまい、週に1回はアクセスして巨大地震発生の可否を確認しています」と言っている。
詳しくは、『徹底図解 メガ地震がやってくる!』を読んでください。
松代地震の発光現象は、栗林亨さんが1966年2月12日04時17分、同年9月26日03時25分にも撮影に成功。松代地震観測所松代地震センター「松代群発地震50年特設サイト」に掲載されている。
《松代群発地震は1965(昭和40)年8月3日に3回の体に感じない地震から始まりました。地震活動は次第に活発になり、翌年の1966年(昭和41年)4月17日には震度1以上の地震が1日に585回(うち震度4と震度5が各3回)観測されました。松代群発地震の最大マグニチュードは5.4、最大震度は5でした。一連の群発地震により、地すべり、地割れ、家屋の倒壊・損壊、湧水による農業被害などがありました。死者は出ませんでしたが、度重なる地震により住民に多大な心理的不安をあたえました。松代群発地震は1966年をピークに地震活動は次第に沈静化していきますが、地震活動は現在でも続いています》
以上は、同サイトの解説である。
(堤 哲)
2022年3月15日
40数年ぶりの天文回帰 コロナ禍がくれた空白の時間 河野俊史・前スポニチ社長が「上を向いて、望遠鏡を」

その昔、天文少年でした。中学、高校、大学と、山に登り、島に渡っては時間が経つのも忘れて星空を見上げていました。アポロ宇宙船が月に到達し、日本初の人工衛星も打ち上げられた、そんな時代が影響したのかもしれません。
それでも次第に興味と関心が地上に向いてきて、新聞社に入ってからはひたすら地べたを這いずり回るような日々でした。ワシントン特派員時代に米航空宇宙局(NASA)の取材を担当し、スペースシャトルや火星探査機の記事を書いていた以外は、星空のことなどすっかり頭から消えていました。
40数年を経て、思わぬことが天文回帰のきっかけになりました。新型コロナウイルスの感染拡大です。それまでほぼ毎晩だった会食や会合がことごとく中止になり、ぽっかりと夜の時間ができたのです。ちょうど、仕事をリタイアする時期とも重なりました。
本当に久しぶりに夜空を見上げました。光害のど真ん中の東京・中野の拙宅から見える星はせいぜい2等星止まり。半世紀近いブランクで星座や1等星の名前も忘れかけていました。それでも深夜の静寂の中で、雑念を遮断できる時間は心地よく、何より懐かしいものでした。
ニコンを退職した友人の勧めでZ50という小型軽量のミラーレスカメラを購入し、天文ショップの新春福袋セールで中国製の安価な屈折望遠鏡(口径80mm)を入手して、星空の写真を撮り始めました。新しい望遠鏡を買ったのは、コツコツ蓄えた貯金をはたいた中学3年のとき以来です。驚いたのは、アナログからデジタルへと時代が移り変わる中で、カメラや望遠鏡の性能が格段に進化していたことでした。
天体写真は一般の写真と違って、星からの淡い光を長時間露出で捉えなければなりません。しかし、その間に星たちは日周運動で動いてしまうので、点像にするためには赤道儀などの架台を使って追尾するのです。フィルムカメラだった学生時代は、コダック社のトライXという高感度の白黒フィルム(新聞社でも昔、長巻を使っていましたね)を増感現像して、微かな星の光をあぶり出したものです。写っているかどうかは現像してみるまで分かりません。星の動きを追いかける赤道儀は手動で操作していました。
それがデジタルカメラになって一変していました。一枚一枚のカットはその都度、結果が確認できるだけでなく、パソコンで複数枚の写真を合成するコンポジットという方法で淡い光をさらに浮き上がらせたり、ノイズを減らしたりする処理が可能になったのです。望遠鏡や赤道儀もWi-Fiで接続したスマホの操作で目的の星雲や星団を自動的に導入し、その動きに合わせて自動追尾してくれる時代です。

さらに隔世の感があるのは、街路灯などの光害をカットし、星からの光の帯域だけを透過するBP(バンドパス)フィルターという特殊なフィルターを使うことで、都会の街中でもそこそこの写真が撮れるようになったことです。中野の我が家は木造3階建ての狭小住宅ですが、周囲に張りめぐらされた電線越しにベランダから星雲や星団の写真が撮れたときは、ちょっとした感激でした。何しろ、ほんの数キロ先は不夜城の光害地・新宿なのですから。天体写真の世界は昔とは様変わりしていました。
とはいえ、暗い空に勝るものはありません。昨夏以降、時間に少し余裕ができたこともあって、時々、遠征に出ています。月明かりの影響を受けない新月の時期、目的地は千葉県南房総市や館山市です。自宅から車を2時間余り走らせると、今でも肉眼で天の川が見える空が広がっています。


望遠鏡を使った星雲や星団の写真だけでなく、カメラ用の広角レンズや魚眼レンズを使った星景写真も最近の流行りです。ヤフオクで格安の中古レンズの掘り出し物を探す楽しみも増えました。行った先で同じような天文マニアに出会うことも少なくありません。定年後、数十年ぶりに天文復帰したという同世代の人たちが目立ちます。
話題のタネに、撮った写真を何枚か元写真部長の佐藤泰則さんに見せたら「この写真、アーカイブに下さい!」と声を掛けてもらいました。この世界の専門家から見れば足元にも及ばないレベルですが、何かの資料としてお役に立つことがあればと数枚を毎日フォトバンクに登録していただきました。天文少年、転じて天文老人の仲間入りをして1年目。思わぬ励みになりました。
(河野 俊史)
河野俊史さんは1978年入社。仙台支局、東京社会部を経てワシントン、ニューヨーク支局。東京社会部と外信部の各デスク、北米総局長、社会部長、東京編集局長、大阪本社代表などを務め、2015年からスポーツニッポン新聞社社長。21年6月退任。




2022年3月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその19 千駄木薮下通りの光と影(前編)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
連載その18(前編)では、森鴎外の『青年』を取りあげた。今回はその続きになる。主人公純一は、根津神社に参拝しないまま、裏門から出ると、それより薮下の狭い道に入り、爪先上がりの坂をたどって、団子坂に向かって歩いていった。
藪下の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌っている小さな家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まわれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間というのがこれだなと思って通り過ぎる。(中略)それから先は余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。(中略)爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、また右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鴎村の家だなと思って、一寸立って駒寄の中を覗いて見た。
「毛利某」こと「鴎村」が鴎外自身であるのは、いうまでもない気がする。次いで、その作風を、「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と評し、「純一は身震いして門前を立去った」と続けている。「竿と紐尺とを持って」という自嘲的な物言いの真意は、伊能忠敬が正確無比な日本地図を制作したように、ということだろう。世間が「身震い」しようとしまいと、筆を曲げるつもりはなかったと思われる。
「薮下の狭い道」は薮下通りのことだが、鴎外の旧居があったのは、薮下通りが団子坂に突きあたるすぐ手前で、現在は文京区立森鴎外記念館(千駄木1丁目23-4番地)になっている。団子坂は、『御府内備考』によると、千駄木坂とも汐見坂とも呼ばれていた。
汐見坂というからには、そこから海が見えたのである。鴎外は団子坂の邸宅を観潮楼と名づけ、「わたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆」が見えると書いている。記念館の目の前がしろへび坂である。実感的には断崖というのがぴったりするその坂の上に立つと、いまや品川沖は望むべくもないが、南東方向に目をやると、ビルとビルの間に、押上の東京スカイツリーが見晴るかせる。
藪下通りの景観描写に、「九尺二間」が出てくる。これは間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)のことで、粗末なむさくるしい住居や裏長屋の代名詞だとされる。それが無住になったまま放置されているのは、町が寂れていることをうかがわせる。
その先には「別荘らしい家と植木屋のような家」が続いていたとある。『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」をみると、薮下通り西側の高台は太田摂津守の下屋敷で、東側の低地は町人地(千駄木町)と百姓地になっている。明治維新で大名屋敷はなくなるが、やがてその跡地は市街化され、新興の有産階級が好んで住むようになった。そうした街並みのなかに「別荘らしい家」もあったのである。鴎外が団子坂に転居したのは1892(明治25)年である。観潮楼のあった場所は、太田摂津守の下屋敷北側に隣接する世尊院門前町か、そうなければ世尊院境内の一画だったようにみられる。
文中の「植木屋らしい家」とは、地方から上京したばかりの主人公の純一の目には、そう映ったということである。作者の鴎外は、団子坂に移ってかれこれ18年になる。土地勘は十二分にあったわけで、植木屋以外の何ものにも見えなかったはずである。千駄木の台地上に別荘が建つのは、江戸が東京になってからである。それにたいして植木屋という稼業は、江戸開府以来の伝統的な文化である。
「別荘」と「植木屋」を対照的に扱っているわけだが、この箇所には少しこだわってみたい気がする。というのも、明治時代に団子坂といえば、菊人形の見世物が有名だったからである。これを主宰したのは、もちろん、植木屋である。
この催しが執り行われたのは、神嘗祭と天長節を挟んだ10月初めから11月半ばまでの1か月余りだという。主人公の純一が団子坂を訪れたのは「十月二十何日」となっている。菊人形展の真っ最中のはずだが、それについては一言も触れていない。
夏目漱石の『三四郎』に、団子坂の菊人形のにぎわいぶりが、生きいきと描かれている。『三四郎』の初出は『朝日新聞』の連載小説で、1908年9月1日からその年の12月29までの掲載である。
右にも左にも、大きな葦簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れている。
連載その18(前編)でも書いたが、鴎外の『青年』はそれより2年後、1910年3月から『スバル』に連載された。ところが、その中間にあたる1909年の秋、団子坂の菊人形展に一大異変が生じた。
この年、名古屋の黄花園と菊世界という2軒の植木屋が、それぞれ両国の国技館と浅草公園の常盤座で大規模な菊人形展を開催した。それにとどまらなかった。東京の植木屋のなかからも、名古屋の植木屋たちに追随する形で、浅草の柴崎町や浅草公園に進出する業者が続出した。その結果、それまで菊人形の業界を独占状態にしてきた団子坂は大打撃を蒙り、没落の坂道を転がり落ちることになったというのである。
詳しいことは分からないが、『青年』の連載を始める前年の団子坂の菊人形展は、おそらく、火の消えたように寂しいものだったに違いない。「竿と紐尺とを持って」という筆致だから、うっかり見落としかねないが、前回に書いた子守の少女と同じように、団子坂の植木屋たちもまた、時代の過酷さに体を竦め、心をS字型に屈曲させていたのである。

3年後の1912年、全盛期には30軒あまりの植木屋が集った団子坂の菊人形展は、最後まで残った1軒である巣鴨の種半まで撤退してしまい、完全に消滅した、ということである。
薮下通りは、冒頭で述べたように、根津神社の裏門と団子坂の坂上を結んでいる。
『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」をみると、薮下通りから団子坂にかけての道筋に、「コノスヘセンタキ下丁」(この末、千駄木[坂]下町)、「シオミサカ、ダンゴサカト云」(汐見坂、団子坂と云う)とあり、また団子坂の中腹には「谷中ミチ」(谷中道)とも記されている。森鴎外の観潮楼跡(現在の森鴎外記念館)があったのは、この『切絵図』でいえば、「世尊院門前」(世尊院門前町)のあたりとみられる。
その団子坂を隔てた斜向かいに、「権現山、御立山、元根津ト云、植木屋多シ」と記される町人地がある。
「権現」は根津権現の略称。「御立山」は狩猟や伐採を禁じる山のことらしい。元根津の地名は、根津権現の旧社地だったことに由来する。「植木屋多シ」とあるが、この『切絵図』の制作された1854(嘉永7)年のころは、植木屋が軒を連ねていたとみられる(以下略)。
・おまけ

27日、館山へ日帰りで行ってきました。この日は西高東低の荒れた天候で、畑へ行くと、ソラマメが強風に煽られて、身を竦めていました。
しかし、もうそろそろ冬も終ります。その近くでは、育て損なったハクサイが、葉を丸めないまま、花を咲かせていました。
2022年2月28日
『野球博覧』モロさんのシールズ軍来日全記録

「シールズ軍来る!」
思わぬところで、このポスターに出くわした。カレッタ汐留B2にある電通の「アドミュージアム東京」の常設展「ニッポン広告史」に展示されていた。
サンフランシスコ・シールズで知る本物野球
無届けスコアシートから全6試合を詳細に検証
『野球博覧』Baseball Tencyclopedia(大東京竹橋野球団編2014年刊)354ページから390ページまで37ページに亘って、シールズ来日全試合の記録が詳述されている。
本の大きさはA5判だが、横組みで小さい活字がぎっしり詰まっている。1ページ48行×46字、2,208字、400字原稿用紙で5・5枚、200枚に及ぶ大原稿である。
筆者は、1959年入社、整理本部の鬼才・野球オタクの諸岡達一さん(85歳)である。「野球文化學會」(https://baseballogy.jp/ )生みの親でもある。
《10月15日(土曜日)朝6時半、僕は本郷区丸山新町の家を出た。後楽園の開門は午前8時。焦土の東京は雨。走るように歩いて35分。巣鴨にある私立・本郷中学1年生である》
サンフランシスコ・シールズ対巨人、初戦のプレーボールは午後2時5分だった。中学1年生の諸岡少年は、試合開始7時間半も前に家を出て、後楽園球場に向かった。
諸岡少年の興奮ぶりが分かる。初戦は学校が休みだったが、他の試合は、学校をサボって観戦、それが出来ない時はラジオにかじりついてスコアブックをつけた。
全6戦のスコアは以下の通りだが、ポスターの日程とは違っている。16日の対極東空軍は戦災孤児デーをうたい、新聞は「秋晴れの下、孤児達に最良の和やかな日曜」と報じた。
① シールズ13-4巨人(10月15日後楽園球場)
② シールズ 4-0東軍(10月17日神宮球場)
③ シールズ 3-1西軍(10月21日西宮球場)
④ シールズ 2-1全日本(10月23日甲子園球場)
⑤ シールズ13-4全日本(10月27日中日スタジアム)
⑥ シールズ 1-0全日本(10月29日神宮球場)
10月30日の日曜日は「オドールデー」と15歳以下の子ども4万人を後楽園球場に招待して、東京六大学野球の選抜チームと対戦した。
この試合、都内の小学校5年生以上と中学生が1校20~25人割り当てられたそうだが、当時小学校2年生だった私(堤)は、資格外で観戦することが出来ず、残念に思った記憶がある。諸さんや大島幸夫さん(84歳)は後楽園球場で観戦しているのだ。
日米野球の違い。カルチャーショックを諸さんが書いている。
《それは「昭和24年」……。目の前で、野球の認識の違いが展開する。驚異と畏敬と屈辱と憧憬。野球が違う。これこそが真の野球か。いまのいままで後楽園球場で見ていた日本野球連盟の職業野球は、あれは「野球にほど遠いのではないか」。日本野球選手たちの惨めな姿が衝撃的に過去となる。以下は、野球とは何かを斬新に認識した少年Mの昭和24年晩冬の覚書》
◇

『野球博覧』Baseball Tencyclopedia は、2014年に大東京竹橋野球団S・ライターズが創設30周年記念で発行した。団員が高齢化、もはや野球の試合が出来なくなって、解散記念でもあった。
Tencyclopediaは「天才」と「百科事典」の造語。米野球史家ジョン・ソーン氏『Baseball in the Garden』から「誰が野球を創ったか」を松崎仁紀さん(75歳)、川上・大下・長嶋ら「人物野球伝」、毎日新聞の野球に対する取組み、社内野球史など本文415ページ。
非売品としましたが、多少残部があります。送料とも@1,180円でお分けします。申し込みは へ。
(堤 哲)
2022年2月15日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その18 根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠(後編)(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53477870.html
根津権現の周りでは、明治維新を迎える段階で、およそ30軒の遊女屋が営業を続けていたとのことだが、東京府のお墨付きを得たことで、新吉原と同様の営業が大っぴらに出来るようになった。しかし、順風満帆とみえた色町の繫盛は長くは続かなかった。『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、その後の顛末が次のように書かれている。
同12[明治12・1880(ママ)]年には妓楼の数は90軒に増加し、遊女の数も128人から574人に急増した。(中略)しかし、同年、東京大学の開校の件が伝えられ、にわかに遊郭移転問題が浮上した。その結果、同21年、花街は深川区洲崎弁天町(現江東区)に移転した。
「東京大学の開校」が具体的に何を指すのか分かりにくいが、この「東京大学」というのは、先に述べた『青年』の冒頭に出てくる高等学校(東京第一高等学校)のことではないかと思われる。現在は駒場にある東京大学教養学部がその後身である。
東京第一高等学校は東京第一高等中学校の改称で、1889(明治22)年、この高等中学校が向ヶ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)に移転してくることになった。
ここは明治維新までは水戸藩邸と小笠原信濃守の下屋敷があったところだが、台地を下りた目と鼻の先に根津遊郭という江戸時代からの悪所があった。それが問題視された。その結果、1888年に根津遊郭は洲崎弁天町(江東区東陽1丁目)に移転することを余儀なくされたのである。
『青年』の純一は、本郷追分から高等学校の塀に沿って歩いたことになっているが、高等中学校が高等学校に改称されるのは1894年である。東京第一高等学校の塀のつきたところに、根津権現の表坂、すなわち根津新坂があり、純一はその坂の上から「人家の群れ」を俯瞰している。坂を下りた左手に根津神社の大鳥居があった。それより先が根津八重垣町(根津門前町)で、そこにかつて色街があった。
八重垣町では、遊郭営業の公許を得ると、新吉原(台東区千束4丁目)にならって、道の両側(現在の不忍通り)に200本あまりの桜を植込み、ぼんぼりを灯して、遊客を誘ったという(註14)。根津権現は、明治時代になると、ことの是非はともかく、神仏分離の廃仏毀釈と、門前の遊郭移転という二つの災厄に見舞われた。『青年』の主人公純一が根津を訪れたのは、根津遊郭が洲崎弁天町に移転して22年後ということになる。
三遊亭円朝の『牡丹燈籠』に根津の清水谷がでてくる。
『牡丹燈籠』の初出は、1884(明治17)年、若林玵蔵・境登造による速記本である。作品自体は文久年間(1861~1863)の成立とされる。

根津の清水谷に萩原新三郎という浪人が住んでいた。生まれつきの美男で、年は21歳になるが、まだ妻を娶っていない。田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていたという。そんな新三郎の根津清水谷の住まいに、谷中新幡随院の墓地から抜け出した旗本の娘お露と下女お米の亡霊が、夜な夜な、牡丹燈籠を下げてやってくる。
上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え、山に当たる秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変わらず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロンカランコロン、(中略)駒下駄の音が生垣の元でぴったり止みました。(中略)いつもの通り牡丹の花の燈籠を下げて、
先にも書いたように、忍が丘は上野の別称。向丘は忍が丘の向かいにある丘。池は不忍池。夜の八つ時(午前2時)を知らせるのは寛永寺の時の鐘。
それでは、根津の清水谷とは根津のどのあたりのことをいうのだろうか。
手元の資料やインターネットで調べてみたが、なぜか、根津清水谷という地名は探しだせない。しかし、ふだん街歩きの資料に使っている『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、明治時代の旧地名として、根津清水町(現在の根津1丁目)があり、西側に隣接して、向ケ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)があると書かれている。台地の下が根津清水町で、台地の上が向ケ丘弥生町である。二つの町の間に断崖または急峻な傾斜地があり、それが町域の境界になっている。
根津の清水谷では「向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」と『牡丹燈籠』は書いている。現在はマンションや学校などが建ちならぶ住宅地になっているが、かつて向丘の崖下には、樹木や下草の繁った間のそこかしこからから清水が湧き、それが小さな流れを造っていたのではないだろうか。根津の清水谷というのは、特定の一箇所というよりも、向丘の崖下一帯の総称だったかもしれない。さらに憶測を重ねれば、この小さな流れは藍染川(谷戸川)に合流し、上野不忍池に注いでいたのである。
『江戸切絵図』をみると、「水戸殿」(水戸藩邸)の東側に「小役人」と記した武家地がある。ここが明治時代の根津清水町であるが、江戸時代には清水横町と呼ばれていたという。『牡丹燈籠』の萩原新三郎は浪人といっても、田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていた。であるとすれば、この清水横町の住人であったと考えても、おかしくない気がする。

森鴎外が「溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある」と『青年』に書いたその小高い丘の上に、『江戸切絵図』は清水観音の御堂を描いている。
『江戸名所図会』にも、神仏分離で失われたこの清水観音が取り上げられている。観音堂は京都清水寺と同じ懸崖造りの伽藍様式に描かれていて、本文には次のような解説がつけられている。
観音堂 (本社の左、岡のうへにあり。洛陽清水寺の模(うつ)しにして、本尊千手観音の像は慈覚大師の作といへり)。
だとすれば、京都清水寺の崖下に音羽の滝があったように、根津権現の観音堂の崖下にも音羽の滝があったのではないだろうか。三遊亭円朝が『牡丹燈籠』を構想した幕末のころには、そこでも、耳をすませば、「清水の流れる音がそよそよと」聞こえていたように思われてならない。
2022年2月4日
元中部本社代表、佐々木宏人さんがオヤジさんの旧著『ブンヤ酔虎伝』紹介
先日、SNSのfacebookに竹橋の国立近代美術館で開かれていた、毎日新聞社も主催者に名を連ねる「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」を見に行ったことをアップした。

この中でこの展覧会を見に行ったワケを、当方のオヤジ〈佐々木芳人、1938(昭和13)年毎日新聞入社、社会部などを経て1967(昭和42)年出版局次長で定年退社〉が、民藝の骨とう品が好きで、柳宗悦さんの創立した日本民藝協会のメンバーだったことを記した。それが機縁で親父の本「ブンヤ酔虎伝 エンピツ・酒・古道具少し」(昭和42刊)を久しぶりに書庫から出して目を通し、柳さんが亡くなったその日の朝〈1971(昭和36)年5月3日〉に、京王井の頭線駒場東大前駅近くにある日本民芸館を偶然訪れたことがあるのを知ったと書いた。
この記事を目ざとく見つけた当欄の管理人?高尾義彦さん(元監査役)が、「オヤジさんの本のことを書いて下さい。旧刊紹介で---。」
「旧刊紹介、そんなのあり?」と思ったが、数十年ぶりでこの本を全部、読み返してみた。ところがセガレがいうのもなんだけど、べらぼうに面白い。本のほとんどが親父30年勤めて出会った戦前・戦後の社会部、政治部、運動部、外信部などの記者たちの酒にからんだ“奇岩怪石”の武勇伝ばかり。アマゾンで探したが売っていないようだ。
ほとんどがローマ字のイニシアルで書いてあるので、今となっては誰とわからない記者がほとんど。でも蕎麦屋で三人前を頼んでペロリと平らげるKさんは、大食漢で文化人まで広い人脈を持って“食の本”を何冊も出した東京編集局長、常務をやった狩野近雄さんだろう。
おかしいのは戦前の政治部記者のAさん、彼が貴族院と衆議院どちらの担当になるか議員の注目の的だったという。最前列の記者席で手鼻をかみ、そのネバッコイものが下の議員席に飛んでくるのだという。この人、酒を飲むと時間の概念がなくなり夜中の2時でも3時でも平気で政治家や仲間の記者の家の玄関をたたいたという。
戦後の有楽町時代の毎日新聞で社会部記者二人が、血だらけで上がって来てソファーに寝込んだのはいいが、翌朝起こされて、なんで血だらけなのか覚えていない。夕方、飲み屋の女将さんが会社に心配して電話をかけてきた。二人が激論を交わして殴り合いを始めて血だらけになりながら、会社に上がったのだという。
こういう武勇伝がゴロゴロ。
だけどそれだけではない。親父が静岡支局長だった当時、東海道線で事故の原稿を通信部主任の若い奥さんが、赤ちゃんを背負い、支局に届けた。その第一声が「締め切りに間に合うでしょうか?」。家族ぐるみの通信部記者の哀歓を書き記している。
自分の体験で新婚時代、台風の来襲で駆け出し時代、社会部警視庁クラブで被害状況を本社に送っていて、大森の川沿いの貸家に帰れず、ようやく翌日の夕刻、自宅に帰ってみたら「畳を上げた部屋の片隅に、たった一人、女房はぐったり、しょんぼり座っていた」。母にこの話を聞いたことがある。
女性記者の話には笑った。世間的に名の知れた美人の記者の結婚話。彼女にウインクを送る同僚記者が多数いる中で、ある記者が電撃的に彼女を喫茶店に呼び出しポケットから小瓶を見せ「これは青酸カリです。あなたにプロポーズします。断られたらこれを飲みます」。彼女はOKを出すが、実は小瓶の中身はコーヒーの粉だった―という。二人の顔が何となくわかる。プロポーズしたと思われる相手の顔を思い出すと可笑しい。
携帯電話もなく、電話も数軒に一台の時代。まだまだ新聞が情報源のNO1の時代。戦中・戦後の苦難の時代はあったが、良き仲間、良き社風の中で、オヤジたちは良き時代を過ごしたな―、としみじみ思う。
この本の中でオヤジは「一枚の名刺で、下町のおっさんであれ、政財界の大御所であれ、『やあ・やあ』『ようよう』とこころよく会ってもらえるのも、その記者自身の力ではなく、記者の背後にある、何百万の読者をもつ、毎日新聞の力なのである」と、会社の定年後のさびしそうな仲間の姿を見て記している。当方も何回か聞かされた。
今の時代、この言葉が無力ではないことを信じたい。
(佐々木 宏人)
※「ブンヤ酔虎伝 エンピツ・酒・古道具少し」は昭和42年6月5日刊・鶴書房、と牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」。2016年1月20日号に掲載された鯨岡阿美子さんの追悼録によると――
「昭和18年から昭和21年の初めに毎日新聞に一人の女性記者がいた。その名を鯨岡阿美子という。社会部先輩の佐々木芳人さんはその著書『エンピツ・酒・古道具少し』でこう表現する。「今は独立してフアッション界で仕事をしているが、かつてNTVでプロデユーサーとして名のあった鯨岡阿美子さんは、政治部に居た。しばらくして、女性タイムスか女性新聞か、名前は失念したが編集責任者となり活躍していた。当時からキリキリシャンとした美しさとキリキリシャンとした仕事ぶりが強く印象に残っている」
佐々木さんとは昭和23年12月23日夜、巣鴨刑務所に張りこみ、東条英機元首相ら7人が処刑される模様を塀の外から取材したことがある。私が入社した時はすでに鯨岡さんは退社されていたが鯨岡さんの印象は佐々木さんと同じく”キリキリシャン“とした女性であった。後に知ったことだが、ご亭主が社内でも有名な名文家の古波蔵保好さん(社会部・論説委員)と聞いて変に納得したのを覚えている。
2022年2月2日
元校閲部副部長、赤川博敏さん(85)が、歴史探偵、半藤一利さんとの近所づき合いの想い出を綴る
「大の男が、テレビ(カメラの前)で泣くなんて、みっともないですよね」。我が家のお向かいの作家で歴史探偵の半藤一利さんが亡くなって1年になる。
21年1月12日午後、外出先から帰宅すると、商店街の外れ、自宅に曲がる路地の角に救急車が止まってる。もしや? と、思いながら帰ると、玄関に救急隊員、お巡りさんらが、あゝやっぱり。「一応伺ったけど取り込んでいるので……」と妻。救急隊員に確認したが「プライバシーなので」と。当たり前のことだが、当方もかなり狼狽していた。
20数年にわたる半藤さんとのお付き合いの思い出が走馬灯のように駆け巡った。25、6年前になるか、以前は一軒家だったがその前半分の土地(40坪くらいか?)で工事が始まった。先ず地下工事が、大工さんに聞くと「何でも有名な作家で、地階全体を書庫に」と、大変な蔵書だなと驚かされた。まもなく瀟洒な家が完成した。
知り合いのきっかけは今でも記憶がない。というより日常生活の中で自然にお付き合いが始まった。多分、夏目漱石のお孫さんの末利子夫人との何気ない日常の会話が、きっかけだったと思う。ご夫婦ともとても気さくな人というのが第一印象だった。

さて冒頭の言葉だが。2001年10、11月NHK教育TV(Eテレ)「人間講座」で半藤さんの「清張さんと司馬さん」という8回連続講座があった。その最終講、松本清張の話の最中、突然絶句、目を真っ赤にして涙が。その翌朝、「講座終わりましたね」と夫人との会話のなかでの言葉である。みっともないは、ひょっとしたら「情けないですよね」だったかも(意外に言葉は結構きつい)。「ただね、主人は清張さんには特別の思い入れがあったようですよ」とも。
講座のなかで、半藤さんはカナダ、アメリカへの取材旅行のことに触れている。旅に出て参るのは、(清張さんが)酒を飲まないこと。夕食のとき、(こっちが)楽しみにしているビールを1杯か2杯あけないうちに、さっさと食事をすませ、「さあ、今日の取材について、部屋で大いに語り合おう」とくる。いじきたない呑兵衛は閉口する。3、4日して堪忍袋の緒が切れて「清張さん!たまにはゆっくりとビールを飲ましてくれ」と。翌日カナダからアメリカに飛ぶ空港で清張さんがソフトクリームを両手に、「これでも食べて機嫌を直して……」と。
そして最終回で1992(平成4)年4月20日、松本邸に取材に行き、翌21日3時の取材を約束した。その夜脳出血で倒れ、入院。取材は叶わなかった。清張さんのスケジュール表に「21日3時、文春」と書かれている。その話の時に、絶句となった。日頃の半藤さんは長身で度の強いメガネをかけ、いかつい感じであったが、顔を合わすと、にこやかな表情で対応してくれた。ときに、文春文士劇の半纏を着て下駄履きで、近所の古本屋に立ち寄ったりしていた。
末利子夫人とは羨ましいほど仲がよかった。「一生幸せにするから、結婚して欲しい」と口説かれた、と夫人は述懐している。自宅の隣に5坪くらいの洋風サロンができた。半藤さん「女房の希望なのでね」とポツリ。ここは編集者との打ち合わせに使われていた。
よく夫婦連れ立って食事にも。駅近くの居酒屋「K庵」(今はない)、蕎麦屋、創業50年近いP喫茶店(よく編集者との打ち合わせに利用していた=下写真)、下北沢の寿司屋など。時に出会う場合もあった。

ある時寿司屋でばったり。挨拶したら夫人が「あなた、あの本を差し上げたら」と。翌朝、早速、サイン入りの著書「幕末史」(2008年刊)をいただいた。夫人のメモで「いつもご迷惑おかけして、相手が野良ですから、また迷惑を……」と。実は当時付近に野良猫がかなり多く、夫人が野良猫数匹に時折餌をやっていて、いついてしまった。
さすが「吾輩は猫である」のお孫さんだな、と変な感心をした。ある深夜、ブザーがなった。こんな夜更けに、と出るとご夫妻が心配顔で。「実は猫がいなくなって」と半藤さん。もしやガレージかも、と開けると猫が飛び出した。その時の半藤さんのホッとした表情は忘れられない。
半藤さんの著書に初めて接したのは「日本のいちばん長い日」。半藤さんからは著書を何冊かいただいた。末利子夫人からも最初の著書「夏目家の糠みそ」(2000年)をはじめ、出版ごとにいただいている。「糠みそ」にはわれわれ夫婦が2度取り上げられている。
半藤さんは2019年8月、某新聞社での対談後食事をして帰宅途中自宅近くで転倒、大腿骨骨折した。それ以後亡くなるまで入退院とリハビリを繰り返した。20年9月、国勢調査の用紙を届けた時会ったのが最後になった。あの転倒はハイヤーで送ってもらったのに家まで乗りつけるのが憚られて途中で歩いての転倒。やはり半藤さんはシャイだったのだ。
末利子夫人は「酒好きで意地汚く呑んで事故を再三起こしたのですよ。今後一切呑ませません」と。身に覚えのある私にとっては耳の痛い話だった。そんなことで、あるとき、「赤川さん、お酒いただいたけど、主人には飲ませないのでお酒もらってくれない?」と声をかけられた。お宅に行くと「宅急便の箱開けて、どうぞ」と。開けると八海山の純米酒。

どうやら醸造元の広報誌への原稿の謝礼のようだった。半藤さんの歴史探偵の原点は45年3月10日の東京大空襲で九死に一生を得たことだと思う(「15歳の東京大空襲」筑摩書房)。そして8月15日を境に「『絶対』という言葉は絶対に使わない」きめた。あの戦争で日本国民は悲惨な体験をさせられたからである。死の前夜、半藤さんは夫人に「起きている?」と声をかけ、「日本人は悪くないんだよ」「墨子を読みなさい。2500年前の時代に戦争をしてはいけないん、と言っているんだよ。偉いだろう」(「墨子よみがえる」平凡社=右)と。これが「遺言」だったのでは、と思う。
そして遺作ともいうべき『戦争というもの』(PHP21年5月25日刊)が出た。これは孫の北村淳子さんが初めて編集を手がけたものである。骨折で入院中に半藤さん自身が企画したもので、「太平洋戦争 記憶してほしい名言37」あるいは「孫に知ってほしい太平洋戦争の名言37」彼女が編集することが条件だった。病院のベッドで企画の主旨を滔滔と伝えた。最終的には14項目しか書かれなかった。この遺作の末尾に『戦争は、国家を豹変させる、歴史を学ぶ意味はそこにある。半藤一利』と力強い筆致で書かれている。
今、安倍、菅、岸田と続く自公政権は戦争への道を再び歩もうとしている。多少なりともあの戦争の悲惨さを経験した者として、決して許す訳にはいかない。半藤さんの願いも含めて、もうひと踏ん張りしなければ、と思う。
最後に「サンデー毎日」2月6日号に末利子夫人の特別寄稿が載っている。それによると夫婦で熱烈なヤクルトフアンで、ヤクルトの優勝を見せてあげたかった、と。つい先日、夫人に12月にわれわれ仲間で優勝祝賀会をやったんですよ、と話すとうれしそうな笑顔を見せられた。
*
半藤一利さん没後の2021年5月10日に刊行された「墨子よみがえる」(平凡社ライブラリー)で、半藤さんは「いまの日本にいる“墨子”」について、次のように書いています。
ここでまた余分なことながら書いておきたいことがまたまた思いつかれた。中村哲さんのことである。このあいだ、編集者のおろくにせっつかれて、現代日本でただ一人の仙人たる安野光雅画伯と、在野にありながら司馬遷の『史記』に関しては他の追随を許さない学識をもつ中村憠(すなお)さんとの座談をまとめた「『史記』と日本人」(平凡社)を上梓した。
そのとき安野さんも中村さんも異口同音に「現代日本に墨子が存在するとすれば、それは中村哲さんをおいて他にいない」と推輓した。その中村哲さんである。まったく一面識もない人であるが、書物やテレビで知るかぎり、まさに世のため人のために奮闘努力し、われら現代人の手本ともしたい人で、わたくしもお二人の言に心から同感した。
(赤川 博敏)
・赤川博敏さんは1962年、大阪本社入社。大阪販売局(当時営業局)販売部(販売担当員)、77年編集局校閲部に異動、副部長。91年調査審議室編集委員。92年退社。
※福島清さん編集の機関紙「KOMOK会報第71号」から転載
2022年1月27日
企業人大学は千葉ニューパークホテルアネックスで始まった


1月27日付毎日新聞千葉版に掲載された訃報である。
現在の毎日新聞千葉支局のひとつ前は、新城さんが経営する千葉ニューパークホテルのアネックス1階にあった。JR京葉線千葉みなと駅前だった。
千葉ニューパークホテルは、1970(昭和45)年11月に開業した、千葉で最初のシティーホテルだった。新城さんは千葉の老舗旅館「篠原旅館」の跡取りで、明治大学を卒業して「これからはホテルの時代」と、千葉みなとの埋立地5千㎡を確保して、シティーホテルを建設した。36歳だった。
ホテルは大繁盛。73年の千葉国体(若潮国体)では皇太子ご夫妻(現在の上皇、上皇后両陛下)がお泊りになられた。
ホテルの隣接地は、毎日新聞社が新支局建設のために確保していた土地だった。新城さんは、その土地に目を付けた。
瑠璃夫人が言う。「支局に菊池哲郎さん(のち主筆、2016年没68歳)がおられ、お話したら不動産の担当は元千葉支局長で総務の林道彦さん(2009年没84歳)。菊池さんの結婚式で仲人をされたということで、話はトントン拍子で進みました」
毎日新聞千葉支局を1階、宴会場を2階にして、1976(昭和51)年8月アネックスがオープンした。建物の正式な名称は「新毎日会館」だった。

当時の桜井邦雄支局長(1988年没、59歳)=写真右・倉嶋康さんのFacebookから=が、2階で講演会ができないかと企画、「毎日新聞千葉企業人大学」は翌77(昭和52)年から始まった。
昔からある千葉の企業と、京葉工業地帯に新たに進出してきた企業を結びつけようとしたのが、発想の原点だったようだ。桜井支局長は、市原通信部の両川邦男さん(2019年没91歳)と湾岸の進出企業をひとつずつ回って、会員になってもらったという。
私(堤)は87年12月から90年3月まで千葉支局長をつとめたが、当時の手帳に会員企業は107社とある。89年9月が第150回の講演会で、講師は俳優の池部良と、作家の桐島洋子を招いている。それから30年余経っているから、企業人大学の講演会は500回を超えていると思う。
そして幕張新都心の建設が始まり、新城さんはホテル「ザ・マンハッタン」をオープンする。1991(平成3)年7月だった。
新城さん夫妻は世界中のホテルを見て回り、「旅先のわが家」をコンセプトにした。巨大ホテルの時代は終わった。だからチェックインのときも、椅子に座って手続きをする。客室へのエレベーターは、カギを持っていないと乗れない。全130室オールスイーツ……。
1993年7月の東京サミットでは、期間中、このホテルでシェルパ会議が開かれた。サミットの宣言は各国首脳の側近たちによって起草されるが、シェルパとはヒマラヤ登山のガイド、つまり首脳たちをサミット(山頂)に導くという意味で名づけられているという。
現在の天皇陛下も皇太子時代にお泊りになられている。
しかし、ちょっと早かった。時代が追いついてこなかった。融資先の銀行から売却を迫られ、手放さざるを得なかった。
今「ザ・マンハッタン」の公式HPを見ると、ラグジュアリーホテルをうたい、「アメリカの旧き良き大邸宅を彷彿させるエントランスとアールデコ調に統一されたインテリア。優雅なひとときのはじまりです」「ビバリーヒルズの邸宅の居室をイメージした客室は、淡い色合いで統一した上質の空間。大きな窓からは自然光をたくさん取り入れます。総大理石のバスルームでは、ゆったりと一日の疲れを癒してください」……。
だから訃報の肩書は「ホテル ザ・マンハッタン創業者」なのである。
(堤 哲)
2022年1月26日
社会部記者はすごい――『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠』を読み、小畑和彦さんを偲ぶ
私はこの本の筆者の5年先輩の67年入学の早稲田生でした。
2~3年生の時、「早稲田新聞」というサークルで、この本にも登場するノンセクト集団「反戦連合」に参加しました。「反戦連合」は大学改革を求めて、学内を占拠し、大学執行部と渡り合いました。学内制圧を目論む文学部の革マル派が、「反戦連合」を敵対視し(我々も反革マルを標榜していましたが)、大学占拠から数か月たって、「反戦連合」を襲い、本部内に残っていた7人を拉致。数十時間に及んで殴るけるの暴行を加え、息も絶え絶えになった彼らを、あろうことか、埼玉県の山中に遺棄したのです。
幸いにも、この7人は頑健な人物ばかりで、死者こそ出さなかったものの、彼らが健康体に復帰するまで数か月~半年を要しました。
川口君事件に先立つ、同派の「内ゲバ・暴力体質」を如実に示した事件だったのです。
小畑さんが川口事件からその後の学内の動きを取材していたことはこの本で初めて知りました。彼は、社会部の先輩で長く付き合ったのですが、この件は知りませんでした。しかし、この時の学内の動きを伝える彼の記事を読んで、本当に誇らしい気持ちになりました。「やはり、毎日新聞は、社会部記者はすごい!」と。
私が毎日新聞を受験した理由の一つに、当時、学生運動についての社会面の記事の書き方にもありました。朝日新聞はいつも“上から目線”の記事ばかり、その点、毎日新聞は現場に目を据えて、体制側、学生側のどちらにも偏らない事実を書こうとしているように見えました。(実は、学生側の意気に感じた記者たちの手によるものだった、とは社会部に来てから、初めて知りましたが)
何度読んでも許せないのは、本の最終に出てくる当時の文学部自治会の副委員長だった「大岩」なる人物です。今は巧みに名前を変えて「辻信一」と名乗り、大学教授にもなったといい、筆者の樋田毅さん(69歳)のインタビューに、当時のことについて「反省」の一言もありません。自分も中核派から暴力を受けたとして、多かれ少なかれ、当時はみんなそうだった、と話しています。
事実は違います。当時の我々は「堅気さんには迷惑をかけない」、つまり、一般学生には手を出さない、という矜持はありました。それが無かったのが、革マル派です。「大岩」氏は、“反革マル”の一般学生を手始めに、手あたり次第の暴力をふるっていたのです。川口事件の責任を取って、表舞台から消えていき、その後の人生で、栄達を求めず故郷で逼塞し、亡くなった田中委員長を「彼は逃げた人間」と言い放つ、この神経。この落とし前は、彼自ら、死ぬ前にきっちりとつけてほしいものです。
もう一点、誇らしかったのは、最終的に革マル派を学内から追い出した奥島孝康先生です。私は早稲田大学探検部OB会に所属しており、先生はかつては探検部の部長でいまはOB会の名誉会長です。革マル派の資金源になっていた早稲田祭の廃止にまで踏み切って、彼らを追い出したのですが、そこに至るまでの彼らの嫌がらせはすさまじいものがありました。学内で先生に付きまとい、色々と脅すのです。我々の学生時代から続いた、革マル派と大学当局との癒着は全てこの“脅し”の手法でした。総長選で彼らの力を借りた人物までいた、と噂されていました。
先生も学内を歩くたびに“革マル派”に付きまとわれ、最後には、自宅に忍び込まれ、書類などを盗まれた、と言います。そうした、圧力に抗した、彼の精神、これまた“早稲田”らしいとも、思います。
樋田さんは朝日新聞の記者だったそうですが、いわゆる“朝日らしくない”良い記者だったことと思います。本当に良い本を書かれた、と感謝します。
《追記》
革マル派に襲撃され、重傷を負った高橋公(ひろし)さん(通称ハムちゃん)=現認定NPO法人「ふるさと回帰支援センター」理事長=の著書の写真です。この本には革マル派からの襲撃を受けた当時の様子を詳細につづられています。彼はその中で「私は学生運動にはリンチや個人テロは必要ないと考えていた。20歳そこそこの学生が同世代の学生にリンチを加えるなど、思想的に耐えられないと思った。まだ親の脛を齧っているような学生が、一体どうやってその責任を取るというのか。もし、こうしたセクトや団体が政権を取ったら、一体どのような社会が作られるのだろうか。究極の恐怖政治が行われることになるに違いない」と綴っている。
(元社会部長・清水 光雄)
2022年1月24日
新婚旅行を中止してリンチ殺人事件の取材にあたった小畑和彦さん~『彼は早稲田で死んだ』著者・元朝日新聞記者との交流~



50年前の1972(昭和47)年11月8日夜、早稲田大学文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生の川口大三郎さん(20歳)が、「革マル派」学生たちのリンチにより殺され、遺体が東大病院の前に遺棄されるという事件があった。当時第一文学部1年生だった元朝日新聞記者・樋田毅さん(69歳)が『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社2021年刊)を出版した。
この事件が発生した時、4方面新宿署担当の小畑和彦さん(当時28歳)は新婚旅行中だった。事件前日の11月7日、高校時代に知り合った女性と母校早大の大隈会館で結婚式をあげ、2泊3日の予定で信州・木曽路へ新婚旅行に出掛けた。
朝、温泉宿のテレビで事件を知った。《電話に出たデスクは「いいよ。新婚旅行を続けろよ」と言った。しかし、私はいても立ってもいられなかった。女房に有無を言わさず新婚旅行を切り上げ、国鉄中央線(当時)の新宿駅に着くと女房と別れ、すぐに早大の取材現場に駆け付けた。新居に落ち着く間もなく、結婚早々から激しい取材が始まり、記者クラブや本社に止まり込むのは当たり前、帰宅できても午前様の日々が始まった》と、現在もインターネット上に残る「新聞記者になりたい人のための入門講座」にこうある。
小畑さんは、第一文学部の学生大会で革マル執行部をリコールして新自治会臨時執行部の委員長(その後、正式に委員長)になった樋田さんを紹介する記事を書いている。
純粋な行動こそ
“20日間”が彼を強くした
―ある学生の軌跡―
《H君(20)、文学部一年生。暫定自治会規約などの議案書作成者の一人だ。小柄だが特徴のある長髪、あごヒゲをふりかざし、千人を超す学生を前に熱弁をふるった。しかし川口君が殺される前まではコンパ(飲み会)を愛し、酒に酔っては友と肩を組む学生だった。彼を知る友人は「ヤツはこの20日間で本当に変わった」》
《だが、問題解決はこれからだ。「どのセクトにも支配されず全学生の総意を反映する自治会を作りたい」と断言するH君。本当の戦いはこれから始まる》
樋田さんは、「H君は変わった」の見出しを付けて著書に取り込んだ。
《記事は「愛知県の田舎町」から出てきた青年が、早稲田での学生運動で様々な経験をして、成長していくという物語に仕立てられていた。
気恥ずかしくもあったが、それまで意識したことのなかった自分に、その記事を通して出会えたようで新鮮だった。「事件を伝えるだけではなく、無名の人にも光を当てる記者の仕事は面白い」と素直に思えた。この体験は、私が新聞記者を志すきっかけとなった》
その後、樋田さんも10人前後の革マル派に鉄パイプで襲撃され、救急車で病院に搬送された。1カ月は自力で歩けないほどの重傷だった。
◇
《数年後、私が大阪本社に転勤していたとき、彼から「朝日新聞記者として入社が決まった」と連絡があった。大阪に行く用があるとのことで、一晩、千里ニュータウンのわが家に招き、合格のお祝いをすることになった》
《大学4年生のときと次の年、私がいた毎日新聞を受験しようとしたが、経営難で採用中止のためチャンスがなかった。このため朝日新聞を受験し、合格したのだという。面接では本来、毎日新聞希望だったことなどを包み隠さず打ち明け、私から取材された経験なども話したという。そこまで聞いて私は胸がいっぱいになり、言葉が出なくなった記憶がある》
《彼とはその後も交流が続き、結婚する女性を紹介されたり、小料理屋で楽しく酒を酌み交わしたりしてきた。彼も私と同様に社会部を中心に記者生活を送り、大事件の渦中にいたこともある。…(高知)支局長として地方に赴いたときには「遊びに来ませんか」と定年後の私に書いてきたこともあった。その彼も今年(2012年)定年を迎える。いったん小休止し、再び意義ある定年後ライフを送ってほしい》=「新聞記者になりたい人のための入門講座」
68入社の小畑和彦さんとは、水戸支局で一緒となり、65入社佐々木宏人さんと64入社の小生の3人で同じ下宿にいた。小畑さんが体調を崩して入院した際、言われた言葉がまだ耳に残っている。「ツーさんに酒を教わらなければよかった」と。
2012年4月1日逝去、67歳だった。
(堤 哲)
2022年1月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その18 (抜粋)根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454526.html
根津神社南側の大鳥居のあたりから西方に向かう急こう配の坂道がある。本郷通りと根津谷をむすぶ新しい坂なので、新坂と呼ばれている、と現地説明板には書かれている。「江戸切絵図」には見あたらないから、明治時代になって造られたのである。
この坂を上りきる手前に、大正末か昭和初期に建てられたと思われる西洋風の木造住宅が何年か前まで残っていた。街歩きの通りすがりにたまたま見つけたのだが、塀も門もないこの家のひっそりした佇まいに、言葉にならない懐かしさを覚えた。半世紀以上も前に、郷里の館山でみた街並みをふと思い出したのである。
森鴎外の『青年』にこの坂が出てくるという。鴎外は『山椒大夫』と『鈴木藤吉郎』しか読んだことがない。まさかと思ったが、不肖の息子の本棚を見ると、文庫本の鴎外全集がならんでいた。

主人公の純一は、本郷三丁目で電車を降りると、本郷通りを歩き、追分から高等学校(東大教養学部の前身)に沿って右に曲がり、訪問先の根津権現の表坂上にある下宿屋の前にたどり着いた。そこが訪問先である。すぐそばがT字路になっていて、右折すると、左手に出来たばかりの会堂(東京聖テモテ教会)があった。約束の時間にまだ早すぎた。そこで純一は今坂すなわち根津権現の表坂の方にむかって歩き、坂の上にでた。
割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。
灰色の薄雲をしている空の下では、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群れが見える。
『青年』は鴎外の49歳のときの執筆で、1910(明治43)年3月から雑誌『スバル』に連載された。日露戦争の終結から5年後である。この年には大逆事件が起きている。
作品名の『青年』は小説家を志望する地方出身の青年純一のことだが、鴎外自身の青年時代をコラージュ風に点描するだけでなく、急激な西欧化と富国強兵に悲鳴をあげる近代日本の姿を折り重ねた印象がある。「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲」した坂とは、鴎外自身の半生であると同時に、明治という時代の血の轍であっかもしれない。
「上野の山」は忍が丘と呼ばれた。「向うが丘」(向丘)は忍が丘の向かいにある丘の意味で、現在の本郷から駒込一帯の総称である。この二つの丘陵の間には、連載その12 で書いた藍染川(谷戸川)が、そのころはまだ、北から南に流れ、不忍池に注いでいた。
「上野の山」では1877(明治10)年から殖産興業政策として内国博覧会が開催され、第三回の1890年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)が開校した。東京大学の創設は第一回内国博覧会と同じ1877年である。当初、「向うが丘」(旧金沢藩上屋敷)に置かれたのは4学部のうち医学部だけだったが、1884年と85年に、それまで神田錦町にあった法学部・文学部と理学部が移転してきた。
新坂の上からは、上野と向丘の間に「人家の群れ」が見わたせた。藍染川の流れを境に手前が根津で、その向うが谷中である。坂を下りたところに根津権現の大鳥居があった。
境内に入ると、社殿の縁には、ねんねこ袢纏(ばんてん)の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻きをした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦(すく)めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。
「溝のような池」とその「向うの小高い処」いうのは、現在のつつじ苑のあたりのことである。続けて、鴎外は「濁ってきたない池の所々には泡の浮いている」と書いている。小説のなかの情景描写といってしまえばそれまでだが、『青年』を執筆した1910(明治43)年のころ、根津神社の境内は、見事に整えられた現在の景観とちがって、かなり荒廃していたことがうかがわれる(以下略)。

2022年1月11日
寺井宏君(元西部本社制作局長)を偲ぶ
《元スポーツニッポン新聞社社長、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」から転載》
毎日新聞で一緒の仕事をした寺井宏君がなくなった(昨年12月10日・享年85歳)。私は弔電と花輪を送った。夫人谷子さんが主宰する俳誌「自鳴鐘」1月号によれば「俳句結社を主宰するという仕事と主婦、妻、母と努めてこられたのも共通する価値観と包容力のおかげである」述べている。当日式場の模様を当時西部本社整理部にいた早原順一君が毎友会の追悼録で書いている。
<式場より> 小倉北区北部の文教地区にある葬儀場は、寺井さんの自宅と、岳父の故・横山白虹氏の自宅近く。棺の中の寺井さんは、穏やかで、昇華したような姿に思えた。両脇には牧内節男氏、2人のご子息の勤務先会社、谷子夫人が主宰する俳誌「自鳴鐘」の同人から寄せられた供花。受付横には、社の同僚たちと語り飲む姿、お孫さんと遊ぶ生前の写真が飾られ、その下に数冊の文庫本、開いたままのページは読みかけだったのか…。
私が西部本社代表のときは私の部屋に来るのはもっぱら編集局長で、編集局次長だった寺井君とはそう頻繁に顔を合わせたわけではない。だが俳人、医者であり北九州市の著名人であった横山白虹が義父だからそれなりの親交はあった。その寺井君を心配させる出来事があった。平成13年、私はネット上で「銀座俳句道場」を設立、選者は寺井谷子さん。当時谷子さんはNHKの俳句の選者をしておられた。その縁でその俳句の番組に出演した。寺井さんが私の「ひまわりの先に1945年の恋」の句を認めていただいたのがきっかけであった。平成13年8月18日放映のNHKテレビ「NHK俳壇」にゲスト出演した。当時を思い返してみると冷や汗が出る。寺井君は終始ハラハラ・ドキドキして見ていたと後で聞いた。
司会は好本恵さん。寺井さんは「銀座俳句道場」の選者。その人の「出よ」の指示をむげにことわるわけにもいかず、恥を忍んだ。「ひまわり」の句は平成13年8月の兼題のひとつ。昭和20年の夏、私は陸軍士官学校の最上級生で、長期演習の名目で長野県北佐久郡の協和村の小学校で寝起きして訓練に励んだ。演習の合間にふと見かけた可憐な乙女へあわい恋心を抱いた。声をかけたことも話し掛けたこともない。19歳の若者はたわいもなく心をときめかした。それが思いもかけず句になった。この句を寺井さんが激賞した。この一句を、私は胸中の平和句集に「記憶」するとまで言ってくれた。
好本さんの巧みな司会と歯切れのよい寺井さんの解説、鮮やかな添削で30分はあっという間に過ぎた。視聴者からの投稿句を6句もコメントする機会を与えられた。自分自身が試されていると感じた。季語がすっかり溶け込んでいる句があり、感心した。これまで季語の座りごこちが悪い句ばかりしか出来なったので、目が開かれる思いがした。
寺井君よ。ありがとう。ご冥福を心からお祈りする。
2022年1月5日
2022年、毎日新聞創刊150年 サンデー毎日・英文毎日・点字毎日、創刊100年
謹賀新年
毎日新聞創刊100年は、1972(昭和47)年だった。

記念事業と銘打った「ゴヤ展」。京都市美で初日雑観要員として前泊。「裸のマハ」と「着衣のマハ」を大阪学芸部美術担当の解説で鑑賞したことを思い出します。
社史『毎日新聞百年史』も出ました。
150周年記念事業の目玉は、何なんでしょうか?

◇
元英文毎日半田一麿さんの1月1日配信のブログから。
ベルギーの首都ブリュッセルに本部を置く国際ジャーナリスト連盟(IFJ)は2021年12月31日、21年中に世界で殺害された記者は計45人だったと発表しま した。過去の記録と比べ「最も少ない年の一つ」になったということです。
同連盟は声明で「減少は歓迎するが、記者への暴力は続いており、小さな癒やしだ」と指摘しました。犠牲者はアフガニスタンで最も多く9人が亡くな りました。Aljazeera紙はMedia watchdog says 45journalists killed in 2021→「国際ジャーナリスト連盟(IFJ)」は2021年中に世界で殺害されたジャーナリストは合計45人に達したと発表」と報じました。
地域別の死者ではアフガンを含むアジア太平洋が20人、南北米大陸10人、アフリカ8人、欧州6人、中東は1人でした。もっともイランでは「重大な事故」で2人が死亡したと注意を促しました。IFJは、現場で取材できる記者が減り「武力紛争に絡む危険は減った」と分析しました。一方で「メキシコの貧困地区から、ギリシャやオランダの路上まで、犯罪組織や麻薬カルテルの脅威が高まり続けている」と警告しました。
◇
喜寿を超えた毎日新聞OBの年賀状から――。
歴代首相で傘寿を超えたのは16人。戦後では東久邇稔彦102、中曽根康弘101、片山哲90、岸信介90、吉田茂89、石橋湛山88、宮沢喜一87歳。
他に佐藤栄作74、田中角栄75、橋本龍太郎68、大平正芳70歳。
「目下終活の真っ最中で手間は本棚の整理。捨てるに捨てられず、上記はその作業の副産物」とあった。
(堤 哲)
2021年12月27日
山内以九士氏の打率早見表があった50年前の運動部——元バイト学生・広島経済大渡辺勇一教授の思い出
毎日新聞OBの諸岡達一さんらが1999年に立ち上げた「野球文化學會」。その第5回研究大会が12月19日「野球と記録」をテーマに、オンラインで開かれた。「記録の神様」野球殿堂入りの山内以九士さん(1902~72,慶大卒)について孫の読売新聞記者・室靖治さん(54歳)が講演した。その中で山内さんが作って自費出版した、打率早見表「ベースボール・レディ・レコナー」の誕生秘話が面白かった。今では電卓でピッポッパだが、山内さんはタイガー計算機を使って700打数300安打まで計算、350ページに、下4ケタの数字15万8500個を収めた。両リーグの勝敗表の勝率やベスト10の打率算出には必需品だった。防御率の一覧表もあった気がする。


山内さんは1939(昭和14)年のセンバツ(当時は中等学校野球大会)を記者席で取材、大毎の記者から「打率早見表があったら」と言われたのがヒントになって、膨大な作業に取り掛かかったという。
「レコナー」を実際に使うのは、運動部の内勤、アルバイトの学生がもっぱらだった。その1人、元中国新聞運動部長、広島経済大学教授で野球文化學會会員でもある渡辺勇一さん(70歳)に《「レコナー」の記憶》を尋ねたら、以下の原稿が届いた。1971~74年の東京本社運動部が浮き彫りされている。
(堤 哲)
◇
末安運動部長、美嶺さん、池さん、泰さん、栄太郎さん、呉さん……
ご質問の小生の毎日運動部アルバイト時代の「レコーナー」(注:運動部ではレコナーでなく「レコーナー」と呼んでいた)の件ですが、ちょうど50年前のことであり、主な記憶は途切れてしまっています。おぼろげながら、当時の運動部の雰囲気をお伝えします。
「レコーナー」は「ベースボール・レディー・レコーナー」が正式な書名かと思います。ちょうど、国語辞典や英語辞書のような感じで、相当使い込まれていたようで、一部擦り切れそうになっていました。歴代、丁寧に使い続かれていたようでした。
私は國學院大学2年の1971年春、竹橋の毎日東京本社運動部でプロ野球キャップだった丸谷亘記者(元毎日書道会専務理事、2009年没76歳)に身の振り方を相談していました。今でいう仮面浪人で、2度目の早稲田挑戦に失敗したのです。丸谷さんは母親の遠縁にあたります。新聞記者志望であること、それも運動記者を目指していることなどを話すと、運動部のアルバイトを勧めてくれました。すぐに、デスクの内海邦夫さんに引き合わせ即決でした。
運動部アルバイトは内勤と外勤に分かれ、外勤はプロ野球の球場記者席でスコアを付けて「ボックススコア」を電話送稿します。たまたま野球のスコアがつけられた私は、外勤バイトからのスタートでした。とはいえ、すべての球場に派遣するわけではなく、3人いたバイト生がシフト勤務で後楽園、神宮、川﨑、東京スタジアムへ記者と同行していました。
器用に立ち回る私は、外回りの無い日は「坊や」と呼ばれる内勤のバイト補助も担当しました。原稿を整理部やラ・テ部に運んだり、スクラップしたりする役目でした。そんな時「レコーナー」と出会いました。打率計算に用いる便利な小冊子でした。まだ電卓は普及しておらず、計算はもっぱら筆算でした。野球のまとめモノの記事や大学野球出稿の際などに求められることがありました。
数学が苦手で往生している時、魔法の冊子を手渡してくれたのは古武士然とした鈴木美嶺さんでした。しばらくして野球規則委員や東大野球部OBと知り、驚いたものでした。「これを使ってみれば、計算が早いよ」と教えていただき小躍りしたものでした。縦に打数、横に安打数が並び、交わるところに打率が出てきた記憶があります。「レコーナー」はその後も重宝しました。同時に、美嶺さんの笑顔を思い出します。当時は、共同や時事からの記録配信はなく、自前で計算していたように思います。
貧乏学生はシーズン中、竹橋の社員食堂で夕食や夜食をとるのが常。ナイターのバイト後、厚かましく風呂に入ったこともありました。政治部・西山太吉さんの沖縄密約事件の頃でした。
アルバイトは1973年、4年の秋まで続けました。外勤、内勤とも楽しく、何より新聞社編集局のにおいが好きでした。時には出先の記者からの電話送稿をバイト学生が受けることもありました。単行本大(B6判)のザラ紙を横にして、3枚ずつカーボン用紙を入れて待機します。電話が鳴るとおもむろに原稿を受けるのです。「松杉の松」「山冠に…」など随分、字の解釈を覚えさせてもらいました。1972年ミュンヘン・オリンピックでは西独からの国際電話を受けこともありました。
当時の毎日運動部は多士済々でした。今でも即座にお名前が出てきます。
覚えているだけで部長の末安輝雄さん、部長待遇の池口康雄さん、鈴木美嶺さん、副部長(デスク)は内海邦夫さん、石川泰司さん、岡野栄太郎さん、浮田裕之さん、呉政男さん、松尾俊治さん、中村尚喜さん、部員では相沢裕文さん、丸谷亘さん、堀浩さん、矢野博一さん、戸田駿さん、荒井義行さん、西川治一さん、中沢潔さん、須田泰明さん、伊東春雄さん、六車護さん、鈴木志津子さんが浮かんできます。もう一人、全く運動部員らしくない異色の記者だったのが、増田滋さんでした。
上記の皆さんには大変よくしていただきました。相撲や水泳担当の中沢さんはご夫婦そろって母校、広島国泰寺高校の先輩でした。早大野球部出身の最年少、六車さんにはお酒の手ほどきをしてもらいました。岡野さんが元陸上五輪選手だったとは知らず、紅一点の鈴木お志津さんは横綱柏戸のファンでした。真夏の都市対抗野球では、お弁当をいただきに後楽園球場へ日参したものでした。
アルバイトの合間にマスコミ採用採用試験の勉強にも取り組んでいました。生きた教材は目の前にごろごろいます。とりわけ、作文指導をしていただいたのが隣の社会部デスクの前田利郎さん(1992年没63歳)でした。激務の合間に作文のテーマを出題し、添削してくれました。「結論をアタマに出せ」「自分のエピソードを盛りこめ」の教えを叩き込まれました。隣席の石谷竜生デスク(2007年没79歳)は國學院の先輩でした。記者の心構えを説いてくれました。おかげで、地元の中国新聞社と神戸新聞社(デイリースポーツ)から内定を得て、中国を選びました。後年、甲子園の高校野球取材に出向いた際、梅田の毎日大阪本社を訪ねて挨拶に伺いました。編集局長の前田さんが歓待してくれたのは言うまでもありません。
毎日東京運動部で育てていただいた私は1974年、中国新聞社に入社し81年から長く運動部に所属しました。ミュンヘンから電話で原稿を受けた大阪運動部の長岡民男さんには、陸上取材でお世話になったものです。1990年から4年間、東京支社編集部のスポーツ担当として東京でも勤務しました。パレスサイドビルの「オリオンズ」で懐かしさに浸ったものでした。
運動部長などを経て、60歳で中国新聞社を定年退職した後、広島経済大学にスポーツ経営学科教授として招かれました。スポーツジャーナリズムなどを講じてきました。それも2022年春、終えるつもりです。堤さんからの「レコーナー」の問い合わせを機に、ちょうど半世紀前を思い出すことができました。今日があるのは、毎日東京運動部のお陰と感謝しています。
毎日運動部のアルバイトはその後、早大アナウンス研究会の学生たちに引き継がれたようです。私の5代後のバイト生に同じ広島出身の岡畠鉄也君がいました。中沢先輩から「広島の学生が、中国の入社試験を受ける。協力してやってよ」と電話をいただき、尽力したことは言うまでもありません。岡畠君は現在、中国新聞社社長に昇進しています。余談ですが。
(広島経済大学教授・渡辺勇一)
◇
名前が出た当時の運動部員を背番号順に整理すると――。43呉政男、45増田滋・中村尚喜、48池口康雄・堀浩、49末安輝雄・鈴木美嶺、50松尾俊治・内海邦夫、52石川泰司・矢野博一・伊東春雄、53岡野栄太郎、54浮田裕之、55丸谷亘、59相沢裕文・59戸田駿、60中沢潔、61荒井義行、62西川治一、65須田泰明、68鈴木志津子、70六車護。多士済々である。
健在は浮田さん(92歳)、中沢さん(87歳)、荒井さん(84歳)……。
2021年12月15日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その17(後編)(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454525.html
サトイモの花をきっかけに読み直したもう一冊が、坪井洋文の『イモと日本人—民俗文化論の課題』である。ここでいうイモとはサトイモのことである。日本の正月を祝う儀礼食がどのように変遷したかをたどり、イネの文化とは別に、イモに象徴される畑作の文化ともいうべき価値体系があることを立証しようとした異色の論考として知られる。そのなかに次のような思いがけない記述があるのをみつけた。
千葉県安房郡冨崎村では、不幸のあった年には里芋だけは種子を切るといって、自分の家の里芋はすべて他家へ貰ってもらい、種子を絶やしてしまってから他から貰って植えるといっている。
この民俗事例を分析して、坪井洋文は「里芋に対してある種の霊的感覚とでもいうべき霊質の存在を認めた一つの証拠となるだろう」と論じている。思いがけない記述というのは、この冨崎村は現在の館山市布良付近のことで、私の実家はそれより西側になるのだが、わずか6キロほどしか離れていないからである。私が生まれ育った集落には冨崎やその近くから嫁いだ人もいるが、サトイモを特別視するそうした風習については耳にしたことがない。

サトイモはタネイモの周りにたくさんのコイモやマゴイモをつけることから、子孫繁盛の象徴とされた。それにとどまらず、作柄の良し悪しにより、その家の吉凶を占うようなこともあった、ということかもかもしれない。冨崎村では、悪いことの続くのを避けるため、サトイモの「種子を切る」とか「種子を絶やす」とかした。とはいっても、実際は廃棄も焼却もしないで、よその家に譲っている。どういうわけか。サトイモは植えつける畑を換えれば、衰えようとする生命力を復活させると考えていたのではないだろうか。
サトイモが特別視された作物であることについては、思いあたることがないわけでもない。子どものころ、正月の雑煮やお節料理の煮しめには、かならずサトイモが入っていた。というよりも、正月の料理というと、餅の次に思い浮かぶのはサトイモなのである。雑煮も煮しめもハレの日の特別な御馳走だった。まず仏さまと神さまにお供えをし、その前で家族そろって食事をとった。
村ではほとんどの家がサトイモを栽培していた。しかし、作付け量は、どこの家もごくわずかだった。サトイモは日常的に大事な食料というよりも、ハレの日に欠かせない食料だったように思われる。さらにいうなら、サトイモを畑作栽培の代表的作物とする忘れられた集合意識が働いていたような気がしないでもない。
サトイモは正月のみならず、盂蘭盆の行事にも欠かせなかった。お盆には盆棚を作る。私の家では、仏壇の前に棚を設けて、コメと水にミソハギの枝、スイカなどの果物のほか、サトイモの葉を供え皿にして、その上にナスとキューリを飾っていた。
母親の話では、キューリは馬、ナスは牛の見立てだという。祖先の霊は馬に乗るか牛(車)に乗るかして、あの世とこの世を行き来すると想像していたのである。8月13日と16日の夕方に盆の迎え火と送り火を焚く。その炎のなかに、ミソハギの枝で水を掛けながら、コメ粒を撒き、「ショウロゥ(精霊)さま、ショウロゥさま、ヤンゴメ(焼米)食いくい、ミズ(水)飲みのみ、来さっしぇ、来さっしぇ(帰らっしぇ、帰らっしぇ)」と唱えるのである。
私の家では、サトイモの葉を供え皿にしていたが、地方によってはハスの葉を用いていたようである。サトイモの葉はハスの葉の代用で、蓮華の台のつもりではなかっただろうか。蓮華の台に坐すのは、馬に乗るか牛(車)に乗るかした先祖の霊、ほかならぬ神さま仏さまということにならないだろうか。
2021年11月15日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その17 サトイモの花(前編)(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454523.html
8月最後の日曜日、畑で刈り取った木の枝や雑草を燃やしていると、草取りをしていた妻が、サトイモの花が咲いているという。また何かの勘違いだろうと思ったが、そうではなかった。行ってみると、紛れもなく、サトイモが花を咲かせていた。花の形はミズバショウによく似ているが、色は白ではなく、鮮やかな黄色である。
サトイモの栽培を始めてかれこれ10年になる。花が咲くのは見たことも、聞いたこともなかった。うっかりしていて、気がつかなかった可能性もないわけでもない。
狐につままれたような感じなので、とりあえず、写真に撮っておくことにした。自宅に買ったその日の夜、インターネットで調べると、いくつも報告事例が投稿されていた。サトイモの花が日本で見られるのは、たいへん珍しいことらしい。
そこで手元の『広辞苑』でサトイモを引いてみると、こう書かれている。
サトイモ科の多年草。原産は熱帯アジアで、世界の温帯・熱帯で広く栽培される。(中略)稀に夏、黄白色の長い仏焰苞(ぶつえんほう)をもつ、奇異な形の肉穂花序(にくすいかじょ)をつけることがある。雌雄同株。地下茎は多肉で塊茎、葉柄ともに食用とし、品種が多い。
ふだん使っているもう一冊の『新潮国語辞典―現代語・古語―』をみても、サトイモの花はとりあげられている。国語辞典は私たち日本人の知識の在りようを示す指標の1つである。花が咲くのが珍しい現象であること自体は、かなり昔から知られていたのではないだろうか。「仏焔苞」の「苞」は、花(「肉穂花序」)のつけ根にでる葉で、花を保護するため、これを覆うのだという。「仏焔」はよく分からないが、なんとなく仏像の光背が思い浮かぶ。「焔」は炎のことだから、無量光の慈悲を意味するかもしれない。
サトイモは房総半島ならどこでも見られる畑の作物である。私が畑を引き継ぐようになって、それまで栽培していたセレベスから土垂(どだれ)という品種に換えた。というのも、サトイモはタネイモの周りにコイモがたくさんできるのだが、スーパーのものと比べ、どうしてこんなに粒が小さいのか、と妻がくりかえし不平を漏らすからである。
ところが、品種を換えてみたものの、彼女を納得させることにならなかった。原因は別にあったのである。野菜作りの手引書を改めて読んでみると、サトイモは連作障害があるので、休耕期間を何年かおく必要があるらしい。マメ類の連作障害は知っていたが、なんということか、私の栽培する野菜の半数以上に連作障害があると書かれていた。
わが国で歴史的に最も重要視されてきた栽培作物はイネである。イネは毎年々々同じ水田で栽培しても、連作障害は発生しない。しかし、畑の作物栽培にはその常識が通用しないというのである。そこで、手引書を参考にしながら、いわゆる輪作の栽培方法をとり入れることにした。畑を何カ所かに区分し、連作障害のある種類は、空白期間を3年とか4年とか設けて、周期的に作付けするようにしたのである。
作物栽培の歴史は途方もなく古い。焼畑での耕作がその原初的な形態だろうと思われるが、畑作に連作障害のあることは、そのころから分かっていたのではないだろうか。福井県と岐阜県の境にある白山麓では、近代になっても焼畑による耕作がまだ続けられていた。宮本常一は1937(昭和12)年と1942年に現地を訪れ、聞き取り調査を行っているが、『越前石徹白民俗誌』のなかで、こんなふうに報告している。
先ず前年の土曜に芝や草を刈って、10日ほどそのまま日にかわかして火入れをする。その翌春、もえさしの木など二か所にあつめて焼く。また前年刈っておいたカヤをその上にまいてやく。こうして一年目ヒエ、第二年アワ、第三年ヒエ、第四年目マメをつくってゆく。(中略)このようにして長く作る所で七、八年、早ければ三年もつくり、その後二十年なり三十年なり山にしておいて、再び焼畑にするのである。
焼畑では肥料は使わない。何年か耕作を続ければ、土地はやせていく。そうなったら、耕作を放棄して、自然にもどす。30年もすれば、自然はもとの姿に復活する。
見落とせないのは、焼畑での耕作期間中は1年毎に作物の種類を替えていることである。その理由の1つは連作障害を避けるためではなかっただろうか。宮本常一の報告のなかに、サトイモは見あたらないが、佐々木高明の『縄文文化と日本人—日本基層文化の形成と継承』には、焼畑の代表的な作物としてサトイモが取りあげられ、かつ連作障害の回避策としての輪作への言及がなされている。
焼畑で伝統的に栽培されてきたおもな作物は、アワを筆頭にヒエ・ソバ・シコクビエなどの雑穀類、ダイズ・アズキなどの豆類のほか、サトイモ(タロイモの一種)やムギなどがあげられるが、これらの作物は伝統的な焼畑の輪作体系の中に組み入れられ、典型的な《雑穀・根菜型》の作物構成を有していた点に大きな特徴があった。
サトイモは古くから日本の各地で栽培されてきたとされる。では、それがいつごろかとなると必ずしも明確になっていない。しかし、サトイモが焼畑の典型的な栽培作物の一つで、その輪作体系のなかに組み入れられていたというのであれば、渡来の時期はサツマモ やジャガイモよりも桁違いに古く、あるいは稲作以前までに遡るのかもしれない。

2021年10月28日
スワローズ優勝を支えた野村語録!?
スワローズ優勝、おめでとう!
『国鉄スワローズ 1950-1964』(交通新聞社新書)の著者としてお祝いを申し上げます。
監督2年目、高津臣吾監督(52歳)は、昨年の最下位から一気にセ・リーグ制覇だ。恩師・野村克也さん(2020年2月11日没84歳)について聞かれ「褒めてはくれないでしょうね。ようやったな、ぐらいは言ってくれるかもしれないけど。ふんって、笑っているんじゃないですか」と答えた。

ノムさんが急逝される22日前の写真だ。明治記念館で開かれたスワローズOB会に車イスで現れたノムさん。愛弟子の監督就任がうれしかったのか。私(堤)がスワローズOB会にお邪魔するようになった2011年以降、ノムさんの姿は初めてだった。
前年2019年は小川淳司監督で最下位。「高津新監督で来シーズン優勝の可能性は」と司会者の質問に、ノムさんは「今のセ・リーグなら監督が頭を使えば優勝できますよ」と答えた。
高津監督1年目の2020年は最下位。ことしは「頭」を使った成果が出たのか。ナインを支えた「絶対大丈夫」が決め手だったのか。
毎日新聞の「ひと」欄。
《野村監督時代は毎日、試合前に1時間のミーティングがあった。監督の言葉を必死にメモしたノートは、ボロボロになった今でも自宅のすぐ手の届くところに置いてある。今年は、就任1年目よりも「ヒントはないか」とめくる機会が増えた》
読売新聞掲載の高津監督の手記。
《ベンチにマイクが置いてあったら面白かったと思う。気の利く一言や時には笑わせる一言が飛び交っている。みんなで一生懸命戦うという空気が充満している》
《9月の阪神戦前のミーティングで「絶対大丈夫」と繰り返した。負けが込み、ちょっと重い雰囲気になっていたから》
《10月23日に巨人に負けた後には「腹くくっていったれぃ!!」と記した紙をみんなの目につく所に貼った》
《優勝で僕なりの答えは出したが、野村監督の採点は50点かな。「一回勝ったくらいで……」。そんな声が聞こえる》
朝日新聞の記事に、高津投手の戦績があった。《広島市出身。広島工高3年時に春夏の甲子園に出場したが、2番手投手だったから登板はなかった。亜大でもエースの陰に隠れる存在だった。そんな経験も、選手への接し方に生きている。
現役時代はヤクルトの抑え投手としてリーグ優勝5度、日本一に4度輝いた。遅いシンカーをひっさげ、35歳で大リーグに挑戦。日米通算313セーブを記録した》 野村チルドレン、苦労人監督のセ・リーグ制覇だった。
◇
野村克也監督の偲ぶ会が12月11日に神宮球場で行われる。ノムさんが在籍したヤクルト、楽天、阪神、ソフトバンク、西武、ロッテの6球団が共同発起人で、午後2時から同3時30分までは一般にも公開される、と発表があった。
(堤 哲)
2021年10月21日
女優倍賞千恵子さんを記者クラブに呼んできた瀬下恵介記者。マスコミ寺子屋塾創設など果敢に挑戦――元朝日新聞平和担当記者が綴った思い出
10月2日の夜のことだ。テレビのチャンネルをひねっていたら、画面に俳優の倍賞千恵子さんが登場していた。「豪華!寅さん祭りスペシャル[山田洋次監督厳選!感動名場面]」という番組だったが、そこで語り出した彼女を見た瞬間、私の脳裏に浮かび上がってきた顔があった。それは、元毎日新聞記者・瀬下恵介さんの顔だった。なぜなら、私は57年前に図らずも新聞記者として倍賞さんに直接会う機会に恵まれたが、それは、瀬下さんの突拍子もない挑戦のおかけで実現したものだったからである。しかも、私は、この番組の数日前に瀬下さんの訃報に接したばかりだったから。
倍賞さんを記者クラブに呼んできた瀬下記者
私が瀬下さんに出会ったのは57年前のことだ。
朝日新聞東京本社社会部の記者だった私は東京五輪が開かれた1964年の2月から10月まで、東京・両国の本所警察署内にあった「墨東記者クラブ」(下町記者クラブともいった)に配属された。ここは、警視庁第七方面本部管内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の5区)の事件・事故を取材するための拠点で、新聞各社やNHKから記者やカメラマンが派遣されていた。そこで、私は毎日新聞社会部の瀬下記者と知り合いになった。
当時、警視庁第七方面本部管内では事件・事故が多かった。このため、墨東記者クラブに詰めていた記者はとても忙しかった。それでも、たまに事件・事故のない日があり、まして雨の日などは、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほかなかった。クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者と麻雀卓を囲んだりしたが、それでも、そうやって午前10時から夜10時までをクラブで過ごすのは退屈極まりなかった。
9月に入ったばかりのころだった。その日も事件・事故がなく、クラブ員は暇を持て余していた。すると、瀬下記者が突然、声を張り上げた。「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」
倍賞さんは当時、新進の若手俳優で、歌手でもあった。歌『下町の太陽』が大ヒットし、彼女主演で映画化された(監督は山田洋次)ばかり。今風に言えば、人気急上昇中のアイドル。「下町を大いに宣伝してくれた彼女に、下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」との瀬下記者の提案にクラブ員は皆仰天した。が、「こんなむさ苦しいところに来てくれるわけがない」とだれも相手にしなかった。
でも、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を投げ入れながら、どこかへ電話をかけ続けた。随分長い時間が過ぎ去った後、瀬下記者が突然叫んだ。「おーい、みんな、倍賞千恵子さんがくるぞ」
瀬下記者によれば、電話をかけた先は松竹本社。倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだところ、先方は難色を示したが、どうしてもと粘ったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれた、とのことだった。
10月1日、彼女は一人で本所署にやってきた。私たちは署長室を借り、そこへ彼女を案内し、コーヒーとケーキで彼女と懇談した。そして、彼女に「あなたは『下町の太陽』で、東京・下町の良さを全国に知らしめた」などと書いた感謝状と、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。当時、彼女は23歳。「きれいだな」。クラブ員から、そんな声がもれた。
彼女自身、大変驚いたようだった。後になって漏れ聞いたところでは、「わたし何も悪いことをしていないのに、どうして警察にゆかなくてはならないのかしら」と周囲に漏らしていたそうだ。

これには、後日談がある。9年後、私たちは倍賞さんと再会することになる。
すでに墨東記者クラブから去っていた、私たち旧クラブ員から「また、倍賞さんに会いたい」との声が上がり、私たち旧クラブ員が、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じた倍賞さんを招いたからである。
私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清さんも一緒に招いた。1973年12月16日。銀座のレストランで私たちは3人と昼食を共にしたが、倍賞さんは大スターに変身していた。が、本所警察署長室での初対面の時に感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。
この3人との交渉を担当したのはまたしても瀬下記者だった。
ところで、墨東記者クラブが倍賞さんをクラブに招いたことは、明らかにマスコミ界では珍事と言えた。だから、この話題は、すぐ他の警察記者クラブに伝わった。「おれたちは、吉永小百合さんを招くぞ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女性の俳優を招くことができた警察記者クラブは他には1つもなかった。そこで、私はこう思うようになった。「瀬下記者が着想し、実現させたことはまことにユニークな試みで、マスコミ界では画期的なことだったんだな」と。
マスコミ寺子屋を創設し、マスコミ人の育成へ
墨東記者クラブを去った瀬下さんは、その後、東京本社社会部、西部本社報道部、「サンデー毎日」編集部などに勤務した後、東京本社社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長兼別冊編集長などを経てTBSブリタニカに移籍、「ニューズウィーク日本版」の創刊に関わり、同誌の初代発行人を務めた。その後、同社取締役を経て、1995年に同社を退社する。
退職した瀬下さんは、同年、マスコミ寺子屋「ペンの森」を創設した。要するに、新聞記者、編集者などを養成するマスコミ塾である。
またしても、私は驚いた。瀬下さんが倍賞千恵子さんを本所署の記者クラブに呼んできたときには、その突拍子もない着想に驚かされたが、彼が今度はマスコミ塾を開設したと聞いて、私は同じ感慨に襲われたのである。なぜなら、そのころも、新聞記者OBがマスコミ塾を始めるケースがあったが、長続きしなかったからだ。マスコミ人を育てる事業は極めて意義のある仕事だが、これを継続的に続けるためには資金と人材が必要で、始めるにはなかなか勇気のいる事業だったのだ。
それだけに、「瀬下君がマスコミ塾を」と驚いたのだ。私には、「瀬下君はまたしても突拍子もないことに挑むつもりなんだ」と映った。
塾開設直後に、私は東京・神田にあった「ペンの森」を訪ね、久しぶりに会った瀬下さんに「なんでマスコミ塾を始めたの」と尋ねた。が、彼はおちょぼ口をして「ふっ、ふっ、ふ」と満面笑みをたたえるばかりだった。これは、彼が得意なときにみせる動作だった。
今年9月末に届いた「ペンの森」卒業生の集まり「瀬下塾・ペンの森OB会」の会報を見ていたら、瀬下さんが8月9日に老衰のため亡くなった、とあった。82歳。
関係者によれば、「ペンの森」がこれまでに送り出したマスコミ人(新聞記者、編集者など)は、500人以上にのぼるという。大手の新聞社や出版社で活躍している人も少なくないそうだ。
瀬下さんがこれまでに果たしたマスコミ界への貢献は多大なものだったと言っていいだろう。が、彼の死去を報じたのは毎日新聞だけだった。マスコミ界は報道を通じて彼の貢献を讃えるべきだったのではないか。
ジャーナリストとしての生き方を学ぶ
私は、彼の生涯から1つのことを学んだ。ジャーナリストは、時には突拍子もないことを考えてみるべきだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたことに、失敗を恐れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない――瀬下さんの生き方はそう言っているように感じる。
謹んで瀬下恵介さんのご冥福を祈る。
(ジャーナリスト 岩垂 弘)
※ブログ「リベラル21」より許可を得て転載「リベラル21」は、岩垂弘さんら「護憲」に共鳴する元新聞記者や大学教員らが集まり、2007年3月15日に発足した護憲・軍縮・共生をキーワードとするリベラルな社会有志グループ。岩垂さんは1935年、長野県岡谷市生まれ。1958年早稲田大学卒業後、朝日新聞入社。平和運動や協同組合運動を取材。平和・協同ジャーナリスト寄金代表運営委委員。
2021年10月19日
「番記者」が綴る毎日新聞OB、大島理森衆議院議長引退

帝国議会を含め、歴代最長の6年半にわたり衆院議長を務めた大島理森氏(75)が衆院解散に合わせて政界を引退しました。担当記者として大島さんの記憶を綴りたいと思います。
「明日から朝5時半に赤坂宿舎に行け」
支局から本社に上がった2008年春、政治部の歓迎会の席で上司からそう言われた。
翌朝、日の出から間もなくすると、自民党の大島理森国対委員長が宿舎前の坂をのそりと下りてきた。紺のブルゾンジャケットを羽織り、野球帽で寝癖を隠している。スーツ姿の私を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らし、そのまま通り過ぎた。追いすがって何度か話しかけたが返答はなく、あとはただ黙って、後ろを付いて歩いた。人気の少ない早朝の赤坂を30分歩いて宿舎に戻っていく時、大島さんが振り返って言った。
「取材ならこんな時間に来るな。散歩に付き合うなら本気で散歩しに来い」
翌日からジャージーと運動靴に着替えて宿舎に通った。
当時は、前年の参院選で自民党が敗北し衆参両院の多数派が異なる「ねじれ国会」だった。与野党攻防の取材に多くの人を割くとの政治部の方針で、着任したばかりの私が国対番を命じられた。
法案の早期成立を目論む政府と阻止しようとする野党との間に立ち、審議の順番やスケジュールを差配する司令塔役が与党の国対委員長。その動向を取材するのが国対番だが、総理番を経験していない私は、国会運営どころか永田町のイロハも分からない。国会内では「吊るし」「荷崩れ」など耳慣れない用語が飛び交っていた。審議の見通しを大島さんに尋ねても、「明日は曇りのようだな」「政治は一歩一歩じゃ」といった禅問答のような発言ばかり。最初は途方に暮れた。
朝から晩まで委員長を追いかける日々を重ねるうち、ごくたまに酒席に呼ばれるようになった。だが、その日の記事に必要なファクトは教えてもらえず。代わりに何度も聞かされたのが「政治は人だ」「49%は相手に譲り、51%を目指すのが与党だ」といった言葉だった。
長年、議運・国対畑を歩き、与野党折衝に政治エネルギーの多くを割いてきた大島さんの至言を、当時の私が咀嚼する余裕は正直、なかった。国会運営に関するネタは、いつも野党・民主党や連立を組む公明党を担当する先輩たちが取ってきて、焦りは募るばかり。大島さんには「お前は目先のことばかりで政治の全体が見えていない。もっと大きな絵を自分で描いてから質問しろ」と叱られた。
正式な議事の前に法案成立可否の方向性まで調整してしまう「国対」は談合を生み、世論の政治不信の一因になっているのではないか。なぜ「政策」でなく「日程」ばかりに焦点が当たるのか。ネタをもらえないことに内心ふてくされ、大島さんにこのような疑問をぶつけたことがある。多数決が基本の議会制民主主義でありながら、少数派の野党との交渉を重視する大島さんの手法には、政府与党内から「弱腰」との批判がたびたび上がっていることについても何度か尋ねた。
大島さんはそのたび鼻で笑い、「国会は合意形成の場であると同時に、究極の権力闘争の場でもある」と言った。国会が持つ矛盾する二つの機能のバランスを追求するのが自分の役割との信念を持っていたのだと思う。大島さんはこうも繰り返していた。「権力は、畏れて使うものだ」
強く印象に残る光景がある。09年3月4日の衆院本会議だ。第2次補正予算関連法案の採決が行われた会議中、私は議場2階にせり出す傍聴席から、採決に反対する自民党の「造反議員」を確認するため目をこらしていた。内閣支持率が急降下する中、乾坤一擲の解散・総選挙のタイミングを逃し続けた麻生太郎政権は追い込まれていた。総額2兆円の定額給付金も世論の支持を得られず、関連法案は野党が多数を占める参院で否決。政府・与党はこの日の衆院本会議で再可決を余儀なくされていた。
与野党が動議を応酬し、採決は起立と記名の計3回行われた。与党から16人が反対に回れば法案は成立しない。採決のたびカメラのフラッシュが一斉にたかれた。与党席後方に陣取る閣僚や党幹部は、腰を浮かせ議場をキョロキョロと見回していた。
大島さんは違った。自席で腕を組み微動だにせず、ただ正面をにらむように見据えていた。党の国会運営責任者として同僚議員に全幅の信頼を置き、また投票行動を把握していたのだろう。政治家・大島理森の胆力と矜持を見た気がした。造反は本会議を欠席した元首相と、その側近議員の2人にとどまった。だが、散会後、安堵の表情で言葉を交わす与党議員の中で大島さんの顔に笑みはなかった。「麻生政権を最後まで支え、麻生政権と心中する」と私に語ったのはこの頃だったと記憶している。
同年夏の衆院選で野党に転落後、大島さんは自民党の幹事長と副総裁を歴任。選挙区を行脚し、地方組織の結束に腐心した。青森県八戸市出身の大島さんは酔うと南部弁が出るが、地元の支持者の前であっても演説ではあまり方言を使わず、意識して共通語で語る。不思議に思い尋ねると、「自分は大学から東京に行かせてもらった。地元の人たちから見れば、特権階級の人間、故郷を捨てた人間と見られているかも知れない」とつぶやいた。大島さんは繊細で、過剰に周囲を気遣う人だ。幹事長時代はストレスから顔面神経麻痺になったと聞く。
2012年に自民党が政権に復帰すると、党の復興加速化本部長に就任。「東北の復興に命を懸ける」と宣言した。13年10月、東京電力福島第1原発事故を巡り、「避難住民の全員帰還」や事故処理費用を東電が一手に担う「汚染者負担」の原則を転換する提言をまとめた。提言はその後の政府対応の基礎となった。提言の策定後、東電の社長が大島さんに「おかげさまで、ありがとうございました」と電話してきた。大島さんは「君たちのためにやっているわけではない。お礼を言われる筋合いはまったくない」と一喝した。だが、電話を切ると、「原発政策を進めてきた責任は、政治にもあるんだ」と低い声で言った。
その翌朝の散歩。港区の檜町公園の芝生を歩いていた大島さんが突然立ち止まり、黙り込んでしまった。しばらく六本木の高層ビル群を見上げていた大島さんは、「わしとお前はこんな何不自由ない都会の真ん中にいて、被災者の人たちはあんなプレハブ小屋にいる………あの仮設住宅で何年も暮らすことを想像してみろ」と言った後、また絶句した。
大島さんは15年に衆院議長に就任。与野党を超え「立法府」としての立場を意識した発言が以前にも増して多くなった。「国会には行政監視の重要な機能がある」と語り、行政府との緊張関係を求めた。18年7月、森友学園を巡る財務省の決裁文書改ざんなど、政府による相次ぐ公文書隠蔽や誤りの事案を受けて、「民主主義の根幹を揺るがす問題」と非難する議長所感を発表する。「間違った情報を国会に提出することは国民を欺く行為だ」と憤った。政府の拙速をたびたび戒めた大島さんだったが、議長時代は、幹事長や副総裁として党を率いた際に「自らも政策実現を急ぎ『熟議』を軽んじることがあったのではないか」と省みる時間だった。
議長時代の成果を聞くと必ず、衆院の1票の格差を是正する選挙制度改革(16年)と、衆参両院の全会派による会議を主導した天皇退位の特例法整備(17年)を挙げる。いずれも「政争の具にせず」「速やかに」合意を得ることが求められ、40年近くにわたり与野党に人脈を築いた議員人生のすべてを注いだという。皇室への尊崇の念を隠さず、退位が実現し上皇陛下からねぎらいの言葉をかけられたときは涙を流した。陛下の言葉で最も深く胸に刻んでいるのは「戦争を知る人がだいぶ少なくなりましたね」という一言だという。宮中に行った日の夜はよく、赤坂のとびきり安いチェーン店の居酒屋に記者を誘った。そして「下界のお前たちの話を聞こうと思ってな」と悪ぶった。三権の長になっても地に足をつけ続けるための儀式のように見えた。
私は大島さんから大きな特ダネをもらうことはついぞなかった。だが、国会内外で丸い背中を追いかけ回す日々が1年近く経った09年初めのある日、衆議院2階の廊下で「お前は最初、右も左も分かっていなかったが、最近は生意気にわしの悪口を書くようになったな」と言われたことがある。そして大島さんは近くの議員を呼び止め、私を指さし「こいつ、わしの番記者だ」と言った。そのとき胸に抱いた感情を私は一生忘れないと思う。
衆院が解散された10月14日が、大島さんが衆院に登院する最後の日だった。議員は解散と同時にそれぞれの選挙区に走り、午後5時過ぎに大島さんが議長室を出てきたとき院内に残っている者はいなかった。代わりに多くの衆院職員と国会衛視が玄関に集まり、拍手と敬礼で議長を見送った。「大島委員長」や「大島議長」を院内で取材していた時はいつも、大島さんの前に立ちはだかり私たち記者の「敵」だった衛視さんたちがこの日は、「もっと近くに行けよ」と言うようにカメラを構える私の背中をぐっと押した。そのとき、大島さんが国会からいなくなるのだなと感じ、たまらなく寂しくなった。
(政治部 高本 耕太)

2021年10月18日
映画「典子は、今」のサリドマイド障害児典子さんは、本山彦一翁ゆかりの小学校卒業
西部毎友会は毎年9月に総会を開催し、旧交を温め、親睦を図ってきました。しかし、昨年に続き本年度も「完全に安全であるという確証がない段階での開催は避けるべきだ」と判断し、中止しました。
そこで本年度も、会員の近況を伝える「冊子」を作成し、全会員の手元に届けることで交流を深めることにいたしました。142名のOB・OGが近況を報告しています。
西部本社代表だった牧内節男さん(96才)にお送りしたところ、牧内さんがネット上で主宰する「銀座一丁目新聞」に西部本社当時の思い出を綴っていただきました。
一部を引用すると――
《私が西部本社の代表であったのは昭和56年6月から昭和61年6月までである。後1年半は西部毎日会館の社長であった。西部本社の守備範囲は山口県から九州、沖縄まである。社員は830人ぐらい居た》
《西部本社6年半の在任中は楽しかった。代表としては稀有の長さである。思い出はたくさんある。日米野球大会を西部本社が自前で開催して大きな利益を上げた。会場の整理・警備など社員たちが積極的にやってくれた。やる気のある社員たちであった。また鹿児島で開かれた初めての販売店の会合では陸士の先輩のモットーを拝借して「私のモットーは敬神努力浮気楽天です」と挨拶。「浮気をすすめる代表は面白い」と大歓迎を受け、飲めない酒を飲まされた。沖縄には何度も機会を見て訪れ、そのたびに必ず摩文仁の丘を訪れ牛島満大将・長勇中将を偲び、ひめゆりの塔で彼女たちの死を傷んだ。》
さらに牧内さんは、サリドマイドの女性を採用したことに触れています。
《赴任して間もない頃、サリドマイドの女性を採用して話題を呼んだ。その朝の市内版のトップに「サリドマイドの少女が電話交換手の仕事を探している」という記事が載った。即座に総務部長に「この娘さんを我が社で採用しろ」と命じた。ところが電話交換室の女性たちが私の所まで来て反対した。そこで上京した際にたまたま見た映画「典子は、今」を見よと勧めた。「其れでも反対と言うなら納得する」と言った。この映画は両腕のないサリドマイド障害児・典子のドキュメンタリーであった。数日後、彼女たちは「わかりました」と返事をした。その後、電話交換業務はデジタルに変わり廃止になり、彼女は総務部に移ったが庶務を器用にこなした。当時、RKBがニュースとして取り上げたり身体障害者団体が毎日新聞をとってくれたり影響が大きかった。》
映画「典子は今」の辻典子さんは、熊本市碩台小学校の出身です。

熊本市碩台小学校は、毎日新聞第5代社長の本山彦一翁が生家の土地を熊本市に寄贈して建てられた小学校です。碩台小学校には「栄光の部屋」(顕彰ルーム)があり、本山社長や典子さんの記念品が閲覧できます。
毎日新聞創刊135年の2007年2月21日、西部本社幹部と西部懇話会幹部(主要販売店)が碩台小学校を表敬訪問し、小学校の一角にある本山彦一翁の「顕彰碑」(高さ約4メートル)に参拝し、遺徳を偲びました。徳富蘇峰が揮毫し、なかなか立派なものです。
本山元社長は1853年、現在の熊本市で生まれ、時事新報記者、大阪製糖取締役などを経て、明治22(1989)年に大阪毎日新聞の相談役に就任。1903年に社長に就任し、毎日新聞の基礎を作った。「点字毎日」の創刊など業績を広げ、1930年に貴族院議員。1932年逝去。
「銀座一丁目新聞」を拝読して、「本山彦一翁」の人柄や思い出を毎友会員に紹介したいと、ご報告する次第です。
牧内さんは「毎日新聞西部本社の同人たち」と題するコラムを
《『書くことは考えること、生きることと平成9年に始めたネット新聞「銀座一丁目新聞」を今なお続けております。ブログの閲覧数から推定すると確実な読者は多く見て500人ぐらいと思います。私は1人でもいれば続けるつもりです。100歳まであと4年、ネタ探しに苦労する日々で、これも楽しみの一つです。「けふを打つネット新聞秋の暮」悠々》と結んでいます。
(西部毎友会 淵上 忠之)

2021年10月18日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑩
連載「東京二十四時間」 下
「求める心」は何処へ
本はなし、先生も教え方に戸惑う
親は募る生活苦の悩み
(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の昭和20年の記事から)
灰塵の本所、深川の一帯―赤茶っぽく焼けたトタンの残骸の間に、煙突だけがようやく昔の名残を止めている。記者がこの地を訪れた時は、うす寒い冬空がどんよりと曇って、灰色の雨が敗戦者のバラックの上に、街路に淋しげに降り注いでいた。その中を傘もない、合羽も持たない可憐な子供たちが、ちびた下駄をぬかるみに、びちつかせながら三々五々打ち連れて緑国民学校の門をくぐる。どの顔を見ても明るく敗戦国の国民の暗さがない。
☆ ★ ☆
緑国民学校は、最も犠牲者が多かったといわれる本所区内で、焼け残った唯二つの国民学校の一つである。現在この学校には緑、江東、日進、二葉、本所、茅場、本所高専の七校が一緒になっているほか、関東配電、両国貸家組合、城東女子商業などが同居している。三月九日の大空襲で本所区は被害の中心であったため、開校は五月十三日、震災記念堂近くの慈光院で寺子屋式の学校を開いたが、その時参加した児童は僅かに八名であった。それが七月九日に、とも角焼け残った緑国民学校に移り、学校らしい学校教育が空襲下であったが始まった。その時の在籍数はたった十九名。焼けた他校の生徒も一緒で十月末には緑二十九名、江東四十三名、茅場三名、本所二名、二葉十七名、日進一名、本所高専など二十七名で計九十五名だった。
その後、疎開児童の復帰もあって、現在は百七十八名になったので一二三、四五六という複式教室も十一月十五日から改めて、一学園一学級を組織した。戦前本所、深川では国民学校が二十校あり、緑国民学校だけでも今年の三月の卒業生の数は二千五十二名。それに比べて七校併せて百七十八名とは、何という淋しさだろう。
☆ ★ ☆
ちょうど一年生の教室では綴り方の時間で、先生は軍国主義の標本のように言われている桃太郎を教えている。生徒は声を張り上げて「オニハ門ノ戸ヲオサエテイマス」と読んでいる。黒板にはここで新しく習う漢字の門、中、刀と書いているが、一年生のなかには十月になってやっと入学した生徒もいて、カタカナさえ満足に知らない者もある始末。先生にどういう気持ちでこの桃太郎の話を扱っているかと聞くと「まあ、おとぎ話のような気持ちで教えている」と言う。刀というものさえ、民間ではこれから見られなくなろうというのに――。話は桃太郎ばかりではない。修身、国語、地理、歴史など本当に教えにくいと言う。もっと突っ込んで言うならば、民主主義教育というものを、この幼い子に対してどういう風に施して行くか、先生自身も自信がないと言っている。
☆ ★ ☆
五、六年で教える算数に、三角定規や分度器がある。これも持たない児童が多い。そのため宿題を出すことが出来ない。三角定規や分度器ばかりではない。教科書すら手に入らぬ児童がいる。教科書も前期用はとも角として、後期用のものは何処にも売っていない。兄姉でもいて教科書が焼けない限り、手に入らぬという現状である。それなのに児童の求知心は強い。みな長い間、空襲などでろくに学校で勉強できなかったからだ。今は勉強が出来る、唱歌も歌える、体操も出来る喜びに輝いている。ちょうど海綿のように子供の心は吸収する知識を求めて一ぱいなのだ。だのにここにも与えるべき先生に、家庭の父母に、何の準備もないという悲しむべき実情がある。
☆ ★ ☆
遊びの時間。児童たちは電線などの散らかった校庭で、相撲取りの名前を書いた紙切れでメンコ遊びをやっている。ここは相撲取りや行司の子供も多い所から、国技館の始まる前後は相撲遊びが大流行、本式に取っ組み合う子供相撲の光景も賑やかであったが、いまはこれが紙切れのやり取りに変わっている。
ここにも食糧の影響が見え五、六年生でも大半は家庭に食べに帰るという。その家庭が両親とも失業苦と食糧難に追われて、普通なら今ごろは入学試験の問題と、進むべき上級学校の問題で両親は頭を悩ます時期なのに、子供も親も五里霧中なのだ。終戦以来、新聞やラジオや人々の口から漏れる数々の言葉の片鱗から、「子供は陸軍大将になろうという夢からは全く覚めてしまった。どういう人間を民主主義国家では必要とするかは、誰も子供に教えてくれない」。遊び道具も勉強道具も本もない子、そして知識欲に燃えている子、平和新日本を背負うべき子、その子供が五里霧中のまま、家庭においても放り出されたままでいる。
夕暮れ近くになれば、子供はおなかをすかして食事を待ちかねる。――そして子供同士空腹を抱えてこんな会話を取り交わしている。
「明後日は買い出しに行くんだね」「ああ、休みはいつも買い出しだよ。お芋のね」「うん、うちも行くさ」「買い出しはいいね」「うん、その時はお腹一ぱいに食べさせてくれるもの」 夜ともなれば少い夜具を引っ張り合って子どもは寝につく。母親は子供の寝顔を見て、子供の将来というより迫り来る冬の寒さに備える衣類や寝具をどうするという悩みが尽きない。子供たちは、果たして何を夢見るだろうか。(十一月二十日付二面)
(「つれづれ抄」おわり)
2021年10月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その16 第2回目ワクチン接種の一日(後編)(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454522.html
「門よりふねにのりて」とあるが、門とは芭蕉庵の門こと。深川の芭蕉庵は、芭蕉が1680(延宝8)年に日本橋小田原町から移り住み、1691(元禄七)年に大阪で客死するまで仮寓した住まいで、現在の芭蕉稲荷神社(江東区常盤1-3)のあたりにあったとされる。
『江戸切絵図』「本所深川絵図」をみると、隅田川から分岐し、西から東へ向かってまっすぐ延びる水路がある。これが小名木川で、行徳の塩を江戸に運ぶ水路である。その西端に架かるのが「万年ハシ」(万年橋)。この橋の北側に「松平遠江守」の下屋敷があり、「芭蕉庵の古跡庭中ニ有」と記されている。
芭蕉庵の東側をみると、やはり水路になっていて、こちらは六間堀と呼ばれ、竪川と小名木川を南北に結んでいた。門は六間堀に沿ってあったらしく、芭蕉一行は、そこから舟に乗り、小名木川に出たところで、方向を南から東へ転じ、行徳方面に向かった。
行徳までの航路は『鹿島紀行』に記されていないが、小名木川を4.6キロ航行すると中川に出る。それより新川に入り、これを3.7キロ進むと、こんどは江戸川に行き会う。それより3キロ余りさかのぼり、本行徳の河岸に至ったものと思われる。新川というのは、徳川家康が行徳の塩を運ぶため、小名木川と同時並行して開削させた水路である。
もう一つ、家康が同時期に開削を命じた水路がある。それが道三堀で、江戸城和田倉門(皇居外苑1-1)のそばにあった辰口と日本橋川の一石橋付近を結んでいた。1909(明治42)年に埋め立てられ、現存しないが、この水路の目的は江戸城建設の物資補給にあった。行徳の塩も、道三堀から江戸城内へ供給されたものとみられる。
芭蕉は行徳よりは陸路で、「やはた」(市川市八幡)・「かまがいの原」(鎌ケ谷市)というから、現在の県道59号市川印西線、木下(きおろし)街道を歩き、深川を出発したその日の夕刻に、利根川のほとり「ふさ」(我孫子市布佐)に着いた。「なまぐさし」漁師の宿でいったん休憩したあと、夜舟をさして利根川を下り、鹿島に到った。ということは、仏頂和尚が寺領回復の訴訟で、江戸の奉行所に通った100キロ前後の道筋を逆方向に、片道1泊2日、しかも舟中仮泊の強行軍でたどった ことになる。
布佐の利根川を隔てた対岸が布川(茨城県利根町)である。その河畔で少年時代の柳田國男が間引き絵馬をみたことは、連載その15で書いた。布佐は手賀沼が利根川に流れこむ北側に開かれた町で、それにたいして、南側に開かれたのが木下である。どちら町も明治時代に成田線ができるまで、銚子など利根川下流域や常陸方面からの物資を江戸に運ぶ中継点として発達してきた。布川からは、松戸街道を陸路で松戸に出て、それより江戸川を下って行徳に着いた。木下からは、先に述べたように、木下街道を経由して、やはり行徳に着いた。
ところで、鹿島に到着したその日は、あいにく昼間から本格的な雨で、月見どころではなかった。だが、翌日のあかつき、すっかり寝入っているところを、仏頂和尚に起こされた。思いがけないことに、雲の間から月が姿を現したのである。
そのときに芭蕉の詠んだ2句。
月はやし梢は雨を持ちながら
寺に寝てまこと顔なる月見かな
「梢は雨を持ちながら」と「寺に寝てまこと顔なる」の言い回しは、非僧非俗の蝙蝠のような存在である芭蕉自身の心象風景であったかもしれない。

2回目のワクチン接種を受けた日は、太陽が容赦なく照りつける猛暑だった。接種会場の大手町合同庁舎は皇居大手濠のすぐ傍にある。お濠を見わたすと水草がはびこり、暑さのせいだと思うが、枯れるか腐るかして褐色になっていた。
このあたりは、連載その14でも書いたが、太田道灌が江戸城を築いたころは、日比谷入江の最奥部だったところで、神田川の前身である平川の河口があった。合同庁舎から二重橋方向へ400メートルほど歩くと和田倉門がある。その傍から日本橋川との間に道三堀が通じていた。それより先には、塩の道とも呼ぶべき水路が開かれていて、行徳は江戸城と繋がっていたのである。
東西線の妙典駅で途中下車し、市川市の「回遊マップ」を片手に、寺町通りから行徳通りに出て、常夜灯の付近まで歩いた。
常夜灯は1812(文化9年)に、江戸日本橋の成田山参詣の講中が建立したものである。行徳と江戸(日本橋小網町)とを往還する舟便の営業を始めたのは1632(寛永9)年である。その後、この航路は房総や常陸からの物資運搬のみならず、成田山や鹿島神宮・香取神宮などの参詣路に利用されたということである。したがって、常夜灯は芭蕉の『鹿島紀行』のころにはなかったわけだが、河岸場の位置についても、1690(元禄3)年までは、現在常夜灯のある場所よりも、もうすこし上流にあったということである。=以下略
2021年10月11日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑨
連載「東京二十四時間」 中
丑三つ時・犇(ひし)めく行列
浮浪者と雑魚寝の旅行者
上野駅・地下道は棲家
(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の記事から)
大東京の丑三(うしみつ)時、人という人が、ことごとく寝静まっているというのに、ここだけは何万というおびただしい人々の群が激烈な奔流をつくり、嘆き押し合い、戦い続ける。
上野駅―濛々と立ちこめる塵埃のなかに、天井の電気時計が午前零時を告げている。夜中から夜明けにかけて、ここを発車する汽車に乗ろうとする人々がもう五列にも、七列にも幅の広い帯をつくって、駅の構内を縦断しているのは、この駅を基点として常磐線、東北線、信越線、上越線、その他無数の支線が放射線に走っているからである。人々はそれぞれの運命に従い、それぞれの切実な用務をもち、それぞれの重そうな荷物を背負い、目ざす汽車に乗れるか乗れないかの瀬戸際に身を曝して必死に嘆き続ける。それは大抵自分の位置よりも前にある人々の後姿に向かって吐き出される――
「そこの横に立っている奴は何だ。まごまごして列に入りやがったら承知しねえぞ」
「俺なんか昨夜徹夜で切符を買い、今夜も徹夜で乗ろうってんだ。いい加減な野郎とごちゃまぜにされてたまるもんか」
今朝はひどい霜だったが、今夜の底冷えからすれば、明日も真っ白な霜だろう。晩秋の霜夜だというのに上野の山と下谷国民学校では、それぞれ何千の人々が切符を狙って待ちくたびれているはずである。
☆ ★ ☆
人混みに揉まれながら駅長室へ行くと、扉の入口に長い行列が出来ている。何の列ですか、と聞くと、どうしても乗せて貰うために駅長さんに話をする者の列だという。入口の所で揉めごとが始まっている。列内の革のジャンパーを着た青年と、列外のリュックを背負った人物とである。ジャンパー氏が言う。
「これだけ大勢の人間がちゃんと順序をつくってるんですよ。それを無視していきなり入ろうというのは、ちょっと違いませんか」
「違わない、私には特別な理由があるのだ」
「特別の理由なんか問題ではない。列へ入れ」
「入らん。私は何処へ行っても列になんか入ったことがない」
なかなかの心臓である。
この時、列の中から「やれやれ」と声が掛る。さすがの心臓氏もへこたれたものと見え
「俺は帰る」
と捨て台詞を残して立ち去る。
☆ ★ ☆
戻ってそこから地下鉄に向かう。地下道に入ろうとすると、この中にも歩行困難の雑踏である。雑踏だが、それが今までと違うのは、この駅の雑踏に格別の異色を添えている、いわゆる「浮浪者」諸君もいることである。冷たいコンクリートの上に貨物のように横たわっている者もいれば、留置場の人々のように膝を抱え、その膝の中に顔を埋めている者もいる。人というものはすでに敗北を意識した時には、大抵このような座り方をするものであるらしい。新聞紙を四枚広げたささやかな座敷に、親子四人家庭を営んでいる人もある。乳飲み子とその上の女の子が痛々しいほど痩せている―と思った瞬間、おかみさんが矢庭に頭を揚げてハッタとこちらを睨みつけ「何をじろじろ見てるんだ。見世もんじゃないんだよ」と一喝するのだが、その形相の物凄さ、これは堪らぬと踵を返そうとすると、その隣に端座していたおかみさんが「あたしャア、ちっともお腹なんて空いちゃいないんだよ。そこらのルンペンと一緒にされちゃ困るよ」とまたも手痛い一言を浴びせられた。
☆ ★ ☆

ここの地下道に踏み込んだ時、便所の臭いが鼻に来たのは、もう動く気力も失せた人々が、傍らの溝で用を足すからだというのが、しばらく歩いているうちに判って来た。ここを棲家としてから長い日々が経ったのと、ここへ来たばかりの人は身体の汚れ方や身装で、一目でそれと判る。それからまた単に家がないばかりに、ここを臥所(ふしど)として昼間は外で働いて来る人たちもいるらしい。白い半襟に紺の上下のモンペを着けた端麗な女性が、冷たいコンクリートに寄りかかって「Holly Bible」と標題のある本を膝に置いてあるのを発見した時は、むしろ茫然とせざるを得なかった。しかもその白足袋の足元には十六、七歳の少女が、いぎたなく眠りこけていたのである。
☆ ★ ☆
世の人々は「上野の浮浪者」と一言にいうのだが、それが如何にさまざまな異なる人々の集まりであるかは、結局一人々々の運命を深く優しく凝視したうえでなければ判るまい。
この「上野の浮浪者」に対して、お上がとった手段は何だったか。それは巡査が来て検束して行くことに過ぎなかった。浮浪者は後から後から上野へ上野へと集まる……
そんなことを考えながら地下道を抜けると、寒い風の中に素足の男の子が、一人汚れた手で蜜柑を剝いている。
「おいしいかい」
「あ、おいしいよ、二つ貰ったんだ」
「それァよかったな。お腹空いてんのかい」
「お腹? お腹なんて年中空いてらァ」
「そうか、そいつァ困ったな。お父さんも、お母さんもいないのかい」
「うん、みんな死んじゃったよ」
◇
外へ出ると廃墟の街は深々と眠っている。 (十一月十七日付二面)
2021年10月11日
日米開戦スクープの後藤基治さんは戦後5人目の社会部長
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃・日米開戦をスクープした後藤基治著『開戦と新聞』(毎日ワンズ2021年刊)を読んだ。肩書は「元毎日放送副社長」となっているが、社会部旧友である。 戦後5人目の東京本社社会部長。森正蔵(このHP随筆欄連載筆者・森桂さんの父親)→江口栄治→一色直文→黒崎貞治郎につぎ、1949(昭和24)年11月から51(昭和26)年5月まで1年7か月務めた。
戦後18代目の社会部長・牧内節男さん(96歳)が「銀座一丁目新聞」に書いている。《後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった》
後藤の生家は、大阪ミナミ法善寺横丁にある関東煮「正弁丹吾亭」である。法善寺横丁を歩いたことのある人なら誰でも知っている有名な店である。
早大独文科卒、1930(昭和5)年大阪毎日新聞(大毎)入社、社会部。《当時の大阪では、大毎のバッジならモテモテだった。どこの飲み屋もツケがきいた。「朝日に負けるな!」で本山彦一社長時代の「勇往邁進」の気風が生きていて、職場には活気があふれていた》
釣りが趣味で、「釣り欄」を新設したと書いているが、社会部長徳光伊助(衣城)は、生きのよい社会面をつくった。「精悍な隼の眼」と大阪社会部100年史『記者たちの森』(2002年刊)に紹介されている。大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。33(昭和8)年10月、お家騒動で徳光とともに社会部記者47人が一斉に辞めた。徳光は敗戦まで北京で「東亜新報」社長を務めたが、同紙の編集局長佐々木金之助(のち読売巨人軍代表)、論説委員高木健夫(元読売新聞「編集手帳」筆者)らは大毎社会部の人材だった。
後藤は、40年東京本社政治部へ異動、海軍省クラブ「黒潮会」に所属した。41年10月陸軍大将東条英機が総理大臣に就任する際、「東条首班に決定」の号外をいち早く発行した。次いで12月8日の日米開戦スクープ。米内光政海軍大将邸に夜討ち朝駆け。かすかなヒントを特ダネに結びつけた。
43年10月、フィリピンが日本の軍政から独立すると、後藤は、海軍から「現地報道部長に」と依頼され、1年期限で、毎日新聞に在籍のままマニラ日本大使館の海軍報道部長(中佐待遇)として赴任する。マニラの陸軍報道部には元大毎経済部長・桐原真二中尉(慶大野球部キャプテン→大毎野球団、野球殿堂入り)、現地の「マニラ新聞」は毎日新聞の経営で、200人近い社員が出向していたという。「竹槍では間に合はぬ」の記事で陸軍から懲罰召集された新名丈夫記者を海軍報道班員としてマニラに呼んだこともあった。
マニラが米軍機の空襲に襲われた最初は44年9月21日。戦況は日増しに悪化、抗日ゲリラも出没するようになった。
首都マニラのあるルソン島に米軍が上陸したのが45年1月9日。後藤はその直前の44年12月26日、海軍機でマニラを離れた。毎日新聞から出向のマニラ新聞の南条真一編集局長(東京日日社会部長)に「内地に逃げ帰るなど、君は皇国臣民としての自覚が足らん」と怒られたという。
毎日新聞社も社機でマニラとの社員輸送をしていたが、戦況の悪化で社機の飛来ができなくなった。後藤は社員7人を便乗で帰国させてくれるよう頼まれる。7人は現地応召で陸軍に籍がある。正規の搭乗は後藤1人で、あとの7人は「携行貨物」扱いで、台湾の高雄、台北、福岡の雁ノ巣飛行場経由で羽田空港に着いた。「携行貨物」の1人が西谷市次記者だった。西谷は1955年11月の保守合同で、民主党総務会長の三木武吉と自由党総務会長の大野伴睦秘密会談のきっかけを政治部の西山柳造とともにつくった(『「毎日」の3世紀』)。
ルソン島の悲劇は伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』に詳しい。「マニラ新聞」は45年1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。伊藤記者の曾祖父の弟、「マニラ新聞」取材部長・伊藤清六記者は、陣中新聞をガリ版刷で発行していたが、45年6月30日ルソン島のヤシ林で餓死した。38歳だった。
南條真一編集局長、陸軍報道班員の桐原真二らフィリピンで殉職した毎日関係者は計56人に上った、と同書にある。
◇
毎日新聞に復帰した後藤も慌ただしい。履歴をたどると、1945(昭和20)年1月に東京本社南方新聞局事務部長→同年6月南方部長→敗戦後の9月大阪本社に転勤となって、体育部長(運動部の前身)→翌46(昭和21)年2月4日創刊「夕刊新大阪」編集総務兼報道部長。
「夕刊新大阪」は、編集局長黒崎貞治郎。後藤が引継ぎを受けた東京本社社会部長である。のち「毎日オリオンズ」球団代表。梅木三郎名で「長崎物語」「空の神兵」「戦陣訓の歌」を作詞した。
整理兼企画部長小谷正一は、井上靖の小説「闘牛」のモデル。整理部長木本正次は映画で大ヒットした「黒部の太陽」の作者。新人記者足立巻一は、「新大阪新聞」をモデルに『夕刊流星号 ある新聞の生涯』(新潮社1981年刊)を書いた。
後藤は1948(昭和23)年7月西部本社福岡総局長→49年11月東京本社社会部長。そのあと現在の毎日放送(MBS)の立ち上げに携わり、副社長で退任。73(昭和48)年7月逝去、71歳。
「神風特別攻撃隊」は海軍の大西瀧治郎中将が始め、大西は敗戦の翌日に自決しているが、後藤は出撃の模様をフィリピン・マバラカット飛行場で目撃している。昭和19(1944)年10月24日と書いている。
《まづ大西さんが悲壮な激励演説をして、そのあと、オンボロの戦闘機5機に大量の爆弾とガソリンを積んで、関(行男)大尉を先頭に、いづれも22、3歳の眉目秀麗な、惜しいような青年ばかりが乗り組んで、飛び立っていった。多量のガソリンは基地へ帰るためでなない、敵艦に体当たりして燃やすためのものである》
《「大西さん、あんなオンボロ飛行機で若い連中を出して、どうなるんです」
「なんにもならん、屁の突っ張りにもならない」
「ぢゃ、なぜ……」
「さあ、そこだよ。若い連中がどうしてもやらしてくれといふから、己むを得ず俺は取り上げた。この責任はもちろん俺が負ふ。後藤君、日本は滅びるよ……》=月刊「文藝春秋」1958年8月。
関大尉は新婚で、出陣を前に妻らに遺書を書いている。「若い連中がどうしてもやらしてくれ」はあり得ないことだと思うのだが。=敬称略。
(堤 哲)
※『開戦と新聞』は、毎友会ホームページ2021年8月8日新刊紹介で取り上げられています。
2021年10月5日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑧
連載「東京二十四時間」 上
もうすぐ開戦80周年を迎える、数週間前にNHKから電話があって、父(森正蔵)の日記を取り上げてくれるという。日記はすでに戦中と敗戦直後の部分が2冊の本になって上梓されている。「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房刊)と「挙国の体当たり」(毎日ワンズ刊)である。僕が今、ぜひとも活字に遺しておきたいのは、モスクワ特派員時代に東洋人でただ一人、傍聴したスターリンの粛清裁判のくだりである。
生涯一記者を志していた父は、戦後初の社会部長になって、多くの企画を考え実行に移した。そのなかで、いまでも読者の胸を打つのは昭和二十年十一月に掲載された連載「東京二十四時間」である。三編を採録する。

――「このままでは負けてしまう」みんなが秘かにそう思っていた。そしてその通り負けてしまった。
世界史の奇蹟といわれる見事な混乱なき終戦ぶりであったが、今日このごろの食糧危機、住宅払底、大量の失業、「闇」の公然化などなど、国の崩壊作用がやたらに起きている。「このままでは亡びてしまう」そう思う今ではなかろうか。焼け跡にキャバレーが出来てジャズの騒音が流れ出したり、ブタ箱と一言にいわれる警察の拘置所が、日当たりの良いところに移されて人権が「尊重」されたり、商店街復興の槌音も高々と響いているが、そこに流れる深刻さ、民主主義日本への歩みの困難さは蔽うべくもないのだ。帝都の夜明け、昼、夜の明暗を探訪して、敗れた日本から新生日本への縮図を描いてみる。
脂粉・生活苦の狂躁(きょうそう)
銀座松坂屋地階・進駐軍専用の舞踏場
切符売り上げ日に二万円

掻きむしるようなサキソフォンの響き、蒸せるような脂粉の香り。ジャズの合間に何を囁(ささや)くのか片言英語……国際歓楽場と銘をうち、去る十一月三日から開場したキャバレー・オアシス・オブ・ギンザ(銀座松坂屋百貨店地下二階)の開場時間午後一時である。開場間際ともなれば、進駐軍の伊達者は早くもネクタイのゆがみを直しながら、キャバレーの入口に殺到する。歓楽境の朝から夜までを探訪しようという記者は、開場と共にチケット売場の片隅にチョコナンと陣取った。「入場者はチケットをお求めください」と英文で貼り出してある。もちろん、お客は進駐軍ばかりで、日本人は一切お断りである。
ダンサーは三百名。振り袖、ドレス、支那服、思い思いの姿で待機している。厚いドーラン化粧、瞼に塗る青いアイシャドー。そのままレビューの舞台に立てるようなのもいれば、振り袖姿でどこのお嬢さんかと思われるようなのもいる。これはまた粋一筋、衣紋をグッと抜き、夜会巻で襟足の美しいところを見せ、前身を物語るようなのもいる。
☆ ★ ☆
定刻一時! 開場です。十円札をつかんで雪崩こんで来るアメリカ兵は一枚二円、五枚綴りとなったチケットを大きな手で握って入場する。切符売り場の札入れ箱は、たちまち十円札で一ぱいになる。飛ぶように売れるとはこのことだ! 平均一日の切符売り上げはザッと一万枚で、毎日二万円を割ったことはないという。中央の踊り場は百二、三十組が楽に踊れる広さで英米両国旗、赤青色とりどりの色提灯が天井からぶらさがっている。昼でも電灯は赤々と輝き、脂粉の香りとジャズ・バンドに合わせて、いずれも長身のアメリカ兵がかがみ込むようにして、小さなダンサーを抱いて踊る。踊らない者は一人ずつダンサーを擁して、踊り場の周囲のテーブルにつき、英単語早わかりなどを持ち出して囁きあっている。紛然! 騒然! 雑然! 雰囲気はまさに国際歓楽境である。
☆ ★ ☆
さてこの勇敢な女性ダンサーたちは、どれくらい稼ぐのだろう、どんな気持ちで働いているのだろう。記者は読者と同じような好奇心と疑問をもち、ソロソロと探訪に取りかかった。
一枚二円売りでダンサーの手取りは一枚につき六十銭。つまり一円四十銭は経営者の特殊慰安施設協会に流れ込む。一日二万円、チケットにして一万枚。これを三百人のダンサーで平均に稼ぎあげるとすると、一人当たり一日平均三十三枚当たりとなり、一晩の稼ぎは十九円八十銭。一ヶ月に十五日出勤するとして四百九十五円、それに一日五円の日当が出るというから締めて一ヶ月平均六百二十円の収入ということになるが、実際はそう平均には行かない。
腕達者のダンサーとなると、一日二百枚(百二十円収入)からチケットを稼ぐ者もいるが、開店してから十日、平均に十五枚しか稼げぬというダンサーもいる。最低二十五枚、一ヶ月に十五日働くとして、日当その他を入れて最低収入者が五百円、女の稼ぎとしては全く馬鹿にならない。腕達者となると二千五、六百円から三千円の月収がある勘定となり、男子たるものもって如何となすの構えである。
☆ ★ ☆
進駐軍は親切、チョコレートや煙草に不自由しない、収入はいい、これじゃ全く文句なしに彼女らは新流行語の「ご機嫌さ!」かと思えば、華やかな戦場の影にはやっぱり一抹の悲哀はある。「世間のそしり」と「着物の悩み」、これである。
彼女らのほとんどが戦災者で十八歳から二十二歳くらい。八割五分は素人(事務員、挺身隊、女工)、元ダンサーが一割(うち二分が元芸者)、元カフェー、喫茶店勤務が五分、という割合で、いわゆるダンスホール向きの着物を持っていない者が多い。一週間も着れば着物の裾は切れ、背中は手の汗と脂で黒ずんでしまう。街で着物を一枚買おうとすれば、外人向け土産としては派手な着物は七百円、八百円の高値で、とても手が出ない。協会側では帯から長襦袢まで揃えて貸しているが、貸衣装代を取っても着物を返してもらう時はボロボロとなってしまうので、月賦で買い取ってもらう仕組みになっている。和服一揃え五百円くらい。これをダンサーの収入と睨み合せて二ヶ月から三ヶ月で返済してもらうというから、稼いでも稼いでも着物代に追われるのじゃないかと彼女たちは嘆いている。
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四時から五時までは昼の部と夜の部の切り換えで一時間の休憩だ。彼女たちはもう腹がペコペコらしい。休憩を待ちかねて食事に取りかかる。いずれも弁当持ちである。彼女らの食欲はものすごく旺盛だ。道のりにして売れない口で二里や三里、よく踊る子は十里くらいは歩いてしまう。協会でも豆餅などを時々サービスしているが、とても空腹の足しにはならない。ここにも切実な食糧難があり、踊るためには米のヤミ買いもしなければならない。記者はようやくナンバー・ワンといわれるイブニング・ドレス姿の花子さんというダンサーを捕まえた。
「一番辛いこと…それは、ああキャバレーのダンサーかと一言に『夜の女』のように言われること…辛いですわ。私たちは生意気のようですが国民外交の一ツと思っています。彼らが私たちを通して『日本女性』とはこんなものかと感じて帰国するとすれば私たちの責任は重大です。生活のために私たちは一生懸命です、浮いた話などありませんワ…私たちに言わせれば、まちの堅気の娘さんたちのこの頃の風景の方が見るに耐えません」と、胸につけた赤い薔薇(ばら)よりまだ赤い彼女の気炎ではある。
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六時、七時と夜の部ともなれば、益々大入りで、ホールの空気は濁って、喉がぜいぜいして来る。八時!バンドは「蛍の光」を演奏する。終わりである。別れを惜しんで進駐軍は帰る。ダンサーたちも三々五々家路をたどる。
東京――二十四時間の題目の使命から、ふとダンサーたちの寮、アパートまでも探訪したいのだが、記者に語ったダンサーの言葉を信じ、子供を預けるためや、病気の母を郷里に帰すために五百円、千円と前借して働いているダンサーたちの身の上を思い、記者も焼け跡を照らす三日月に送られながら「良き敗者」の一人として家路をたどった。(十一月十六日付二面)
(森 桂)
2021年9月24日
「思い出の京都支局」を、元支局長、磯貝喜兵衛さんが綴る

先日、東京本社社長室の鈴木泰広氏から、旧京都支局(中京区三条御幸町)について、問い合わ せがあり、貴重な写真や資料を参考に送ってもらいました。昭和3(1928)年に新築落成した京都支局(地上3階、地下1階)は、今もアールデコ風の「1928ビル」(京都市登録有形文化財)として市民に親しまれています。創建当時は京大教授、武田五一博士の設計で、平屋・木造の多い京都の都心に威容を誇り、1999年に京都御所近くの新支局に移るまでは、我が国最古の新聞社支局として、長い歴史を刻んできました。
初代支局長は当時、京都の有名人でもあった岩井武俊氏(大阪毎日新聞取締役)。戦後15人目の支局長として私が在任したのは1979年秋から2 年間でした。1階は玄関、車庫、事務室、2階は編集室、3階講堂、屋上には創建当時、市民に天気予報を伝えた測候所跡まで残っていました。


昭和3年は昭和天皇の即位の礼が行われた記念の年で、(添付の)新聞、社内報に残っている通り、盛大な披露の催しがあったようです。今も音楽や芝居のホールとして利用されている3階講堂にはグランドピアノがあり、私がいたころは市民コーラスの練習や講演にも利用されていました。地下には古都らしく、井戸水を汲み上げ利用していたポンプ室や、琺瑯びきの浴槽を備えた風呂場、食堂などがありました。
五山の送り火の夜は、近所の方たちに屋上を解放し、ご馳走までふるまったというので、私も一度、復活したことがありました。仕事の方は、朝日新聞に百人一首の選者、藤原定家の「時雨亭文庫」関連の特ダネを抜かれた仕返しに、十年間続いた「東本願寺紛争・解決へ」の特報をはじめ、編集局長賞受賞7本を支局員が連発してくれた思い出も忘れられません。
数代前の支局長が改装したという屋上・測候所跡の宿泊所で、ウイークデーは私も2年間起居しました。朝早くに御所方面から来るのか、鶯の鳴き声がしたり、托鉢に町を回る雲水の読経の声が聞こえたり、古都ならではの風情も残っていました。屋上の一角には、作家、水上勉が寄贈してくれたという桜の苗木の箱植えもありましたが、近所の火事の火の粉が飛んできて焼けてしまったと聞きました。
三条通りは、昔は京のメイン・ストリートで、日銀支店や呉服、香料、扇子などの老舗、料理屋などが並んでいました。今も祇園、錦市場などと並ぶ、京の古い顔であることには変わりありません。コロナが収まって、京都旅行の折には、ぜひ「1928ビル」をお訪ね下さい。
(磯貝 喜兵衛)
―――朝日新聞10月2日夕刊3面「いいね!探訪記」欄に、「『93歳』記者去っても薫る文化」と題して「1928ビル」が紹介されています。磯貝さんへの社長室からの問い合わせは、この記事の取材を受けたためでした―――
※磯貝さんは元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長。92歳で、隅田川河口の中央区湊1丁目に住み、出身の慶応大学三田キャンパスや隅田川沿いにある勝海舟像を訪ねたり、永井荷風「断腸亭日乗」を読み返すなど元気です。磯貝さんが京都支局長だった当時、支局次長だった木戸湊さんは季刊同人誌『人生八聲』13巻(2018年1月、新年号)で当時を振り返って以下の文(抜粋)を寄せています。併せて紹介します。
《修羅場の京都 木戸 湊》
犯罪史上最も凶悪とされた梅川昭美の三菱銀行北畠支店襲撃事件の取材で毎日新聞の圧勝後間もなく、私は大阪府警キャップから京都支局次長に異動――その初日に、朝日新聞に京都・冷泉家秘蔵文書の全容を大スクープされるハメになった。
その日の夕刻、私は緊急支局会を開き「夜討ち朝駆けを重ねて特ダネを書け!一か月、特ダネのない記者は内勤にするよ」とハッパをかけた。宿直メンバーたちのチェックもあって、週三回は支局で泊まることにした。
そんな出だしの苦いつまづきを忘れさせてくれたのが、学術・文化担当の斎藤清明記者(『人生八聲』同人)だった。「次長、必ず朝日の冷泉家をしのぐスクープを書きますから!」と宣言した。約一年後、斎藤記者は後小松天皇直筆の「伊勢物語」や雪舟の掛け軸「釈迦絵」など国宝、重文級六〇点を含む京都・曼殊院の超秘蔵品を、ばっちり撮った写真とともに出稿―朝刊一、二面や社会面トップを飾る大スクープとなった。
斎藤記者の曼殊院取材は、朝日の冷泉家スクープの直後から始まっていた。「京大文学部の某研究室をマークしてみたら」とある人からヒントを与えられたが、学者たちはひたすら沈黙。かえって〝獲物〟の大きさを感じた斎藤君は、年二回だけの秘蔵品蔵出しをじっと待って〝大魚〟を突き止め、見事に捕まえた。
斎藤君はこのほか、フィンランド国立研究所が研究用に無料で日本に提供してくれた「ガンの夢の新薬」といわれたインターフェロン(IF)を患者七人に投与して、約三千万円を荒稼ぎしていた兵庫県宝塚市の民間病院を突き止めて大スクープ。
「フィンランドに了解を取ってある」とシラを切る病院長に怒り心頭の斎藤君は「元特派員だから英語ができるはず。フィンランドの研究所に確認して!」と私に催促する。
慣れない医学用語に大汗をかきながら、カンテル同研究所長と国際電話で一五分――。
カンテル氏は「IFは無料投与で臨床例を集めるのが目的で日本にも送った。高額の報酬を受け取るなんて言語道断!臨床報告も全く届いていない」とカンカン。厚生省からも厳重注意された民間病院はノックダウン……閑古鳥が鳴いたといわれる。
◇ ◇ ◇
真宗大谷派(東本願寺)は宗祖・親鸞の末裔の「大谷家」(同寺住職)と末寺グループで組織された「内局」が、教団運営をめぐって長らく対立していた。私の京都時代は、まさにこの対立が燃え上がる寸前だった。大谷家は国の名勝「枳殻(きこく)邸」を借金の担保に売り払おうとし、内局側は大谷家を背任罪で京都府警に告訴していた。
宗祖以来八百年、門信徒数七百万のマンモス教団。しかも法主(大谷光暢師)の智子裏方(妻)は昭和皇后の妹だった。京都宗教記者会メンバーだった田原由紀雄記者は法主、内局双方にシンパを作って特ダネを連発、検察担当の村山治記者(後に朝日新聞に)と組んで、近づく枳殻邸捜査に備えていた。
捜査のポイントは天皇の親戚の法主一族を起訴できるのか?事件の成り行きを聴き、天皇は激しく身震いされたという。間もなく〝天皇の勅使〟として秘かに京都へ現れたのが、元名古屋高裁長官のN弁護士だった。宿泊ホテルさえ極秘だったN弁護士が宗祖の大谷家に入って行ったのを見事に見届けたのが新人のW記者。二日前からN弁護士の顔写真を手元に車の中でひたすら張り番をしていたのだ。
次にN弁護士は内局との会合へ――村山記者が忍び込み、無断で内局奥の間の襖を開けると、N弁護士と内局トップの宗務総長が密談中だった。「毎日です」とカメラを構えたら、宗務総長は「後で全てを話すから、待って」と懇願。
後は田原、村山両記者による特ダネ・ラッシュ。「法主―内局が和解」「内局、告訴取り下げ」「京都地検、事件を不起訴に」……。
天皇の意志で三〇年間の紛争に一応のピリオドが打たれた東本願寺事件だったが、深夜の支局でその第一報を書こうとした村山記者は興奮で手が震えて字が書けない。「力を抜いて」と田原記者に肩を叩かれ、私は大きな湯呑に日本酒を注いで、ぐいと飲ませた。
◇ ◇ ◇
私の京都支局在任はわずか一年一〇か月だったが、この間、支局員らが勝ち取ったのは、社内最高の賞「編集局長賞」が六本。同賞に準ずる「編集局長之賞」が五本、通常一年一本で大騒ぎだった当時としては前代未聞の快挙―支局員の団結と親和が目に見えて高まった。
これまで数々の記者体験や思い出を書いてきたが、京都時代は余りに忙しすぎて、スクラップの類はゼロ。支局ОB会の度に、「あの修羅場を是非書いてよ」とせがまれ、数人の仲間から当時のスクラップや本も送られてきた。
懐かしい戦友たちよ、ありがとう!
2021年9月22日
「毎小」60年記念誌をバックアップしてくれた辻政信の二男


読売新聞の前田啓介記者(2008年入社)が『辻政信の真実 失踪60年--伝説の作戦参謀の謎を追う』(小学館新書)を出版した。2018年、辻の地元石川県の金沢支局に転勤したのを契機に取材を始め、県版で連載。さらに取材を続け、400ページを超える著作になった。
読み始めてすぐ、辻政信の二男毅さん(1942年生まれだから、来年80歳)が登場する。その毅さんに、毎日新聞学生新聞本部が大変お世話になったことを思い出した。
◇
毎小(毎日小学生新聞)は1936(昭和11)年12月22日「大毎小学生新聞」として創刊した。東京では翌37(昭和12)年1月5日、時事新報から継承した「日本小学生新聞」を「東日小学生新聞」と改題した。
毎小創刊60年を記念して学生新聞本部は『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』を出版した(1997年1月発行)。B5判448ページの大部のものである。定価4,500円。
海野十三の連載SF小説「火星兵団」が毎日待ち遠しかったと、JR東海の初代社長須田 寬さん(90歳)や「日本沈没」の作家小松左京さん(2011年没80歳)。
「両手を大きく拡げて、一人前の格好をして読みました」と作家の田辺聖子さん(2019年没91歳)。
子どもに人気があった。秋玲二の「勉強まんが」は1939(昭和14)年に始まった。漫画家では手塚治虫、藤子不二雄(安孫子素雄・藤本弘)、松本零士、園山俊二らがデビューをしている。
この記念誌づくりに情熱を燃やしたのは元毎小編集長の谷僖純さん(2005年没66歳)だった。情報調査部のマイクロリーダーでバックナンバーをプリントアウト、ワープロで夜遅くまで原稿を叩いた。
出版してくれたのは、NTTメディアスコープ(現NTTアド)。ここは当時の毎小編集長赤池幹さんが見つけてきたのか。
そのNTTメディアスコープの社長が辻毅さんだった。「勉強まんが、懐かしいですね。私も毎小を読んで育ちました」と、記念誌出版の応援団になってくれた。「社長案件」で出版話が進んだのである。
辻社長は、東大法卒、日本電信電話公社(現NTT)入社。テレホンカードの生みの親といわれ、日本初のテレカのデザインを岡本太郎に依頼。パンダのトントンのテレカは800万枚を売り上げ、テレカの売り上げ日本一を記録したという。
あれから25年——。毎小は、ことし12月に創刊85年を迎える。新聞が読まれなくなっているといわれるうえに、少子化。頑張れ「毎小」と声援を送りたい。
(堤 哲)
2021年9月16日
「ペンの森」一期生が、瀬下恵介さんのお酒と議論を偲んで

瀬下先生と初めてお会いしたのは1995年の秋。先生がマスコミを目指す学生向けの作文教室「ペンの森」を創設した年のことでした。
大学4年だった私は、いつもなら素通りする学生課の掲示板で、偶然、「ペンの森」を紹介する貼り紙を見かけました。もう毎日新聞社から内定をもらっていたので作文を習いに行く必要はないといえばなかったのですが、携帯もインターネットも普及していない時代だったので、新聞記者と会ったり話したりという機会がほとんどありませんでした。だから「これから自分が入る会社の先輩から直接話が聞ける!」と、貼り紙を拝見し、その足でアポも取らずに神保町の教室に行ってみました。
「ふつうは就職試験の前に来るもんだけどね。面白い人だねえ」と先生には笑われましたが、作文を書き、その後は世相をつまみに、あーでもない、こーでもないと議論する酒盛り付きの授業はとても楽しく、毎週通いました。
鳥越俊太郎さん、亡くなった久和ひとみさんらマスコミの現役OBがしょっちゅうふらりと立ち寄り、一緒に酒を飲みながら取材の裏話をしてくれたり、問わず語りの武勇伝を聞かされたりすることもしばしばでした(裏話のやり方をまねしてみましたが、うまくいった試しはほとんどなかったですが)。
ある時、大の大人が酔っ払って、意見の違いの末に「お前な!」などと本気でけんかし出したので、「止めなくていいんですか?」と尋ねたのですが、先生は「いいよー。元気があっていいじゃない。毎日に行ったらこんな奴らばかりだぞ」。笑って放置していたのは、先生がそういう毎日新聞の社風を好きだったからなのは間違いなく、同時に、これから記者になる学生に、(けんかはともかく)真剣に議論することを大事にして欲しいと言いたかったのでしょう。実際、「15版」で似たような光景を幾度となく見かけましたが、「まあそういうもんだな」とのんびり構えていられたのは、ひとえに先生の下で耐性がついたお陰です。
結局、作文でほめられたことは数えるほどしかなく、先生が「毎日新聞ロッキード取材全行動」をまとめたことも社会部に上がるまで知らず……と、ただ一緒に飲んでいただけで卒業したような気もするのですが、働き出してからは、記者人生の分かれ道のような節目になると、自然と「ペンの森」に足が向き、先生に相談していました。
手痛い抜かれをした警察担当の時は、「命まで取られないから」。外信部に異動する時は「先のことなんか誰にも分からないんだから、好きなようにやったら良いんだよ」。そう声をかけてくれ、背中を押してもらいました。先生は「新聞記者は楽しいよ。生まれ変わっても、もう一度やりたい」とよく言っていたので、あちらでもペンを握って楽しくやっているのかもしれませんが、もう相談できないんだなと思うと、寂しくてなりません。
たまたま貼り紙を見かけて「ペンの森」の1期生になってから四半世紀が過ぎ、先生の教え子は現在、マスコミに500人くらいいるそうです。毎日新聞にも毎年1~2人は入っており、「入社できました。○○支局に配属になりました」という連絡をもらうこともあります。コロナで、酒盛り付きというわけにはいきませんが、仕事の合間にはペンの森へ行き、記者志望の学生の作文を見たりして、先生のお手伝いを続けようと思います。
(1996年入社、カスタマーリレーション本部宣伝企画・プロモーショングループ長、石原聖)
※瀬下恵介さんは2021年8月9日逝去、82歳。社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長など歴任。リタイア後、「ペンの森」を創設、2018年の引退まで多くの学生をマスコミに送り込んだ。現在は、朝日新聞出身の岩田一平さんが引き継いでいる。
2021年9月16日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その16 第2回目ワクチン接種の一日(前編)(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasu.../archives/53454521.html
新型コロナの第1回目ワクチン接種のことは連載その14で書いた。第2回目は7月23日だった。場所は同じ大手町の合同庁舎。炎天下に街中をうろつくのもどうかと思ったが、まっすぐ帰るのもなんとなくもったいない気がした。地下鉄東西線の途中に市川市行徳がある。会社員時代に40年以上も通った路線だが、この町をゆっくり歩いたことがない。
1992(平成4)年になるが、松尾芭蕉が『鹿島紀行』で歩いた軌跡をたどるという雑誌企画があり、行徳を訪れたことがあるのだが、江戸川河畔の常夜灯のほかはなにも覚えていない。『鹿島紀行』は目を通していたと思うが、なにも覚えていないのは、下調べもろくにしないで、編集者にいわれるまま、写真を撮っていたからに違いない。あるいは、1泊2日の取材日程だったから、時間に追われて余裕がなかったのかもしれない。 インターネットで検索すると、市川市公式Webサイトに「行徳・南行徳界隈」のページがあり、案内の記事と地図を載せている。行徳の今と昔をていねいに紹介していて、とりわけ「文化の街かど回遊マップ 行徳・妙典地区」は一目瞭然でわかりやすい。

それによると、東西線の妙典駅東口から寺町通りに出て、北西方向に400メートルほど歩くと、江戸川(旧江戸川)に突き当たる。その手前を江戸川と併行して南西から北東に通じる道路が行徳街道である。歴史的な街並みの中心はこの街道に沿った一帯で、寺町通りとの丁字路から南西方向に400メートルほど歩いた川沿い公園には、かつての繁栄を象徴する石造りの常夜灯が残されている。
脇道に逸れても、往復2キロ前後。写真を撮りながらだと、所要時間はおよそ2時間ということになる。自宅から最寄りのJR津田沼駅までは約2キロだが、雨でなければたいていは歩く。ワクチン接種直後ではあるが、無難な街歩きの行程ではないかと思われた。
行徳には本塩・塩焼・塩浜などの地名が残っている。東京メトロ東西線やJR京葉線、あるいは東関東自動車道から目に入るのは、大小の工場が立込んだ埋立地特有の沈んだ風景ばかりだが、かつてこのあたりは干潟の海岸線がどこまでも続き、潮の干満を利用した塩田が開かれていた。
多少の知識はないわけでもなかったが、改めて調べてみると、1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入ると、直ちに着手したのが小名木川の開削で、家中を総動員させた1年越しの突貫工事でこの人工河川を完成させたということである。目的は行徳の塩を江戸に運ぶことにあった。その当時、行徳のあたりは関東一の製塩地帯で、塩は生活必需品であると同時に軍事的な戦略物資でもあったからである。
先に述べたように、芭蕉の紀行文集に『鹿島紀行』がある。1687(貞享4)年、茨城県鹿島市への月見の旅を記した俳句と散文からなる短編であるが、そのなかに行徳の地名が出てくる。
このあきかしまの山の月見んと、おもいたつ事あり。(中略)門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。(中略)日既に暮れかゝるほどに、利根川のほとり、ふさという所につく。
「かしま」(鹿島)には、臨済宗妙心寺派の根本寺があった。この寺院の21世住職を仏頂和尚という。そのころは住職を退き、根本寺の近辺に隠居していた。芭蕉は月見の風雅を表向きの理由に、その居所を訪ねたのである。勝手な憶測だが、月は天空の月であると同時に、仏頂その人の象徴的な表現ではなかったかと思われる。旅の同行者は浪人姿の曽良と墨染の衣の宗波の2人。芭蕉は自分自身については、つぎのように書いている。
いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠のあいだに名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく
自分は僧に似せた身なりをしているが、僧侶でもなければ市井の人というわけでもない。いわば、鳥と鼠の中間の蝙蝠のような存在だといっている。「とりなきしま」は「鳥なき里の蝙蝠」のもじりで、「しま」は鹿島。鳥は本物の僧侶で、蝙蝠は偽物の僧。鼠は市井の人。本物の優れた僧侶は鹿島にいない。それをいいことに、偽物の僧である自分が出かけて、我が物顔に幅を利かせよう。という逆説的な言い回しである。ここでいう鳥とは、文脈から考えれば、鹿島根本寺の前住職であった仏頂和尚のことにほかならない。
鳥類は、わが国の古くからの信仰では、この世とあの世を媒介する存在とみられた。神仏の意思を伝える聖なる使者ということである。神仏の託宣の多くは夜間で、多くの場合、夢の形をもって顕現した。
それにたいして、鼠には夜行性の動物で、ひそかに悪をなすものとか、つまらない者という意味があるらしい。蝙蝠は鳥の仲間だが、鼠と同じように、夜行性である。鳥類は夜になれば眠る。神仏の夢を見るためである。蝙蝠は夜になると目を覚まし、月見に興じる。月見の風雅とは、鳥でも鼠でもない蝙蝠が隠れてする仏道修業の真似事ということになる。
仏頂和尚は、『鹿島紀行』には言及がないが、鹿島神宮に不当な形で寺領を奪われたとして訴訟を起こした。1674(延宝2)年から9年にわたり争った結果、ついに勝訴して寺領を回復した。地方裁判所などなかった時代だから、吟味(審理)は江戸の奉行所で行われた。したがって、その度ごとに、鹿島から出府しなければならなかった。つまり、仏の道にありながら、寺領回復の俗事に、かまけざるをえなかった。そのさいに、身を寄せたのが、深川の臨川庵(後の臨川寺、江東区清澄3-4-6)だった。芭蕉は、1680(延宝8)年、この仏頂と出会い、師弟以上の親交を結んだ。芭蕉が桃青と名乗ったのも、仏頂による命名だともいわれている。

2021年9月15日
「サンデー毎日」に、東条英機の頭を叩いた大川周明の合掌写真

今週発売の「サンデー毎日」9月26日号で「東京裁判」の写真が目についた。
法廷で合掌する大川周明、その前に東条英機——。この写真は、東京裁判担当の毎日新聞写真部・日沢四郎さん(当時38歳、のち写真部長)の撮影である。
——昭和21年5月3日のことである。福湯(豊)や高松(棟一郎)が休廷時間に、ゲラゲラ笑いながらクラブに戻って来た。ずっとクラブにいた私(狩野近雄)を見るなり、
「大川周明が東条の禿頭を叩きやがった」という。
私は、開廷のベルがなると記者席に入ってみた。審理を再開するとすぐ、大川はまた東条の頭をたたいた。被告席は二段になっていて、東条は前列、そのすぐうしろの後列に大川はすわっているのである。手をちょっと上げて、ペタンと平手で、東条のハゲをたたいたのだ。そのときの東条が、うしろをふりむいて、そのふりむいた顔がよかった。微笑をたたえて、
“なんだいこのイタズラ小僧が”
といった顔なのである。人のいい東条の一面が見えた。
シーンとした法廷のなかに、ペチャッと響く音が奇妙なおかしさだった。
——法廷内珍事、大川周明が東条英機の頭をペチャンとたたいたときは、二度とも各社は撮影できなかった。しかし、ヒイさん(日沢カメラマン)は、東条の頭を叩いたあと合掌する大川をとっている。
——ヒイさんは数多くの特ダネ写真をとった。法廷という限られた場所、固定した写真班の位置、そういう条件のもとで各社をだしぬくことは容易ではない。ヒイさんは三脚の上にカメラを
3台とりつけてシャッターを切ると同時に3方向の写真がとれる新発明をしたりした。
以上は、東京裁判の取材班キャップ狩野近雄(のち東京本社編集局長、スポニチ社長)著『記者とその世界』からである。
翌日の新聞各紙に「東条のハゲ頭をポカリ」という見出しが躍ったが写真はなかった。
毎日新聞に載った大川が合掌する写真を見て、MPたちから「これは君が撮ったのか。是非一枚焼き付けてくれ」と頼まれた、と日沢は自著『戦犯を追って三ヵ年』(1949年刊)に書いている。
法廷取材は、記者は7人登録できたが、カメラマンは1人だけ。日沢がA級戦犯の処刑まで3年間取材を続けたのである。ちなみにペンは高松棟一郎、福湯豊、川野啓介、鈴木二郎、新名丈夫、杉浦克己で「多士済々、当時の新聞のベストメンバー」(狩野キャップ)。
「東京裁判」は狩野が命名者である。正式名「極東国際軍事裁判」では長過ぎるので、ニュールンベルグ裁判がその地名をとったのにならったという。
私(堤)が入社した1964年、狩野が東京本社編集局長、日沢は写真部長だった(文中敬称略)。
(堤 哲)
2021年9月13日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑦
味のちがう国

これは、ちょっと当てが外れたかな――と思った。定年を一年残して退職し、一家三人と犬一匹とを連れて、ハンガリーの首都ブダペストへ引っ越しての感想だ。内陸国だから、新鮮な海の魚は期待しなかったが、こんなに食べ物がしつこくて、しょっぱいとは思ってもみなかったから。
ハンガリーについては、父(森正蔵)の遺した日記を読んで、頭の片隅にあった。「丘の上の古城の壁に夕日が映え、暫くすると夕焼け雲を背負った川上の丘陵が、色と形との極美を描き出していた」。一九四〇年六月、父はモスクワ特派員勤務が解け、帰国途中に母とともにローマからブダペストに飛んだ。この月、イタリアのムッソリーニは英・仏に宣戦を布告した。母はこの演説をホテルを抜け出し聴いたが、父は灯火管制で真っ暗なローマとは違い、ドナウ河に沿って広がる美しい街をしみじみと眺めたのだろう。僕も下見に訪れ、父と同じ思いをしたのだった。
ハンガリー人は、同じアジア系の民族である。顔立ちは全く違い欧州の体型だが、十人に一人は蒙古斑があるという。偶然だろうが、よく似た単語も多い。水はヴィーズ、白鳥はハッチュウ、帯はウーヴ、打つはウートゥ、湖はトーで、アイヌ語の湖トーと全く同じである。どれも生活に密着した言葉であることに注目したい。太古の昔に、二つの国の祖先はバイカル湖の南で一緒に暮らしていたが、その後両者は東西に移動したという説を唱える学者がいた。トート・カザールさんという老人で、「古事記」のハンガリー語訳で知られる。両国の言語を巡る学会で何回も発表することがあったが、両国民がたどった地域を実地調査していないので、学説にはならなかった。
ブダペストをはじめ地方でも日本語熱が盛んだ。指定されている小中学校には、特別な日本語の授業が毎日あり、会話はもちろん漢字の読み書きを習っている。上級のクラスになると、今どきの日本人も使わない会話で自分を表す子供がいたりしてびっくりさせられた。中学生新聞のデスクをしている時、きれいな日本語で「お友達になりたい」とペンパルを求める手紙が学校単位で届いた。不思議に思っていたが、その疑問の答えが解った。
話を元に戻そう。なかでも塩はハンガリー語でショー。しかも塩が足りない時は「シオタラン」と言う。大衆食堂でもホテルでも、かなりの辛さなのに、地元の人には味がさっぱりしていると感じるらしく「塩足らん」とボーイさんに注文していた。初めて聞いた時は日本語かと耳を疑った。塩はちゃんとテーブルの上にあるのに、まだ足りないらしい。ある晩、タイ料理を食べに行ったら、心配が当たって、辛い、辛い。注意すると「薄味と注文してください」と切り返されてしまった。毎週、部屋の掃除をしてくれるおばさんは、おふくろの味を僕たちにご馳走しようと、張り切って作ってくれたが、塩辛いのには参った。 さらに面白いことに、住所は都道府県から書き始めるし、姓名の呼び方や年月日の書き順も日本と同じだ。
ハンガリー料理は、ルーマニアのトランシルバニア地方、トルコやスロバキア、オーストリアの影響を受けている。ほとんどがロールキャベツのように皮で包んだり、煮込んだりしたもので、日本料理のように蒸したり、塩焼きにしたものはほとんど見当たらない。独自の料理には、日本人にもおなじみのグヤーシュがある。もとはハンガリー西南部に広がる大平原(プスタ)の牛飼いが、塩と香辛料で味つけした骨肉をパプリカとともに、弦で下がった鍋で煮込んだもの。
ある時、昼間のパーティーに呼ばれて驚いた。バーベーキューといううたい文句だったが、広い庭の真ん中に置いた鉄板にラードの塊を乗せ、溶けたラードを肴にワインを飲むという寸法である。口がねばねばするし、ラード独特のにおいが口の中に広がり、ついついワインを飲みすぎるので、さすがの大男たちも歌えや踊れの騒ぎになった。

ハンガリー料理を「世界で三大料理」と、ほめそやす人たちがいる。英国に住む美食家のローナイ・エゴンは「フランス料理や中国料理とともにハンガリー料理は東西文化の接点にあり世界一」。やはり長く英国に住んでいる怪奇小説家のオルチ伯爵夫人は著書「紅はこべ」で「英国人は王様のような生活をしているが、食事は豚のようだ。ハンガリー人は豚のような生活をしているが、王様のような食事をしていることを神様はご存じだ」と。
でも、僕は「うーん」とうなってしまうのである。(つづく)
2021年9月9日
「あなたはケチですね」宇野千代さんに叱られた吉永小百合さん
「恋多き女」宇野千代さん(1996年没98歳)の名前に、立て続けに接した。この毎友会HP追悼録の中西浩さん(7月28日没90歳)と、5日付毎日新聞「滝野隆浩の掃苔記」。
追悼録では、中西浩さんが宇野千代さんを撮影したときのウラ話を写真部の後輩・滝雄一さんが明かした。
《毎日新聞日曜版で「生きて行く私」を連載し、単行本でもベストセラーになった宇野千代さん。彼女の老眼鏡はかなりきつい凸レンズで撮影の角度で目の大きさ、形が歪んで醜悪に見えてしまう。そこで、中西さんは眼鏡屋へ行って、レンズを外してもらって彼女を撮影した。とにかく撮影では妥協しないのだ》
社会部旧友・専門編集委員の滝野隆浩さんは、お墓めぐりで。《高さ1・2㍍、幅1㍍ほどの白っぽい石。上部には丸みがある。「幸福は 幸福を 呼ぶ」と彫られ、その周りに好きだったサクラの花びらが散ったデザイン。心のおもむくままに愛し、書き続けた作家の、生き方そのままである》
《尾崎士郎、萩原朔太郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫らとの波乱に満ちた恋愛遍歴である。毎日新聞に連載された代表作「生きて行く私」には愛の浮沈が描かれた。読むと、なぜか晴れやかな気持ちになる。たぶんそれは、相手に執着しないから。彼の心が離れたら、追いかけない。晩年、NHKのインタビュー番組で宇野さんは「それが恋愛の武士道」と語っていた》
《あ、この人いい、と感じたら、迷わず真っすぐ一直線。後悔など一切しない。だから墓石の言葉は、宇野さんの幸福論でもある。幸不幸は「本人の気の持ち方次第」と随筆に書いた。「私が一番嫌いなのは、そう大して不幸でもないのに、自分をよっぽど不幸だと思わないと安心出来ないような人である」(「幸福を知る才能」)》
◇
思い出したのは、映画「女ざかり」に合わせて主演の吉永小百合さんが毎日新聞に連載した「女ざかり 男ざかり」の第1回。

見出しは——。
「あなたはケチですね」
宇野先生に叱られた私
《4回の結婚をなさって、どんな時でも惜しみなく愛のある行動をとられた先生の生き方は、とても真似できない。

「相手の男性が私に好意を持ってくれていることが判らなければ、自分からその男性に対して積極的になれないのですよ」と申し上げたら、「あなたはケチですね」と、叱られた》
◇
原稿のキャッチャー役を私(堤)が担当したからだが、この第1回は印象的だった。
(堤 哲)
2021年9月8日
瀬下先生と毎日新聞

もうきっかけも思い出せませんが、漠然と出版社に入りたいと思っていた大学3年生の私は、神保町にある瀬下恵介先生主宰の「ペンの森」の門をたたきました。5期生だったので、1期生で新聞記者になった先輩方はまだ支局にいらっしゃり、出入りするのは岸井成格さんを中心とした先生とつながりがある毎日新聞の大先輩が多かったと思います。そのため、「新聞記者はすぐ怒鳴り合いをする」「支局でたばこを吸いながら部下の原稿を見る、よれよれの白Tシャツを着たデスクがいる」「毎日新聞の記者は、夜はだいたい酔っ払っている」といった、今から考えると半分合っていて、半分間違っている情報をたくさん植え付けられました。
そんな先生が、ある日、「おまえは新聞記者が向いているから、新聞記者になりなさい。特に毎日新聞が良さそうだ。新聞記者は楽しいぞ」と突然言い出すではないですか。理由は今もって全くわかりません。その時は「先生のそういう勘はだいたい当たる」という都市伝説が生徒の間に広がっていて、私も「そうなのか」と特に疑問を持つこともなく、そのまま新聞記者を目指すことにしました。今から思えば突っ込みどころ満載ですが、先生のもたらした不思議なご縁に導かれたとしか思えません。

そんな先生は、ずっと毎日新聞を愛していたと思います。上司に平気で文句が言えることや、酒を飲んでつばを飛ばし合いながら議論するのが当たり前の社の雰囲気をよく笑いながら話してくれました(時には岸井さんの武勇伝なども)。古い毎日新聞の本もたくさんあり、「泥と炎のインドシナ」を初めて手に取ったのは「ペン森」です。取材の前に、関連書籍をたくさん読む作業は先生から習いました。私はずっと「黄金期の新聞社社会部の遊軍長」が、先生を言い表すのに一番しっくりくると思っています。森羅万象に興味を持ち、書籍、雑誌、新聞から幅広い知識を得て、ちょっと斜めから世の中を斬る。私が社会部に上がり、夜回り前に酒の入っていない先生とさまざまな話をするようになってから、その思いは強くなるばかりでした。「白いヨレヨレTシャツのデスク」ぐらい、「ザ・新聞記者」な方だったのです。

私が記者生活を始めてから今日まで、ずっと心がけていることは「ご縁を無駄にしない」です。どんな人がどんな縁を持って現れるのか、誰も分からない。でもそんなご縁が人生に大きな影響を及ぼすことがあると先生から学びました。毎日新聞の記者をして、夫も毎日新聞の記者で、子どもは3人いるという人生は間違いなく先生からもたらされたものです。そして、同じように「先生がいなかったら、全く違う人生だろうなあ」と思っている毎日新聞の仲間がたくさんいることでしょう。
今回の訃報に接し、毎日新聞社内の1期から23期までの「ペン森」生に声をかけさせていただきました。だいたい一つの期に1人はいて、全国に散らばっていました。先生のまいた種は、いろいろなところでいろいろな形で今後も育っていくはずです。「師」として肉体はなくなっても存在し続ける先生ですので、なんとなく「ありがとうございました」という別れの挨拶はなじまない気がします。やっぱりこうでしょうか。
「先生、そちらに行きましたらまた飲みましょう。お土産話をもっていきます」。
(2002年入社の学生新聞編集部、田村彰子さん)
◇
《牧内節男さんの銀座一丁目新聞から転載》
瀬下恵介君を偲ぶ
(柳 路夫)
毎日新聞社会部で一緒に仕事をした瀬下恵介君がなくなった(8月9日・享年82歳)。
仲間の板垣雅夫君からメールを頂いた。それによると、13日の葬儀は家族でやりますが、供花は受け付けるそうですので、皆さんとともに、「毎日新聞社会部ロッキード事件取材班」でお花をお送りしたいと思いますが、よろしいでしょうか。ご賛成いただければ板垣が手配いたします。先ほどお宅へ電話したところ、お嬢さまが出てきて、6月に誤嚥性肺炎となり、老衰ということもあって、なかなか回復せず、9日午前3時ごろ永眠なさったと言っておられました。誠に残念です。では、以上の件、12日には手配をしたいと思います」とあった。
瀬下君は毎日新聞社会部時代、ロッキード事件の取材仲間である。辞めたあとも良い仕事をされた。彼を有名にしたのは彼が創設した「ペンの森」マスコミ塾である。彼には人を束ねてガヤガヤ論談させて有志で事を進めてゆく才能があるようだ。私もスポニチをやめたあと5年ほど「マスコミ塾」を開いたが5年と続かなかった。あまりにも学校の教室的な授業をやりすぎた。作文に絞って生徒と一緒に話しながらやるべきであったと反省している。一時期、ニューズウィーク日本版発行人であった。彼に頼まれたニューズウィークを数年間購読した。非常に勉強になった。そのあと瀬下恵介君が1995年に「ペンの森」を創った。瀬下君や元朝日新書編集長の岩田一平さんらが熱心に指導した。
さらに、ペンの森OBの朝日、読売、毎日、NHK、共同、日経、文春、博報堂などの現役マスコミ人が手助けをしてマスコミ界へ有為の人材を送った。毎年年末の瀬下君はハガキでペンの森から何名マスコミに入ったか細々と書いたハガキが送られてきた。手元にある資料では「ペンの森は11年目に入りました。捏造記者、放火記者は永遠に出しません」(2005年11月)「フェイスブックをはじめました73歳にして新しい知り合いの輪が広がります」(2011年11月)「ペンの森での教え子の記者、編集者は400人になります」(2013年11月)
心からご冥福を祈る。
2021年9月7日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑥
菊池寛の眼

父(森正蔵)は日記にさまざまな人との対話を記している。これは昭和十九年十一月十五日の部分である。
夕方、築地の「楠幸」へ菊池寛と久米正雄とを招く。横光利一も招いていたのであるが、彼はひどく胃をこわしているので「残念ながら」と出席を断って来た。この催しは、本社の客員であった三人と表面上、手を切った形になるので、一応これまでの労を謝するという意味のものである。菊池寛が珍しくよく喋ったりして、今晩の会合は面白かった。そのうちの一つ―今度、創元社で「創元」という一部百円という雑誌を出す。それにのせる小林秀雄の「モッツアルト論」は、面白いと学芸部記者が切り出したことについて、小林秀雄のことに話が移る。
菊池寛は「小林という男が、そんなに立派なものを書くのかネ」と言う。みなが「冗談ではない。小林秀雄を世に出したのは文藝春秋社ではないですか。それをあなたが知らぬという法はない」と言う。そこで菊池は語を継いで「小林の方では僕を認めているかも知れぬが、僕は小林を認めないね。小林が僕を認めているというのは、こういう訳だ。大阪へ競馬に行って小林に会った。小林は負けて負けて、からっけつになった。可哀そうになったので僕は、君この馬を買いたまえ。複ならばきっと当たるにちがいない。金なら僕がいくらでも貸してやるからと云って買わしたところが勝ったネ。あれで僕を認めぬという法はない」。
それから文学論が出た。いろいろ珍しい話、面白い話を聞くことが出来たが、「作家の真価とその名声」というものは決して一致するものではないという話から、菊池は尾崎紅葉と泉鏡花の例を出した。作品の価値では鏡花の方が優れているのに、名声は紅葉の方が上に位しているのはおかしい事実だというのである。それに次いで「だが作品の価値とその作家の人間性というものも一致しない場合があるものだ」と言って、鏡花について次のようなことを語った。
あれほど「恩師紅葉」などと外に対して言っていながら、紅葉の未亡人が生活に困ってある年の暮れに鏡花のところへ金を借りに行ったところ、鏡花はそれを拒絶している。
そして金十円を包んで歳暮だと言って紅葉未亡人のところへ送ったということがある。どんないきさつがあるか知らぬが、人間的に見て面白くない。それから佐渡の小木港で紅葉の碑を建てるというので、その資金の基金に僕たちのところへも色紙を書いてくれと言って来た。僕はまずいのを二、三枚書いたが、鏡花はにべもなく断っている。色紙を書くのがいやだったら、金でもやれば良いじゃないかと思うんだがネ。この話の序に作品のなかの会話について菊池は言う。
紅葉の作品を大したものでないと僕は言ったが、彼の作品のなかの会話は良い。現代の作品に、あのまま持って来ても立派なものです。会話のよしあしには、時代の隔りはないと言ってもよいわ。夏目漱石も菊池寛には極めてみじめな取り扱いを受けていた。「久米や芥川があんなに漱石を大家扱いにするのが僕にはおかしくて……」と言うのであった。
題字がモノクロだったころ
赤いりんごの露店の前で
だまって見ている青い顔
りんごの値段は知らないけれど
りんごのうまさはよくわかる
りんご高いや高いやりんご
敗戦に打ちひしがれた国民を襲ったインフレはもの物凄かった。これは昭和二十五年秋に東京新聞に載った「りんごの唄」の替え歌である。
戦後になると、社員の生活はますます苦しくなった。だが全国に張りめぐらした地方支局と一体となって、懸命に支え合っている姿が父の日記に浮かび上がる。

政変(社会党・片山哲内閣成立)に社内中、ことに政治部ではおそくまで活気にあふれている。慰問のために粕取り焼酎(二十年五月三十日付)二本(一千円)を出す。四版締め切り九時。
神田太郎が「亀甲萬(キッコーマン)の醤油を二升くれた。これはこの節、なかなか手に容れ難い貴重品である。(翌日付)
立石隆一(学芸部)が西瓜をくれた。この間から果物屋の店頭ではちょいちょい見うけたが百六十円とか百八十円とかいう値がついていて、ちょっと手が出なかったものだ 三三会を復活させる。この会がしばらく続いてすぐお流れになってしまったのは、どういう原因であるかわからないが、今度はこの会を愉快な集まりにすることに力を注ごう。まず何か茶菓子を出す。誰かにおもしろい話を用意させておいて、それを発表させる。そして月に一度くらいは会員全部が集まって、一ぱい飲むようにする。そのために会費をとることにした。部長五十円、次長、局長百円、なお寄付金も機会あるごとに取る。
敗戦は家計を苦しめるだけではなかった。GHQの新聞統制である。そのうっ憤を晴らす光景が、二十五年十二月二十四日に繰り広げられる。
いよいよ年も押し詰まって、あちらこちらで忘年会の催しがあるが、社会部でもかねがねの懸案であったその会を、今夕芝浦の東港園で開く。このごろ、こういう催しも値が高くてやりにくい。今夜の会なんかも一人あたり百円ばかりにつくのだが、支那料理がちょっぴり出たのと、酒は生麦酒にウイスキーである。それでも四十人ばかりの参会者が、ずいぶん騒いで大成功。例によってそれぞれの隠し芸続出のなかに、今夕の白眉は何と言っても戸川の猿と塙(はなわ)の猿回し。余りのことに皆開いた口が塞がらぬという様だった。
帰りは一同トラックに乗って社まで行き、そこで解散したが、夜更けの街を行くトラックのうえで、酔っ払いどもが思いつきの歌を合唱する様は、また一段と物凄かった。
クリスマス・イーヴ。進駐軍の兵隊たちの天下だ。第一相互のマッカーサー司令部ではMerry Christmasのイルミネーションがまばゆく、お濠の水にうつっている。

戸川(幸夫=写真)は社会部長を経て動物作家になり、イリオモテヤマネコの存在を世に知らせた。塙(長一郎)は社会部記者からNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラーに。記者でありながら暴力団・関東松田組の参謀格となり相談役的な役割を担った。いまでは考えられない話である。(つづく)
2021年9月3日
Stay home中に、こんな運動はいかがでしょうか?
コロナStay homeで運動不足解消に「体を動かしましょう」の特集が各紙に載っている。「筋肉は裏切らない」の近畿大・谷本道哉准教授、フィジカルトレーナーの中野ジェームズ修一さん、大坂なおみ選手のフィジカルトレーナー中村豊さん、「きくち体操」の菊池和子さん……。
図書館で毎日新聞のバックナンバーを検索していたら、96年前の大正14(1925)年1月20日付「大阪毎日新聞」(毎日新聞の前身)に「都会生活者の福音/疲れを忘るゝ 新しい室内運動法」が写真入りで載っていた。

運動は全部で3つ。
1 写真右上「からだをまげ手を足につけて」
両脚を開いて前かがみとなり、右手を左足のくるぶしに触れる。次に左手で右足のくるぶしに触れる。これを繰り返す。「疲れを覚えるまで続ける」。
2 写真中央「両腕をのばしてからだを右へ左へ前へ」
両脚を心もち開き両手を開いたまま両腕を頭の上にまっすぐ挙げる。そしてそのまま半弦を描くつもりで上体を左に、前に、右に傾ける。
3 写真左「威勢よく股を開いて脚をのばす」
後頭部に両手をあて、腰や背を曲げないで先ず左足を横へピンとはねだし、次に右足をはねだして、室の一隅から他の一隅へ歩くのです。
結構キツイですよ。試して下さい!
(堤 哲)
2021年8月30日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑤
中村紘子さん

昭和二十三年春、僕は渋谷区にある私立小学校に入学した。その年から男女共学になり、二クラスが三クラスに広がった。一貫教育の学校は、同じ敷地に中学が併設されていたが男子校だったので、物珍しさもあってお兄さんたちがのぞきに来た。
三年経って迎えた新入生に中村紘子さんがいた。ピアノに優れた才能を示し、全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国優勝。「赤屋根」と呼ばれる木造の講堂でリサイタルを開いたのでみんな知っていた。ぽっちゃりとした顔立ちだったので、僕たちは彼女を「白ぶた」と呼び、習字の筆を洗ったバケツの黒い水を、彼女にかけたりする悪さをした。
時は流れる。僕は入社試験に挑戦する。なにしろ受験戦争とは無縁で育っただけに、どんな準備をしていいかわからない、ただ新聞だけは隅までよく読んだ。作文は自信があった。題は「水」。前年に東京の水がめが干あがって給水制限になった。社の作文は毎年「木」とか「火」とか、誰にでも書けるテーマを題にしていたから、今年の題は「水」だろうというヤマが当たったわけだ。
常識問題の中に「中村紘子」というのがある。社の事業の中から、一つに絞って出したのである。中村さんは、前年にポーランドのワルシャワで開かれた第七回ショパンコンクールで四位に入賞。彼女が小学生の時に学生音コンで優勝したことにちなんでの出題だった。
中村さんのショパンコンクール入賞は大きな話題となった。友人や彼女のファンを中心に「中村紘子を励ます会」が結成された。僕もメンバーに加わった。その最初の会で、僕は「白ぶた」の話をした。「何よ、あなたたちだったの」と彼女は驚いた表情を見せたが、それをきっかけに友達になった。
彼女は表参道のマンションに住んでいた。十畳くらいの練習室にはグランドピアノが、部屋からはみ出すように置かれていた。ピアノが弾け僕だが、クラシック音楽には中学の時から親しんでいたので話は合った。いろいろな音楽家が音合わせに来るたびに、彼女は僕を招いた。生で音楽を聴くのは、初めての経験だ。彼女は母上とおばあちゃんと住んでいたが、「今日は誰もいないんだ」という日には、渋谷の「東横のれん街」で食料を買い込んでは、彼女は手際よく料理を作ってくれた。箸休めは彼女の弾くモーツアルトやショパンだったりした。
ところで彼女の演奏を、目と鼻の先で聴いた男が社に一人いる。宇都宮支局で後輩の平山昭男君である。彼は東大法学部の出身。司法試験を受けようとして、試験がすでに終わっていたことに自宅で気づいたそうで、代わりに社の試験を受けたというツワモノだ。久しぶりに一緒に飲んでいると、彼は「中村紘子が弾くベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』が聞きたい」と急に言い出す。電話をすると彼女は起きていて「どうぞ」と言う。驚いたのは平山君だ。夜も更けていたが彼女は、ウイスキーをごちそうしてくれた。演奏は三十分ほど続いたが、ふと平山君を見ると、すやすやと眠っている。僕は恐縮するが、中村さんは「札幌の演奏会で、最前列のお客さんがお煎餅をポリポリかじったことがあったわ」と笑っていた。
五年前の七月二十六日、朝の五時。ラジオは中村さんの訃報を伝えた。「エッ」と思う。大腸がんだったそうだ。前の日には自宅に帰り、夫君の芥川賞作家・庄司薫さんとお祝いをしたばかりだった。追悼番組で聴く晩年の彼女の演奏は、華やかさが消え、静謐な世界をさまよう境地にあったように思える。
(つづく)
2021年8月27日
倉嶋康さんのFacebook連載に記者たちの写真
昭和35年4月16日静岡県稲取で発生した伊豆急トンネル落盤事故の取材スタッフ。









どなたか、写っている人の名前が分かったら、教えてください!
(堤 哲)
2021年8月26日
同人誌『ゆうLUCKペン』第44号に原稿を! 〆切は11月11日
1978(昭和53)年5月に『有楽ペン供養』として創刊した毎日新聞現役・OBの同人誌『ゆうLUCKペン』。来年2月発行の第44号の原稿を募集中です。
執筆要項を添付します。テーマは「俺とスマホ 俺のスマホ」となっていますが、題材は自由、何を書いても構いません。
締め切りは11月11日(木)。分量は400字詰め最大20枚、8千字としていますが、これより長文の力作が過去いくつも掲載されています。
創刊号に載った発刊の趣旨を再録します。中西彦四郎さん(90年没81歳)の発案です。
《人間、還暦を迎えるころになると過去を振り返り何か書き綴りたくなる。よく言えば還暦文学と呼ぶ。悪く言えば年寄りの懐古趣味ということになるが、生き残った私達が懐かしい思い出の一端でも綴って感慨を新たにして故人の冥福を祈りたい。……記者になって駆け出しの時代、あの時の苦労や、あの戦争の激動期の体験、思いは尽きない。これらを書いて小冊子にまとめてみたいと企図し、ここに提案する次第である。還暦文学ならぬ還暦聞学(新聞の聞)と死を共にしてきた今は亡き先輩や同僚の冥福を祈るために“有楽ペン供養”とした》=第41集(2019年2月刊)の編集後記から。
皆さんの積極的な参加を期待します。
(堤 哲)

2021年8月26日
「帝国の墓場」ロンドン特派員だった中井良則さんの「1989年カブール取材記」

大事件があると、マスメディアは過去の似た事件と比較します。アフガニスタンの首都カブールが2021年8月15日、タリバンの速攻により陥落した時、アメリカの新聞・テレビは一斉に1975年のサイゴン陥落の映像を流しました。大国アメリカが遠く離れたアジアの小国に介入し、引くに引けず、敗れて、混乱の中、去っていく。アメリカのメディアは46年前のベトナム戦争が同じ構図だったことを覚えていたのでしょう。
◆「カブール? まあ行っていいよ」◆
私が思い出したのは1989年3月のカブールでした。アフガニスタンを10年間占領したソ連軍が撤退し、傀儡政権が取り残された首都に入ったのでした。当時はロンドン特派員で、在英アフガニスタン大使館で、なぜかビザが取れました。東京に出張を申請すると「カブール? まあ、行っていいよ」となり、ニューデリーで飛行機を乗り換えて標高1800メートルの高原にあるカブールに着きました。ソ連軍撤退は日本でも大きく 報道されましたが、その後は目立ったニュースもなく、アフガンは紙面から消えたころです。東京のデスクの「まあ、行っていいよ」の裏には「記事になるのかね」という疑いがひそんでいたことは、いやでも分かりました。
日本も含め外国大使館、それに国連や国際機関の多くが軒並み撤退し、外国人はまずいません。ソ連軍が消え、国内各地でムジャヒディンと呼ばれたイスラム勢力の反政府ゲリラやら軍閥やら武装勢力が戦っていました。タリバンはまだ結成されていませんが、誰が誰と戦っているのか分からないほど混沌としています。ソ連に見放された政権が遅かれ早かれ、崩壊するのは目に見えています。かといって、きょうすぐに何か起こるわけではない。小康状態。嵐の前の静けさ。何か書くことあるのか、と東京が思うのも無理はないのです。
◆テレックスのカタカタで幸せに◆
出張取材でまず確保するのは東京との通信手段です。当時、カブールで外国人記者が泊まれるのはコンチネンタル・ホテルだけでした。丘の上にぽつんと残るホテルに行くと、Intercontinental HotelのInterが削り取られていました。もとは有名な国際ホテルチェーンだったのが戦乱の中、ただのコンチネンタルになってしまったようです。外国人記者は6、7人いたでしょうか。日本人もいたけどA紙かY紙か、はっきり覚えていません。ニューヨークタイムズもいました。
電話はかからない。食堂で出る食事は昼も夜もスバゲッティだけ。政府の報道担当者がいつもいるけど、何を聞いても「分からない」。そのうち、彼らは外国人記者にスパゲッティをおごってもらうのが主目的だ、と気づきました。インフレと食料不足が深刻でした。
なぜわれわれ記者がこのおんぼろホテルに集まるのか。ロビーの隅にテレックスが1台あるからです。電話が通じないので、外への連絡手段はこのテレックスだけなのです。
下手をすると記者たちの行列ができていて、いらいらしながら順番を待ちます。やっと自分の番になると、ローマ字で原稿を打ち、鑽孔(さんこう)テープを作る。次にカブールのどこかにある電報局をキーボードをたたいて呼びだす。東京の新聞社の番号を指定してつないでくれるよう頼む。これがなかなかつながらない。電報局の見知らぬ誰かの機嫌が悪いのか、機械の調子が悪いのか。やっとつながると、細長いテープを機械にかける。カタカタと流れていきます。このカタカタの音で幸せになれたものです。
東京本社の受け手のテレックスで受信した同内容のテープはローマ字原稿の紙となり、円筒に入って編集局の天井をはう気送管で送られ外信部に落ちる。アルバイトがローマ字を日本語に直し(「翻訳」と呼んでいました)、デスクの手に届く、という仕組みです。まだ、テレックス回線はつながっています。
たまにデスクが暇か、善き人であれば、「元気か」のひとことがカブールでテレックスをにらんでいる私に届く。何も言っていこないので、「外信デスクに連絡ないか聞いてくだい」とテレックスをたたくと、しばらくして「特になし」で回線が切れる。がっくりです。
ニューヨークタイムズの記者がいたことをなぜ覚えているかというと、彼は時差の関係もあり夜遅く、長い時間、テレックスを独占する。ニューヨーク本社からは、記事の扱いだけでなく、紙面の主な見出しが送られてくるそうです。もちろん、デスクともテレックスで会話する。それに驚いたわけです。
こちらは自分の送った記事が載ったかどうかも知らされず、闇夜に鉄砲の毎日でしたから、「やっぱりね、違うね」といじけたものです。
外信部でもテレックスを使った最後の世代か、と思います。
◆忘れられた戦争◆
砂かほこりかザラザラした記憶があるカブールの街を歩き、取材しました。残留した国際赤十字委員会が運営する外科病院も訪ねました。この委員会で聞いた言葉があります。「ここは忘れられた戦争になる」。2001年、アメリカで同時多発テロ事件が起こり、アフガン戦争が始まった時にワシントンにいた私は、思い返すことになります。
ソ連が占領していた間は国際ニュースとして世界でアフガンは報道されました。ソ連が撤退し、アフガン人同士の内戦になれば関心は薄れます。「世界が忘れてしまった戦争は現に、あちこちにある。外国人はやってこないし、記事にしない。でも人々は傷つき、苦しんでいる。この国も世界から忘れられてしまう」。彼はたんたんと話していました。
アフガンで何が起こり、だれが権力を握り、人々の暮らしがいかに変わったか、世界はソ連撤退から10年以上忘れていました。そして同時多発テロで、地球儀を見直してアフガンを思い出したわけです。
テロとの戦いと民主化を大義名分として、アメリカやNATO諸国はアフガニスタンに兵士を送り込みました。「最も長引いた戦争」にうんざりし、ビンラディンを殺害したあとはアフガンは視界から遠ざかりました。自分たちが育てた政権と政府軍がある日、消えたと知り、もう一度、地球儀を回してアフガンがどこにあったのか探したことでしょう。
いまの撤退に伴う混乱が収拾されると、また世界はアフガンを忘れてしまうかもしれません。
◆もうひとつ追加された「帝国の墓場」◆
カブールで誰かから聞いたのか、何かで読んだのか、覚えている言葉があります。
「graveyard of empires 帝国の墓場」です。アフガニスタンに侵入した大国は、この土地と人間を意のままにできるとうぬぼれるが、やがて抵抗され、力尽きて退場する。その歴史をさす言葉です。今回、調べ直しましたが、だれがいつ言い出した言葉か分からないようです。
empiresと複数になっているのがミソです。もろもろの帝国とは?
1979年から89年までのソ連、2001年から2021年までのアメリカはすぐに思いつきます。それだけではありません。紀元前4世紀にはヨーロッパ・マケドニアからアレクサンドロス大王が、13世紀にはモンゴルからチンギス・ハンが侵攻し、引き揚げました。19世紀には、南下政策のロシアとインド帝国拡大をめざすイギリスがぶつかるグレートゲームの舞台となりました。外交権を奪い保護国としたイギリスは3次にわたるアフガン戦争で疲れ果て、1919年、独立を認めて手を引くしかありませんでした。
2021年のカブール陥落は、アフガン史からみれば「墓場」の長いリストに、また一つアメリカという国名を追加したことになります。
◆「カブール息ひそめる日々」◆
1989年のカブール取材は1週間ほどでビザの期限が切れて終わりました。テレックスの順番待ちでやっと送った原稿もほとんどボツの山でした。国際面のアタマでかろうじて1回だけ扱われた記事の切り抜きを見つけました。
「カブール息ひそめる日々 第2のサイゴン …おののき」の見出しがついています。当時もベトナム戦争のアナロジー(類推)が成り立っていたのです。そしていま、タリバンに見つかることを恐れ、隠れ家に潜む人々の「息ひそめる日々」が早く終わることを願います。
次の帝国が別の地から逃げ出す時は「第2のカブール」と呼ぶことになりそうです。
(中井良則 2021年8月25日 記)
※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職
2021年8月24日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」④
飯島オーナー

夕刊社会面に「赤でんわ」というコラムがあった。朝の十時にサブデスクが「赤でんわ、ある?」と聞いてくる。このコラムは地方支局などから上がってきた、ほやほやの社会部員を警察に張りつかせ、記事の書き方のイロハを鍛える場に使われた。
歳を取ってから社会部員になったので、僕の受け持ちは一方面。銀座、赤坂、六本木など話題の宝庫である。記者のたまり場は丸の内署だ。朝日は東大法学部卒の青年、東京は同大国文学科卒と、みな立派な経歴の持ち主だったが、いたって和気あいあいの仲良し。拘束時間が解ける午後十時を過ぎても、赤ちょうちんで下世話なおシャベリにふけっていた。
その日は単独行動と決め込んで銀座の裏通りを歩いていた。すると女子大生と思しき集団が、アルミホイルに包んだ何かを地面に置いて回っている。「それ、ナニ」と聞くと「アジの煮つけです」と答える。近くのビルのオーナー飯島美奈子さんから頼まれたバイトなのだそうだ。早速、ソニービル近くの女性専用の喫茶店に飯島さんを訪ねる。
銀座生まれの銀座育ち。銀座をこよなく愛している。ところが最近の銀座は、ネズミがはびこって不潔だから、のら猫に退治してもらおうと、エサをやっていたそうだ。初めは飯島さん一人で雨の日も風の日もエサやりを続けた。二十五か所のえさ場で百匹を超すのらが待っている。一匹ずつ名前をつけて話をしながら回る。
飯島さんは言う。「三匹以上の子どもを産んだのらを見たことがありません。しかも、一匹ぐらいしか育たない。長生きしているのらで五年。たいていは一年か二年で死んでじゃいます。子どもの数も少ない。だからえさをやっても増えません」
僕はすぐ「赤でんわ」に書いた。反響はそこそこあった。女性週刊誌も取り上げた。だが飯島さんは、ちょっと不機嫌だ。いつもアジを仕入れている魚屋さんに行ったら、「また、のらにやるんでしょ、って言われちゃった」。
飯島さんは大金持ちだ。ビルを何軒も持ち、有名なクラブのオーナーである。アルコールは全くだめ。ウーロン茶でごまかす。
銀座四丁目の交差点の真裏にあった会員制クラブ「百合」は、十一人が座ると満員になる。十二人目の客が来ると、一番早くから飲んでいた客が席を立つことになっている。メンバーは各界の名士が素顔で訪れる。僕は飯島さんのお蔭で入会を許してもらった。最年少ではなかったか。
ママは坂本百合さん。群馬県高崎の産で、高校を卒業して上京、証券会社のOLになった。その間に、売れっ子の直木賞作家と恋に落ちる。銀座に小さくてもいいから店をもちたかった百合さん。作家との関係を切ろうと申し出る。すると作家は彼女に示談金を要求してきたのだ。気持ちは決まっている。すぐに飯島さんに泣きつき、大金を借りて作家に突きつけ、関係を切った。あっぱれだった。
「百合」は、もうない。店いっぱいに広がるユリの花の残り香が、心に漂うばかりである。
銀座が今のような外国有名ブランドの街に変わり始めた頃、飯島さんは若い人の街を目指していろいろな企画を立て、実行に移していった。毎年大みそかに行われた「大学演劇祭」もその一つ。全国から大学演劇部のメンバーを集め、日本一を競い合うという壮大なスケールの催しものである。毎年審査員は変わったが、僕はレギュラーを務めさせていただいた。まだ売り出し中の漫画家でタレントの蛭子能収(えびす・よしかず)さんの顔もあった。学生らの迷?演技に笑いこけて、話をする暇はなかったが、好感の持てる人と思った。

タウン雑誌の発行も思い出に残っている。バイトの学生たちが選ぶ人にインタビューするのが常だったが、僕は近代俳句の旗手・楠本健吉さんを提案した。楠本さんは灘中学で遠藤周作さんと同級だった。生家は料亭「なだ万」である。
暑い夏の日が落ちるころ、楠本さんは現れた。汗を拭きながら楠本さんは口を開く。「新宿でパチンコをしてね、ぶらぶら歩いてたら制服の女子高生に声を掛けられた。『おじさん遊んでかない』って。赤いシャツを着てたんで目立ったんだろう。都立の高校に通ってるらしい。咄嗟なことに返す言葉がなかったけど、ここは落ち着いて、君、自分を大事にしなきゃ、と言ってパチンコで儲けた五百円を渡して別れたのさ」。
出鼻をくじかれたが、一夜漬けで頭に入れた近代俳句までたどり着いて対談を終えた。そして雑談になり戦争の話題になる。僕が「われわれが、かろうじて戦争の記憶がある年代です」と言うと、楠本さんは「戦争に行ったか、行かなかったは大違い。行かなかった人には判らない」と即座に切り返された。そう言い切る人がまだいた時代である。
楠本さんの秀句
汝が胸の谷間の汗や巴里祭
郭公や過去過古過去と鳴くな私に
失いしことば失いしまま師走
(つづく)
2021年8月20日
思い出すままにーー森桂さんの「つれづれ抄」③

コバちゃん
何でも占領軍の払い下げの時代だった。社の車はアメ車だったし、パンツなど下着までもが当てがわれた。そんな時「三きたな」と呼ばれた三人の記者がいた。「きたな」とは汚いを指す。その一人が古波藏(こはぐら)保好さんだ。
紙のパンツを避け、自前のパンツをはいていたのだが、周囲が不潔な生活をしている男と勝手に思い込み、不本意なあだ名がついてしまったらしい。
名前で想像がつく通り、琉球国朝廷の末裔だ。誇りをもっていたから、昨日の敵に従いたくなかったのだろう。沖縄日報の記者から当時の大阪毎日新聞に入り、東京本社の社会部記者を経て論説委員を勤めた。福湯豊さんらと並んで名文家で知られた。敗戦の一年後には、密航船で沖縄にわたり、悲劇の島をルポしている。
古波藏さんの身のこなしは格別だった。七二年には第一回のベストドレッサー賞(学術・文化部門)を受賞したほどである。パートナーはファッションデザイナーの鯨岡阿美子さんだから、男のおしゃれは身について当然だ。
亡くなる一年ほど前、六本木に近いお宅を訪れた。「起きてみると、すぐ横で阿美子が息絶えているのにはびっくりした。僕も去年、吐血して死にかけたけれど、阿美子が守ってくれたんだと思うよ」と語っていた。
一度だけ夜更けの六本木の通りを、最愛のパートナーと手を組んで散歩する古波藏さんの姿が忘れられない。
僕がデスクをしていた「毎日中学生新聞」に連載のお願いをした、原稿が手許にあったので紹介する。
大男の強盗しきり
「――日何時ごろ、ナニ町何番地某方に大男の強盗が押し入って「云々」という記事がよく新聞の社会面に出た」。
廃墟となった街は、日が暮れると暗ヤミとなり、何が出るかわからないという気味悪さである。あちこちにションボリと街灯がついていたと覚えているが、照らす範囲はきわめて狭かった。暗くなりだすころから、人々は家路を急ぎ、あとはどこもかもシーンとなる。
廃墟のヤミで、おそれを知らないのは、強盗くらいだったのではなかろうか。特に大男の強盗にとっては、コワイものなしだったはずだ。
外地からやっと引揚げて、毎日新聞社の社会部記者に復帰したばかりのわたしは、「大男の強盗」という意味するものがわからず、「この二、三日しきりの大男強盗の記事が出ているが、同じヤツが荒らしているのかね」と同僚にきいたら、相手はニヤニヤと、「アタマをはたらかせろ。数知れぬ大男が今の東京にはきているんだ」と答えたのである。
やっと察しがついて、「だとしたら、どうしてハッキリと占領軍のGIらしいと書かないんだ」といえば、「引揚げてきたばかりのお前には、まだ被占領国の弱さがわかっていないんだ」ということだった。
民家に押し入った強盗が占領軍のGIだと明らかになっているのに、つねづね公正な報道をうたいあげている新聞が、奥歯に物の挟まったような表現をしたというのは、被占領国新聞の悲劇――ではなくて、むしろ喜劇だったとみていいだろう。
GIとハッキリと書かないで、GIと感じさせるにはどんな言葉を使えばいいか、といろいろアタマをひねったあげくの「大男」なることばをヒネリだすまでの苦心が察しられて、なんとなくおかしくなってしまうのである。
日本人にも大男はいるのに、こっちの迷惑は同胞のよしみで――ということだ。
ある教師のお弁当
ある日、わたしは、取材のためだったと思う、神田の小学校へいった。職員室に通されて、椅子を与えられたのだが、ちょうど昼休みで、先生たちが弁当を食べはじめている。
わたしの目近でも、先生のひとりがアルミニューム製の、やや大きめの弁当箱をひらいて食べはじめた。なんとなくわたしの視線がその弁当箱に向く。
この弁当箱の中に詰められていたものを、わたしはいまもアリアリと覚えている。
ふたを抑えつけるようにして、ギッシリと詰められているのは、青々とした菜っ葉だった。
ご飯は、と見れば、箱の隅に、つまりはこの中を六つに仕切るとしたら、その一つに相当する量が白く輝いているに過ぎないのである。
かつて弁当箱のフタをとれば、白いご飯が多くの面積を占め、オカズは小箱の中に――というのがふつうだった。その先生が持参している食事はアベコベだったわけだ。
あまりにも青々としている菜っ葉は、当時軒先きに少しの土でもあれば、食べられる野菜をつくるということが習いとなっていたので、先生の弁当箱に満ちているのも、小さな菜園からの取り立てだったのであろう。
新鮮には違いなかったが、あぶらで炒めたのではなく、サッツと茹でただけのようだということは、色の鮮やかさで感じられたのである。
先生は青い菜っ葉をよく噛んでた。よく噛まないと、繊維だらけの菜っ葉はなかなかノドへ通るものではない。いつ食べ終わるかと気になるくらいシッカリと噛んでいる。そして白いご飯にはなかなか箸をつけなかった。
あのころ白いご飯のことを銀メシ、あるいは銀シャリといって尊重していたのだが、弁当箱の片隅で光る白いご飯は、最後の楽しみにトッテオキということらしかったのである。
ラク町ファッション
有楽町はラクチョウ、銀座はザギン、上野はノガミと言われるようになって、東京の由緒ある町が格落ちした。いわゆる「パンパン」やヤクザのアンちゃんたちが使う隠語を、堅気の衆までおもしろがって口にするようになったのである。食べるものをちゃんと腹に入れて、フテくさったあげくの元気いっぱいに見えるのは、彼女たちと彼らだった。
「パンパン」とはオカネとひきかえに、からだをまかせる女性のことだったが、はじめて現れたこの言葉は、どこからきたのだろう。
戦争の末期、台湾の海軍基地に報道班員として滞在していたころ、水兵たちの会話に「パンパン屋」という言葉が出るのを聞いた覚えがある。もちろん男たちの欲望を次々に処理する女性のいる家のことだった。しかし水兵たちがどこでこの言葉を覚えたかということになると、もうわからないのである。
いずれにしても、「ラク町」にたむろする彼女たちは、はじめ惨めな姿だった。着古したモンペ、父親のお古とおぼしきズボン、布地の織目がゆるんだスカート、ロクに食べていない顔の色が哀れで、不敵な面構えならまだしも、つつましくマジメに戦時中を暮らしてきたのではないかと思われる若い女性もいた。
化粧といえば、やっと手に入れたルージュを使っていると感じられるだけだったのが、みるみる真新しい花柄のワンピースを着て、カチーフで顔を包むなど、姿がキレイになり、悪びれなくなったのである。
風呂敷くらいの大きさがあるカチーフは、花をプリントしてあったり、これを三角に折って、折り目を額の上に当て、下にさがる両端をアゴの下で結ぶというシャレッ気は、米軍基地で暮らすGIの女房たちからの見よう見まねだったのであろう。顔がカチーフで囲まれると不思議に美人らしくなるため、堅気の娘たちまでがマネをして、ファッションの第一号となった。
(つづく)
2021年8月18日
吉田ハムさんがガリ版を切った同人誌「五番線」創刊号

経済評論家・鈴田敦之さんが連絡部時代の先輩・吉田公一さん(2021年7月12日逝去98歳)を偲んだ追悼録。同人誌「五番線」の詳細が吉田勉編著『新章九十年史』(自費出版1989年刊)にあった。
昭和26年6月9日―電話通信課同人誌『五番線』創刊号発刊。
「どうやら誕生のうぶ声を挙げ得たということを皆様と共に喜びたいと思います」(吉田公一)——昭和31年12月発行の第8号まで続き、社内の注目を集めた。
創刊号はガリ版刷り。吉田ハムさん(社会部では吉田姓が他にもいたので、ハムさんと呼んでいた)がガリ版を切った、とある。
9月18日に第2号。「よし、3号も、という気になります」とあとがきにハムさんが書いているが、12月に発行した第3号の編集責任者は坂本充郎(のち政治部、地方自治専門)鈴田敦之、青木茂の3人にバトンタッチしている。出しゃばらないハムさんらしい。
『新章九十年史』には「五番線」全号の目次と、主だった原稿が採録されている。残念ながらハムさんの文章は載っていない。
その代わり89年4月3日勉さんに届いた手紙が採録されている。
ハムさんは1947(昭和22)年12月入社。61(昭和36)年4月内信部。71(昭和46)年2月社会部。77(昭和52)年新社発足に伴い退社。
《29年11ヶ月の在社を、前中後期と分けると、前期の連絡は約13年いた。当たり前のことだが、青春時代であり、仕事も遊びも思い切ってやれた》
《社会部時代で楽しかったのは、浅草の東支局の5年間だった。染太郎のおばちゃん、神谷バーの渋谷支配人など、下町の心のふれあいがうれしかった。あの昭和50年前後、東支局から出稿した街ダネには「また〇〇が消えていく」という歴史・人情ものが多かった》
いつもニコニコ、温顔で怒った顔を見たことがなかった。
◇
『新章九十年史』を制作・発行した吉田勉さん(2003年没70歳)。1988(昭和63)年2月1日に毎日新聞社が速記を廃止した年に定年退職した速記者で、東京本社連絡部にあった昭和6年から42年までの3冊の部内連絡帳を、習い始めのワープロで打ち込み、それ以前の電話電信、速記史をまとめた。B5判、本文745ページの大部なものだ。
速記の廃止に伴い《さよなら「電話速記」》を「記者の目」に書いた。
速記が新聞に導入されたのは、1899(明治32)年2月1日で、その生みの親は、当時の大阪毎日新聞社長の原敬(のち首相)だった。
速記者の特ダネとして、1950(昭和25)年3月1日、当時の池田勇人蔵相(のち首相)が国会で「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」と発言した。それを速記録から起こして紙面に掲載、特ダネとなった。速記録が動かぬ証拠となったというのだ。もっとも池田蔵相の放言としては、その年12月の「貧乏人は麦を食え」の方が有名だが。
(堤 哲)
2021年8月17日
思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」②
二つの選集

外国から帰って何回か引っ越しを重ねた。そのたびに物を整理したが、今でも手許に置いている選集がある。谷崎潤一郎と井上靖の文豪作品だ。どちらも昭和二十年も半ばの出版で、父は敗戦直後の新聞社で社会部長の職にあった。すべてがまっさらな社会。どんなことでも書ける。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の厳しい検閲が待っていたものの、輝かしい未来を予言する社会面づくりに全力を費やした。GHQで働くタイプライター嬢、上野の地下道で生活する少年たちなどを描いた連載「東京24時間」は、読みごたえがある。
そこに昭和二十三年、思わぬ異動の話が持ち上がる。出版局長への転出である。生涯一記者を志していたので、この職には熱い意義を感じていた。部内にも残留を求める同輩が少なくなかったという。だが父は、あえて出版の道を選んだ。大学でロシア語を専攻し、ゴーリキーやトルストイなどの文学に親しみ、一時は小説家を志望したほどだから、思うところがあったのだろう。
世の中は出版ブームにわいていた。だが紙がない。その点、新聞社は製紙会社とは縁が深い。GHQとの交渉次第で紙は、そんなに苦労しなくても手に入る。出版局にも日の目が来る時だと考えた。
最初に思いついたのは谷崎さんへ新作を依頼することだった。谷崎さんとは京都支局時代からの知己であった。「少将滋幹(しげもと)の母」を書いてくれることとなった。これは王朝物の時代小説。戦後の谷崎文学の傑作の一つで、多くの作家や文芸評論家から賞讃された作品ある。作者自身の幼い頃の母の記と、永遠の女性像を二重写しにしている作品でもある。
新聞連載が終わり、豪華本の型見本が出来上がった。装丁は安田靫彦(ゆきひこ)。当時としては珍しいカラー印刷だ。
それを熱海の谷崎さんに届ける日、僕は父から「今日は偉い先生にお目にかかるのだから、大人しくしているんだよ」と諭された。会社から車が迎えに来た。連合軍から払い下げられた米国製のシボレーである。右側の助手席にはおかもちに入った新鮮な魚が飛び跳ねている。食通の谷崎さんに食べて頂こうと父が築地の河岸から取り寄せたものだ。
伊豆山の谷崎邸に着いた。谷崎さんはにこにこと僕らを迎えてくださった。谷崎さんは「今どき上出来ですね」とご満悦だったいう。だが小学生の僕には、二人の会話はさっぱり分からない。十分もしないうちに、僕は運転手さんの元へ戻り父の戻るのを待った。父から言われた「お暇をする時は、お座布団を裏返して」という言いつけを守って…。父はその日の日記に
「大作家に会ったことを、どれだけ覚えてくれるだろうか」と記している。
父の命日の一月十一日は、毎年かつての同僚が夭折した父をしのんで酒を酌み交わした。その宴は三十三回忌にまで及んだ。いま、その寄せ書き帖が残っている。「森は生きている」といった揮毫のなかに「井上靖」と名前だけが、遠慮がちに記されているのが目につく。
戦争が激しくなり情報源が東京に集中したこともあって、腕利き記者が東京に集められた。井上さんは大阪本社へ入社、学芸部に配属された。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。玉音放送の時も東京社会部にいた。
そして社会面を埋める原稿を書く。
頭を挙げ得るものは一人もいない。
正午の時報がある。ついで君が代の曲が奏でられる。敵弾に破られまさに沈み行こうとする艦の上で聞く君が代にも等しい。
その曲が終わる。そして「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み……」拡声器から流れる玉音である。畏れおおい。無念だ。誰もの目からは降り落ちる涙、そしてやがてそこからもここからも聞こえてくる嗚咽。それがだんだんと繁く大きくなって来る。地でまろどんで慟哭したいところを一心に我慢しているのである。そして御一言も聞き漏らすまいと皆が努力している。玉音にも御うるみが拝されるではないか。ああ何たる畏れおおいことか。御放送は終わった。
それから五年。井上さんは「闘牛」で芥川賞を受賞した。土佐(高知県)を舞台にした、闘牛の興行師と地元新聞記者の物語である。正賞はスイス製の懐中時計、副賞は五十万円だった。大学の初任給が四千二百円、ラーメンが一杯二十円の時代である。いまのように高い賞金や豪華な賞品がつく賞などなく、芥川賞は地位と名誉を象徴する存在だった。だから周囲の妬みや羨望は、考えられないほど強かった。
井上さんも、その淵に立たされた。悩んだ末、井上さんは父に相談する。父は「次の作品ができるまで社に留まるように」と、出版局付きという席を特別に設けて、井上さんを守った。井上さんは下山事件を題材にした「黯(くろ)い潮」で、毎日の記者たちを描いているが、あくまでもノンフィクションの世界でのことだ。芥川賞を受賞したころの気持ちが残っていないのは残念だ。
以下は、父森正蔵が出版交渉に谷崎邸を初めて訪れた時の日記である
昭和二十五年八月二十日(日曜日) 雨 ― 熱海へ、雪後庵訪問 ―
家を出る時には降っていなかったが途中で雨となった。東京駅の東口に自動車を降りてみると、出札口の前は一ぱいの人だかり。とても順番を待っていては切符を買うことが出来ないので、一番先頭にいる学生に頼んで、熱海までの一等の切符を一枚買って貰って、ようやく発車の間に合う。私の乗る九時五十五分発の電車はすでに大変な混雑である。こうなれば二等も三等もあったものでなく、その混雑は新橋、品川あたりからいよいよひどくなったが、藤沢を過ぎると、また幾分かやわらいだ。十二時過ぎじゃんじゃん雨の降る熱海駅に着く。そこで谷崎潤一郎氏の秘書の小滝に会う。同じ電車に乗っていたのである。

駅前で自動車を雇う。これがまた大変である。後で谷崎氏とも話したことだが、これは観光地熱海の大きな欠点である。自動車は次ら次へと来るのだが、各旅館の客引き男に横取りされて、それぞれの旅館に泊まる客がそれに乗って先に行ってしまう。旅館につながりのないわれわれのような旅行者は待てど暮らせど、自分の乗れる自動車を掴まえることは出来ないのである。それでも半時間も待ってやっと一台を手にした。つまり旅館行きの客が一通りさばかれた後である。
谷崎氏の新居雪後庵は仲田と言うところにある。誰かの別荘を買ったもので、「細雪」の出来た後の住居であるというのが、雪後庵の名の来るところだという。きわめて狭い玄関、靴を脱ぐと、そこに小さな卓と小倚子三、四が置いてある。同じく狭いまく雑巾がかけられて、艶の出た廊下を通って突当りを右に折れると六畳の日本間になる。そこへ通された。客間であろう。左手の上席に私が座り、谷水、小滝がこれに続く。部屋にはマホガニーの木目の美しいピアノが置いてあった。天井の低い数寄屋造りの一室である。中央にかなり大きな木の卓、水色の麻の座布団。庭も狭い。そして余り手の入った跡もない百合の花がしぼんで、降る雨に打たれていた。
隣が茶の間らしく、昼食の後でもあろうか、食器を取り片づける音が聞こえていたが、やがてその部室のあたりから主人が現れた。薄い麻の関西ではジンベという丈の短い着物を着ている。挨拶が終わるなり「少将滋幹の母」の話に移った。小滝が今日も装幀本を五冊提げて来た。谷崎氏は非常な喜びかたで、この本の出来栄えを誉めた。戦前にもこれくらいの本は出たことがなかったと言っている。慾を言えば本文の印刷がもう少しうまく行ったら ― と思うと言った。そして函にもう少しゆとりがあった方がよかったとも言った。京都でこの本の見本刷一冊が届いた時に舟橋聖一が来ていたが、大そう驚いていた。舟橋と一緒に来ていた舟橋の娘が「お父さんの本は何だってくだらぬ装幀ものばかりなんでしょう」と言ったのに対して舟橋は、何の言葉もよう出さなかったそうである。「少将滋幹の母」は今度「東おどり」で上演されることになっていて、その脚色を舟橋が引き受けている。今晩はそれについての打合せのため舟橋に招かれているのだ ― と言っていた。それから話はいろいろのことに及ぶ。
主人はもう一度支那に行きたいそうである。殊に北京で暫らく暮らしてみたいという。谷崎氏の作品を英訳したエリセーエフというアメリカにいる日本語学者のことにも及んだので、それは今東京のフランス大使館にいるエリセーエフの一族であろうということも話題となり、私がエリセーエフはモスクワの現在の第一ゴストロノム(註:百貨店)の前身エリセーエフ食糧品店の主人の一族であることを話すと、谷崎氏もそのことを知っていた。
雪後庵では今、書斎の新築が進んでいる。ものを書くのに、家人との連絡を絶つが望ましいというところから、今建ちかかっている書斎は、他の部屋から直接行き来できないようになっている。一度庭下駄を履いて庭に降り、雨の降る日は傘をさして、そこへ行かねばならぬのである。
話題はなおいくつもあった。尽きるところのない話である。主人は非常に満悦らしく実によく語り、私たちが帰るというのに、まだ帰らしたくないような様子に見えたが、二時間近くも喋ったので、自動車を呼んでもらって辞去することにした。夫人は何度も客間に出て来て茶菓を自ら接待してくれた。きれいな若い夫人だった。
(つづく)
※森桂さんの父、正蔵さんは明治33年7月滋賀県生まれ。大正13年大阪毎日新聞入社。ハルビン支局長、モスクワ特派員、大阪本社ロシア課長、東京本社論説委員を経て、昭和20年社会部長、編集局次長,出版局長、同26年取締役。同28年1月病没 著書『旋風二十年―解禁昭和裏面史』は昭和20年12月に発行され、満州事変など戦争中に国民に知らされていなかった事実を明らかにし、ベストセラーになった。写真は2009年に「ちくま学芸文庫」として復刻されたもの。
2021年8月16日
58年前、有楽町時代の社会部出番表があった‼
社会部旧友・倉嶋康さん(88歳)はFacebookで、記者生活の自伝を連載している。そこに社会部の黒板の写真が載っていた。
58年前の1963(昭和38)年5月23日(木)と24日(金)の内勤出番表である。むろん有楽町駅前に毎日新聞東京本社があった時代である。
倉嶋さんは宿直勤務になっている。2方面(大崎警察署)のサツ回りだった。懐かしい名前ばかりなので、フルネームで再現してみる。

まず黒板の左側から。
1963(昭和38)年5月23日(木)
デスク:夕刊=末安輝雄、朝刊=柳本見一
夜勤:藤原康彦、大澤栄作、植竹英樹
宿直:倉嶋康、大桶浩、太田稀喜
遊軍:浅野弘次、吉野正弘、吉沢敏夫、田中浩、中野謙二、丹羽郁夫、岩崎繁夫、小峰澄夫、吉岡忠雄
宿明:木下剛、中村均、近藤健
公休:浦野勝三、石谷竜生、浜田禎三
次に右側。
5月24日(金)
デスク:夕刊=村山武次、朝刊=末安輝雄
夜勤:坂野将受、田中浩、山本祐司
宿直:吉沢敏夫、前田行男、堀井淳夫
遊軍:吉野正弘、浦野勝三、田中久生、小峰澄夫、吉岡忠雄、石谷竜生、浜田禎三、丹羽郁夫、飯泉栄次郎
宿明:倉嶋康、大桶浩、太田稀喜
公休:浅野弘次、中野謙二
備考:塚田暢利、原田三朗、堀込藤一=組合出張20~24日
1日経つと、今度は左側に25日(土)の出番表が書き込まれる。
私(堤)はこの年の秋に入社試験を受け、翌64年4月に入社した。初任地は長野支局だった。黒板にあるデスクの末安輝雄さん(49年入社。山内大介、渡辺襄の元社長2人、安倍晋太郎と同期)は、翌65年2月の異動で長野支局長としてやってきた。末安さんが横浜支局長になって、後任の長野支局長が村山武次さん(48年入社)、さらに一代置いて坂野将受さん(53年入社)、その後倉嶋さんも務めた。倉嶋さんは98長野冬季五輪を控え、スポニチの初代長野支局長に転進した。父親は長野市長2期、革新市長だった。
社会部長はパリ特派員だった角田明さん。筆頭デスク立川熊之助さん。デスクは非番の佐々木武惟さんと出番表にある3人を含め計5人。
警視庁キャップは藤野好太朗さん。実家の浅草寺仲見世・煎餅かわち屋は今も営業している。前任警視庁キャップの牧内節男さん(8月31日に96歳の誕生日を迎える。多分社会部旧友会最長老)は遊軍長だった。「大阪社会部から東西交流で来ていた立川筆頭デスクは、この年の8月に大阪本社社会部長になった。その時、白木東洋(55年入社)と2人が大阪に連れて行かれた。私は大阪社会部のデスクとなった」といっていた。
最若手は、61年入社の山本祐司さん。当時の社会部の名簿の右隣に60年入社松尾康二さん(84歳)。エビセンと呼ばれていたが、後にカルビー会長を務めた。
62年入社の瀬下恵介さんが八王子支局、冨田淳一郎さん(82歳)が武蔵野支局に名前がある。
ちなみに編集局長斎藤栄一、編集局次長滝本久雄、田中菊次郎、政治部長小林幸三郎、経済部長福井信吉、学芸部長村松喬、科学部長福湯豊、運動部長仁藤正俊、地方部長若月五郎、地方取材部長土師二三生、外信部長大森実、写真部長日沢四郎、論説委員長橘善守、副委員長藤田信勝、林三郎、山本正雄の各氏だった。
(堤 哲)
2021年8月16日
ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その15 子安観音の石像と女人講(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
わが家のおばあさんネコの掛かりつけの病院が、船橋大神宮(意富比神社)の近くにある。名前はサリー。もうすぐ16歳になる。「猫年齢早見表」によると、人間の年齢なら80歳に相当する。ひと月ほど前のことになるが、そのおばあさんネコが食事をとらなくなり、しきりになにか吐いている。ふだんよくみる毛玉ともちがう。妻も私も心配でたまらない。居ても立ってもいられなくなり、動物病院で診てもらうことにした。

昨年来のコロナ渦のあおりで、動物病院の館内に入れる付き添いは1人に制限されていたので、私は外で待っていた。隣は瓦葺き木造平屋建ての風薬師堂に祀られた子安観音の石像。船橋市宮本6-26情のある建物がしばらく前まで残っていた。米屋だったということだが、いまは有料駐車場になっている。その角を曲がったつきあたりに瓦葺き平屋の建物があり、切妻の壁に薬師堂と書いているのが見えた。薬師如来といえば、治病や延命の仏様である。さらに乳薬師とか夜泣き薬師などと称される変種もあって、安産や子育ての仏様として庶民信仰の篤い対象になってきた。
行ってみると、お堂は鍵が掛かり、本尊も厨子の扉が閉じられていた。お賽銭をあげて、病院に戻ろうとして、お堂の手前に幼児に乳を飲ませる不思議な石仏像が祀られているのに気づいた。地蔵菩薩が幼児を抱いた石像は、いまでもあちこちで見られるが、その意匠とも明らかに違ったものである。
近づいてよく見ると、仏は胸をはだけて乳房を露わにし、右手で幼児を抱き、乳を飲ませている。それにたいして、幼児の方は両足をふんばって胸元にしがみつき、乳房にむしゃぶりついている。仏が左手に持つのは、とうぜん、蓮の花だろう。なんという仏か分からないが、どこにもいるありふれた俗人女性の姿に化身して現われ、献身的に安産と育児を守護してくれているのであろう。
仏が腰をおろす台座には「女人講中」とあるが、願主の個人名はない。そのほかに刻まれた銘は「天保十二丑(1841)年三月吉日」とあるのみである。改めて仏の顔に眼をやると、人前で平気で乳房を露わにする大らかさと裏腹に、うつむきかげんに目を伏せた表情は、どことなく憂いをおびて気高く感じられる。
石仏像はこのほかに2基ある。隣の1基は銘もなにもないが、よくある弘法大師像である。もう1基は「上丁子共(上町の子ども)」とあることから、地蔵菩薩ではないかと思われる。そのさらに1つ隣に、これは仏像ではないが、丸みを帯びた平たい自然石が置かれている。確証はないが、ひょっとすると、女性の性器に見立てた道祖神ではないかと思われる。3基の石仏像との間に境界を設けているが、明治時代初期の神仏分離までは、3基の石仏と一緒に崇められていたかもしれない。
薬師堂から動物病院に戻るとまもなく、妻がサリーを連れて病院から出てきた。診察の結果をきくと、血液検査のデータは正常だし、いまは吐き出すべき異物も体内には見あたらないといわれたという。そこで妻が2、3日前の出来事を思い出し、トリの手羽元を盗み食いして、骨まで食べていたと話すと、トリの骨は危険だから、食べさせてはいけない、はっきりと断定はできないが、その骨が腸のどこかに突き刺さり、それを無理に吐き出そうとして内壁を傷つけた可能性がある、というのである。サリーの体調不良は原因がはっきりしないが、とりあえず治療の必要はなく、体力増強の点滴をしてもらっただけで、その日のうちにすっかり元気になった。
薬師堂をお参りしたのは、ぐうぜんの出来心でしかないし、その場しのぎの神頼みで賽銭をあげたにすぎない。しかし、胸をはだけて幼児に乳を与える仏の姿は、私に衝撃的な印象をあたえた。わが家のおばあさんネコの一大事から1週間後、今度はカメラと三脚をもって、改めて薬師堂を訪れることにした。
その途中、船橋大神宮のすぐそばにある東光寺に立ち寄ってみた。この寺院は『江戸名所図会』でも取りあげられていて、明治の神仏分離までは船橋大神宮と同じ境内にあり、天道念仏を執り行っていたことで知られる。天道念仏の面影を伝えるものは見当たらなかったが、代わりに思ってもいなかったものを見つけた。なんというべきか、これから行こうとする薬師堂の石仏像と同じ形式のものが、寺の一画に祀られていたのである。
お寺に尋ねてみると、子安観音と呼ばれていて、幼くして亡くなった子どもを供養するため、若い世代の女性たちが建てたものだという。東光寺の石仏像は「天保十亥年」とあるから、薬師堂のものより2年前の建立になる。台座は二重になっていて、それぞれ「女人講中」、「深川講中」と刻んでいる。「深川」は江戸の深川かと思われる。こちらの台座は石仏像と材質が違っている。あるいは建立当初はなかったのかもしれない。
帰りがけに船橋中央図書館で、子安観音の信仰について調べてみた。というのも、薬師堂の周りで地元の人から話を聞くつもりでいたのだが、これがとんでもない見込み違いだった。周りに住んでいる人や通りすがりの誰に尋ねても、一致して知らないという答えしか返ってこなかったのである。
子安観音信仰の中心的な役割を担ったのは、『船橋市史』によれば、女たちだけで構成され女人講で、その前身は十九夜講とも女人念仏とも呼ばれたという。
子安講の前身は十九夜講で毎月十九日の夜集まり念仏などを唱えており女人念仏ともいわれた。十九夜の主尊である如意輪観音を信仰していたが、近世末期に十九夜講は安産子育てを祈念する子安講に移行して、本来儀軌にない子安観音を主尊とすることが多くなり、明治から近年にかけて子供を抱いた子安観音が盛んに造立されるようになった。
また別のところでは、こうも書かれている。
しかし江戸時代中期の安永年間(1772-80)ころから子安信仰がひろまってきた。二世安楽を願う女人信仰から現世利益へとむかったといわれる。その結果、如意輪観音に幼児を抱かせた「子安観音」の像が創案され、十九夜講と子安講と年齢による区分を行って並立する地域も出てきた。
同じ『船橋市史』からの引用だが、前者と後者では記述内容に矛盾がある。また事実関係の誤りもある。しかし、そうしたことを考慮に入れても、この2つの記述から子安信仰の歴史や子安観音の由緒を大雑把にうかがえるように思われる。
江戸時代の中期か末期に、それまでの十九夜講は子安講に変容していった。それにともない、主尊として祀られてきた如意輪観音も、それまでの半跏思惟像から転じて、子どもを抱く子安像が案出された。墓地や道端で多く目にする如意輪観音像は、両足を組んで腰をおろし、右ひじをひざにつき、右手を頬にふれて思索する姿である。この如意輪観音像に、右手で子供を抱かせ、左手に蓮の花を持たせたのが子安観音像というわけである。(中略)
私は子どもを亡くした体験がある。生まれたばかりで、まだ出生届もすませていなかった。北九州市にある毎日新聞西部本社に赴任中のことである。このとき、産院と市役所で、水子として取り扱うかどうかを問われた。生まれたばかりといっても、ごみくずといっしょくたにするわけにはいかない。無性に腹が立ち、情なかった。火葬場で骨にしてもらったあと、父親に連絡をとり、先祖代々の墓に納めるつもりだといって承知してもらった。
五来重の『石の宗教』に「石像如意輪観音と女人講」という短い論考がある。五来重は宗教民俗学者で、専門的に取りくんだ研究対象は庶民信仰だった。1909(明治四十二)年、茨城県日立市生まれだが、この論考によれば、少年時代に如意輪観音の石仏を見る機会が多かった。しかし、その印象はまことに暗かった。というのも、この石仏は間引きされた子どもの供養のために建てられたという風評があったからだ、というのである。
如意輪観音石像には、多く女人講中が建てた銘がある。貧困女性たちはその悩みを女性だけの女人講で語り、心の痛みをこの石仏に託したのであろうとおもう。その講世話人は宗門改めなどする菩提寺の住職ではなくて、放浪してきて村の観音堂や地蔵堂に住みこんだ道心者か六十六部であったろう。
文中にある貧困女性たちの「その悩み」とは、いうまでもなく間引のことである。間引は貧困の女性たちのギリギリの罪業であり、一種の自己防衛であったし、間引かなければならない胎児も多数生まれた、とも五来重は述べている。
「七歳までは神のうち」という諺がある。昔は死産が少なくなかった。医学も医療制度も未発達だったから、無事に生まれても、天然痘その他の流行病に感染すると、命を落とす危険性も高かった。もう1つは、口減らしのための間引きの問題があった。同書によれば、間引きは現在とちがって、江戸時代には刑法上の罪を問われることはなかった、ということである。どういうことかといえば、人間の誕生と育児は人知のおよばない神仏の支配する領域の出来事に見立てられていたのである。
柳田國男の「故郷七十年」に間引絵馬のことが出てくる。13歳というから明治20(1887)年ごろ、茨城県利根町布川に住んだことがあった。この町へ移ってきて驚いたのは、どこの家でも一軒に男子と女子の2人しか子どもがいないことだった。柳田が私は兄弟が8人だと話すと、そんなにたくさんの子どもを作って、「どうするつもりだ」と町の人たちは目を丸くした、というのである。
約二年間を過ごした利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。
その図柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている。
それより7年前、柳田は6歳のときに、兵庫県加西市北条町で飢饉を体験している。長じて国家官僚として農政にたずさわる一方、民俗学の研究に生涯をささげたわけだが、そのきっかけは、少年時代に貧困のもたらす悲惨な情況を目の当たりにしたことにある、と同じ「故郷七十年」で回想している。
十九夜講や子安講にまつわる『船橋市史』の記述には、間引の言葉はまったく出てこない。そうだからといって、この地域の女性たちの文化遺産ともいうべき石造子安観音像が、間引という禍々しい歴史的体験と無縁であったとは考えにくいのである。
2021年8月13日
思い出すままにーー森 桂さんの「つれづれ抄」①

僕はいま病院にいる。狭心症の発作を起こし手術をしたが、その際に細菌が体中を巡り、四十度近い高熱に見舞われて長期の療養を強いられているのだ。いい機会だ、頭がしっかりしているうちに、めぐりあった人たちの思い出をしたためてみよう。しばらくご辛抱を――
麻子
いまでは懐かしくなったドーナツ盤が、勇ましい軍歌を奏でていた。昭和五十年だったと思う。銀座七丁目のバー「麻」。戦後の爪痕が残ってはいないが、そんな雰囲気が漂う。小部屋のような空間には、客が訪れることは少ない。エレベーターのない寒々とした四階まで登って来る呑兵衛はめっきり少なくなっていたからだ。

「異国の丘」「軍艦行進曲」「ラバウル小唄」……ドーナツ盤から勇ましい軍歌が流れる。すぐそばでママの麻子はへぼ将棋をしているのだ。お相手は作家の安岡章太郎さん。軍歌が途切れる。「ほら森、次の曲、次の曲」。聞いていないと思ったら、ちゃんと聞いている。将棋を打つ乾いた音が続く。すると今度は「先生に氷を入れて、薄く注ぎ足して」。商売も忘れていない。
麻子は気仙沼育ち。半農半漁の家で細々と暮らしをたてていた。東京に憧れ中学を卒業してから上京。銀座の高級クラブのホステスにたどり着く。その間にどんな苦労があったか、彼女は多くを語らなかった。こちらも、何か聞いてはならない気がして聞かなかった。
好景気に沸いていたころのクラブは、金持ちの社交場だった。客を相手にするホステスはほとんどが大金持ちになった。そこに大作家が加わった。編集者との打ち合わせはクラブが舞台となっていたから。作家もクラブで働く彼女たちの生きざまを描く。川口松太郎の小説「夜の蝶」はその代表だろうか。
麻子は文学少女だった。読書量の多さが会話の中でうかがわれた。「麻」は、客が歳を取り、四階まで登って来られなくなったので、二十数年の歴史に幕を閉じた、その後、以前いたクラブの名をとって駒込に小さな店を開いた。何度か顔を出したが、往年の面影はなく客層も変わって、足は遠のいてしまった。
十数年たって、三笠会館で開かれた「久保田万太郎さんをしのぶ会」の集まりで、安岡さんにお目にかかった時、「麻子」の話が出た。安岡さんは、つい昨日のように「懐かしいな」と目を細めておられた。しゃがれ声だった麻子。どこで余生を送っているだろうか。
「アンダンテ」
新宿ゴールデン街のはずれにあった。馬蹄型のテーブルに、七、八人も座れば満席となる。秩父の山奥から取り寄せたという、透き通った氷がカウンター越しにみなぎっている。いつも満員で二、三十分も立ち飲みしなければ座れないことも。

店の名は「アンダンテ」。ママは、なっちゃん。女子大を卒業したばかりの姿で客をあしらう。アンダンテで頭に浮かぶのはモーツアルトの、「フルートのためのアンダンテ」。なっちゃんにそのことを聞くと「私も好きよ」と認め、大いに盛り上がった。
常連客は多彩だ。当時は挿絵画家で知られ、後に小説や随筆をも書くようになった司修さん。大柄の体を持て余すように、にこにこと話に耳を傾けている。ヴァイオリニストの佐藤陽子さんも名器を持って、ちょくちょく訪れた。その日も佐藤さんに「ベートーベンのヴァイオリン・ソナタのうちで何が一番好きですか」と伺うと、「七番」と即座に答え、ケースから楽器を取り出して弾こうとするので、聞きたかったけれどもご遠慮していただいた。

冨士眞奈美さんもその一人。彼女が入って来ると、その場が華やぐ。世間話に興がのったころ、なっちゃんが「冨士さん、お嬢ちゃんから電話」と伝える。冨士さんは「じゃすぐに帰るからね」と言って電話を切り、「宿題が判らないから教えて、と言っているので家に戻るけど、その話、続けておいてね」と言って姿を消した。彼女はもう夜が白みかけたころに話に加わったが、さっきの話はとっくに終わって次に移っていた。
「アンダンテ」には、家族のような空気が流れて、時間に追われる仕事に携わっている身にとっては、ほっとする瞬間があった。いまでも、その光景を思い浮かべるのである。
冨士さんの秀作。
海底のやうに昏れゆき梅雨の月
まず足の指より洗ふ長き夜
もう、お仕舞にしようかと話し合っている時、ふらりと男性が現れた。どこかで見た人だ。「あら先生、お久しぶり」。なっちゃんが手を止めて、客を招き入れる。すぐに、その人は作家の野間宏さんだと分かった。野間さんの名は知っているけれど、代表作の一つ「真空地帯」しか読んでいない。それもかなり苦労して。人間を非人間的な兵士に変えてゆく、旧軍隊と戦争の本質を問う作品ぐらいしか知識はない。
客は僕のほかは、一組のカップルしかいない。なっちゃんと手伝いの妹さんは明日の準備と跡かたづけで手いっぱいだ。僕は父が新聞記者だったこと、大本営は戦争犯罪を隠し通し、国民を欺いた実相を暴いた「旋風二十年」という単行本が、戦後初のベストセラーになったことなどを懸命で話した。野間さんは父の名前をご存じで、じっと前を見つめながら聞いてくださっていた。
話が途切れた時、野間さんは「もう一軒行きましょうか」とおっしゃる。夜更けである。空いている店はあるのだろうか、心配になったが、その店は馴染みらしく照明を点けてわれわれを招じてくれた。小一時間経ってお勘定となった。野間さんはゆっくりと内ポケットに手を入れ財布を探している。そのとたん、背後で「財布を忘れた」という静かな声がした。僕はその日はちょうど給料日で、決して安くはないお勘定を支払った。
数週間たって「アンダンテ」に立ち寄ったら、野間さんの姿があった。連日のように僕を待っておられたそうだ。(つづく)
(森 桂)
※森 桂さんは昭和16年10月東京生まれ、41年4月、東京本社入社。横浜支局、宇都宮支局、外信部、社会部、学生新聞編集部、事業部を歴任。平成7年9月 東京本社文化報道センタ―編集委員で退職。
2021年8月10日
漫画家、サトウサンペイさんを発掘した「夕刊新大阪」小谷正一さん
——作家や画家などの若い頃の作品を「若書き」といい、勢いを感じさせるものが多い。サトウサンペイさんの場合、入社試験の履歴書を漫画で描いたというから、相当な大胆さである▼産声をあげた頃、そして戦中戦後の自分を絵にして、短い文も添えた。面白い奴(やつ)だという重役もいて、百貨店に採用され宣伝部で働き始めた。さらにはその話を聞きつけた夕刊紙の幹部から、うちで描かないかと誘われた▼そうやって漫画家サトウサンペイが生まれた…
8月7日付朝日新聞朝刊1面「天声人語」である。
サトウサンペイさん(7月31日逝去、91歳)が漫画家となるきっかけを作った「夕刊紙の幹部」とは、元毎日新聞の記者・小谷正一さん(1992年没、80歳)である。
小谷さんのことは、この毎友会HP追悼録(2021年7月15日)で天才ヴァイオリニスト・辻久子さん(ことし7月13日没、95歳)を売り出した伝説のイベントプロデューサーとして取り上げた。
小谷さんが亡くなって1年後に開かれた偲ぶ会には、辻久子さんも、サトウサンペイさんも参加している。
夕刊紙とは、1946(昭和21)年2月4日に創刊した「夕刊新大阪」である。GHQ(連合国軍総司令部)が新聞用紙の割り当てを管理、毎日新聞、朝日新聞は朝刊2ページしか発行できなかった。一方で新たに創刊する新聞には用紙を割り当てたことから、各社とも系列の夕刊紙を発行した。「夕刊新大阪」は、毎日新聞大阪本社内に編集局を置き、印刷も毎日本社で行った、と『毎日新聞百年史』にある。
創刊当時のスタッフは、編集局長・黒崎貞治郎、編集総務兼報道部長・後藤基治、整理兼企画部長・小谷正一ら。毎日新聞から出向した。
朝日新聞は「大阪日日新聞」、産経新聞は「大阪新聞」を系列紙とした。
「夕刊新大阪」創刊からのことを書いたノンフィクション、足立巻一著『夕刊流星号』(新潮社1981年刊)を紹介した記事を見つけた。

1981年11月20日付毎日新聞夕刊で、筆者は、当時編集委員の四方洋さん(2016年没、80歳)である。
記事の中に、サトウサンペイさんの漫画を連載する経緯もある。
《小谷さんのところへ大丸(百貨店)の宣伝部員が遊びに来た。「おもろい人間おらんのかい」「リレキ書をマンガで書いた新入社員がおります」「それ、つれてきてくれ」。男がやってきた。「連載やらんか」。シリごみするのを描かせた。第一回は「飛行機から宣伝ビラをまいたら、海の中へ落ちる。デパートで大売り出しの日、やってきたのはサカナばっかりだった。小谷さんは四コママンガを見て腹をかかえて笑った》
井上靖は小説『闘牛』で芥川賞を受賞したが、そのモデルは「夕刊新大阪」の小谷正一さんである。
この闘牛大会は小谷さんが企画した。毎日新聞入社同期の井上靖は、このイベントに興味を持って、小谷さんから取材をした。
毎日新聞1950年2月2日朝刊に井上靖が「『闘牛』について」を寄稿している。

《廿二年一月新大阪新聞社主催で闘牛大会が西宮球場で開かれた。…一日私も闘牛見物に会場に出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に祟られてその日の入場者は極めて少なかった。リングの中央で、角を突き合せたなりで微動だにせぬ二頭の牛。それを取巻くまばらな観客。垂れ下がっているのぼり。スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。その会場に立ちこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げて来た》
《この闘牛大会は新聞社の事業としては宣伝効果からしても大きな成功をおさめ新大阪はために盛名を天下にとどろかした》
「夕刊新大阪」は、復刻版が不二出版から刊行されている。足立巻一さんが提供して兵庫県立図書館が所蔵しているものだ。
(堤 哲)
2021年7月26日
元エコノミスト編集長、高谷尚志さんが、舟木一夫さんの「高校三年生」の想い出を――フェイスブック「もういくつ寝ると<ユルリとね>」第559話転載
赤い夕陽が校舎を…。高校三年生・舟木一夫
モデルの学校は私が育った地区の女子高校だった
丘灯至夫作詞、遠藤実作曲。「高校三年生」

数々の名曲を作詞した丘灯至夫氏、いくつかの仕事へて毎日新聞の記者。
作詞家となった後も毎日新聞社には籍を置き続けており1972年に毎日新聞社を定年退職している。その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ出版局特別嘱託となる。 主に「毎日グラフ」の記者。 ということなので私より5歳ぐらい上の方は、「毎日グラフ」で丘灯至夫氏と一緒に仕事をしておりその思い出を、毎日新聞 OB の交流サイトに掲載しておりました。大島幸夫さん。
丘灯至夫というペンネームは、新聞記者は「押しと顔」(オシトカオ)である。
また毎日グラフ編集部とアサヒグラフ編集部の対抗野球大会があった時には、丘灯至夫さんの配慮で日活ロマンポルノ田中真理さんが応援に駆けつけてくれたなんていうのも紹介しておりました。なんとも羨ましい。
「高校三年生」には実は思い出がありまして、車を運転していてカーラジオをかけておりましたが多分、丘灯至夫さんだと思うんです。作曲の遠藤実さんではないとは思うんですが、まあ丘灯至夫さんということにしましょう。
高校3年生の思い出をラジオで語っているんですね。それが強烈な記憶になっておりましたので、この際、高校三年生、丘灯至夫のネット検索をしてみました。
そうしますと、赤い夕陽が校舎を…のモデルになったのは「松陰学園」。思わず ワナワナと震えがきました。 ここは女子高校なんです。私の家がご近所なもので、よく知っています。丘灯至夫さんが毎日グラフの仕事で「松陰学園」を取材にあがったときの印象を歌詞にまとめたとのことです。ここは世田谷区渋谷区目黒区の三つの区が接しているところ、「松陰学園」は目黒区です。
♪ぼくらフォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ、黒髪が~♪
普通、男女がフォークダンスをするというと、男女共学をイメージしますよね。しかし女子高には男子はいないことになっている???
<第560話>女子高校に男子学生がいた秘密
松陰学園は男女共学の幼稚園を併設してました。私の同学年ぐらいの男の子も松陰幼稚園に通っているのがいました.
目黒区世田谷区渋谷区の接点の目黒区側に位置しているわけですので、三つの区から男の子女の子が通っていました。ですのでここには男子学生というか、男の子の幼児がいたことは間違いありません。
渋谷区側の飲食店2代目男の子、松陰幼稚園に通っていて、高校卒業後は店の後を継ぐべく修行にはげみ、松陰学園にもしばしば出前を持って行ったという体験があります。廊下で小走りの女子高校生3、4人とすれ違うと、スカートの裾から女の匂いがこぼれてくる。女子高校生の集団の中に出前を持ってったこともあって、視線がこちらにじっとそそがれると恥ずかしかったな。二代目は中高一貫の男子校に進学したもんで、女子の集団には極めてナイーブな反応を示します。
松陰学園の中には「高校3年生」の記念石碑があるのですが、二代目はそんなのがあるの?気がつかなかったなー。校門を入ると、何本か木が植わっていたけど、あれニレって言うの? 道路拡張に伴い二代目は店を閉めて、いまは全く別なところに居住しています。松陰学園を探訪された方がネットに載せておりますので、引用させていただきますと説明板には以下のように記されていました。
作詞家丘灯至氏は昭和37年、新聞記者として高校の文化祭の取材にあたっていた。取材先として訪れた松陰学園では、当時、定時制高校があり、文化祭のリハーサルで男女の生徒が手をつなぎ、フォークダンスを踊っていた。
そこで最初に浮かんだのが「フォークダンスの手を取れば甘くにおうよ黒髪が……」というフレーズであり、詩が作られ、遠藤実とのコンビでこの歌が生まれるに至った。
社会に飛び立とうとする10代後半の若い人たちが夢や心を大事に、抒情性を豊かに育んでほしいという願いが、舟木一夫氏に歌われ、瞬く間に、多くの人々の心を捉え、現在も皆が声を合わせて歌える国民的な歌となっている。
つまり定時制高校があって、そこは男女共学。つまり幼稚園と定時制には男の子がいた。松陰学園では数少ない貴重な男の子を丘灯至夫さんは目撃したことになるんですね。
二代目は松陰学園に定時制があった?知らなかったなー。出前があっても昼か夕方で、夜は行かない、男子学生の姿は見たことがなかったなあ。
仕事をしながら勉学をしたいという男子学生に門戸を開いた松陰学園の経営者も立派ですが、それに応じた男子学生たちもたたえるべきでしょう。おかげで後世に残る「高校3年生」神話が学園のものになったのですから。みんなこの男子学生たちのおかげです。定時制も女子ばかりだったらあの名曲は生まれなかった?!
今は松陰学園は男女共学、定時制は今はないようです。
高谷さんのフェイスブック。
2021年7月19日
一日駅長で展望車に乗ってしまった百閒センセイ
酒井順子著『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』(角川書店)に、百閒センセイ(当時63歳)が東京駅の一日駅長を務めたときのことが書かれている。
制服・制帽で東京駅へ現れ、一日名誉駅長の辞令を受けた。駅構内を視察したあと、12時30分発の第3特別急行列車「はと」が発車する際、「出発進行」の合図を出すハズだった。
ところが百閒センセイ、発車間際に最後部展望車の展望デッキに乗ってしまったのだ。
列車は、そのまま発車、百閒センセイは熱海まで乗車したという。
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」
というセンセイだけのことはある。
同行したヒマラヤ山系こと平山三郎さん(国鉄職員)には事前にこの計画を話していたようだ。

ネットで検索すると、新潮文庫の表紙に、そのときの写真が載っている。
1952(昭和27)年10月15日。一日駅長は、国鉄の80周年記念イベントだった。
東京駅は百閒センセイ、新宿駅は毎日新聞OBで当時政治評論家・阿部真之助(元大阪毎日社会部長、東京日日政治部長、学芸部長を歴任。その後NHK会長)、上野駅は元日経新聞の経済評論家・小汀利得、渋谷駅は歌手の藤山一郎、有楽町駅も歌手の越路吹雪…。
多彩である。国鉄が黒字経営の時代だった。
図書館で毎日新聞の紙面を検索すると、その日15日の夕刊社会面に「有名人が一日駅長」という見出しで載っていた。四ツ谷駅では荒木町花街のキレイどころ7人が改札に並び、「(切符に)ハサミを入れるかたわら、乗降客に香水をシュッシュッとふりかけるというサービスぶり」。写真付きだ。
写真はもう1枚。有楽町駅の越路吹雪で、見出しは「訓示早々コンパクト」。コーちゃんは、遅刻したらしく、訓示の後、「早速コンパクトを取り出し、女駅長のみだしなみとばかり、軽くお化粧をして構内視察を行った」。
今から69年前である。鉄道開通は、1872(明治5)年。毎日新聞は同じ年の2月21日創刊だから、鉄道とともに、来年150年周年を迎える。

さて、酒井さんの著書にあるもうひとりの鉄道作家・宮脇俊三さんも、取手駅で一日駅長をしている。1985(昭和60)年、58歳の時だった。
楽しみにしていたのは「酔いつぶれた客を揺り起こしたい」。
「取手です。終点ですよ」。降りていく客を眺め、達成感を覚えた宮脇は「胸を張って駅長室へ引き揚げた」のだった、と酒井さんは書いている。
「鉄道の『時刻表』にも、愛読者がいる」
鉄道全線完乗車・宮脇俊三さんの名言である。
(堤 哲)
2021年7月19日
ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その14 ワクチン接種の一日(抜粋)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443545.html
先月の22日、新型コロナウィルスの第1回目のワクチン接種を受けた。
場所は自衛隊の大規模接種センターになっている大手町合同庁舎。12時の予約だったが、40分前に会場についた。早すぎたかなと思ったが、待たされることもなく、てきぱきと案内してくれ、あれよあれよという間に接種を終えただけでなく、その場で第2回目の予約もすますことができた。接種のあと、15分ほど経過をみていたが、どうやらワクチンの副反応はなさそうだった。
私の住んでいるのは習志野市で、ワクチン接種の予約受付は5月17日からだったが、こちらの不慣れや不手際もあり、うまくとることができなかった。予約は妻がスマートフォンを使ってとろうとしたのだが、繋がったときには、いつも予約はいっぱいになっている。一昔か二昔前に、ブルース・スプリングスティーンやローリングストーンズといったミュージシャンの公演チケットを電話予約して愕然としたことがある。発売日当日、受付開始と同時に予約を入れるのだが、よさそうな席はたいてい売り切れてしまっているのである。ワクチン接種は音楽コンサートとは違う。いい席も悪い席もない。希望する人には漏れなく接種するのが建前である。不慣れや不手際は行政の側でも同じかもしれない。そのうちになんとかなるだろうと、のんびりかまえていた。
ところが、街歩きの仲間たちから、ワクチン接種の予約がとれたとかとれないとか、メールで報告や問合せが入ってくるようになった。街歩きの仲間は9人いて、1人を除けば、すべて60歳代後半から70歳代の高齢者である。しかも半数はガンなどの基礎疾患を持っているから、ワクチン接種は切実な関心事なのである。私の場合は高血圧と糖尿病で、一昨年の暮れには肺炎に掛かっている。感染すると重症化し、命を落とす可能性が高い。
それに加えて、従来のものより感染力の強いアルファ型とかデルタ型とか称される変異ウィルスが発見されているのが気になった。それがいつの間にか国内に持ち込まれ、急速に感染が拡大しているということである。3密を避けるとか、マスクをする、うがいをする、手を洗うといっても、どこまですれば安全で安心なのかとなると、確かな指標と根拠が示されているわけではない。
デルタ型の変異ウィルスについては、感染力が2倍近いといわれている。通勤電車やスーパーマーケットはうーんと思うほど混雑していても、アルコールを提供する飲食店と違って、厳しい営業規制を受けていない。ウィルスの方は日進月歩で進化し攻撃力を強めているのに、人間の方はこれまでのような感染対策で大丈夫なのだろうか、私のような医学的素人には判断がつかない。分からないから自ずと不安にもなる。自分が感染するのも嫌だが、人に感染させるのはもっと嫌である。そんなことから、ワクチン接種は早めに受ける努力をした方がいいと思うようになった。
それから20日ほどして、習志野市のホームページを開くと高齢者のワクチン接種方法を抜本的に変更し、6月7日までに予約をすませていない人には、市役所が接種日時・場所を指定し、6月中旬から年齢別に順次、郵便で通知することになった、というのである。私と妻の場合は7月7日に発送される予定になっていて、高齢者の接種は、9月中旬までにすべて完了させる計画だというのである。
6月14日、同居している息子が勤め先の会社から妻にメールを入れてきた。たまたま新型コロナについて調べていたら、大型接種会場の大手町合同庁舎は予約が空いている。ここは習志野からの交通の便がいいし、実施しているのは自衛隊だから仕事はきちんとしている。習志野市からの通知を待つことはやめて、こちらに予約を入れた方がいいと思う。ついでに、二人でご飯を食べてくるというのもいいかもしれない、というのである。
ふだん息子は用事があってこちらから連絡しても返事もよこさない。滅多にないことだから、なにか思うところがあったにちがいない。考えてみれば尤も至極で、いわれる通りに予約することにしたのだが、私と妻の都合が折りあわず、接種日は一緒にならなかった。

そんな次第で、大手町合同庁舎でワクチン接種をすることになった。その帰りがけのことである。会場の出入口で何人もの人たちがスマートフォンのカメラで写真を撮っていた。私も彼ら彼女たちに倣って、バックから一眼レフのカメラを取りだした。そういえば、会場内のあちこちで撮影と録音を禁止する立札を見かけた。
私は前歴が報道カメラマンだったせいで、駄目だといわれると、隠れて撮ろうとする悪癖がいまでも抜けきらない。立札はもちろん報道メディアに向けたものではない。接種に訪れた人たちにワクチン接種の妨げになる行為は遠慮して欲しいということだろう。見方を変えれば、いまや誰もが何かあれば写真やビデオに記録する時代になったのである。
こうした現象はスマートフォンの普及が大きく影響している。かつてのように専門的な撮影技術は重要視されなくなった。写真は目の前の事物や出来事を正確に写しとると同時に、自分がその時その場にいた、という事実の証明にもなりうる。日記をつけるのと同じように、誰もが写真を撮るようになったといってもいい。連載その12でも言及したが、ドナルド・キーンは『百代の過客 日記にみる日本人』のなかで「日記をつけるのは、歴史家にとってなんの重要性もない日々を、忘却の淵から救い上げることである」と述べている。
私が2009年まで勤めていた毎日新聞社は合同庁舎から目と鼻の先にある。知り合いの後輩もいるから、立ち寄ってみるつもりでいたが、時計を見るとまだ12時をまわったばかりである。夕刊の校了までは1時間以上もある。それまでどこかで時間つぶしをすればいいのだが、それもなんとなくうっとうしいので、街歩きをして帰ることにした。

合同庁舎があるのは日本橋川に架かる神田橋の皇居側である。連載エッセイその11で八百屋お七に言及しているが、事件当時に火付加役だった中山勘解由の邸宅は神田橋のすぐ外側にあった。また神田橋の近く(神田錦町2丁目)には、お七の事件から5年後になるが、それまで湯島にあった護持院(知足院)が移転してきた。多くの寺院が江戸市中の内から外へと移転させられたのと逆方向になる。護持院は将軍綱吉とその生母桂昌院が数十度も参詣し、その庇護のもとで隆盛を極めたとされる。連載その11を書いた後になってから知ったのだが、桂昌院の出自は京都堀川通西藪屋町の八百屋仁右衛門の次女ということである。それが事実だとすれば、将軍綱吉の生母はお七と同じ町人身分で、実家の生業も同じ八百屋稼業だったことになる。
神田橋から雉子橋までの日本橋川沿いの一帯は、『江戸切絵図』をみると、火除地になっていて、護持院原と呼ばれた。護持院原の地名由来になった護持院は1717(享保2)年に焼失するが、幕府は再建を許さず、音羽の護国寺に合併された、ということである(註5)。
神田警察通りに出て、西側を眺めると、千代田通りとの交差点の先、護持院原のすぐ北側とみられる箇所に、戦前の築造と思われる古めかしいビルが見えた。近づいてみると取り壊されると聞いていた博報堂ビルに紛れもないのだが、どこかようすがおかしい。よくみると西側の3分の1がなくなっている。建築デザイン的に特徴のある東側の塔屋と円柱の並ぶ正面中央を残すというよりも、おそらく復元する形で、テラススクエアと呼ばれる高層の複合ビルに再開発したものとみられる。
東側は広場に整備されていて、ビルの下では若いサラリーマンの男女が1列に腰かけて、昼食の弁当を食べていた。対面の食事に比べて新型コロナの感染リスクも少ないし、目の前は木立の林になっているから、雨さえ降らなければ爽快な気分になれる。私の会社勤めをしていたころにはあまり見かけなかった風景である。コロナ渦の新しい世代が見つけた新しい生活スタイルなのかもしれない。
テラススクエア西端を右折すると神田神保町の書店街に通じる裏通りがある。書店街は竹橋の毎日新聞社から歩いて10分もかからない距離である。仕事が忙しくないときは、職場の同僚たちとこのあたりまで出かけて、昼食をとった。そのあと、本屋めぐりをするか、喫茶店でお茶を飲むとかするのである。
神保町は昨年の3月20日に訪れることがあった。街歩きの仲間の1人鈴木淑子さんが西村陽一郎の教えている美学校の写真工房(神田神保町2丁目)に通っていて、共同作品展の案内をもらったのである。
この日は3連休の初日にあたっていた。都営新宿線の岩本町で下車し、写真を撮りながら神保町の美学校まで歩いたのだが、意外なことに、休日は閑散としているはずの書店街がたくさんの人で混み合っていた。靖国通りとすずらん通りの間にひっそりした路地があるのだが、そこにはミロンガ・ラドリオ・さぼうるなど知る人ぞ知るという風情の喫茶店が点在する。神保町界隈で一番なつかしいのは、この路地の佇まいである。覗いてみると、どこの喫茶店も外で空席を待つ人がならんでいた。路地裏のうらぶれたような喫茶店が、いつの間にか脇役から主役に抜擢され、観光名所として脚光を浴びているのである。
それより1週間後の3月27日、仲間たちと大森の街歩きをする予定だった。月に1度の恒例行事で、これが100回目だった。ところが3月24日になって、東京都の新型コロナウィルスの感染者数が急増して40人に達したというニュースが流れた。その日の夜、幹事の福田和久君から連絡があり、感染が鎮静化するまで、街歩きは延期しようということになった。東京都の小池百合子知事から、新型コロナの感染拡大を防ぐため、週末の外出を自粛する要請が出されたのはその翌日である(以下略)。
2021年7月19日
三原浩良さんに原稿を真っ赤にされたノンフィクション作家

西部本社で報道部長をつとめ、退職後、葦書房社長、弦書房代表として良書を出版し続けた三原浩良さん(61年入社、2017年没79歳)の名前を18日付け読売新聞の読書欄で見つけた。
ノンフィクション作家澤宮優さんが『巨人軍最強の捕手』(2003年晶文社刊、現在は『戦火に散った巨人軍最強の捕手』河出文庫)を出版するときのことだ。
巨人軍最強の捕手とは、ビルマで戦死した吉原正喜捕手である。熊本工業では川上哲治(巨人軍監督)とバッテリーを組み、甲子園で準優勝した。のちに打撃の神様と呼ばれる川上は、吉原捕手を獲得するために、ついでに入団契約になったといわれる。
澤宮さんは、川上さんからも取材をして、半年かけて原稿を書き上げたが、原稿を送った20社から出版を断られた。知人の紹介で葦書房にたどり着く。
《葦書房の三原浩良社長は、すぐに原稿を読んでくださり、出版を決めてくださった。ただし何度も推敲をさせられ、目が回るほど赤字が入った。だが、そのお蔭で作品は、柔らかく練れた内容に変わった》
《その年の秋のある日、突然段ボール箱が葦書房から送られてきた。そこには私の原稿があった。手紙には「ある事情で出版ができなくなった」という報告が書かれてあった。後日新聞記事で知ったのは、ある一件で社長、社員が退職せざるをえなくなったトラブルがあったことだった》
◇
「葦書房 オーナーが社長解任 全従業員も退社の異常事態」と読売新聞は報じた。
三原さんは、1994(平成6)年に葦書房の社長になった。前社長の死去に伴うもので、8年間、黒字経営したが、2002(平成14)年にオーナーに解任される。
「株(出資金)の買い取り価格や、私の後継社長をめぐってどうしても折りあうことができず、ついに私の解任となったのである」と三原さん。
社員も8人全員が退社し、2002年暮れ、弦書房が船出した。
三原さんは、こう書き残している。
《翌年5月から新生弦書房のあたらしい本が次々に書店に並んだ。高木尚雄『地底の声』、島尾ミホ・石牟礼道子対談集『ヤポネシアの海辺から』、菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』、渡辺京二対談集『近代をどう超えるか』、中山喜一朗『仙厓の○△□』、多田茂治『夢野久作読本』『玉葱の画家』などなど、いずれも旧知の著者たちの力作ぞろいである。数えてみるとこの年は5月からの半年の間に7点も刊行している。
その後も2004年10点、2005年9点、2006年17点、2007年16点、2008年11点と新刊を送りだしてきた。
なかでも野見山暁治『パリ・キュリイ病院』、佐木隆三『改訂新版 復讐するは我にあり』はいずれも大手出版社が重版をしぶって絶版になっていた本の復刊で、小出版社ならではの仕事として印象に残っている。
前者は最初に講談社、のちに筑摩書房が刊行した野見山さんの最初の著書で、野見山ファンからの復刊の要望が強いことを知り、25年ぶりに復刊した。今年になって重版したと聞いてうれしかった。既刊書が売れなくなっている出版不況のなかで、息ながく売っていくことは至難のことと言ってよい。
後者は佐木さんの直木賞受賞作だが、これも絶版になって久しく、著者の希望であらたに手を入れて「改訂新版」として刊行、版を重ねたあといまでは講談社文庫にもはいっている。
渡辺京二『江戸という幻景』は、葦書房時代に刊行した不朽の名著『逝きし世の面影』(いまは平凡社ライブラリー)の姉妹編とも言える著作で、向こうが来日外国人の目を通して描かれた江戸・明治の姿だとすれば、こちらは日本人の目がとらえた江戸の人々の生きいきとした諸相を活写した書きおろしで、刊行当初から増刷をつづけている。
こうして歩みだした弦書房は創業10年を過ぎ、著者や関係者の協力をえて順調な歩みをつづけているが、2008年、後事を小野君に託して弦書房を去ることにした。
当初から「70歳引退」と心づもりだったが、予定を一年過ぎていた。「葦書房の灯を消すな」という声に応えることができたのであろうか》
そして2008年郷里の松江に戻った。
出版不況といわれた時のアンケートに「私が葦書房を引き受けた時考えたことは、絶対に大きくしないということだった。どうしても必要とする人に向けて、少々高くても我慢して買ってやろうと言われるような内容を備えた本を作るしかない、と思っている」と答えている。
良書がすべて、なのである。
葦書房時代、石牟礼道子編著『天の病む 実録水俣病闘争』(1974年1月刊)を出版した。執筆者に、石牟礼道子・渡辺京二・江郷下一美、三原浩良、日高六郎・杉本栄子・浜本二徳・川本輝夫・田上義春・松浦豊敏・本田啓吉、富樫貞夫、宮沢信雄ほかとある。
元ソウル支局長・論説委員の下川正晴さんは、この毎友会HP(2020年7月7日)で自著『占領と引揚げの肖像BEPPU』を紹介しているが、『忘却の引揚史―泉靖一と二日市保養所』(2017年刊)、『日本統治下の朝鮮シネマ群像~戦争と近代の同時代史』(2019年刊)といずれも「弦書房」からである。
三原さん自身の著作は『熊本の教育』『地方記者』『噴火と闘った島原鉄道』『古志原から松江へ』。編著に『古志原郷土史談』『当世食物考』などがある。
私は一緒に仕事をしたことはなかったが、同期入社の片山健一(故人)の前の西部本社報道部長だった。
(堤 哲)
2021年7月9日
報道レースは本社が「金」―68メキシコ五輪の社報

この写真は、64年東京五輪の閉会式。浴衣の日本人女性の手にキスをするソンブレロを被ったメキシコ男性。68メキシコ五輪への引継ぎのつもりか。
日本外国特派員協会(千代田区 丸の内 3-2-3「丸の内二重橋ビル」5階)で8月6日まで開かれている1964東京五輪の写真展にあった。
断捨離中に何故か、昭和43(1968)年11月1日付社報が出てきた。
見出しに
メキシコ五輪、報道レースは本社が「金」
特派員←→各本社が一体化
みごとカラー印刷
原稿の流れもスムースに
特派員団は、8人。キャップは、社会部デスク牧内節男(当時43歳)。メキシコ臨時支局の支局長である。
社会部・大桶浩(当時37歳、1994年没63歳)
運動部・岡野栄太郎(当時38歳、2020年没90歳)▽浮田裕之(当時39歳)▽奈良井輝(大阪、当時38歳、2010年没80歳)
写真部・阿部三郎(当時42歳、2013年没87歳)▽松野尾章(当時35歳、2008年没76歳)
連絡部・大川延司(当時36歳、2011年没79歳)
元気なのは、ことし96歳を迎える牧内さんと、浮田さん92歳だけか。
牧内支局長の現地報告が載っている。
《社員のみなさん「ポエナスタルデス」(こんにちは)——私たちの朝のあいさつは「ポエノスデイアス、コモエスタウステ(おはよう、ごきげんいかがですか)「ムイビエン・ウステ」(大変よい、あなたは?)「ムイビエン」と始まる。時差(15時間)の関係から毎晩寝るのが午前2時すぎだから「コモエスタウステ」という言葉にも実感がこもる。
大阪外語スペイン語科を出た奈良井特派員は別として、他は日本を出るまでスペイン語は少しも知らなかったが、阿部特派員などは写真部との電話応答の中で無意識のうちに「シー・セニョール」(はい、わかりました)という言葉が飛び出るから大したものだ》
「こんにちは」は、ブエナスタルデスと旅行書にはあるが、現地の発音は「ポエナス」なのであろう。
「競技が終えて、余ったドルを全員に分けて、好きなところを旅行して帰国するよう、言ったんだ。名支局長だろう」と何かの折に聞いたことがある。
◇
毎日新聞のHPには、《第19回メキシコ大会は、112カ国と地域から約5500人の選手が参加し、1968(昭和43)年10月12日から27日まで開かれた。日本からは183人の選手が参加し、金11、銀7、銅7、計25個のメダルを獲得した。日本では大会期間中に川端康成さんのノーベル文学賞受賞が発表され、12月には東京都府中市で「3億円事件」が発生した》とあり、その脇に釜本邦茂がサッカー3位決定戦でゴールを決める写真。阿部三郎撮影とある。
(堤 哲)
2021年7月2日
レイルウェイ・ライター、種村直樹君を偲ぶーー牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」から
柳 路夫



それは種村直樹君に呼び止められた感じであった。行きつけの古本屋の前を通ったら種村直樹著『時刻表の旅』(中公新書・定価380円)が眼にとまった。どれも100円の値段のついた新書版の本を並べている場所である。早速買った。種村君とは昭和38年8月、毎日新聞大阪社会部で知り合った。彼は府警察本部の記者クラブにいた。入社4年目の事件記者であった。
東京社会部で筆頭デスクをしていた立川熊之助さんが大阪の社会部長になるというので私を大阪のデスクとして連れっていった。大阪にいたのは1年半であったが、実りの多い記者生活であった。大阪社会部の多くの人材を知った。後で大いに役立った。一緒にデスクになった檜垣常治君とは後にほぼ同時に役員となり、助けたり助けられたりであった。政治部にきた岩見隆夫君、サンデー毎日にきた徳岡孝夫君、八木亜夫君、武田忠治君らに知的刺激を受けた。
種村君はもともと学生時代から汽車旅が好きで、それが鉄道記者生活を通じて助長され、「レイルウェイ・ライター」にまでになってしまった。昭和48年、毎日新聞をやめるのは当然の帰結であった。この本にも昭和48年4月武蔵野線府中本町―新松戸間開業の日以来、フリーのレイルウェイ・ライターとして、趣味と仕事の境界が判然としない日々を過ごすことになると書いている。当時私は論説委員であった。種村君が毎日新聞を去ったのを後で聞いた。
この本は昭和54年8月25日の初版である(私の手元にある古本は昭和55年11月20日6版)。既に著書は『周遊券の旅』(ブルー・ガイドブックス)7冊も出版している。『時刻表』1本で生きた男といってよい。「数字と駅名が無数に並ぶページを捲ると、各地を走る列車の姿が目に浮かび、大きな駅のコンコースの雑踏、ひなびたローカル線を行く車両のきしみも伝わってくる」と表現する種村君である。まさに時刻表にとりつかれた男である。平成26年11月26日なくなった。享年78歳であった。
子供の頃よく歌った歌『汽車』(作・不詳、曲。大和田愛羅)を口ずさんで彼を偲びたい。
「今は山中 今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思うまもなくトンネルの
闇を通って広野原」
※種村直樹さんは1936年、大津市生まれ。京都大学法学部卒。毎日新聞記者を経て1973年からフリー。レイルウェイ・ライターとして鉄道と記者旅をテーマに著作を続けた。2014年、転移性肺がんにより死去、78歳。
(プロフィール写真、名刺は種村さんの公式ホームページから)
※「銀座一丁目新聞」のURLはhttp://ginnews.whoselab.com/
2021年7月2日
福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その10(終わり)
追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。
「日記より」⑤昭和36年7月1日
午後、成格(当時高校2年)が友人の吉田昌光と同道で帰ってきた。只ならぬ気配に、大きな荷物をかかえて応接に入って来た。昨夜は10時すぎにやっとスピーチコンテストの原稿が出来上った状態では、励ましのため「一位間違いない」といったものの、とうてい入賞するとは思わなかったので、何事かと瞳をこらすと、いきなり「どうです」という。「入賞か?」「しかも優勝です」「ヘエー、それは大出来だ」と答えて、じっと顔をみる。「ここ1カ月めっきりやせたと思われる顔に精悍の気をたぎらせて「まだ夢のようです」と優勝当時の状況を説明する。番外から始まった入賞発表が2位まできた時はガックリして、外に出て風にでもあたりたいと思ったトタン名前を呼ばれ、一瞬何のことかわからなかったとのこと。
昭和36年7月2日
成格、巍次を連れて日本橋の「橋本」へうなぎを食いに行く。成格は昨日の興奮が残っているようだ。それに疲れがアリアリと顔にみられる。うなぎでも食わせて回復させるほかない。それにつけても「お祝いにビールを飲ませてほしい」というのでやむなく承知した。良くないことだが折角の勝利の日だ仕方がない。しかし、咳がひどいようだ。若い者は健康の持ち方を知らないから、コンテストに夢中になって身体中がコッたのだろう。アンマが一番良いんだが、だるくてやってやる気がしない。
昭和36年7月29日
午後4時すぎても32度。何という暑さか。印度人が40―50度の中で暮らすというのがどうにも考えられない。人間という奴はどんな所でも食さえあれば住むものらしい。しかも人類史上、最も早く開けたのは暑い印度や、中近東にアフリカだった。やはり身に一糸もまとわない生活でなければ成立しなかった原始時代を想像すれば酷暑地帯が最初というのもうなずける。ダーウィンが人類の発生をアフリカと言い、“ミッシングリンク”を予言した事はさすがに大思想家、大研究家として観測に誤りなかったことに頭が下がる。今後、人類の古い歴史が開かれてくれば数々の面白い事実が発見せられ、また想像せられるであろう。自分存命中にはこのような興味ある書物が出るとは考えられぬが、今後の人は楽しみだ
昭和36年8月7日
連日の降雨ですごしやすくなった。午後1時27度。今年は大変な豊作であろう。6年続きの豊作で天下は泰平。金さえあれば何でも手に入る時代が来た。世の人は血まなこになって金を追い右往左往するだろう。それも困る。成格が何か教育問題で悩んでいるようだが、近いうちに言いきかせなくてはならない。中、高校時代、誤まらずに進ませるには、親がつききりでみてやらねばならぬ。早くそういう時期が過ぎてもらいたいものだ。
昭和36年8月8日
立秋、自唱して嬉しい。今年の暑さにはほとほと参った。これからは一日一日と涼しく美事な果実が得られる。立秋には文人の遺文が多いが、一種の喜びの中に寂しさがつきまとうのはどういうわけか。読書のシーズンであり、馬肥ゆる季節で、人もまた肥える嬉しい時期でありながら、これを賛美する喜びの文章は少なく淋しさがいつもつきまとう。草木の何となく衰えるサマが人生の終盤を想起せしめるためだろう。人間はいつまでも生きたいのが本心であってみればやむをえない。しかし、名文の書き手が若い人であったうえとは違った遺文が多くなったかもしれぬ。しみじみとする文章は若い者には書けない。(つづく)
昭和39年5月28日
古稀の祝のことを想い出す。あれからもう2年になる。今日また73歳の誕生日のため大井クラブで例の近親の連中を集めて一席をすごすことにする。あいさつをする。
僕の誕生祝を諸君とともにするのはこれで3回目である。あの時と今日とで満2年になるが、どんなに変化したであろうか。イヤ余り変っていない。一面から言えばみんなに大きな変動がなかった証拠である。昔は正月が全国民の誕生祝であって僕の郷里では誕生祝は生まれた翌年のその日にやるだけでやらなかった。だからバースデーというのは、どうもピンとこない。白人社会はとくにこの日を重んずるらしいので例の日本人の物真似で近頃大変盛んである。悪いことではない。祝いたく祝えるものは祝うが良い。一休禅師だと思うが、「門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んでいる
正月が全国民のバースデーに相当(年がわりする)する慣習の中で住んだものの本当の心境であろう。若き者は喜びにあふれ、老いたるものは一里塚のいよいよ終末に近づけると思って各々異った心境で新年を迎えるであろう。小生も一里塚が73を数える。
昨日、ネール・インド首相が突如他界した。マスコミは一斉に大騒ぎの報道である。74歳だそうだ。僕の来年だ。何ものも逃がれることのできない瞬間がきたのだ。僕にもいつそれがくるかもしれないと思うと、しみじみと「めでたくもあり、めでたくもなし」である。
ただ今日、最も近しいみんなが、一堂に会して会食し近況を語り合うことは、誕生日であろうとなかろうと良いことに違いないとの意味で、今席の集りも意義がある。みわたす限り、みんな丈夫で結構。生活も一日一日進歩安定していく様子で結構である。
昔、僕が新聞社にいたころ、時のトップクラスの財界人で藤原銀次郎と製紙界に覇を争うていた大川平三郎という人があって、藤原氏のむこうを張って富士製紙を持っていた。それが古稀の祝いか、還暦の祝いであったか、帝国ホテルの大部分を借り切って大盤振る舞いの大宴を催した。当時は小生も思想的にも生活的にも余リピンとこないで「バカバカしい催しだ、実業家というものは妙なところに喜びを持つものだ」と冷笑をもって列席したことがある。今から30年以上も前のことである。
それから間もなく王子に合併せられ、製紙の天下は藤原のものとなった。爾来、製紙界といわず財界においても藤原の声望はますます上ったが、藤原氏はいつかな王子を去ろうとはしない。社内は人事の行詰りで窒息しそうな空気であった。いたずらっ子の小生が、太平洋石油株式会社を創立して藤原氏をかつぎ上げて藤原氏を王子から去らしめたものだ。当時の500円の会社で、今の金で20か30億円の会社である。僕にも創立者として中心の一人としてやってもらいたいという話であったが、関係者の大部分を役員に入れてもらうことを条件にして私は役員にはならなかった。
話をすれば大変長くなるので略すが、それから幾変遷、王子製紙は財閥解体、独禁法のため沢山の製紙会社にわかれてしまった。とにかく変化の激しい時代に生きてきた小生のごときは語れば尽きるところのないほどの激動と興亡の試練を経てきた。その結果は碌として73歳の誕生を迎えることになった。
先日、交詢社で久し振りに岸田幸雄氏(元兵庫県知事)に会った。色々懐旧の話の末に岸田曰く「君は我々同窓中では、最も活動的な男であったが、結局これというものを握らなかったネ」といった。これは少々小生を椰楡したものであったろう。「つかむというのは何だネ? 俺は天下をつかもうとしたができなかっただけだ。君は何かつかんだかネ」彼黙す。「参議院でもつかんだつもりか。イヤ、君は金を、それも僕がいえば小金をつかんだのだろうが、金は金でいつまでいっても金だ。大小はあってもネ。それも社会を左右するほどのものならともかく、ただ生活が派手にやれるほどのものじゃないか。五十歩百歩だよ。マァーお互いにゴールに近寄っただけのことだ」。(「日記より」おわり)
「追悼集」には、告別式の写真をはじめ、三豊中、三高時代から成格さんのお宮参り、軽井沢時代、そして最後に一家の写真が掲載されています。その一部を紹介します。
・成格さんお宮参りの日。昭和19(1944)年の衆議院議員時代(玉川用賀自宅)
・軽井沢の鬼押し出しにて
・成格さん英語スピーチ優勝を記念して(昭和36年7月)
・大井の自宅にて




【岸井成格さんの父・寿郎さん=番外】
長い紹介になりました。読み直しながらフェイスブックに連載して、何とも言えない爽やかな気持ちに浸っています。それはこの追悼集をいただいた30年ほど前にくらべて、世の中が殺伐としているからだと思います。とりわけ、安倍・菅二代政権の下で続く政治の現状の下で。そして人間どう生きるべきか、政治・事業はいかにあるべきか等々について、改めて目を開かせられた思いです。
この端正な追悼集には、序文もあとがきも奥付もありません。編集・発行された方のお名前もありません。「岸井寿郎さんと家族について、最低限伝えておきたいことを記しておく。読むも自由、読まぬも自由だ」と考えたのでしょうか。
岸井寿郎さん 1891年5月28日生、1970年10月1日没。79歳。岸井成格さん 1944年9月22日生、2018年5月15日没。73歳。
2015年に頂いた年賀状が最後でした。2017年暮れには、弟・巍次さん(71歳)、甥・大太郎さん(62歳)永眠の喪中はがきが届きました。
岸井成格さんは、父・寿郎さんの精神を受けついで生き抜いたのだと思います。それだけに、73歳という若さで亡くなられたことは残念でなりません。
岸井さんを知る毎日新聞のみなさんが中心になって、岸井さん父子の生きざまを世の中に知らせる本を出版してほしいと思います。
2018年6月3日付サンデー毎日に掲載された倉重篤郎さんと佐高信さんの岸井成格さんへの追悼文を紹介しておわります。
(福島 清)
※福島清さんのフェイスブックは2021年6月28日
福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その9
追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。
「正力松太郎氏との秘話」⑤
僕が東日をやめてからは、日本倶楽部に顔を出すことが多くなった。正力氏は常連で、ほとんど倶楽部を自分の別事務所のように使っていた。岩田宙造、有馬忠三郎、原邦造等も碁の好敵手で、正力氏は顔をみると何をおいても「おい、岸井君一番」と、一番どころでない数番、互いに毒舌を楽しみながら闘う仲であった。そんな中で、陸軍の横暴は次第にこうじ、僕はかつがれて東条内閣の選挙に立候補して衆議院に出た。
それからの時代は今度は日本そのものをひっくりかえして終戦を迎えた。追放の二重パソチをうけて働らくにも働けない。これから社会をどうリードしようもない。既に50の坂を越して今さら何をかいわんや。静かに余生を送ろう。それが当時の心境だった。日本倶楽部で碁仲間と談じている時、永野護君が「一寸」といって別室に連れていった。
「岸井君、実は正力君が戦犯容疑で入獄している。同君の仕事および留守家族の一切のことは僕が託されている。君は報知新聞の再興をやりかけたぐらいだ。読売新聞を引受けてくれないか。丁度、今読売は共産主義者に占領されている。君ならやれる。家族も困っている。百万円あれば良い」という。「正力氏は出獄したら社に復帰したいだろう。その点はどうなる」「イヤ、それはそんなことはない。一切自分に一任されているのだから絶対に心配はない」「よし考えてみよう」といって別れた。
僕は前述のように自分の活動は一切やめる決心をしていたが、友人の楢橋渡君は、今は時めいているが、当時彼はまだ自分の足場を持たない。自分はやる気はないが彼は何とか将来の足場を保持することが必要だと思ったので彼に話した。彼も即座に承知して、百万円つくるというのでこの旨、永野君に伝えた。永野君も喜んで、「いつでもきれいに引渡す」との約束もできた。しかし、楢橋君はなかなか金ができたといってこない。
丁度弁護士会長の選挙があって立候補していた。遂に会長は不成功に終った。彼日く「読売の方は、弁護士会長選で金を使ってしまったからダメだ」。僕は非常に困った。永野君は正力氏の家族に伝えてあるだろう。困ったけれどそのままにしておくことはできない。その旨永野氏に話して断った。
永野氏は「残念だな。家族の人々にもいいようがない」といって真に困惑の様子であった。その後、永野氏が、一、二度こぼしたことがあったのをみるとよほど困ったことだろう。かくて読売は引渡しの相手も現われず、正力氏が出獄するまで共産主義者の溜場のような有様で過ぎた。それは結局正力氏の再起の足場となった。社内のシコリをほぐすのに数年かかったが、例のエネルギッシュな活動で再び読売を自分の手に戻した。正力氏出獄後も、僕は永野君から身売りの話があったことは、どんなことになるかもしれないので、絶対正力氏にも他人にも一切話さずにしまった。(「正力松太郎氏との秘話」おわり)(つづく)
「知友の死に思う」①
近頃は思いがけない時に思いがけない旧友知人の訃(ふ)を知らされる。生前関係の親疎によって受ける感じは様々だが、如何にも己が老齢を自覚させられるので心境は複雑である。
「何れは自分もまた後程」といったような生半かな割り切り方で、さも故人に日頃無沙汰のお詑びでもなし得たかの様な心境で、自分自身を誤魔化して過ごすことの多い近頃である。
「正力松太郎氏が熱海の病院で亡くなった」との訃が伝えられたのは去る10月10日のことであった。同君の入院療養中であることは前から知っていたし、また今度はどうも病気が重い様だとは関係筋では噂(うわさ)されていたことであったが、現実に「死んだ」と聞かされてはショックを受けた。が、所が熱海であり、その後の様子はわからず、後報を待った。「遺骸は逗子の自宅に引き取られたが、家族関係や事業関係が複雑で、門外の一旧友が罷(まか)り出る場ではなかった。私は生前の自分との接触を走馬灯の様に懐想しながら、同君の冥福 (めいふく)を祈ったのであった。
越えて23日、まだ正力氏の墓の土も乾かぬ時、TBSの鹿倉吉次君が突如他界したとのことである。これは全く唐突であった。一カ月程前に故杉山幹君の回想パーティーで 顔を合せた時には健康そのもののような顔付で面白おかしく裏話に談興湧いたばかりである。私は自分の耳を 疑うが如く直に関係筋に問合わせたが、もちろん真実であった。取る物も取り敢えず自宅に駆けつけた時に、僧侶が読経していた。
暫らくして僧侶が別室に退いた時、やっとそのままになっていた病室に入って同君の仏顔に対面した。顔は生前の顔そのままで、少しも苦しんだ跡はなく、今にも物を言い出すかと思われる程であった。聞けば大阪旅行でサンザン、ゴルフをやり、麻雀もやり、元気一杯で帰ったばかりの夜、突如心不全で他界したとのこと。もちろん遺言もなければ病床の言葉らしい言葉一つないのであった。
両君は現代マスコミ界の両雄であった。互に時には辛辣(しんらつ)な批判を交わし合うが、内心では畏敬しあっている好ライバルであった。正力氏は次々と新しい企画を事業上に盛り、善悪はとに角、常に斯界の尖端を突走らなくては気の済まぬ男であった。虎之門事件で官界の足を洗い、新聞界に飛込んだ経歴が示す通りの働き振り。一方、鹿倉君は新聞社時代の長い下積生活を堪え忍び、一度逆境を脱するや着々とその基盤を築き、時到るや民放に転進し、民放界の第一人者として動かざる地位を固めた。
両氏はその人生行路でも面白いコントラストを示していた。正力君亡き後の民放の行方など、機会あれば鹿倉君に聴きたいテーマであったが、その機さえも与えず、ソソクサと彼は正力君の後を追うが如く、この世を去ってしまつた。両氏共に84歳、死因は共に心不全。何という暗合か? マスコミの一角に繰り広げられた両氏の競演も、もう見られなくなったのは淋しい。(つづく)
「知友の死に思う」②
古来、人類は何れの民族も人間の「生と死」という解き難き謎を解かんと苦しみ悩んだ。しかしアラビアンナイトの魔神でも連れて来ないでは、一旦死んだ人間を再び戻し、死の真相を確認することは出来ない。それは科学以前の問題であり、宗教の世界である。聖人といい、誓人といい、あるいは教祖と崇(あが)められる人々が、如何にも解答らしい教理を説いても、結局は本人の信仰如何による外はなかった。だからマホメツトの様に左右の手にコーランと剣を持って民衆を引廻さねばおさまらぬお節介さえ出て来たのが人間の歴史である。
所詮(しょせん)人間自身が解決し得るのではな<大自然の力のまにまに人間は流されて行く。ただ人間には自殺という自由が許されているが、それも煎じつめれば死に方に尽きる。だから多くの人は最後の時を予想して「自分はこうして死にたいという感懐を洩(も)らす人があるが、それもただ希望に過ぎない。身近な所を考えてみても毎日新聞の創始者の一人本山彦一氏は「自分は死ぬまで仕事をしたい。死ぬ時は仕事をしながら死ねぬものか」と洩らしていた。鹿倉君も「死ぬ時は突然コロリと死にたいものだネ」と。正力君は病 院で主治医の注射を受けると手を振って「アアもうこれで良い。これから東京へ帰るんだ」といいつつ息を引き取ったとのこと。
現代の英雄として